すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

これも向き合う仕事

2009年02月26日 | 雑記帳
 あの『おくりびと』は残念ながらまだ観ていないが、連日報道されているので、それに伴った話題になったりする。

 まず、自分の周囲では「納棺師」という言い方は聞いたことがなかった。葬儀社の仕事の一つとばかり思っていたが、名称で区別するとすればそれなりの理由があるのだろう。自分が鈍感なのか、仏教徒でないゆえにぴんとこないだけか。
 
 以前は、肉親であれば家族や近親で身体を拭き清め、死装束を着せてあげたはずだ。かすかに記憶があるような…。それにしてもその作法を教えてくれる誰かはいただろう。
 葬式であってもついこの頃まで、近所に世話をしてくれる年配者がいたものだ。納棺師の存在をどうのこうの言うわけではないが、地方の農村社会で自分たちが取り行ってきた祭事的なことが、一つ一つ職業化していく現実はどうしようもなく進むだろう。

 そんな思いが頭にあった今日、職場でめくっていた教育雑誌に「仕事師たちの群像」という連載があり、こんな職業があることに少しびっくりしてしまった。

 遺品整理屋

 なるほど、これもビジネスになり得るか、と読み進めていたら、やはり笑えない現実があることにまた驚く。

 依頼は年間約2000件。そのうち9割が一人暮らしで、半数が孤独死の遺族からのものだ。

 引っ越し運送会社をやっていた経験の中からこの仕事が生まれたが、それはまた「惨状」と向き合うことでもあった。この業者への依頼はけして幸せな形とはいえないし、だからこそ遺品が故人の人生を語っていると見えるのかもしれない。

 遺体に向き合うことも遺品に向き合うことも、その場から何を感じとれるか、けして受身では続けていくことができない仕事であることに違いない。息苦しさをエネルギーに換えるような精神、そんなぎりぎりのところで働いている。

ことさらに意識する視点ということ

2009年02月25日 | 読書
 ノンフィクション作家柳田邦男が、講談社の月刊読書誌『本』に連載を始めた。月刊誌『現代』が休刊となり、長期予定で連載中だったものを、こちらで継続していくということらしい。そのタイトルがぐっと目に入ってきた。

 2.5人称の視点

 『現代』は残念ながら読んだこともなく、この言葉自体を知り得なかったが、筆者が考え付いたのはおよそ10年前らしい。
 息子さんの脳死ということに直面し、それまで脳死論者に近い考えを持っていた自らの気持ちの洞察によって生み出された言葉という。
 つまり、自分から遠い存在としての3人称の死(専門的業務の枠組みの中で考えやすい)と、1人称や家族、愛する人という2人称の死との違いに目を向け、脳死を全的に理解するために包括的な視点が必要だと気づいたのだった。そして、その考えを詰めていき、こんなふうに書く。

 その視点は医療問題だけでなく、福祉、司法、行政、教育、メディアなど社会の様々な分野に応用できることに、私は気づいた。

 多面的思考、複眼的な思考など似ているようにも思うが、「人称」というとらえ方をしたとき、1人称、2人称という言い方が持つより人の気配、感情に注意した見方が喚起されるような気がする。

 教育の場にこの考え方を当てはめてみるとどうなるだろう。
 確かに3人称で語られる要領や目標の類にあふれている。その視点はもちろん外せないものである。しかし、私たちの目の前にいるのはまさしく2人称である一人一人という現実。それを意識しない教員などいないはずだ。
 ただ、「冷たく乾いた3人称の視点」で多くの様々な物事が進んでいることは否めない。
 「2.5人称の視点」はもうことさらに意識していないと、知らず知らずに離れていくものなのだ。

風流に世相を斬る

2009年02月23日 | 読書
 『風流らくご問答』(文春文庫)は、なかなか洒落た本だった。
 立川志の輔と玄侑宗久、二人の発想豊かで洒脱な語り口がなんとも楽しく、考えさせられる。
 十の演目、全てを聴いたわけではないが、あらすじも添えられていて、解説も豊かでわかりやすい。二人の会話が、落語を通して現代世相に斬りこんでいるところがまたなかなかである。
 例えば、こうだ。

