すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

らしくない訳の在り処

2017年08月31日 | 雑記帳
 「らしくないなあ」などと言ってしまう時がある。「〇〇らしい」がそもそもの使い方なので、前の体言を省略するのは「慣用になじまない」と記す辞書もあるが…意味ありげを感じさせるにはいい表現だ。最近この言葉がぽっと浮かんだことがあった。ちょっとした驚き、あるいは失望…その訳を考えて立ち止まる。


 「らしくない花火」…大曲の創造花火の部に意表をつく作品があった。長野県の伊那火工堀内煙火の「水辺に集う蛍」だ。創造花火は周知のようにBGMが使われるが、それが水のせせらぎや虫の音などの自然音源?のみだった。花火も当然、蛍をイメージさせている。あれっと物足りなさを感じつつ、印象深かった。



 「らしくない菓子」…ミスタードーナッツとタニタの共同開発と銘打って、新聞にも取り上げられたベジポップという商品。偶然にも発売当日におみやげとしていただいた。食してみると、「これってミスド?」と「タニタならこうか」と思いが交錯する。ドーナッツ自体は進化しているが、これは方向の一つになるか。


 「らしくない声かけ」…新学期開始を前に、子どもの自殺防止に向けてのメッセージが流れてくる。本来なら「新しい気持ちで」「さらに前進」といった励ましで迎えさせたいが、一律にできないことがなんとも哀しい。その子の考えや思いを拡げようという呼びかけより、拡げるべきは、システムではないかと考える。

飛翔体が運んでいるもの

2017年08月30日 | 雑記帳


 『杖ことば』を読んでいて、格言・金言のことが頭にあったからか、最近聞いたある言葉のことが浮かんだ。成人式で、挨拶に立たれた議員さんが好きな一言として紹介したもので、初めて聞くなあと思いメモしておいた。それは「昨日は夢 今日は可能性 明日は現実」という一言。出典は何だろうと調べてみた。


 ネット検索で多くはヒットしなかったが、アメリカのアポロ計画時のスローガン的な一言のようだ。おそらく同源と思うが「昨日の夢は今日の希望、そして明日の現実」という表現もあった。1960年代、冷戦下の宇宙開発競争に打ち勝とうとしたアメリカが自らを鼓舞するための、典型的な言葉遣いのように感じる。


 一人前の社会人として歩み始めた、または歩む準備をしている世代に向けるには、確かにふさわしい。ただ辛辣な言い方をすれば「夢」を持てる昨日であったかが問われなければならないし、「可能性」を実現に向けられる今日であるのかという問いも浮かぶ。もちろんその責任の大半は、私も含めた大人世代にある。


 「夢」を持つためには抑圧があった方がいい気がする。不自由さや貧しさ、乗り越えなければならない壁のような存在が、物理的にも精神的にも必要だ、と言い切るのは乱暴だろうか。戦後の歩みのなか、親の世代や私たちは、延々と障害や困難を退けることに心を砕いてきたが、その弊害が明らかになって久しい。


 昨朝、日本上空を飛び越したミサイルを放った国は「昨日は夢 今日は可能性 明日は現実」の具現化を目指しているに違いない。その夢の中味は滑稽に見えるが、とても笑えない。そして自ら夢を描き可能性を伸ばすことが困難な国では、強い願いを持ち迫りくる国の現実に対抗できない。とんだ話になっちまった!

コトバを杖にする

2017年08月29日 | 読書
 『杖ことば』とはまた絶妙なネーミングである。中に収められているのは、耳に馴染んでいる「金言」「格言」「諺」などである。それを人生に躓かないための支えにしたり、歩み進むための足がかりにしたりする。言葉と切り離せない暮らしを送る大多数の者は、知らず知らずのうちに、そんな「杖」を持っている。


(2017.8.26 OOMAGARI №3 終了後に花火師やスタッフにエール)

2017読了87
 『杖ことば』(五木寛之  文春文庫)


 第一章で真っ先に取り上げられたのは「転ばぬ先の杖」。まさにこの本を象徴するような格言である。一般的な意味はわかるが、著者の問いかけはウイットが効いている。「転ぶ前から用心して杖をついたほうがいいのか、それとも、転ばないために、毎日足腰を動かして、筋力を衰えさせない努力をするのがいいのか


 それは「社会には、まだまだ段差というものがたくさんある」事実と対応している。本文では物理的に歩行の障害になるものという記述である。しかし精神的な面においても同様であることを連想させる。バリア・フリーな環境を目指してはいても現実社会はそうはいかない。その時に「杖」をどう考えるか、である。


