すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

5月,ざっとふりかえり

2014年05月31日 | 雑記帳
 天気のいい連休から始まったこの5月。あまりに好天が続いたので心配はしていたが、運動会ウィークの中旬週末は、空模様が気になり、学校関係者はやきもきさせられた。それにしても今はかなりの確率で、数時間後の天候判断が可能であり、その面では助かる。ただ最終的な決断はいつの場合も人であり、何を根拠に決断するか今年も心を締め直すときがあった。



 個人写真を掲示したり、遠足に引率したりで、少しずつ子どもの顔に馴染んできている。しかし、顔と名前の一致は5月の一番の目標であったので、その点は甚だ達成率が悪い。6月は目標を下方修正しなければならない。ただでさえ記憶力が落ちているのだから(定番の言い訳)、作戦を考えるべきだろう。共に行動する機会を作る、すぐ一覧で確かめるなどか。



 校内報をここでも発行することにした。教育目標に設定した「ぜんしん」をそのままタイトルとした。主任がこまめに研究通信も出してくれるので、その点も摺りあわせながら、気ままに書いていこうと思う。今年は週1とまではいかなくとも、月2~3程度でいいと考えている。手持ちの焼き直しではなく、自分自身で新鮮な情報を書けるかも課題としたい。



 読書ペースは少し落ちてしまった。連休もあったのに読了は10冊に満たない。先週がかなりあっぷあっぷ状態だったこともあろう。また、長編の文庫を手にしていることも微妙に影響しているかな。年度内の様々な研修の講師依頼にちょっと苦労した今月なので、来月はぜひそのお招きできる方々の著書を読み進めていきたい。来月は教育書強調月間としよう。

「要するに」を遣う男に

2014年05月30日 | 雑記帳
 録っておいた映画『木更津キャッツアイ』で,変なキャラクターを目にした。日系人役で「要するにぃ」を連発する。その「要するにぃ」は単なる前置きに過ぎず,本来の役割になっていない台詞連発である。日本語の不自由感を出すにはいい手法だなと思いながら,こんな人は身の周りにも結構いるよね,と気づく。



 【要するに】…「つまるところ。かいつまんでいえば。つまり」と広辞苑にはある。そうすると,結局かいつまむことができなければ,「要するに」以降は同じことを言い換えて述べることになる。結局,かいつまむどころか,かえって長くなったりする場合も十分考えられる。短くしてわかりやすくなる保障もない。



 もし,伝わらなければ,また「要するに」と続けて,別の説明や例示をすることになるのだろうか。ということは,この「要するに」という副詞は,伝えたいという気持ちの強調という役割を持っているとは言えないだろうか。日本語
の不由な日系人?は「要するにぃ」ということば一つで,気持ちだけは伝えられる。



 「要するに」を調べていて,当然「要する」も目にしたが,一つ使い慣れないというより,使ったことのない意味があった。「待ち伏せする」である。例文として「敵を要して撃つ」と載っている。どんな関連があるのだろう。「要」を調べて判明する。「邀」の通用字という記述があった。戦いの言葉だと理解する。



 自分ではあまり「要するに」は使わない気がする。しかしもし口ぐせにすれば要約力は高まるのかもしれない。他人の話をよく聴けないタイプの人間には有効だろうか。どのタイミングで使うか,まとめて話を分かりやすくするとき,結論に向けて急ぎたいとき…「待ち伏せする」ような気持ちで,口に出してみたい。

豊かさとは負けしろのこと

2014年05月29日 | 雑記帳
 内田樹教授のブログを見ていたら、見かけない言葉があった。「負けしろ」である。検索をしてみたら、内田教授は以前から使っていたようである。結構読んできたと思うが、目にしていない文章の中だったかもしれないし、問題意識がそこになかったから見過ごしたのかもしれない。とにかく、今の自分には結構響く言葉ではあるなあ。こんなふうに語られる。


