すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

あの時、君は涙ぐんだ

2011年02月28日 | 雑記帳
 昨日、三年間勤めた前任校が閉校するということで、その式に出向いた。
 いくつかの理由を抱えて、近隣の多くの学校がその歴史に幕を下ろしている。
 寂しいという感情を取り巻くように様々な想いが渦巻き、言葉にするのが難しかった。

 ちょうどひと月前に記念誌への文章を依頼されて、短く想いを書いていた。これに尽きるかな。

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 あの時、君は涙ぐんだ


                        
 平成十八年晩秋。
 授業名人として著名な野口芳宏先生をお招きして研修会を開いた。学校に到着し車を降りられ、先生は、校門の見事や校舎の素晴らしさを口にされた。
 そしてこんなふうに呟かれた。
「地域の人たちに愛されているんだね。」
 数時間後、二年生を対象にした詩の授業が始まった。
 硬派で知られる先生の厳しい問いに、言葉を詰まらせたY君の目に涙が浮かぶ。
「おいおい」と名人に頭を抱えられ、抱き寄せられたY君の姿が少しうらやましかった。

 平成十九年、学習発表会。
 全校による国語辞典実践、詩文等の音読が軌道に乗った年である。発表会でも個人演目を取り入れ、さらにフィナーレを群読で締めくくる形をとった。
 終了直後である。会場後方にいた私に駆け寄ってきて
「今まで沢山の発表会を見てきたが、今日ほど素晴らしく思ったことはない」
と手を強く握り締めた人がいた。
 その目が潤んでいたことを忘れられない。

 平成二十一年早春。転出が決まり様々な整理を始めた。
 つい数日前に卒業祝賀会で映した職員総出演のシネマ『卒業担任殺人事件』はなかなかだったと自画自賛。思えば、ずいぶんと顰蹙をかうような出し物を考えたものだ。
 前年は「卒業生の皆さん、ご卒業…ありがとうございます!」と、やんちゃだった学級を茶化す呼びかけ劇だったし、その前は、卒業生と教師の二十年後の出会いを描く衝撃的な?内容。高松だったから出来たという思いがある。
 脚本を読みだしたら止まらず一人笑い呆けてしまった。気がつくと、目の端に涙がにじむ。

 ああ、たくさんの抱きしめたい思い出がある。
 ありがとう、高松小学校。


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自分の想いか、一発芸か

2011年02月27日 | 雑記帳
 千野帽子という文筆家が面白いことを書いている。

 俳句は文学の世界における一発芸です。

 俳句や短歌に憧れを持ってきた。
 基礎的な素養がないのでなかなか長続きせず、俳句にはもう十年くらい向き合っていない。

 と書きながら、ちょいとプチ自慢をすると、昨年とある観光地で募集した俳句コンテストに気まぐれに投句し、二部門あり一つは最優秀賞、もう一つは入選を果たし、ちゃっかり副賞などもいただいた自分…。

 その意味では、もしかしたら一発芸が得意なのかもと自惚れたくもなる。ただ、千野はこんなことも書いている。

 「自分」なんて全員同じだが「言葉」は無限だ、と思える人は俳句か川柳に向いています

 これは実に厳しい言い回しだ。しかし真実をついているのかなあと思う。
 言いたいことがある者は別の表現手段を選ぶべきで、何も十七音という窮屈な形式に場を求める必要がない。
 そうすれば、短歌は「+十四音」分だけ自分を出す余地があるということにもなる。その違いは意外と大きい気がする。
 
 かなり以前にもそんな比較の言葉を目にしたときがあり、やはり自分には俳句よりも短歌かなあ、それに学校で子どもたちに書かせるのなら短歌の方が、と考えていた。
 そんなこともあり、前任校である程度続けて子どもたちに短歌づくりを奨めた経緯がある。担任でない哀しさもあり、まとまったものにはならなかったが、掲示用として子どもたちの歌をパソコンに打ち込んだので、かなりストックがある。

 さて、今日はその前任校の閉校式である。
 三年間のそれなりの想いもある。
 その心に沿って、歌を詠むべきか。それとも久しぶりに一発芸に挑戦してみるか。

 自分へのこだわりが捨てきれるわけはない。
 しかしまた自分のちっぽけさに向き合っていることも確かである。

火の粉を振り払い火元へ向かう

2011年02月25日 | 読書
 これは80円でなく、普通の書店で買いました。

 『さらば脳ブーム』(川島隆太 新潮新書)
 http://www.shinchosha.co.jp/book/610396/

 二回お話を聞いたことがある。
 特に初めて講演を聴いたときのことが忘れられない。脳の話をわかりやすく、理路整然と、そして測ったようにぴたりと時間通りに終わったことに舌を巻いた。

