すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ややこしさに可能性を見つけられるか

2008年01月31日 | 読書
 筆者が言うところの「長く膨大にして、ややこしくかつ広範な本」である『日本の行く道』(集英社新書)
 なんども逸れそうになったり、もどってみたりしながら一応最後まで読み進めた。

 いくつもの付箋、マーカー引きの文章があるにはあるが、で、結局なんだと問われれば前書きにもどるしかないか。

 その「原因」がある以上、それを我が事として引き受ける
 
 この姿勢、考え方に尽きるように感じた。

 この本は、日本がこのようになった「原因」を言葉と歴史に着目しながら探り出していくものだった。
 「いじめ」「自立」「産業革命」「家」…これらのキーワードに対する独自の視点には、目を見開かされることが多くあった。同時に、それらの関係性がこれでもかこれでもかと綿々とつながる、まるでマラソンレースのような文章に追いついていけない面も数多くあったことも確かだ。

 ある雑誌に、この本に対する次のような書評が載っている。

 提言は世界を江戸時代に戻せ、東京の高層ビルを全部壊してしまえなど、楽しいがむちゃなものばかり。やっぱり人気作家は一味違う。
 
 これは呑気な見方だろう。筆者が述べたいことは方法論である。
 つまり「原因が特定できるのなら、極端な方策を考えてみて、そこから歩み寄る、妥協点を探ろう、リアリティを見つけてみよう」ということだ。

 自分に引きつけて読んでみることは、個人的な読書法の一つだが、その意味では十分に刺激的な論だ。
 しかも「家」や「農業」といった身近な例も取り上げられている。
 例えば自分を取り巻く現状の大きな問題点である「少子化」「高齢化」に対して、極端な策を思い浮かべてみる。あるいは、それらをまるっきり認めてみる…確かに笑い話のような中身になるのだが、そこから始めないと結局本質的なことは見えてこない。
 実現可能性だけを追いかけることは、結局埋没していることと同じではないか。

 帰宅途中ハンドルを握りながら、この本のことを考えていてもう一つ浮かんだことは、「進歩を疑え」ということだった。
 これは、本文中にある次のような文章がもとになっているはずだ。

 人を追いつめる「便利=進歩」

 便利さの弊害といった言い方はされてきたが、それは「追いつめる、追い込む」ものであったことを想像できた人ははたして何人いたのだろうか。

 どのページをめくっても、こんな刺激的なことばが見つけられるが、一旦読み出すととたんにややこしくなる。そうしたややこしさを受けとめねばならない、ということはなんとなく感じられる。

 筆者は、そのややこしさを

(未来の)選択に関して豊かな可能性を有している日本の国というあり方
 
のせいだと、おしまいに書いている。

 こんな希望のある終わり方に合点がいくためには、そのややこしさに付き合うだけの根気が必要と言っているのかもしれない。そして、たぶん決断するという覚悟も。

睡る姿は平和で美しい

2008年01月30日 | 教育ノート
 思えば一番初めに今で言う「漢字文化」に目覚めたのは「民」という字の成り立ちだった。教師になって二年目だったと記憶している。「目に矢を刺して奴隷化する」というその字源は衝撃的だった。それから結構、漢字の授業にははまった。
 それはともかく、「睡眠」は似た字を組み合わせた熟語であるが、字源から考えると正反対の組み合わせとも言える。これもまた興味深い。

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 「垂」は草木の花や葉がたれ下がっている形から出来た字で、眠くなってまぶたがたれることが「睡」の意味です。
 つまり「眠」と同じねむることですが、「睡る(ねむる)」と表される姿は「平和で美しいもの」とされているようです。例えば、水面で花弁を開閉するハスを「睡蓮」と書き表すこともあります。

 先日の職員会議で「子供たちの就寝時刻が遅くなっているのでは…」という話題が出ました。精一杯体を動かし、頭を働かせ、疲れてねむる子供の姿ほど平和で美しいものはない気がします。
 十分な睡眠後のすっきりした朝の目覚めが、一日のやる気にもつながります。それを邪魔しているのはテレビ?ゲーム?…。振り回されてはいけません。
(1/31予定)
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見返しの文章に惹かれて

2008年01月29日 | 読書
 『日本の行く道』というタイトルを見ると、人は「これからの日本の行く道を教えてくれる教科書のようなものだ」と考えるでしょう。そして人は「教科書のような顔をした本」を求めます。なぜなら「教科書ならよっかかれる。だから安心だ」と思うからです。しかしこの安心は生きるための選択肢を狭めることです――

『日本の行く道」(橋本治著 集英社新書)

 表紙カバーの見返しにある文章に、こんなに心惹かれたことがあったろうか。
 筆者が書いたものか編集者の筆によるものかわからないが、この本の意識がずばりと言い表されているのだろう。