 引用→http://blog.tatsuru.com/2014/05/27_1034.php

 日本は他の国とくらべると「負けしろ」の厚さがだいぶ違いますから。地震が来ようが、国債が暴落しようが、年金制度が崩壊しようが、そのときはそのとき、国が破れても山河が残っている限りは大丈夫です。なんとかなります。「負けしろ」が日本にはあります。


 内田教授はそのなかみとして、第一に「豊かな自然」を挙げ、次に「銃犯罪の少なさ」つまりは日常の保安性を挙げる。そして、温泉やら伝統芸能などの「文化的蓄積」についても触れている。なるほどと思う。東日本大震災の復興についての評価を簡単に括ることはできないが、復興を支える「しろ」の部分に上記事項が入っていることは間違いないだろう。


 しかし、その「負けしろ」が徐々に取り崩されていることは、もはやかなり自明である。自分たちの代ではまあまあ残っているのかもしれない、という安易さを持っている限り、その進行は止められない。ここで思い浮かぶのはネット上でも話題になった「大飯原発再稼働差し止め」判決文の一節である。ぴったりと重なると思えるのは、私だけではないはずだ。


 引用→http://www.news-pj.net/diary/1001

 このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。


 「豊かさの意味」を問うことは、何度も言い尽くされているけれど、もうこうなったら(どうなったら?)豊かさとは負けしろのことだ、と言い切ってもいいかもしれない。

「最強」ブームに小さくもの申す

2014年05月28日 | 雑記帳
 最近見たニュースだったろうか、プロ野球の試合後インタビューで、「最強の、最高です」という表現をした選手がいた。
 まあ、たわいのない強調表現なのだろうぐらいしか思わなかった。

 書店で手にした『総合教育技術』(小学館)の今月号の特集名が、「最強の校内研修」とあった。

 へええ「最強」かあ、「最高」だと平凡?すぎるので、「最強」という言葉でインパクトをつけたのかな…。
 さらに、表紙の上部を見ると、「最強のチームをつくる!2大特集」とまで書かれてある。

 「最強」ブームなのだろうか。

 「最高」との比較をしてみると、おおよそ二つのことが想像される。

 一つは、勝ち負けがあるイメージ。競争に勝つということ。
 もう一つは「弱くない」から「揺らがない」、「がっしりしている」というイメージだ。

 そう考えると、前者からは単純に「競争社会」が思い浮かぶ。
 使い方は「最高」と同じであっても、「最強」と口にした瞬間に、相手がいるような印象を感じてしまう。
 そもそも「チーム」という言葉は、目的達成に向けたものだったろうが、知らず知らずに強弱による比較になってしまったのだろうか。

 「最高」にも高低があり、比較できるには違いないが、この場合のイメージは内部の満足感、達成感に近く、内部表現に近いような気がする。

 もう一つの「最強」のイメージにある「揺らがない」は、自信満々といった連想も働く。弱点がないという一面も浮かびあがってくる。
 組織としてはそうありたいと願うのは常なのかもしれない。


 連載されている「教師のためのメンタルヘルス講座」で、和田秀樹氏が「心が強い」ということを取り上げた。

 心が強いことを「不安などに負けない人間、実力が発揮できる人間」というイメージではなく、こんなふうに意義づけしている。

 心が強いとか、心が健康というのは、うつにならないことではなく、うつになっても、それほど悪くならずに、最悪、自殺に至らない、その後、回復して復職するということだ。


 まったくカテゴリーの異なることを並べているようだが、どこか共通する部分もあるような気がする。

 自分の中では「校内研修」は別に「最強」でなくともいいんじゃないかなと思う。

 もちろんいい研修を求めていくには違いない。そして効率的に展開したい。

 けれど、根本のところでは目の前の子どもたちにどう対していくか、そんなことをどろどろと続けていくような…「弱い」と見えても、一人ひとりがしたたかに仕事を続けられる、そんな研修が、本当は「強い」のではなかろうか。

