すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

達人らの肝と腕前

2020年09月30日 | 読書
 Eテレで放送している『SWITCH INTERVIEW  達人達』を時折観る。最近も脚本家古沢良太とミュージシャンの藤原聡(髭男dism)の回は面白かった。数年前この二人(小山薫堂×佐藤可士和)を取り上げた時は、著書を数冊ずつ読んでいるので、特に興味深く視聴した。本になっていたので振り返ってみた。

 『SWITCH INTERVIEW  達人達』(小山薫堂×佐藤可士和 ぴあ)

 この齢になって憧れという言葉を使うのは恥ずかしいが、小山、佐藤の仕事にはそれに似た気持ちを持つことが強い。職業を選び直せる年代であるならば有力候補になるだろうか。広く考えればクリエイター、デザイナーという範疇なのかもしれない。語り合いから創り出していく過程の面白さが伝わってくるのだ。


 仕事場を相互に訪問しあうのが、この番組の一つの形になっている。ある意味似たような仕事なのに、その環境は全く対照的で、放送された映像が思い出される。「無駄を楽しむ」小山、「整理を至上とする」佐藤、それは性格や信念に基づいた行動が支えている。それゆえそういう二人の意見の合う点に説得力がある。


 例えば「ハワイはね、あれはクリエイターにとってはダメな場所ですね」と小山が言い、佐藤は「いるだけで気持ちがいい南の島とかって、あんまりデザインが育たないじゃないですか」と応える。平凡に見えるが、創造の根本的な一面につながる。不便や劣悪、さらに苦境などが改善意欲を生み、工夫を形にする。


 この二人に持ち込まれた仕事では、やはり停滞していた地域、分野などを再生し、発展させた例が高く評価されている。小山の熊本支援、日光金谷ホテル再生など、佐藤のセブンイレブン戦略、今治タオルのブランド化など…ただ、それらは新しいアイデアということではなく、そもそもの「価値」から出発していた。


 方法は違っているが、引き受けた仕事に対してアプローチする場合、「価値」はどこにあるのか、関わる人がそれを自覚しているか、という点について二人の認識はとてもよく似ている。達人の所以たる肝はそこにあると見た。そしてつながりを持たせたり、継続性のシステムを構築したりしていく腕前が抜群だ。


 愛孫、本日目出度く3歳になりました…親孝行終了です(笑)

九月の修学旅行と聞いて

2020年09月29日 | 教育ノート
 図書館見学の引率で来館した知り合いや、読み聞かせで訪れた小学校の職員から、修学旅行の話題を聞いた。「一学期中の仙台・松島」が定番だった旅行先が、このコロナ禍により変更を余儀なくされ、東北の他県や県内などになっているとのこと。もちろんそれなりに活動も工夫され、楽しいひと時を過ごすことだろう。



 しかし、やはり定番は定番のよさがあり、世代を超えて共通体験もしくは異なる活動が話題になりやすいので、残念な気持ちもある。そういえば、と思い出すのが2011年であった。あの年も時期・旅行先の見直しが検討され、勤務校では九月末の実施となり、行先は保護者の希望もありそのままだった。印象深い。

 そのことを、こう記していた。
→九月の修学旅行の教訓(2011.10.01)

 淡々と書いてはいるが、実は携帯から地震を知らせる音が響いた瞬間は、今でもくっきり思い出せるほどだ。近隣の学校の多くは仙台・松島を避けて設定していた。まして野球観戦を入れた学校は少なかったはずだ。けして甘く見ていたわけではなかったが、この決断が良かったかどうか一瞬頭を過ったのは確かだ。


 ただあの大震災以降、様々な状況を想定しつつ、シュミレーションし文章化し点検しあったりしてきたことの「意義」を確認するのも、この場だなと思ったことも覚えている。どんなに対策をとっても、細心の注意を払っても避けきれない事態はある。肝心なのは、やはりそこまでの準備と胆力(覚悟)づくりだろう。