 著者は造詣の深い仏教の経典や説話などを紹介しながら、「杖ことば」の効用を説く。ただその「扱い」に関してこのように語っていて興味深い。「私はそのフィクションをさらに我流にデフォルメして受けとっています」。諺には正反対の意味を持つものも多くある。結局自分なりの解釈をして心の中に位置づけることだ。


 この本に紹介された諺等でなく、著者自身の言葉として書かれた中から、三つばかり自分の「杖ことば候補」を挙げておきたい。「養生は一生のためではなくきょう一日のための養生である」「もっとも良い『お世辞』は、一分の真実と九分の誇張」「他力は自力の母」…これらをさらにデフォルメして、心に位置づけたい。

直感を養って生きる

2017年08月28日 | 読書
 刑事ドラマによくあるセリフとして「刑事の勘ってやつだ」といった類がある。古臭い手法の代表的な場面で使われ、ある時は嘲笑の対象となったりするが、結局犯人にたどり着くことが多いのは、視聴者もどこかで「勘」に正しさを求めているからだ。長いキャリアが培うという面はあるにしろ、勘とは直感のことだ。


(2017.8.26 OOMAGARI №2 遠く三日月を背に)

2017読了86
 『直感はわりと正しい~内田樹の大市民講座』(内田樹 朝日文庫)

 2008年から14年までの雑誌連載がまとめられた。「時評」と言うべき内容なので、その面では9年も前のことは古いとされる話題であろう。しかし著者自ら「文庫のためのあとがき」に記すように「細部ではいろいろと『お門違い』なことを書いていますけど、大筋において変わっていない現実もある」ことに気づく。


 この間に東日本大震災という未曽有の危機に瀕した国を、そう評価することに対して、どう向き合うか。内田ファンならずとも多少読み込んでいる人ならば承知だろうが、著者の言う「強い現実」とは「戦後の日本はアメリカの属国であり、主権国家ではない」こと。そしてそれを直視していないということである。


 最も痛烈と感じたのは、2013年に映画監督オリバー・ストーン氏が日本を批判したスピーチだ。どのマスメディアも取り上げなかったそれは、日本の素晴らしい文化を称えた後こう結んでいる。「けれども、私はただ一人の政治家も、ただ一人の総理大臣も、平和と道徳的正しさを代表したところを見たことがありません


 仮に一典型に過ぎないとしても、それを伝えないマスメディアしか存在しないということは、やはり属国的な気配が濃厚だ。ここでキャリアを培っている私たちは、その点を自覚しながらもっと「直感」を養わねばならない。「ヒラメキで判断できる力が人間には備わっている(はずである)」という著者の言葉を信じて。

ミニスカートの風は

2017年08月27日 | 雑記帳

(2017.8.26 OOMAGARI)

 先週の「ひよっこ」は、『ミニスカートの風がふく』と題されて、1967年が舞台。ミニスカートと言えば…ツイッギーでしょ、と言える世代は、ギリギリ私たちが限界だろう。ファッションモデルという言葉もその時知ったように思う。前年来日のビートルズよりインパクトがあったはずだ、小学校高学年男子には(笑)


 ところが、やはり異人人気は長続きせず、すぐに邦人に目が移る。その時点で、ミニスカートと言えば…これは、黛ジュンしかない。彼女の爆発的な人気は凄かった。「恋のハレルヤ」「天使の誘惑」そして「夕月」と。トップスターとしての期間は短かったが、ミニスカート姿でパンチある歌声のインパクトは強かった。


 「ヒザ上〇センチ」などという言い方もあった。そうしたことを基準にすることは今は減った。番組にも近いセリフがあったが「ミニスカートは女性の躍動の象徴」の一つでもあったろう。多様になった女性ファッションは、男性目線からの見方を次第に離れ、女性特有の美しさをいかに強調できるかが主流となった。


 ミニスカートが印象的な役割を果たしている詩がある。かの有名な「生きる」(谷川俊太郎)である。教員なら授業中に経験のある人がいるかもしれないが、この詩を初めて読むときに、「ミニスカート」の箇所で小さな笑いが起こる。言葉の意外性と照れだろう。それにしてもこの選択はやはり谷川ならのセンスだと思う。


 「プラネタリウム」や「ヨハン・シュトラウス」「ピカソ」そして「アルプス」も同列に並べられ、「ミニスカート」が美しいものの象徴として詩の中に置かれた。科学や芸術や大自然に劣らぬほど人間を刺激した一種の発明と呼んでもいいのかもしれない。その「風」を今でも覚えている人たちは、TVの前で微笑む。