境界線を持つ男の薄笑い

2014年05月27日 | 読書
 「2014読了」56冊目 ★★
 
 『エコラム』(リリー・フランキー 新潮文庫)


 この文庫は昔からのリリーファンでないと読まないだろうなあ、と思う。
 その昔、私はマガジンハウスの『ダ・カーポ』誌で、リリーの存在を知りそのセンスや文体が好きになった。
 ここに収められているエッセイは『ポパイ』誌での連載のようだが、『ダ・カーポ』のそれに比べると、下ネタ度がずっと濃い。

 どの程度かと云うと、ざっと内容の8割は下ネタ。残りの1割がそれ以外の身辺雑記で、もう1割がそれらを包括するようなまともな表現だ(といっても、まったく個人的な印象だが)。

 しかもその最後の1割は、他の箇所を読む根性がないと読みとれない。これが結構つらかった。
 リリー自身も書いているように、とにかく厚い(554ページある)。
 さすがの私であっても、途中からはあまりの無意味さに流し読みのようになってしまった。

 しかし、それと同時に、これだけ延々と書き続けるリリーの「力」がだんだんと浮かび上がってくる気もした。

 文句なく「想像力」。これは「妄想力」とほぼ同義か。

 さらに「観察力」。ディテールを取り上げるセンスと言ったらいいのか。

 まあ、それらは作家としての基本的な条件かもしれない。

 さらに感じるのは、「仮説力」ということか。
 このエッセイにはいくつか、冒頭にインパクトの強い仮説が提示されることがある。
 例えば、これらだ。

 男には生まれながらにして、収集癖がある。いや、生まれる前からすでにコレクターであると言ってよい。

 頭で考えているうちは何も起こりはしないが、運命はいつの時も突然である。

 ひとつの道具で人は変わる。



 こうした「仮説」に対する実証が、下ネタ満載で語られて、どうだと示されるが、実際はあまり説得力がなかったりする。

 それは結局のところ、作者の特殊性に読者がついていけなくなってしまうからだ。

 本文中にある言葉で表してみると「境界線」ということばに象徴される。

 「生きていくうえで何とも判断しがたい境界線」…これを、法律や世間様に決めてもらい、それで良しとする生き方も当然あろうが、リリーは違う。
 この境界線を自分の手で持ち、自由に動かして遊んでいる。

 その位置をまったく遠いと感じる人は多いだろう。

 仮にそこを比較的近いと感じる人がいたとしても、結局のところは境界線のこちら側なのである。
 それを越える勇気(別名では狂気)は、もてない人が圧倒的だ。むろん自分もその一人である。

 境界線をぷらぷらさせながら、リリーの薄笑いが見えそうである。

小さな驚きを大事にすれば

2014年05月26日 | 雑記帳
 久しぶりに落語の会へ。「あきた落語愛喬会」(柳家喬太郎がメイン)も、もう12回を数えている。今回は三遊亭白鳥との二人会。喬太郎はいつ聞いても安定感があり、十分に堪能されてくれる。白鳥は新作落語の雄であるがじっくり聴くのは初めて。二席目に噂には聞いていたが皇室ネタが演じられる。なんとも言えない驚きを感じながら、結局は爆笑の渦へ。


 落語会が終わって遅い夕食をとろうとお気に入りの店へ。あいにく混んでいて入れない。仕方なくチェーンの某居酒屋へ入る。それなりに客は入っており賑わっている。それなりに飲み物もメニューも充実している。それなりの味だろうと軽く寿司でもつまもうと注文したら、これは最悪。「それなり」の限界か。会計を済ますと、なぜかバナナ2本のおみやげ!。



 日曜午後からは野球応援。部員数が少ないなか、よくぞ決勝まで進出した。子供達と指導者の努力を称えたい。前日にみた他校同士の試合で気になったのが牽制球の多さ。これが試合を緩くしているような…。驚きの極私的改善案は「小学生野球はリードなし」のソフトボールルールを適用すればいい。そしたらもっとシンプルなベースボールに近づく気がする。