 今の資本主義社会の中で、一つの「効能」になっていないと、なかなか売り物にはならない

 曖昧を許さない国になっちゃったんですね

 「私」というもの自体が、みんなとの関係の中にありましたからね。今みたいに、変に「個性」なんてのは強要しなかった。

 私もまた何かを求めて落語を聴いているのだろうが、そこに表れている世界観にどっぷり浸かるまでは、まだ量的なものが足りないような気がしている。
 落語も小説も、読み手、聞き手に想像力がないと、その風景や人物が立ち上がってこない。想像力を養うためには、やはり圧倒的な量が必要だと、今さらながら痛感する。
 また、それは深刻な顔してやることでもないなあ、と二人の会話は教えてくれる。
 やはり「風流」が大切だと。(ここで出てくる風流の意味は本当に面白かった)

初心者、「高座」の意味を知る

2009年02月19日 | 雑記帳
 先日、柳家喬太郎の落語を聴いた。

 もう何年前になるのだろうか。新宿末広亭でまさに笑いが止まらなくなった経験がある。演目はたしか「松竹梅」。まさにハマるとはあのことだったろう。
 その時から柳家喬太郎の名前は印象づけられた。数年前に国立演芸場花形演芸大賞を受賞してからは、まさに売れっ子。テレビにもよく出ているし、CDなどでも目につく。

 秋田市にも落語会が出来て二度ほど来たはずだが、どうにも都合が合わなくて悔しい思いをしていただけに、本当に今回は楽しみだった。
 しかし、まあ面白いには面白かったが、期待が大きかったせいか、少し物足りなさを感じた。満腹感まで達せなかった…どうしてそうなんだろう、と振り返ってみた。

 演目が「左甚五郎 竹の水仙」。登場人物像もはっきりしていた。焦点は、気弱な宿屋の主人にあてられていて、それを取り巻くキャラクターもまずまず良かったのではないか。現代風のギャグをはさみこんだり、俯瞰的な立場での解説風な語りで笑いをとったり…まさに喬太郎ワールド(私の知る範囲の)ではなかったか。

 振り返ってみて、ああと今思いあたった。

 場所が悪い。力んで早く出かけたので近くていい席はとれたのだが、ホテルの宴会場でテーブルが挟まれたりしている配置は最悪なのだ。
 そういえば、去年正蔵を聴いたときもどうも居心地が悪いような記憶がある。ホテルであっても、せめて聴く配置で椅子を並べないと駄目なのではないか。
 そうでなければ、いくら見えやすい位置につくっても「高座」とは言えない気がする。

 のんびり笑っていられるのが落語の魅力だが、きちんと対面して聴くことが基本なんだね。

枠を出る事例に学ぼう

2009年02月18日 | 雑記帳
 教育雑誌をめくっていたら、とても興味深い記事を見つけた。
「新しい学校経営ウォッチング」と題された連載で紹介されている、宮崎県五ヶ瀬町の例である。

 この教委に一昨年就任した教育長の発想やアイデアに惹かれた。
 「小人数にはメリットがある」という点について異論はないだろうが、現実にそこからどんなふうに足を進めていくかは、あまり語られていない。
 私の周辺では、結果として「統合」の二文字だけがちらつき、現状をどう打開するかに目がいかない。つまり、小規模のデメリットをどう克服するか。そのために何をやればいいかが具体的でない。

 自分の経験でいえば、近隣の大規模校に「交流体験」と称して引率し合同の授業をしたこともあるし、地区内での交流的な活動を継続してきたことも確かにある。しかし、何か薄っぺらだった。展望が見いだせない単発的なものだった。

 五ヶ瀬町の取組みはこのあたりを痛切に反省させられる実践例だと思う。
 つまり、小規模であることの一番の強みは、教員配置に恵まれているということ。それを最大限に生かす施策がとられている。
 授業場面として「小人数の効果」「大人数による効果」そしてその間をつなぐ学習のための最適規模が探る研究など、実に興味深い。それを実証的に行うために、スクールバス等の機動力駆使、各種の委員会配置など大胆で驚かされる。(しかし出来ないことではない)

 過疎地、過疎県は従来の発想で行き詰まることは誰の目にも明らかだ。
 しかし実際の動きは鈍い。例えば、従来の発想で組み立てられた学校統合計画等も、多面的総合的な視点から見直して動き出すべきではないか。
 従来の枠にとらわれない様々な事例に学び幅を広げた実践を示すための構想が、まずは新年度へ向けての準備となる。