「暴言」という暴言

2017年08月26日 | 教育ノート
 このニュースにひっかかって

 「脳味噌を使えよ」が「暴言」ならば、世の中は暴言だらけと言っていいのではないか。「脳味噌を使ってください」なら良かったのか、「脳味噌にある機能を働かせましょう」ならいいのか。一年生に伝わるように「よおく考えましょうね」か。しかし「考えるってどういうこと?」と訊かれたら、「脳味噌」登場だ。


 「幼稚園児」が「暴言」ならば、ある対象を表す言葉はみんな暴言ではないか。小学生相手だから、それより年少の者、例えば「未就学児」「乳児」という言い方も該当する。ここは包括的な「未熟者!」と一喝した方が、何やら教育的ではある。そう言ったとしても「厳しい指導」ではなく「暴言」ととられたのだろう。



 もちろん言葉そのものでなく、前後の文脈(それは発した言語だけでなく、その場に到るまでの指導等の関わりも含めて)によって、「暴言」と称されたことは想像がつく。いくらか報道されているが詳細にはわからない。ただそうした「発表」があれば、それをすぐに記事にする報道姿勢の方が私には危うく思われる。


 「様々な暴言が複数寄せられた」に関する内容や言葉が発せられた時の調子などがわからないまま、「脳味噌を使えよ」「幼稚園児」ばかりが「暴言」として印象づけられる。教委発表の中に「萎縮させるような言葉は不適切」とあった。もっともである。しかし、これが一旦メディアに取り上げられると立場が反転する。


 教師は確かに言葉を適切に選び、子どもが納得できるように脳味噌を使わなくてはいけない。しかしまた経験則に則れば、心に響く言葉は熱を帯びた強い叱責の中にも多く存在する。安易で乱暴な報道の取り上げ方が続けば、教師は萎縮し自己利益に傾いて、体制はさらに硬直すると考えるのは私だけではないだろう。





8ミリから匂う逞しさ

2017年08月25日 | 雑記帳
 いわゆる8ミリでの撮影の経験はない。その映像を観るのだって何十年ぶりだ。お盆のとき公民館主催で「ふるさと再発見」というテーマで流された映像は、画質が悪いのは確かだが、一週間以上経った今でも鮮明に浮かんでくる。やはり中味が懐かしく迫ってくるものがあるからだろう。動画はやはり貴重な財産だ。



 技師はSさん。お子さんを担任させてもらったこともあり顔見知りである。廃校になった地元の小学校からSさんが探し出したフィルムと、若い頃に自ら撮影したものを合わせて40分ほどの放映だった。古いテープを映す機器がなく、ネットで探し出して手に入れたという。こうした熱意に支えられて甦る時間がある。


 60年近く前の小学校の映像は、知識としてはあっても、ある意味鮮烈だった。給食の初期に脱脂粉乳が使われたのは有名だが、それを熱し砂糖をドバドバ投入する様子、また身体測定が男女一緒で、高学年女子も上半身裸で平気で行っている姿…「野蛮」と言われそうだが、滲み出てくるのは「逞しさ」ばかりである。


 昭和54年に皇太子ご夫妻(今の天皇、皇后両陛下である)が、湯沢駅に降り立ち、市の酒蔵と我が羽後町の施設を廻った映像もあった。老健施設の訪問記録は、別の何かの公的な?映像で観たことがある。しかしこちらはいわば素人が、かなり離れたポジションから観客視線で撮った動画。確かに絵は見にくいけれど…。


 マイクが拾っている音声が実にリアルだった。「デデキタ、デデキダド」「アヤ~カッコエゴド」「アリャ、エエオナゴダゴド」…田舎者の無礼な言葉(笑)が聞こえてくる。かなりの時間、待たされただろう。一緒に来たらしい子どもの声が「アツイ~カエリタイ~」と叫んでいるのも可笑しい。これも逞しさに違いない。

神も始末に負えないポジション

2017年08月24日 | 読書
 「超」という形容(接頭辞)はもはや一般的になってしまった。
 さらに「鬼」が出てきて、そして「神」まで登場する。最近?の流行りは「神対応」か。
 その流れで使われただろう「神ポジション」…いや、しかしこれはないでしょう、そうでしょ!神!と心で叫びつつ、目に留まった文章がある。



Volume72
 「インターネットを通じ、個人の視界がとめどなく拡張される現代においては、もはや『神ポジション』がほとんどの人間にとって所与となりつつある。『多分問題なのは、わかってしまうことと、できることがすごく乖離していることね』」