楽日のドタバタも帳消し

2020年09月28日 | 雑記帳
 混戦の大相撲九月場所、一番の見所である「これより三役」の取組が始まろうとしているのに、PCの前で頭を抱えていた。昨日の夕方に仕事で使う印刷物をプリントアウトしているとき、どうも以前と違うことに気づき設定をいじったら、プリンターが異常を示していた。これはPC乗換が正常でなかったようだ。


 生半可な知識であれこれ触るのは怪我のもとだと改めて思う。検索しても解決の糸口がつかめない。アンインストールし接続し直したが元通りにはならない。喘ぎつつプリンター購入時のDVDを使ったらどうにか復旧。胸をなでおろした。PCとTVの相撲放送を行き来し、孫とのお風呂、慌ただしい日曜夕方だった。



 そういえば、先日も6月に換えたスマホでWi-Fi設定が前機種と同様になっていると勘違いし、未だ接続していないことに気づいた。毎回のWi-Fiスキャン表示が気にはなっていたが、結局放置していた。オートが普通の生活に慣れっこになり、基本的なことさえ機械がやってくれるはず…そんな思考に陥っている。


 末期症状かあと情けなくなる。いや、気づき、改善したのだから良しするか。今朝の新聞に載った、大相撲優勝の正代の記事に見入った。学生横綱になりながら教師の道に進むか迷い、教育実習で痩せたので「向かない」と角界入り。順調な出世にもかかわらず関取になったときに「現状維持」と色紙に記したとある。


 その正代が「変わった」のは、やはり何かに気づき改善したからに違いない。素人が見ても明らかに異なる点があり、それが成果に結びついたことは嬉しい。大相撲ファンとしては、今年の状況(力士の現状)は喜ばしいものではないが、精進あり復活ありのドラマは見応えがある。楽日の自分のドタバタも帳消しになる。

だから、ふらつくのだ

2020年09月26日 | 読書
 先日読了した『再生の島』(奥野修司 文春文庫)のなかで、指導者坂本が語った印象深いことばがある。

 「食うために働くことから解放されたとき、人の生き方のベクトルはその方向(幸せを目指す自己実現)を向くはずでした。しかし、それは社会、とくに資本主義の社会がスムーズに回転していくためには邪魔なものになります。」


 
 これは、個と社会の関係性を問うなかで、繰り返し言われてきたことかもしれない。ただ、この部分を読んで、ふと今月上旬に放送された「ズームバック オチアイ」というNHKの番組を思い出した。

 今、いや以前からずっと教育の目指す方向として「自分の頭で考える人間」という点は喧伝されてきたと思う。実際、なかなか実現できなかったから、繰り返し似たような語でアピールされてきた。問題解決能力といったり、個性といったり、自己有用感といったり、光の当て方は多少違えど、「自分の頭で考える」力を伸ばす教育に疑いを抱く人はいなかったろう。

 しかし、その番組で落合と担当ディレクターはおおよそこんなことを語り合っていたと記憶している。

 「自分の頭で考える人間」を社会は求めていない。かつて、そんな時代はなかったし、この後もあるのか。



 まさに身も蓋もない言い方に聞こえるが、それが歴史的事実であり、確率性の高い将来像なのかもしれない、とふと思う。
 「自分の頭で考える人間」は、社会のほんの一握りであったほうが都合よく、それ以外は支配層の言うことに従順であればいい…旧態依然とした考えの滲みは消え去ることなく残っていると認めざるを得ない。


 絶えず向き合っていないから、ベクトルがふらつくのだ。

10年後の秋に実りを想う

2020年09月25日 | 教育ノート
 昨日、10年前の9月の学校ブログを見始めたら、つい止められなくなり、月末まで見てしまった。休みの日以外はほぼ毎日更新していた。ネタに困ることはなかった。9月だったこともあり、各スポーツ少年団の大会なども休日に開催され、応援がてら様子を写真に撮り、その頑張りや結果などもお知らせしていた。