 いわゆる脳ブームを作り出した張本人でもあるのだが、ご本人はいたって冷静沈着に仕事をとらえていたような印象がある。

 それがどっこい、この本である。
 様々な批判や中傷に対して真っ向から立ち向かっているのだ。
 いわば「身にかかる火の粉は振りはらう」という構えだろうか。
 そうだ、そうだ頑張れと応援したくなる。
 脳トレの爆発的なブーム、そして企業からの報酬を受け取らないことを、自ら「美談になっている」と称し、本当に正直な心情を吐露しているところなど、ますますファンになるではないか。

 そしてこの川島教授、火の粉を払うだけならいいが、その火元に向かって突き進む勢いを見せている。
 火元の存在も理解していて、そこに向かわなければ解決できないと言わんばかりの進み具合である。

 「脳科学」とつけば何か万能のような響きもあり、すぐに真似したり始めたりする単細胞者にとっては、やはり信頼のおけるその筋の人を見つけることが肝心だろう。
 その意味で、川島教授は今までの理性的なイメージに加え、情熱が強く感じられる本著によって、また信頼度が増したような気がする。

 学者の志とは何かを考えさせてくれる。
 また、企業との接点や大学内部での軋轢、さらに「財務官僚に言われた哀しい一言」など、あまり知り得ない世界がリアルに書かれていて、読み物としても面白かった。

80円のベストセラー読む

2011年02月24日 | 読書
 「105円の本は、本日80円になっております」と連呼されたので、ベストセラー本のコーナーで新書を数冊手にとってみた。

 『しがみつかない生き方』(香山リカ 幻冬舎新書)

 ああ、VS勝間和代として話題になった本だ。
 コメンテイタ―としての香山は時々なるほどと思うことを言うので、嫌いなタイプではない。(しかし好んでお付き合いというほどでもない)。
 かなり以前に「プチナショナリズム」のような本を読んだ記憶がある。

 「しがみつかない」と題しておいて、「すぐに水に流さない」と逆説めいたことを書いているところがミソである。
 私たちは多かれ少なかれ何かにしがみついて生きていると思う。けれど、ぎっちりと堅く掴んでしまって身動きとれない状態は避けなさいヨ、その気になったら隣の木に飛び移るぐらいの浮気心を持ってもいいし、ただし自分の樹木の高さを見きわめなサイ…というところでしょうか。
 

 『人は見た目が9割』(竹内一郎 新潮新書)

 この本も数年前話題になったように思う。一見、ビジュアルにこだわってみようといった啓発本かなと思ったが、実はコミュニケーションが内容だ。
 帯の惹句(帯つきの80円だ)には、日本人のための「非言語コミュニケーション」入門とある。

 なかなか面白い。
 特に「第5話 日本人は無口におしゃべり」「第7話 良い間 悪い間 抜けてる間」は、肯かされた。
 わかりやすい日本文化論になっていると思う。特に、「沈黙」を取り上げたのは秀逸だなあ。
 次の一言は味わい深い。もしこれを解釈し使いこなせることを「見た目」と呼ぶならば、「見た目が9割」を超えてもいいかもしれない。

 何も情報を伝えない、最も効率の悪い方法の中に、実は強い伝達力を持った要素が潜んでいるのだ


 ・・・・・・・・・(沈黙のつもり)・・・・・・・・・・・・80円か。
 

 どうだろう、何か伝わったろうか。

授業を見抜く三つの原則

2011年02月23日 | 読書
 名古屋への行き帰りに読もうと一冊の新書と、まだ手をつけられなかったこの本を持っていった。

 『大西流 授業の見方』(大西貞憲・玉置崇 PLANEXUS)

 ある程度は「授業を見る」ことは出来ると自負していたが、いやいやこの本は読みどころ満載だった。
 「さすがプロ」と感じた箇所がいくつかある。
 
 「指導案へのメモを知りたい」という項目で、示された参観メモは大西氏の思考の一断面が見事に再現されている。これはなかなか一朝一夕にたどり着けないなあと感じてしまった。
 能力の高さも当然なのだろうが、視点を決めて授業を見ることをどの程度続ければ、こんなふうに書けるのだろうかと思ってしまう。

 「授業を見る目を高める ノウハウ25」が副題にある。
 そのノウハウに迫る原則を、私なりに三つに絞り込んでみる。
 
 一つは、根本を見る。
 「指導案の見方」において、「魂を見る」と書かれてあることが象徴的だ。人が書くプランの中に思い、願いを読みとろうとする姿勢がなければ何事も始まらない。
 それは教材を見る場合の分析にも表れてくるだろう。章立ての言葉としては「想い」「幹」であり、「何のために」「何を」にどこまでもこだわれるか、そこがいつだってスタートだと思う。

