すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

非日常の視点に同調する

2009年08月31日 | 読書
 8月分の読書記録を整理した。

 伊坂幸太郎の短編を続けて三作読んだことになる。

 『チルドレン』は前にも書いたように、陣内というキャラクターに魅せられてしまったが、次の『終末のフール』(集英社文庫)『死神の精度』(文春文庫)は、設定自体がなかなか面白かった。

 前者は三年後に小惑星が地球に衝突して「終末」を迎えることになる時期のある団地が舞台になっている。後者は、まさに「死神」が主人公でその視点で死間近の人物が語られることになる。

 厳密には連作と言えるかどうかはわからないが、関わりを持たせた展開がある。これは伊坂作品の一つの特徴だそうだ。
 細切れ読書の自分に短編があうことや、なかなか洒落た表現が気にいったこともあって続けて読んだのだが、読みながら何か以前にも似たような感覚で捉えられる作家がいたような気がした。

 乏しい履歴なので、すぐにそれは筒井康隆ではないだろうか、と名前が浮かんだ。作家のジャンルとしてどうなのかよくわからないが、こういう感覚を持たせてくれたとすれば、高校の頃、一時はまっていた筒井作品のような気がした。
 
 具体的にそれがどんな感覚なのか、すっきりしないままに「死神の精度」のあとがきまで進んだら、沼野充義というロシア東欧文学者が、伊坂の特徴の一つをこう記していた。

 「異化」効果 

 非日常的な視点から物事を見ることによってありふれた普通のことを、見慣れない奇妙なことに変えてしまう手法ということだろうか。
 それなら当時読んだ筒井のSFやパロディなどに溢れていたなあ、とふと思った。終末や死というテーマが結構あったはずだ。

 そんな設定に対する受けとめ方は、当時とどう違うのだろう。

 それを明確に想像できないのは当たり前かもしれないが、非日常の視点に同調する気持ちは、今の自分の方が高いだろうなとぼんやり思う。

かつてあった時代への憧憬

2009年08月29日 | 読書
 心の中で、「ああ、そうそう」と何度つぶやいたことか。

 『秋田 遊びの風景』(男鹿和雄著 徳間書店) 
 
 懐かしさにどっぷりと浸ることができた画文集だった。

 ジブリの絵職人といわれる著者が60年代の「遊びの風景」「食の風景」を書き、描いている。著者は私より三つ年上であり、まさしく同じ時代を生きた。
 しかし、肝心なのは同じ場所(地域)にいたということである。

 東京タワーが建てられ、オリンピックが開かれる、あの「三丁目の夕日」の時代に私たちは秋田でこんな暮らしをしていた、ということがまざまざと甦る。
 映画を見て、何か均一な体験をしてきたかのように感じた部分もあったのだが、実は大きく違っていたのでは、ということを改めて思う。

 それはやはり「自然との関わり」の色濃さと言っていいだろう。
 山や川であり、田んぼであり、雪であり…それが家族の暮らしに及ぼす強さ、大きさは、都会の生活と比較できるものではなかったろう。
 食だけ取り上げても、夏にはナス、キュウリ、トマトの毎日。秋には柿だ、干し柿だ。ハタハタを何日も続けて食べる冬を越して、重箱を持って運動会に出かけられる春が来る…

 著者の文章は淡々と書かれているが、強く残る心象を表しただろう絵のタッチがなんとも言われない。ジブリ作品に惹かれる要素が、そうした時代への憧憬であったことを今さらながらに気づく。

 聞き書き職人として知られる塩野米松が解説を書いている。その題名がまさしく言いえている。

 子どもが子どもであった時代
 
 絵の中にある暖かさや温もりを感じられるとすれば、それはまだ自分のどこかにあるはずであり、自分なりに何かの形として残しておかなければ、そんな気にさせられた。

お得な用語感覚

2009年08月28日 | 読書
 プレジデント2009.9.14号に、ちょっと面白い座談会が載っている。

 どれがおトク!?「高コストパフォーマンス」座談会

 座談しているのは三人。あの森永卓郎は知っているが、他の金子、藤川両氏はよく知らない。著書はあるようだし、肩書きも「流通ジャーナリスト」「生活デザイン代表取締役」なのだから、節約のプロ?なのだと思う。

 コンビニやファーストフードショップの比較に始まり、スーパー、服飾からビジネスホテル、家電、居酒屋、そしてコンパクトカーまで比較して、それぞれの所見を述べあっている。
 こんな田舎暮らしの私でも、つまり出てくる店舗の半分も身近にない暮らしをしていても、なるほどと納得してしまう。またそれ以上に、コストパフォーマンスの目の付けどころにいたく感心してしまう。
 また独特の用語感覚に驚いてしまう。