 M小には相撲部があり、町祭典に合わせた奉納相撲大会が催されると、いつも大活躍だった。これは本当に楽しみだった。練習も含めて身体ごとぶつかり合う機会を減らしつつある学童期において、貴重な活動といってよい。もちろん今年は数十回を数えたその大会も行われることはない。運動面の制限は影響大だ。


 相撲部があったことも手伝って当時幕内力士だった豪風関が来訪したのもこの月だった。2010/09/29の記事である。確か引退のときにそのことを書いた。プロの持つ雰囲気に直接触れることができた幸せな一コマだった。この九月場所も戦国時代の様相で盛り上がっているが、やはり郷土力士がいないとさみしく思う。


 運動ばかりに力を入れていたわけではない。9月には地区教科研究会の公開授業が一つ、校内研も一つ実施されていた。授業者である当時三十代は今はそれぞれの学校で中心的役割を果たしているだろう。2010/09/30つまり年度前半締めの一日には、授業研究セミナーと称して外部講師を招いた研究会を実施していた。


 仕事の核ととらえていた「研修」を具体化したセミナーを、どの学校でも続けてきた。その月は隣県から交流のある実践家の照井先生をお招きし、説明文の授業をしていただいた。協議のキーワードをプロジェクターで映して共有する形も試みた。結構タタカッテいたなあ。何か実ったかのかなあと思う10年後の秋。



10年前、そのなんと密なること

2020年09月24日 | 教育ノート
 気まぐれにUSBに残っている昔のデータを覗いた。校長になってから勤務した4つの学校でブログを開設し、継続してきた。そのことに対する自分なりのねらいやこだわりは、以前記していると思う。そして転出と同時にデータをネット上からは消去することも続けた。これは一つのけじめである。でも懐かしい。


 10年前ということで、その部分を開いた。M小学校に勤めていた2年目、二学期が始まって少し経った、いわば年度の一番の充実期を迎える頃だ。児童の活動写真などを中心にコメントを添える形だったので、たいしたことは書いていないが、自分でも「拍手」ボタンを押したくなるような記事もほんの少しはある。


 2010/09/03は子どもたちの二学期のめあてが書かれている掲示物を紹介しながら、学年や学級の違いにも触れていた。そして、最後にこんなことを書いている。

 一学期に「目標に数字を入れて」ということを全校集会で話しました。それを思い出してくれたのか「○回以上」という表現も目立ちました。大切なことでしょう。 しかし、二年生の一人の子が書いたこういう目標もあり、素直にいいなあと思いました。担任と話しながら決めたと聞きました。それがまたとても大事なことだと思います。

 話の聞きかたをがんばる(こころで聞く)


 プールの授業も終わった中旬になったらPTA事業も目白押しだ。
 2010/09/11の土曜日は「PTA研修部主催の親子による『米粉パンづくり』」だ。親子仲よく楽しそうに調理し、試食する笑顔がまぶしいほどだ。

 なんと次の日2010/09/12は「日曜参観日」を実施している。それぞれの学級の学習参観後には全校児童による親子レクリェーション。当時の児童数から考えると350人以上は確実に集まっている。



 なかみは親子ペア体操と対抗ドッジビーである。その密接度が実に懐かしい。


 その週の木曜日は5年生が、自然体験教室ということで隣市の少年自然の家へ宿泊学習へ向かったことが記されている。そして二日間のスナップが挙げられている。
 もちろん、マスク姿など見えない。

 今さらながら、この自然な姿が戻ってきてほしいと心から願う。

もう人間関係しかない

2020年09月22日 | 読書
 連休中はこの400ページの文庫本を読み続けた。著者の書くノンフィクションは数冊読んでいるが、いつも読みごたえがある。この本もまた様々なことを考えさせてくれた。教育に携わる者にはぜひ薦めたい一冊だ。しかし文庫版あとがきに記された単行本から文庫化までの経過は重く苦しい。国の現状を憂うしかない。


 『再生の島』(奥野修司  文春文庫)