 書評家倉本さおりが、ある本の「神ポジション」という言葉と登場人物の語る一節を取り上げて述べた文章である。

 例えば半島の国の問題にしても、多くの情報を得て「わかる」ことがたくさんあるけれど、個が「できる」ことと言ったら…。

 現状も全くそうだが、仮に望ましくない混乱が起きたときに、私たちはいったいどんな行動を取るのか、筋道は立っているのだろうか。漠然とした不安がつきまとう。

 「神ポジション」とはある意味で、先日書いた「ポスト真実」とも関わってくる気がする。
 つまり、そのネット上にある膨大な情報の中から、選びとったように見えて実は操作されたり印象付けられたりしたニュースによって「わかった」つもりになってしまうこと。

 そして、どこかに攻撃対象を見つけ、参加態勢を築くかもしれない。
 そんなことばかりが「できる」ポジションが心地よくなっているのかもしれない。
 
 これは、例えば「無能な神」のような名づけられ方もあろうが、それより「洗脳された奴隷」とでも呼んでしまいたいほどである。

 本当の神も始末に負えなくなる。

処暑に無用の用を語る

2017年08月23日 | 雑記帳
 桑田佳祐の新譜が今日発売される。そのタイトルは『がらくた』。雑誌PENが特集をしているなかに「無意味に積み上げられた『がらくた』の中にこそ、物事の本質や素晴らしさが宿る」と彼のコメントが載っていた。肩に力をいれないように見せているが…「無用の用」を語る同い年のミュージシャンは枯れていない。


(整理をしていたら、2009年7月22日「日食」の日の写真が出てきた)

 甲子園は地元秋田が負けたので仙台育英に期待した。大阪桐蔭戦の劇的な勝利には興奮させられた。翌日の広陵戦は残念な結果となったが、何より後味が悪いのはネット上で騒がれた桐蔭戦の走塁プレーのこと。正捕手の欠場との関連性が取り沙汰されていて、勝ち負け以上に苦い思いがする。気色悪い構図である。


 ありがちなランキング番組だったが「日本人が一番噛んでしまう日本語とは」が面白そうで見入った。「老若男女」「取り沙汰される」「手術中」など何気ない言葉、しかし確かに言いにくい。それにしても驚いたのは、これらの言葉が「ドラえもんの真似」をするとしっかり言えること。何か発音上の秘密があるのだろう。


 BSプレミアム『あてなよる』は季節ごとの連続放送、その夏篇が終了した。料理研究家大原千鶴のバラエティに富んだ「あて」も素晴らしいが、もっかの興味対象はソムリエ若林英司が、料理にどんな酒を合わせるか。必ず予想する。続けていたら「打率」が高くなってきて7割程度を維持し、一人悦に入っている。

幸せはエビの数じゃない

2017年08月22日 | 読書
 「昭和だねえ」と言いたくなる時がある。
 呟いたその響きが、結構幸せ感に満ちていると思うのは、自分だけではないだろう。
 単なる懐かしさだけでなく、何を指しているのか本当に見究めれば、残り少ない?平成時代でも十分成立するはずなのだが…。


(夏野菜カレーに、昨日の残りのエビフライ1本添えて)

Volume71
 「年取って、ものがロクに食べられなくなって、エビを数えたりしなくてもいいかわりに、いっぱい余らせて、あまり食べられなかったっていう方が不幸せじゃないか。今みたいに、みんなで『一人三個よ!』なんか言って食べるのが、いちばん幸せなんだよ」

 これは、若かりし頃の永六輔の言葉だ。

 仲間と中華料理を食べにいき、渥美清が「いつか、俺がいっぱい働いて、数えなくともいいように食わしてやるからな」とまるで寅さんのように言ったときに、永がそれを制して述べた言葉だという。

 その場にいて「一人三個よ!」と仕切った黒柳徹子が、永六輔への弔辞として述べている。

 なんとも恰好いい。
 言い方は変かもしれないが、何か「人間としての風味」が感じられる言葉だなあ。
 永はもちろん、渥美や黒柳にもそれぞれの風味が備わっていて、強く印象付けられる。


 幸せはエビの数にあるわけじゃない。
 等しく分けあって食べることや、その時の気持ちに寄り添い願うことや、目の前の事実から明日を想像し希望につなげること、そして、今の自分を認め励ますこと…そんな心根が、花咲かせたときに感じることじゃないか。


 風味のある人たちは、こんなことをさらって言ってのける。

 そんな大人の姿が減っているからこそ、大切に拾っていきたい。