何のための作法か

2009年02月17日 | 読書
 「鍛える国語&道徳in山形」に参加したときに、野口先生の最新刊である『教室で教える 小学生の作法』(野口芳宏著 学陽書房)を買い求めた。

 行儀悪く不作法であることを自覚している者にとって、この手の本は非常に居心地が悪いのだが、せめて居直ることなく読み進めたいと思っている。
 「作法の原則」と題された頁で、野口先生は次の三つを挙げられた。

 ①他人に迷惑をかけない 
 ②自分の行動に責任を持つ
 ③集団の向上に寄与する

 「枝葉末節にとらわれず、物事の根本を見る」大切さを説き、細かいルール(というより「掟」)に対する疑問を投げかける。これを現場に当てはめて考えたときに、私たちは頻繁に子どもたちにその意味を問うことになるのだと思う。
 学級づくりの感覚で言えば、これはかなり初期の段階で集中的に行う必要のあることだ。そこで原則が徹底できれば、あとはその応用、発展となろう。

 がしかし、例えば「身なり」一つとっても、他人に迷惑をかけるかかけないか、子どもたちにその意味を理解させるためには、結構息の長い、それも信念を持った指導が必要だ。「基準感覚」や「美意識」を育てるためには、やはり作法が徹底的な身体化されていなければ困難なのではないか…そんなことを、付け焼刃的な自分は考えてしまう。

 ところで、「態度」という項で先生はあっさり?こんなふうに書かれている。(最終項でも登場するが)

 幸福な人生とは、「他者から大切にされる」人生です。

 私の知る範囲では、初めての文章である。この結論のために何をすべきかは、もう簡単にわかる。
 そのための「作法」なのである。

豊かさに浸るには…

2009年02月15日 | 雑記帳
 二年生の国語の教科書に「音やようすをあらわすことば」という題材がある。擬音語、擬態語を取り扱うということだ。

 子どもはこちらが思っている以上にそういう言葉を知らないんだな、と感じる。水道はジャージャー流れるし、机をたたけばコンコンという音だし、それ以外の表現はなかなか難しいのが現状だ。これは本校の児童だけではない気がする。

 数年前に辞典を買っていたことを思い出した。

 『暮らしのことば 擬音語擬態語辞典』(山口仲美編 講談社)

 改めてぺらぺらめくってみると、なんだか面白い。見出し語も結構豊富で思わず読み込んでしまいそうになる。

 ところで「はしがき」に次のような問いかけがある。

 擬音語や擬態語は、日常よく使われるにもかかわらず、普通の国語辞典には載りにくい言語なのです。何故でしょうか。

 結論は三つ。要約すると「辞書を引かなくてもわかる」「流行語としての面がある」「いささか品に欠ける」。
 二番、三番はともかく「辞書を引かなくてもわかる」ということはどうとらえたらいいだろう。
 
 いわゆる「生活語彙」という側面、日常の暮らしでよく使われ耳慣れているということがあろう。
 もう一つは、発音の響きが意味につながっているということなのだと考えられる。従って一番目は「日本人なら」という条件が前段にあるのだ。

 翻訳者を悩ませるという擬音語、擬態語。それが日本語の豊かさの証しであると断言はできないが、一つの要素であることは確かだろう。
 そんな世界に浸ってみたり、様々な感覚を声にしたり文字にしてみたりするには、やっぱり時間的な余裕(精神的もそうだけど)が欲しいんだな、とつくづく思う。
 ざざっとやらないこと。ううん。

「場所の力」を呼び戻す

2009年02月13日 | 読書
 かみ締めてみたい言葉である。

 子どもはそのときはじぶんで気づくことがなくても、子どもの日々を生きた「その場所」の記憶に、もっともつよく人生のもっとも根本的なことを教わる。そう思うのです。

 ある教育誌に載っていた「場所の力」と題された長田弘氏の文章の一節である。
 長田氏にとってのその場所は「長い坂道と急な石段と段々の墓地のある寺」。土地の様子や周囲の描写、遊んだ記憶などを語りながら、人が産まれ、生きていく意味をその場所と結びつけている内容である。
 そこがお寺であったことがまた印象を強くしていると思われるが、他者に当てはめるのであれば、それは露地であっても原っぱであってもかまわないだろう。

