思えば,マガジンハウスの『ダカーポ』という雑誌にはお世話になった。
それがきっかけで好きになった作家等が結構いる。
大崎善生,リリーフランキー,ドリアン助川……。そして,常盤新平の名前もそのとき頭に刻まれたものだった。
古本屋でこんな本を見つけた。
『ちょっと町へ』(常盤新平 経済界)
90年代に出されたエッセイ集。
これも,ダカーポ連載と同じように町に出かけて,誰かと会って,美味しいものを食べて,いろいろと話したことなどを,淡々と書いているだけの文章である。
読み進めているうちに,自分はなんでこんな文章を読んでいるだろう,何に惹かれているんだろうという気になった。
東京に住む作家(翻訳家)が,土曜日曜に,浅草や銀座やあとは名前も知らないような町に出かけて,有名無名の店で誰かと食事したとか,これが美味だとか,ウィンズで馬券を買ったとか,という内容である。
単に,田舎者が都会のそうした暮らしに憧れを持っているだけか……。
そうかもしれない。
ただ,その中身についてちょっとだけ穿りだしてみると,次のようなことが頭に浮かんだ。
この本の題名には「町」が使われていて,そこに触れられた文章が一つある。
「町と街」と題された章は,その二つのマチについての違いが述べられている。
タウンとストリートの違いというと分かりやすい。だからこの本は本来「ちょっと街へ」と題される中味なのである。
しかし,それをあえて?「町」にしたところに,著者の日常性があり,そこに魅力を感ずるのかと思った。
東北出身ではあるが,長く都会に暮らし馴染んでいる人だけが持つ雰囲気,それも上質な感触が漂うものへの憧れである。
それはもう一つの魅力とかさなっている。
ずっと読み続けた『ダカーポ』連載の文章も単行本にされている。
その書名が「おとなの流儀」なのである。
今,その書名を言えば伊集院静の名前がでてくるだろうが,もうすでに常盤がその題名で発刊していたのである。
伊集院との比較は避けるが,いずれそこには齢を重ねた者だけが持つ所作,振舞があり,それは経歴と積み重ねた暮らしのなかで身につけたものだ。
懐古の情はあってもそれを強く出すこともしない,目の前の移りゆく風景,物事へ批判的な目はあるが,ことさらに大きな声をあげるわけではない。
ただ自分の流儀をしっかり守り,日常を坦々と過ごす。
こんな一節がある。
大風呂敷を広げる奴らが「出れる」や「見れる」や「生きざま」を口にしているのではないか。
こういう呟きに魅力を感ずるというのは,いかに自分がバタバタしているかの証明みたいなものである。
どんと構えて新年度を迎えたいが,まだまだその境地には距離があるようだ。
それがきっかけで好きになった作家等が結構いる。
大崎善生,リリーフランキー,ドリアン助川……。そして,常盤新平の名前もそのとき頭に刻まれたものだった。
古本屋でこんな本を見つけた。
『ちょっと町へ』(常盤新平 経済界)
90年代に出されたエッセイ集。
これも,ダカーポ連載と同じように町に出かけて,誰かと会って,美味しいものを食べて,いろいろと話したことなどを,淡々と書いているだけの文章である。
読み進めているうちに,自分はなんでこんな文章を読んでいるだろう,何に惹かれているんだろうという気になった。
東京に住む作家(翻訳家)が,土曜日曜に,浅草や銀座やあとは名前も知らないような町に出かけて,有名無名の店で誰かと食事したとか,これが美味だとか,ウィンズで馬券を買ったとか,という内容である。
単に,田舎者が都会のそうした暮らしに憧れを持っているだけか……。
そうかもしれない。
ただ,その中身についてちょっとだけ穿りだしてみると,次のようなことが頭に浮かんだ。
この本の題名には「町」が使われていて,そこに触れられた文章が一つある。
「町と街」と題された章は,その二つのマチについての違いが述べられている。
タウンとストリートの違いというと分かりやすい。だからこの本は本来「ちょっと街へ」と題される中味なのである。
しかし,それをあえて?「町」にしたところに,著者の日常性があり,そこに魅力を感ずるのかと思った。
東北出身ではあるが,長く都会に暮らし馴染んでいる人だけが持つ雰囲気,それも上質な感触が漂うものへの憧れである。
それはもう一つの魅力とかさなっている。
ずっと読み続けた『ダカーポ』連載の文章も単行本にされている。
その書名が「おとなの流儀」なのである。
今,その書名を言えば伊集院静の名前がでてくるだろうが,もうすでに常盤がその題名で発刊していたのである。
伊集院との比較は避けるが,いずれそこには齢を重ねた者だけが持つ所作,振舞があり,それは経歴と積み重ねた暮らしのなかで身につけたものだ。
懐古の情はあってもそれを強く出すこともしない,目の前の移りゆく風景,物事へ批判的な目はあるが,ことさらに大きな声をあげるわけではない。
ただ自分の流儀をしっかり守り,日常を坦々と過ごす。
こんな一節がある。
大風呂敷を広げる奴らが「出れる」や「見れる」や「生きざま」を口にしているのではないか。
こういう呟きに魅力を感ずるというのは,いかに自分がバタバタしているかの証明みたいなものである。
どんと構えて新年度を迎えたいが,まだまだその境地には距離があるようだ。