 沖縄にある自然体験、集団生活等を核とする山村留学施設「久高島留学センター」を舞台として、指導者とそこに入った少年少女、そして親が描かれた。2000年代の記録だが、その実践情報に接した記憶は自分にはなかった。不登校の子たちの「再生」と言えば戸塚ヨットスクールを連想する。戸塚の著書も思い出した



 「教育は強制である」という一面の真実に強く圧倒される。それは封建時代的な考えとは違う、今の世の中だからこそ、人間が真っ当に育つことを阻害するような環境に締め付けられているからこそ、必要だと思わざるを得ない。強制のために隔離し、徹底して管理するのは「食」「運動」である事実は見逃せない。


 しかしそれには大前提がある。言うまでもなく「人」との関わり。久高島にくる子の多くは、一番の人つまり親、家族との関わりがうまく築けない。それは親が抱えている問題の根が深く、通常の暮らしの中で改善するに難しい条件の中で育ってきているからだ。だから載っている成功例?の多くは親の変貌が顕著だ。


 不登校やひきこもりを、社会や学校に対するアンチテーゼとする分析や解説はあるが、当事者たちの前で無力に等しい。目標が見えにくい世の中では、人間関係こそが生きる力を育む術を機能させるはずだ。今、保育や教育の現場に欲しいのは、発達段階に即した環境との接し方をコントロールする具体策に違いない。

爺バカモードの絵本読み

2020年09月21日 | 雑記帳
 先週、図書館主催の「読み聞かせワークショップ」にいらした講師の先生が配布した資料を見直したら、「高等学校家庭科・児童文化テキスト」という文科省編集の抜粋があって、ふだんならスルーしそうな箇所だが思わず読み入ってしまった。学校だけでなく、家庭での読み聞かせの機会が日増しに増えているからか。

 次の五項目が記されていた。

1 絵本はおとなが子どもと一緒に楽しむ本
2 ページを操ることによってストーリーは展開する
3 絵本は繰り返し読まれるもの
4 子どもはおとなの語りを記憶する
5 絵本の世界は表紙から始まり裏表紙まで続く


 学校でのいわゆる「読み聞かせ会」にも、家庭内での個別の読み聞かせにも共通するのは、1,2,5の点だろう。3,4はやはりどうしても家庭中心だ。その区分に留意してみると、単発で学校を訪問して行う場合など工夫する要素が見えてくるのかもしれない。その点を掘り起こしておくと参考になるだろう。


 いずれにしても1が基本となる。その項には「子どもが親しみや信頼を寄せる人に絵本を読んでもらうことは、物語やことばの意味や価値を一人で読むときとは大きく変え、大きな喜びや重みを与える」とある。絵本の世界を「共有」するねらいである。だからゲストとして行う時の導入に気を遣わなければならない。


 2、5については「知識・技能」が必要だ。ワークショップ内でも触れられた通り、本にはめくる順序の基本があり、それに沿うこと。そして下読みを通して読み取った部分で、強調したい点を考えて「めくり」の技を使うこと。これらは練習と一定の慣れが必要だと思う。表現する側として課せられている点だ。



 さて、上の事柄以上に3,4をつくづく感じているこの頃。もうすぐ3歳になる男児、そして1歳二か月のこれまた男児。週に何度か絵本と戯れる日がある。下の子であっても、既にお気に入りの場面があることが見てとれる。自分からその本を持って寄ってくる時などは、本当に「爺バカ」モードに突入する。


 もちろん飽きて本を放ったりする時もあるが、その時間も含め「共有」なのだろう。このまま続けていれば「読んでもらったお話が、語りの記憶として子どもに受容された状態」がやってくるかもしれないなあ。仕事にかまけ、昔子育て中には我が娘たちに十分してやれなかったことを、ささやかに出来る幸せがある。

彼岸入りまで、秋日記

2020年09月20日 | 雑記帳
9月14日(月)
 先週末から暑さが少しずつ落ち着いてきている。今日は休みなので午前中に買い物で隣市へ。温度計は19℃を指していた。しかし地元出身の自民党総裁誕生で盛り上がる一日だろう。百均では早くもハロウィンのコーナーが設けられた。一気に秋めくのか。昨日から始まった秋場所、最高位の大関が連敗するスタートだ。