 つまり「安定した知識」など通用しない世の中になっている、ということ。
 何かによりかかろうとする心は制限された道しか示さない、ということ。
 ひどく重要なテーゼを述べていると思う。

 書評家の永江朗は次のように書いている。

 橋本治は一貫して、ものごとについて考えるプロセスを読者に提示する思想家であり続けた
「波」(新潮社1月号)

 著書はほんのわずかしか読んでいないけれど、その高名は知っているし、おそらく現代における屈指の思想家の一人と言っていいのだと思う。

 その示された考え方を私が理解できるか、理解してどういうパラダイムを作りえるのか、つまりよりかからずに「自分の行く道」を作っていくことになるのか、ちょっと楽しみに、ゆっくりこの新書を読んでみようと思っている。

真剣に「語る」教師

2008年01月27日 | 雑記帳
 「語る」ということを考えていて頭に浮かんだテレビ番組の話題を。

 正月二日だったろうか、BSである海外ドラマが放送されていた。
 「先生はあきらめない~ロン・クラーク物語」という題名だったので、ああ、あの全米最優秀教師(ディズニー社が主催だそうです)のお話かと思い興味を持って見た。実話がもとになっているとはいえ脚色もあるだろうから、そのあたりは少し割り引きだが、なるほどと思わされるところがいくつかあった。

 まずは、やはり米国は「点数社会」だなあということ。テストの点数によって子どもも教師も評価が定まっていくことが露骨にわかる内容だった。ニューヨークの貧困層の住む地域にある教育困難校における成果が認められたのは、とりもなおさず「点数」であった。しかしそれは当然ながら「点数を上げようとする子」に育てることであり、状況を想像するにかなりの出来事だと考えられる。
 
 指導方法など詳しく描かれたわけではないが、全体を通して感じたのが「語る」ことの重要性だった。もちろん類まれな行動力があればこそであるが、言葉で納得させていくことがいかに大切か、何度か強調されているように感じた。それが、ベストセラー「あたりまえだけど、とても大切なこと」(草思社)に結びついたのだろう。

 さて、エピソードとして興味深かったのは、試験が迫ってきた大事な時期に肺炎にかかった主人公が教室で倒れ、それでもなお授業をしようと内容を自宅でビデオ撮りをし、そのビデオを教室で子供達が見る場面。
 説明や指示を出している途中でビデオの中のクラーク先生が、「ガムを出して」とか「今の質問は…」など、さも教室で話しているときのようにふるまい、それを見て子供達は「なぜ、わかるの?」とびっくりする。フィクション性が強い場面だが、似たようなことはあっただろう。
 授業のシュミレーション能力は教師の力量そのものだと強く感じさせられた。

追い込んでノセル

2008年01月26日 | 教育ノート
 校内研修用にと久しぶりにパワーポイントで資料作成をしたのだが、流れ優先の準備になってしまい焦点化できなかった。内容を俯瞰してみると切り口はたくさんあったのに…と反省が多い。「盛り込み過ぎ」という課題はいつまでもついてまわる…

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 縷述「つながる授業」31

 先日の校内研修で取り上げた「音読」について、だいぶ急ぎ足の説明でしたので後から振り返ってみて、重要な点が抜けたなあと反省しました。強調すべきとチェックしておいたメモに、次のことがありました。

 緊張感を持続させる →【教科書から目を離さない設定をする】【評価をきめ細やかにする】

 活動を組み立てるうえでのポイントを「分量」「人数」「交代」「順序」「選択」「付加要素(発展)」と示しましたが、いずれの段階でもだらだらと行っていては効果は望めません。
 テンポをあげて繰り返しで徹底すべきです。
 目を離せなくするためには「変化」が必要です。評価は「誉める」だけでなく、端的に「課題を言う」ことで学習させていく面もあります。これだけの人数であれば、音読練習を5分もやれば、集中して疲れたという声(実際は脳機能が活発化している状態)が上がっても不思議ではないでしょう。子どもを追い込んでみましょう。

 質疑でも話題になりましたが「1回で指示が通らない子」や「やだ、面倒くさいと口にする子」に対しては、音読であれ辞書引きであれ、その場でいちいち対応していくことはマイナス要素が強いはずです。表情豊かに?無視して、活動に入ることが学習量を保障することだと思います。(もちろん個別対応は必要です)。
 能力差は確かにあるでしょうから、同じ形式を同じパターンで続けるのではなく、様々な設定を豊富に示し不得手な子がノッてくる場面を作りすかさず評価する…そうしたことの繰り返しが大切で、近道はないような気がします。
(1/25)
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ぶれない自然体