 計画的陳腐化を図っている
 睡眠特化型ホテル
 1アクセス当たりの快感指数
 富士山視認時間当たりのコスト

 こうした言葉を使いこなす(というより、考えつく)発想は、いかにパフォーマンスを重視するかということに行きつくし、単にお金をかけないとは異なるものだ。

 ふと、授業研究においてもそうした造語を操ってもよくないかと考えが浮かんでしまう。
 例えば、児童反応の黒板占有率、視覚説明特化型授業とか…。授業の効率を高めるため、趣旨や傾向把握のため、言葉で括ることは無意味ではあるまい。それ自体がコストパフォーマンスかもしれない。
 ただ、その場合の「お得感」を感じてくれる人がいなければ全くの上滑りだけどね。

身体が求めてやまない声

2009年08月27日 | 読書
 『「詩のボクシング」って何だ』(楠かつのり著)を読み直している。

 著者が中高生の頃の体験が綴られている第二章に、印象的な言葉がある。バスケットボールをしていてライバル校の選手の高速シュートに憧れを持つ件である。こんなふうに書かれている。

 高速シュートを自分のものにしたいと、身体が求めていたのだと思う。
 身体が求めてやまないものがある。
 声もまたそうなのだ。

 わかる気がする。
 単純な例だが、子どもたちに速い音読を指導すると非常に満足げな表情をすることがある。
 テンポアップした斉読などをさせた時に、上記した顔で繰り返しやりたいとせがむ子どもがいた。
 間や強弱などをありったけ強調した音読を聞かせ真似するように言ったとき、喰いつくように練習を始めた学級もあった。

 声を求めている。
 身体を震わせる、響かせる声を求めているのだ。

 詩に手振り身振りを加えるといったことではなく、身体を使って音読するということは、身体を揺さぶる、心を揺さぶることだと言える。
 「詩のボクシング」には創作の要素もあるので、簡単に一緒にはできないが、名作と言われる文章の言葉を声によって立ち上がらせ、自らの身体に取り込むようなイメージだろうか。

 そういう体験を重ねることは、「声を鍛える」に通ずることは間違いない。
 「まず、音読」…そんなふうに5月の校内研修のスタートで言ったが、二学期はその実際編にじっくりと取り組んでいきたい。

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 お知らせ

 勤務校で9月11日(金)午後に「音読と授業づくり」をテーマにセミナーを行います。
 講師は秋田市在住の石井淳先生。音読・朗読に関する著書もお持ちの現役バリバリの実践者です。
 児童対象の授業や講話などが内容となります。
 興味がある方は、下記までメールをいただければ添付で案内文書をお送りします。

 h-numazawa★nifty.com (★を@に換えて)

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骨に振りまわされて休みが終わる

2009年08月26日 | 雑記帳
 夏休み終了。

 「受信の夏休み」にすると決めたのはいいが、その充実度はどうだったろう。

 読書もそれなりに、研修会参加等もそれなりに、このブログに書き留めていたように収穫があったと思う。しかし、もう一つガツンとしたものが欲しかったなあという思いも残っている。

 目指す積極的な受信のためには自らの動きが大事だし、内なる受信機能やアンテナ感度を高めるにはもう少し代謝を良くするというか、働きかける姿勢というか、そういうことなのだと思う。
 ちょっと追い込み方が足りなかったかなと反省している。

 さて、受信に関してはトンだ夏休みとなった。
 受信といえば多くは目と耳に頼ることになるが、以前、ここに書いた「耳かき」のことがある。

 問題となった症状は耳雑音というだろうか、それが一向に止まらない。耳の中で鼓膜が受け止める普通の音の他に、もう一つの響きが聞こえる状態である。つまり、それは骨が受けとめている音なのである。
 言ってみれば、その分受信が増えたことには違いないが、その邪魔になる受信のストレスは想像以上で、結構煩わしい。
 
 耳と言えば口の、歯の問題もある。
 六月末に「親知らず」のことを書いたが、これも結構な痛みがある。
抜歯したところの型をとるために、昨日歯科に出かけ医師に「あの親知らずが出てきているようなんですが…」というと、診察の結果、医師が口を開いた。

 「これは…骨が出てきていますね」

 どういうこと?