9月15日(火)
 読書紹介文コンクール中学生作品の一次審査を始める。その後土曜のワークショップの感想等をまとめた。午後からは町内の小学校に行き読み聞かせ。下学年相手に「五味太郎」3冊でまとめてみた。ずいぶんとノッテくれた。帰ってから月末の防災訓練打ち合わせ。夕食に栗ご飯が出る。早く自分も採りに行きたい。



9月16日(水)
 菅新総理誕生の日。当町でも諸所でお祝いムードだ。この機会しかないと思い、以前知人からもらった「菅義偉」(総務大臣の頃)の名刺を見せびらかす。皆さんそれなりに驚く。中学生の作品の審査を続けているが、細かい字の文章は読むのが辛い。そのせいか、左眼が痛い。退勤後にドラックストアで目薬を購入する。


9月17日(木)
 午前中のみの出勤。一昨日行った学校の2年生が見学のため来館。『あっ、さる・るるる』と作品名を言われたのが嬉しい。12月に予定した絵本ライブの中止を決めて、職員に言う。やはり現況での開催は困難だ。講師に宛てた手紙を書く。午後からは孫の相手をしつつ、横目で大相撲を観る。関脇正代の強さが際立つ。


9月18日(金)
 来週の読み聞かせの交代を頼まれる。選本準備をした後、図書館事業中止の連絡と今後の展開の相談をしに教育委員会へ。午後からその諸連絡、事務の目途をつける。中学生一次審査もどうにか終える。3時過ぎ退勤してかかりつけの歯医者へ。6月からの治療がようやく終了しほっとする。大関が盛り返してきて面白くなる。



9月19日(土)
 朝、自転車で近くのコンビニまで。見上げると空の雲に変化があって面白い。混沌としている今の世の中のようだ。変化を楽しむ心境とまではいかないが、工夫すれば楽しめることはまだまだある。いつもの年から祭典のお囃子が回ってくるような時刻、4時過ぎより一同揃ってバーベキューをする。彼岸の入りだ。

「男」の病後は2缶か

2020年09月19日 | 雑記帳
 『昔男ありき』…このシビレル?エモい?句にもう一度こだわりたい。この芯となる語は「男」。つまり、それに対する郷愁なのだろうな。「男らしい」という言い方はあまり使わなくなった。男女差に関する社会環境の変化、性についての認識が変わりゆく時代を過ごしているから、よけいにそう思うのかもしれない。


 そういえば学生の頃、あるデュオグループのコピーをして唄ったことがある。曲名は『男らしいってわかるかい』。原曲は、ボブ・ディラン「I shall Be Released 」である。その歌詞は、当時の反体制運動のなかで「♪男らしいってわかるかい ピエロや臆病者のことさ♪」と、まさに逆説的な形で示されていた。


 そんな動きもこの国で想う「男」のあり方を弱めた(笑)遠因となっているのかな。自分の世代は典型的だ。歴史を遡れば「男」を感じさせる人物は何人も挙げられるが、それも作られてきた偶像という場合もある。では、今の世の中はどうだ。これならば、しっかりと自分の眼で心で感じ取れるはずだ。誰かいるのか。



 政治家、実業家、スポーツや芸能界…何人か思い浮かぶ。故人だが高倉健、菅原文太、渡哲也などの顔も…そうかあ、男くささという面が必要だとわかる。作家では伊集院静かな。今年一月に脳梗塞で倒れたことは知っていたが、その後の情報に関しては目にしなかった。そしたら久しぶりに買った週刊誌になんと…。


 復帰して阿川佐和子との対談に登場しているではないか。人生相談風の連載も再開している。よかったねえ…と対談を読んでいたら、憧れの無頼作家もリハビリを経て病後管理をしっかりしているらしく「一日に缶ビール2本だけ」と答えている。勝手ながら、ああ『昔男ありき』という思いが、一層深まる秋である。