 今日から「読み聞かせ」が始まる。地域の方が3人おいでになるのだが、全学年に聞かせるために、職員にも分担がある。私はなんと一年生。紙芝居は定番だが、その前に絵本を一つ読むことにする。『にんげんごみばこ』(のぶみ)。眼差しが痛く感ずるほど真剣に聴いてくれた。最初に感想を言ってくれた女の子、「人間は大切にしなくちゃいけないと思いました」

小さくとも輝くものを見つける

2014年05月25日 | 雑記帳
 遠足の引率で美術館に行き,「中村征夫展」を観た。本県出身の水中写真家の名前はもちろん知っていたが,ちゃんとした展示をみるのは初めてだった。こういう類の写真は初めてみるような気がする。とにかく「色」である。水中,海底なので,光の使い方が決定的だろう。とにかく極彩色が暗い海で蠢いている。



 先週は職員との面談を実施。長い時間はとれないが,それでもきちんと話す機会を持てない現場にあっては貴重だ。今年赴任したばかりなので,子供の状況について初めて聞くことも少なくない。当然,問題点がでてくる。しかしその分析を受けとめつつ,とらわれずに「輝き」を見つけることが大事な仕事だと思う。



 この土日は,田植え作業が真っ盛りであった。水が張られた田圃の風景は,実にいいなあと感じる。機械化が進んで昔のような家族総出の様子はあまり見られないが,それでも小学生ぐらいの子が出ている箇所もあった。時と共に育ちゆく景色の清々しさがある。特に,朝や夕方の陽が射す頃。眩しい空間が広がる。



 ブログの編集画面に,開設から何日と記されている箇所がある。今日の画面に載った数字は「3333日」。ちょっと感慨深い。3000日の時は見過ごしていた。もちろん,開設だけなら誰でもできるわけで要は投稿数なのだろうが,今数えたらおよそ三分の二程度。この頃は毎日が続いている。とりあえず目出度い。

何がデッドラインなのか

2014年05月24日 | 読書
 「2014読了」55冊目 ★★

 『デッドライン仕事術』(吉越浩一郎  祥伝社新書)


 佐藤正寿先生のブログに紹介があった。
 この頃仕事術関連は読んでいないので,たまにはいいかなと思い注文した。
 「すべての仕事に『締切日』を入れよ」という副題が示しているように,締切厳守を徹底する思考や行動が貫かれている本である。

 処理をしていくという観点でいえば,この著に書かれてあることはまさに王道。

 しかし,極端な例とはいえ,このようなテンションにはついていけない。

 あるときは,「家族が熱を出してしまったもので」という言い訳を聞いて,「だったら熱を出させるな」とさえ言ったこともある。・・・(略)・・・・・やることをやってから看病しろ,という話だ。


 もちろん,フォローもあるのだろうが,やはり企業戦士的なイメージが強い。

 一番関心を持ったのは,この項である。

 調整型リーダーが,組織の決断力を鈍らせる


 こんな表現をしている。

 「調整型リーダー」は,宴会の幹事をやらせるには適任だ。しかし組織のトップには向いていない。


 その組織が,どういうものを目指しているのかで大きな違いがあるだろう。
 営利組織であれば,結局はそうなるのかもしれない。
 では,学校や役所はどうだろう…しばし考えてしまう。

 今そこで求められているリーダー像は調整型の方が明らかに強いと思う。
 細かに言えば,その組織の構成員の質,量によって違いが出てくる。
 最終的な決断が求められるのは変わりはしないが,どのレベルで行うか,それまでのステップをどう積み上げていくか…そういった点に関して一方的な独断専行では成り立っていかないだろう。