 そこから診察台での苦闘の1時間半が始まった。

 骨は折らなかったけど、骨に振りまわされた夏でした。

みっともねえという感覚

2009年08月25日 | 雑記帳
 立川談春が再び来るというので、いそいそと秋田市まで出かけた。

 今回はまったくの独演会で、正味2時間強たっぷりと堪能することが出来た。
 その良し悪しを語るほどの通ではないので、細かくは言えないが、ほぼ客席全体を見渡せる後方位置から見たときの観客の集中度、特に二席目の「妾馬」の後半は凄かったなあ、と思う。

 最初の「子ほめ」で、八五郎と伊勢屋の番頭とのやりとりの中に、たしかこんな台詞があった。

 「往来で、人の歳を訊くなんて、そんなみっともねえ~~~」
 
 今まで「子ほめ」を何度か聴いてこんなところで引っかかったことはなかったのだが、噺家によって細かい違いは当然あるだろうから談春だけが言っているのかもしれないし…と思いつつ「みっともない」という言葉が、心の中にすとんと置かれた。

 江戸、上方双方のバージョンがあるとはいえ、舞台となっている時代では、路上で年齢を訊くことはみっともないことだったのだろう。歳についての話題は礼節を欠くという考えは確かにあるかもしれない。

 そういう文化の良し悪しはともかく、この「みっともない」もやや死語化していないか、ということがある。
 人の目を気にして行動する、多くの日本人が持つそういう習性?によって抑えられてきた様々なことがあり、短所・欠点でもあるのだろうが、それによって維持されてきた品性もあるのではないか。

 他人様の目にふれても恥ずかしくない言動、姿形…そのラインが限りなく低下してきているし、私たちの感じ方もずいぶんと緩くなってきた。
 そういう流れが加速したのはずいぶん前のことだが、象徴的なのはあのツービートの名ギャグ「赤信号みんなで渡れば怖くない」だと思う。
 その赤信号を私たちはみんなで渡ってずいぶん遠くに来てしまったのだろうか。

 談春が高座前夜に見た大曲の花火のことを話題にしたが、63万人の整然とした動きを感心したように語ったことも、やはり「みっともねえこと」に対する一つの感覚なのだと思う。

詩のボクシングからのジャブ

2009年08月23日 | 雑記帳
 先月だったろうかNHKの教育テレビで放映していた「詩のボクシング」の特集を録画しておいた。
 番組表で見つけるたびに視聴してきたつもりだが、この録画したものはかなり初期のもの、噂に聞いた?ねじめ正一と谷川俊太郎のタイトルマッチだった。
 もちろん、面白くないわけがない。

 好き嫌いはあるだろうが、ねじめの持つ喜劇性はやはり自身が声にすることで一層発揮されるようだ。
 また谷川はことば遊び的な作品(特に「ねじめのけじめ」は逸品だった)もさすがだが、どこまでもことばを日常の思いや動きで追求していくような姿が、とても心地よかった。
 対戦としてみれば、私のジャッジも谷川だったなあ。

 その対戦の後に、全国大会でたしか最初のチャンピオンになった若林真理子の映像が流れた。
 あれは凄かったなあと思う。
 ああいう声質の威力というものは改めて感じる。谷川やねじめと対戦したとしても負けないのではないかという気がしてくる。

 詩の内容以上に、そのことばが身体をくぐりぬけ、声として発せられたときに、どちらに惹きつけられるか、びびっとくるかという判断なのだと思う。

 某有名付属小学校で、「詩のボクシング」を取り上げた授業をしていることは以前から知っていた。公開では見る機会はなかったが断片的な映像が流れていた。詳細な計画はわからないが魅力的な扱いができるだろうと想像を膨らました。

 先日、研修会で「遊び心のある授業」という言葉がでて、ああっと思った瞬間がある。そんなとらえもしてみたい。
 書棚にあったこの本を読み直してみることにする。

 『「詩のボクシング」って何だ!?』(楠木かつのり著 新書館)

脳の気持ち良さを作り出す

2009年08月21日 | 読書
 『子どものための頭がよくなる読み薬』(武田利幸著 声の教育社)

 著者は学習塾の経営などで著名な方で、本県いや本町の出身者でもある。
 以前出した著書もなかなかおもしろかったが、子ども向けのこのような本も出されていたとは知らなかった。
 なんと本の帯には「文部科学大臣推薦」の文字が大きくあり、推薦当時の大臣の写真と談話が載っている。

 学習意欲を高めるための原則的なことは、よく言われていることが大半だが、わずか140ページほどの分量の中になかなか工夫が凝らされている。

 まえがきで「誓約書」の形式があって記入をさせたり、「簡単な実験」と称して5分間の手伝いをさせたり、「目標づくり」の文末を「~~習慣をつくる」と統一する形としたり…。
 また終盤で暗記法など具体的な学習の仕方も紹介されていて、これは実に興味深かった。