2008年01月25日 | 雑記帳
 歌舞伎座の花道から登場する坂東玉三郎を観て、びっくりしたことがある。
 衣装で見えない裾の中に、まるで機械仕掛けの台車でも入れているような動きだ。
 頭が少しも動かない。上体にひとかけらのぶれも感じられない。

 録画しておいたNHKプロフェショナル仕事の流儀を見た。
 以前、佐渡の「鼓動」との共演ドキュメンタリーにも感動させられたが、今回はいわば玉三郎の核をなす部分に焦点が絞られていて、深く見入ってしまった。
 あの優美な踊りを見せる玉三郎が身体的なハンディを抱えていたことや、共演者との打ち上げなどの雑事にも参加せずひたすらにケアに励むことなど初めて知ることも多かった。

 年間500を越す公演をこなすための「流儀」は、これまでこの番組で取り上げられた様々なプロたちの中でも出色ではないかと感じた。
 それにしても、スタジオの中での玉三郎は肩の力が抜けていた。まさに自然体の趣きがあった。キャスターの質問に対して言いよどんでいる姿にも、自分の中の感覚を何より大切にしていることがわかる。

 遠くを見ない。明日だけを見る。

 このことばが自然体から導き出されるとき、その人間の大きさ、深さはいかばかりであろうか。
 想像もできない。

世の中は冷を求めていたか

2008年01月24日 | 教育ノート
 「頭を冷やせ」などと昔はよく使われた気がする。
 そういう意味で激高したり興奮したりする人が少なくなったのかもしれない。
 熱のない国かこの国は…などと嘆いてみたくなる。

 それはともかく、この季節に引っ掛けて子育てにもある種の「冷たさ」は必要、というようなオチにしてみたのだが、様々な冷え冷えすることばかり多くて、やはりこの字の選択は今ひとつだったか、と反省している。
 タイミングよく?暴風雪の日でもあったりして。

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 「冫」(にすい)は「こおり」を表し、「令」は「きよらかにすみきっている」という意味です。令は、もともと人が神のお告げを受けるときにひざまずく形から出来た字ですので「いいつけ」という意味があります。命令、指令という言葉からもわかります。お告げや言いつけを守ることが「よい、りっぱ」に通じ、「すみきっている」と結びついたのでしょう。

 連日氷点下の気温が続き生活にも支障をきたすほどで、「冷」は好ましく思えないのが正直なところです。しかし、冷たさがきりりと精神を引き締めることも確かにありますし、いつも温かくいつも快適ばかりでは、心の大切な部分が弱々しくなっていくのではないでしょうか。時には「冷」を…。
(1/24)
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自分の「人間力」を育てるために

2008年01月22日 | 読書
 『「人間力」の育て方』(堀田力著 集英社新書)を読んだ。

 この本は堀田氏による現行の教育批判という括り方をしてもよいだろう。

 政府主導の教育再生会議に対抗?して教育再生民間会議を立ち上げるだけの度量も気概もある方である。
 総論として頷けることが多い内容であったし、「自助・共助」という根本の発想や「時間通貨」といったアイデアには納得がいった。

 しかし、細々と書かれた部分についていくつか首を捻ることもあった。
 例えば、こんなくだりがある。

 総合学習に消極的な教師は、教師としての適格性に疑問がある教師だからです。

 この問題をどのレベルから論じるべきかは、かなり重要なことである。
 指導要領における「総合」の位置づけか、現場における「総合」の占める優先度と時数の関連か、実際の指導における制限の問題か、教員養成と教師の教育観か…切り口が膨大にあるような問題を、こんなふうに切り捨ててほしくない。

 こんな文章もあった。

 それぞれの知識教科の習得度に応じ、年齢の枠を超えたクラス分けをする方が、個性に応じて興味を高めていくのに適していると思います。

 成功例はある、「子どもに選択させれば問題は起こらない」、問題は人間教育の徹底だ…等々、自説を強化するための配慮をいくら書かれても、その実現が容易にできるとは思わないし、現行の学級枠のよさを引き出すことこそ「自助・共助」の精神ではないかと思う。

 教育に対して外側からモノを言う人は多い。もちろん真摯に考える人もいれば(堀田氏もそうだろう)、何か自論をひけらかしたいだけの人もいるようだ。取捨選択はやはり自分の目と耳で行わなければならない。
 そのうえで自分は何を考えるか、時々自らの頭の中を探り、意味づけておくことが大切なことだ。
 それが「人間力」に通じるのではないだろうか。

 例えば堀田氏の「総合学習」の論に対して、私は「結局、出口が見えなかった総合」「明確な展望を示せなかった教育界の指導者」「多様な要求に呑み込まれる学校、教師」…そんな言葉を拾ってみた。