 さしずめ自分は、自宅裏の空き地や畑、ゆるい流れの川に続く道だろうか。
 そこでいつも遊んでいた。隣家の兄妹、近所の同級生たち。「○○ちゃん」と呼び合うなかで、石ころや空き缶、木の切れ端、いらないゴム、捨てられた金物、その他わけのわからないものが、材料であり道具であった。

 本当にまれにしか思い出さないのだか、給食時に子どもと会話していてふっとよぎる場面や感触もある。先日は、雪玉をありったけ固くしてぶつけ合い競う遊びを、少し熱くなって語っていた。それを夢中でやっていたのも、自宅裏であり、横の路地だった。
 
 そこで自分は何を身につけたか、時々問うことも悪くないだろう。
 少し手遅れの齢でもあるが。長田氏の文章がまた心に響く。

 成長するとは、言葉なき子どもの日々の経験に、みずから言葉をあたえてゆくことです。

ウケる技術をつきつめる

2009年02月12日 | 読書
 授業中の子どもの言動への対応技術を学ぶ…
 ということではない。

 単なる「ウケる」のことがテーマとなっている本だ。

 『ウケる技術』(小林昌平、他 新潮文庫)
 これはビジネス向け、若者向けというスタンスで書かれたかもしれないが、実に面白かった。素直に笑えた。いやいやそれ以上に結構深いなあ、日本海溝ほどあるんじゃない(サムイ、しかも古い)などと…。

 ウケる技術は全部で40項目あり、4つのカテゴリーに分類されている。技術としてはよく言われている「ツッコミ」「パロディ」などの他に、「レッテル展開」「決まり動作」「フェイクツッコミ」等々なるほど言われてみればそう命名できる、納得の技術がある。一つ一つを覚えるという類ではないことが強調され、何度か出てくるこの言葉には考えさせられる。
 コミュニケーションはサービスだ

 笑いをとって自分を優位に見せたいという姿勢に対しては「罠」という言葉で警戒をあたえる。サムイと感じられることを覚悟で最終戦略を「愛」で締めくくるなどは、なかなかの構成だと思う。

 文庫化によって加筆された「メール篇」に次のような警句がある。

 メールで何か言おうとすると、そこにはネガティブな解釈が生まれる可能性がある

 こうした自覚を持ちながら、しかも言葉による表現にこだわっていることが次のフレーズによく表れている。(絵文字制限に関して)

 表情ですら文字で表現する習慣を心がけてください

 ここまで徹底していると、いわゆる「好評を得る」という意味のウケるは、他者の言動や他からの作用に対する自分の「受け」の表現を突き詰めるという、著者らの強い意志を感じる言葉になる。

安心から信頼への道

2009年02月11日 | 読書
 『安心社会から信頼社会へ』(山岸俊男著 中公新書)を読む。

 題名からわかるようにここでは「安心」と「信頼」が区別されている。
 「相手の人格や行動傾向を基づく相手の意図に対する期待」を信頼として、「相手にとっての損得勘定に基づく相手の行動に対する期待」を安心と定義づけているのだ。
 日本は長い間集団主義的な安心社会を築いてきたと筆者は言う。それが今崩れかけていることは自明である。どうあるべきかを考えるには好著と言っていいだろう(でも結構面倒な読み取りも必要だ)。
 
 筆者が出している例がなかなか面白い。
 大学教員としての筆者が郵便物を出すためには宛先を届けて記入する必要があるらしいが、その時間のロスを給料換算したときと仮に誤魔化しがあった場合の金額の比較など、ちょっと考えもしなかったことである。考えるとそれに類した事項はかなりある。
 特に公務員であれば、そうしたことが義務付けられていることが多いし、それはいったいどういう社会の仕組みから来ているのか、根本の思想は何かなどと考えると見えてくるものがある。

 構造改革といい規制緩和というが、現実の社会は相互監視的に安心を強めようとする風潮が強まっている気もする。外からの枠を強固にしているイメージである。

 枠は確かに必要だかぎりぎり絞込み、自由度を高めていくことがきっと信頼社会としてのあり方だろう。具体的に足を踏み出そうとすれば、メディアの動きへの目配り、自分の表現の手順や方法の吟味、この二つが大きな位置を占める。飼いならされた安心型では行き詰まりが見えている。