 一個増し学習法(累積法) 火事場学習法

 いかに繰り返すかという視点で考えだされたものだと思う。
 その意味で、この言葉が象徴的である。

 脳が気持ちよい状態で覚えたものは、思い出しやすいですよ。

 これは普通の生活感覚でも理解できる。
 こうした状態を授業の中で、日常の学習時間で、どう作り出すかが決め手になるが、本全体から導き出されるのは、メモ・チェック(書く)・リズムをくずさない・リラックスというキーワードかなと思う。

 授業づくりにも必須なことだと言える。

秋田語の衰退と学力向上

2009年08月20日 | 読書
 『珍版 秋田語の教科書』(加藤隆久著 三文舎)という本を、行きつけの書店で見つけた。
 著者は秋田市在住で、私より三歳年上であるようだ。

 年代的には収録された言葉全てをわかってもいいはずだとは思うが、そこは地域ごとの言語の違いも多く、2割ほどは使ったことがないなあと思うものもあった。

 この類の本を読むと、改めて「言葉がなくなるというのは、そういうモノがなくなる、そういう生活がなくなること」だと知らされる。

 例えば「ガンコ゜(鼻濁音)」という言葉がある。
 この意味は「空洞・すき間」だが、ほとんど使わなくなっている。スイカを食べようとして割ると、昔はガンコ゜だったことはしばしばあったのだが、今そういうものは市場にもでないし、品質改善がずっと進んでいるのかもしれない…

 それはさておき、様々な言葉の解説がなかなか面白い。
 秋田では「○○ダヲン」(○○だもの、○○だから)という言い方があるが、そういう短縮形で理由や状況をはっきり言わないことが目立つ。つまり聞き手が状況把握をしてくれるものだという前提のもとに語られるケースが多いという。
そして、それに伴う良いこととしてこんなふうに結論づける。

 状況把握の能力に長け、わずかな言葉の表面からも豊かな情景を思い描くことのできる頭脳の持ち主が多い。
 
 逆に「聞き手の能力に甘えた、不十分な表現を常とする言語」という一面が、ある能力育成を阻害しているとも書く。

 問題の内容は解っているのだが、答えようとすると出題者の求めるような言語表現が出てこない 

 とすると、秋田語全体の衰退は能力的にいうと、その逆になるのかなあと漠然と思う。
 そうか、秋田語を使わないことが言語表現力を伸ばすのだ!
 それが学力テストの結果に結びついている!

 と考えるのは、やはり少し無理があるでしょうね。

 著者の独断とは思うが、次の一節も興味深い。どこかで検証してくれないかしらん。

 (秋田の)知的レベルのピラミッド型構成図は、日本とはまったく正反対といえる。
 

鬱蒼とした森の入口で

2009年08月19日 | 読書
 大学時代に少しばかり詩をかじっていたことがあったのだけれど、愛読するのはもっぱら平易な表現をする詩人ばかりで、その意味で吉本隆明は齧りたくても歯が立たないという印象ばかりが残っている。

 それが糸井重里によって誘われ、対談集やら単行本などいくつか読めるようになった。しかし、今回またその言葉に接するとあえなく敗北してしまいそうな自分を感じる。

 『吉本隆明の声と言葉』(糸井重里編集)はCD&BOOKという体裁であり、中心は糸井がセレクトした吉本の講演の断片となっている。

 文学、経済、哲学、宗教・・・とそれなりの知識がないと理解し難い声が多くしばしば考え込んでしまうし、一読(一聞)しただけでは私にはすうっと入ってこない。

 ただ、声にしたときの話しぶりによって妙に納得のいくような部分も確かにある。

 糸井はこんな表現をして解説している。

 吉本隆明に連れて行かれる鬱蒼とした森
 
 さしずめ私などは、それを体験した糸井にその鬱蒼とした森の入口まで連れていかれたが、その場所に捨て置かれてどうしようか思案にくれている…といった状態か。

 しかし、そこからも少し覗ける森はどこまでも深く、堂々とした大樹の存在感に満たされる気配がして、魅力的である。

 吉本のこんな声が響く。

 つまり僕らの考え方からしますと、消費社会と言いますけど、消費ということと生産ということとは同じなわけです。誰かが生産するときに、必ず何かを消費するわけです。

 つまり「いいことをしているときは、だいたい悪いことをしていると思ったらちょうどいいんだよ」ということを本当は知っていない