 自分に引きつけて考えるには,こうした極論に近い論述をする人は実に興味深いものだ。

 深く納得できる記述も所々にあった。以下は,その一部。

 どんなに複雑にもつれた糸も,ほどいてみれば単純な一本の糸に過ぎない。

 徹底したフォロワーシップから,強いリーダーシップが生まれる。
 
 「売上」は,すべてを癒す


オッサン,ぐだぐだ言い放題

2014年05月23日 | 雑記帳
 忙しい。ちょっとこの感じは1年に2,3度あるかな、と思う。やりたかったことがまるまる4日間手をつけられなかった。もちろん、えんえんとやり続ければできただろうが、遅くまで残って手をかける気力、体力?もない。そんなことを振り返って一週間の暮らしを思い出したら、こんなに早起き(というより目覚める)しているのに…と深い反省が浮かぶ。


 この反省は単に優先順位の問題か。今読んでいる新書に、ワークライフバランスという言葉があった。前に見かけたときは、気に留めなかった。この場合の「ライフ」とは私生活を指すそうである。「ワーク」が重すぎて私生活を壊してはいけないという。しかし、ワークをライフに持ち込んでしまう習性は、この職業にありがちなことで、それに染まっているか。


 またどうでもいいようなことを書き連ねた。こんなことより、久しぶりに引率した一年生遠足の様子を書くほうが、よほど心和むと思う。面白いなあ、一年生。説明をしてくれる人が「この人は、今65歳で、みんなのおじいさんぐらいかな」と口にすると、「ぼくのおじいさん、70歳」「おれのいえは68歳」「えーーっ、60歳ぐらいだよ」…と止まらない。


 ボケてみると、突っ込んでくる言葉がまた興味深い。マンモスの像が展示されていた。「すごいねえ」と驚くと、「石器時代だよ」などと言う。「石器時代って何?」とうけると、「えーーっ、知らないの」。隣の子が「カンブリア紀だよ」とすごいことを言う。「何それ,カンがブリッと何かするの」とボケると,このオッサン一体何だとという顔をしてくる。


 室内アスレチックでは,「こわい,こわい」を連発しながら,タイヤの輪昇りをやりきった女の子たちがとても可愛かった。そうやって難関を一つ一つクリアしていくのだよ,と心で呟く。それに比べてオッサンが抱える難関は,誰かが足を支えてくれるわけではないし,到達点がどこにあるのか見えないし…とぐだぐだ言いながら,仕事を家に持ち帰った今日。

スマホ時代の漢字のなまえ

2014年05月22日 | 雑記帳
 運動会が終わって、ようやく子どもたちの写真を掲示する仕事に取りかかれると思った。名前を貼り付ける作業を進めながら少しずつ顔を覚えようと考えたのだが、ちょいと難関が待ち構えていた。いわゆる「キラキラネーム」打ち込みである。ある学級の子供達を例にいうと、パソコンの辞書変換で候補として出てきた名前の数はわずかに3人。1割に満たない。


 年々、増えていくこの現象にどう対するか。昨日は町の小学校陸上競技大会があったが、そのプログラムの氏名には全員ふりがなが必要になっている。賞状を読み上げるにも、そのままの漢字では読めないのが圧倒的だ。かなを振るように要望があっても、忙しく作業をこなしているスタッフからは「読めないようなものを…」と本音が出てしまうのは仕方ない。


 学校報に載せるために、入賞者を打ち込んでいくが、ここでもイライラする。まあ読める字の組み合わせならいいが、時々出てくる難漢字の場合は、自分が試されているようだ。漢字の一部の音読みでたどりつくのが常道である。ただそれさえも困難な字がある。漢字の良さは十二分に認めつつ、この作業で感じるのは、漢字を使う人間の欲深さ、自己中心性かな。


 そうではあれ時代は逆流しない。ふと昨夜の会議で、高校の先生が朝に回収している携帯電話等が入ったボックスを見たら、1台がガラケーであとは全部スマホだった、という話を思い出した。当然とは思いながら改めて巨大な波が押し寄せているのがわかる。直感的な操作でコミュニケーションをとれる世代には、漢字の名前など似つかわしくないのかもしれない。