ゴールを見る良い身体の向き

2008年01月21日 | 読書
 『「言語技術」が日本のサッカーを変える』(田嶋幸三著 光文社新書)を読んだ。

 なぜサッカーか。
 サッカー以外のスポーツを題名に当てはめても頷けるが、他に比べてその意味合いが一層強くなるには訳があるだろう。
 一つのボールの行方をめぐって競技するスポーツは他にもあるが、フィールドの広さ、人数という要素を絡めたとき、サッカーがより「つなぐ」という意識を明確にするからだろう。

 意図的な戦術を機能させていくためには、言葉は不可欠であり、コミュニケーションの重要性が浮かび上がる。
 つまり、つなぐための言語技術である。つなぐのはボールであり、プレイヤーとプレイヤーであり、指導者とプレイヤーであり、そして…その先も田嶋氏は見据えているようだ。

 なんのための言語技術か。
 飛躍的な交通手段、情報手段の発展によって、様々な人との接触、交流や交渉なくして生活は成り立たなくなってきている。異なる文化を持つ他者と互いに理解しあうためには明確な表現手段や、論理性を高めておくことが必須といえよう…大まかにそんなふうにとらえていたが、それだけではないはずという思いもあった。
 この本を読んで、納得できることばが前書きにあった。

 自己決定力

 流動性が高い世の中にあるからこそ、自分で選択し、決断していく強い意志が必要だ。言語技術を学んでいくことはその意志を鍛える訓練になりえると思う。言葉は他者と自分をつなぐ道具であるとともに、自分を見つめていくための道具でもある。

 しかし、自己決定力は言語技術を備えたからといってうまく機能するものだろうか。
 大切な要素がある。
 言語技術をテーマにしたこの本の中に、およそ似つかわしくない次の言葉が取り上げられていることに深い意味がある。

 「ならぬことはならぬものです」

 会津若松の藩校「日新館」に伝わる「什の掟」の象徴的なことばである。
 武士道精神そのものというより、人間として基本・素養といったことの大切さである。
 生活の芯となっていくべき強い判断基準である。これはやはり家庭教育・初等教育が大きく背負うべきものだろう。

 田嶋氏は、サッカーで「判断」していくときに必要なこととして「良い身体の向き」「視野」を挙げている。
 これはサッカーに限らず全てに通ずることだ。
 どこがゴールか見きわめようとする良い身体の向きこそ、まず求められることを忘れてはいけない。その意識をかなり強く押し出す必要がある。

音読のことを考えていたら…

2008年01月18日 | 雑記帳
 月曜日の校内研修で「音読」について少し話すこととなった。

 数年前にも町内の研修会で「国語の授業づくり」について1時間ほど話したときも、切り出しは「音読」であった。その時にも明治図書の「国語教育」誌をあたってみたのだが、「音読」を特集テーマに掲げている号は少ないようだ。
 80年代後半からの号が揃っているが、一番最近では2004年1月号で、特集名は「『音読・朗読』の力を国語教室に生かす」。それ以前だと96年4月号までさかのぼり、特集名は「教室『音読・朗読・群読』発表会の演出」。それより前になると94年に6月と9月に取り上げられている。このあたりは少し注目が集まっていたのかもしれない。むろんこれだけでは判断できないが、興味関心が寄せられていないか、指導法的なことは煮詰まっているのか…いずれかだろう。

 いくらか話の構成を考えてみたら、「音読」は脳科学のデータが表立ってきてから単に国語という教科の範疇だけでは語れなくなっていることに改めて気づく。
 従って話の筋としては「教科学習全体」と「国語の授業」という二本立てになっていく。しかし、音読という活動自体はいわば全教科、領域で取りあけるという方向であっても、結局「音読を学ぶ」場は国語科であることに変わりはない。
 
 それにしても、そのための方法についてどのくらい常識的になっているのだろうか。
 たとえば、市毛勝雄先生がよく書かれている「一斉読みのやや速度を速めた音読」などは、どのくらいの教師が知っているものなのか。そもそもこの自分でさえ、知っていたとはいえ実際に見聞きしたのは十数年前である。他県での研究会で参観した一年生の音読に対して質問(疑義をとなえる形)をしたのだが、協議に参加していた方々には常識だったようで、無視されたことを覚えている。またそれ以降そうした指導を見かけることはないのもまた現実である。

 音読というきわめて一般的だろうと思われている学習活動であっても、広まっている方法などごくわずかなものではなかろうか。
 実際、そうした細かな点まで実践交流しあえる場や時間が圧倒的に不足していることは明白だ。
 教育技術に関する情報は、以前と比べ物にならないほど溢れているというのに…。

 何か三十年近く前とあまり変わり映えしない現実ではないか、という思いが頭をもたげてきた。