 次は、子どもの力を信ずる。
 例えば「オープンカンニングの発想」「一人で解くことにこだわりすぎない」といったコラムによく表れている。子どもの可能性を信ずるという言葉が、けしてきれい事でなく、膨大な経験によって実感されているのだと思う。
 そして、それは直接に子どもへ働きかける際の信念にもなっている。
 教師の工夫や親切が、子どもが自分自身で伸びる力を阻害してしまっているという場面も、よくありはしないだろうか。

 だからこそ、三番目の子どもの動きを見るという視点が有効性を持って響く。
 教師の「○○しましょう」という働きかけを、文言のみで検討するのではなく、言葉がけされた子どもの動きを通して分析するという手法。納得できる。
 これは、教師の指導の系統性や日常性、何より力量そのものを丸裸にしてしまう、と言ってもよくないか。

 その昔、「隠れ指示」という言葉が流行った。特に小学校の学級担任は意識するしないにかかわらず、子どもたちにたくさんの隠れ指示をしている。
 その有効性あるいは問題点を、大西氏ならきっと即座に見抜くだろう。

 簡単に事実を見るとはいうが、そこから真実を見抜くためには、意図的に計画的に継続的に場を重ねていかなければならない。この本はそのためのいい教科書になっている。

名古屋で熱を感じて

2011年02月21日 | 雑記帳
 名古屋市で行われた学校広報研究会セミナーと愛される学校づくりフォーラムに参加した。
 
 昨今、政治の世界ではずいぶん熱い地域であるが、教育もまたしかりという印象を持った。
 ただ、その熱の質は沸騰型や狂騒的ではなく、まことに真摯で着実なイメージのするものだったと思う。

 今回様々な話を聞くたびに、真似ができないだろうか、自分だったら何ができるだろうかと、あれこれ思いを巡らした。それは正直久しくなかったことで、それだけ自分のニーズにあっていたのだと思う。
電車での移動も長く少しきつい日程だったが、不思議に疲れは出なかった。

 いくつか印象深いことをメモしておきたい。

 午前の広報研究会セミナーで話された多くのことは、納得できるものだった。
前任校のときから学校ブログを立ち上げ継続しているが、特に昨年i-learn.jpの豊福氏がネット上に書かれた一言を見つけたときは、ぐんと背中を押されたような気持ちになった。

 学校の地味でベタな日常を理解していただく

 そのことを踏まえて、今回改めて考えるのは何を発信するべきかという根本的な問題である。
 「なんでも」が「ベタ」に込められているのだが、学校(教師)として基本的に伝えたい点を自覚することは必要だろう。
 実践発表にあった「子どもの交流したい思い」でもいいし、「汗」でもいいだろう。何か核になるものを持ちたい。そのうえで多面的に情報提供をしていく、それが「○○学校ブログ」という名にふさわしいと納得できた。


 午後からのフォーラム、二つあったパネルディスカッションは登壇者はもちろんコーディネーターのお二方の切れ味がよく、大変楽しいものだった。
 登壇された方々の考えは概ね似かよっているが、わずかな違いや表現として異なることがあり、そこを突っ込まれた。
 大きくまとめたりするのではなく、その差や違いに着目することはいかにも現場重視が貫かれているようで嬉しい。
 迎合的な、一律な物言いを避けることも徹底されていて、刺激的である。
 授業評価に関わる中林校長先生の一言は痛快でもあり、重くもあった。

 (担任の)授業のことは保護者に訊かなくても(自分が)わかっている


 会員の校長先生による実践発表は、三つとも実にコンパクトにまとめられているが、広い背景とリーダーの思いを感じさせてくれた。理念ははっきりあるが、けして理念先行でなく実態を見据えて仕掛けていくという点が共通している。そのための校長としての働きかけはおそらく量的にもかなり多いだろうと予測できる。
 この研究会組織のレベルの高さを見る思いがした。


 さて、今回の総括をしたときに、「システムづくり」は間違いなく一つのキーワードになるだろう。
 担当者が変わっても、管理職がかわっても、運用できる広報活動や実践への取り組み…それを作り上げるのは大きな仕事だ。
 継続的で安定したシステムづくり、このことに何の異論もない。
 しかしそれを推進しようとするとき、留意することがある。
 
 人のエネルギーは簡単にシステムには載らないということだ。
 人を信じないということでないが、私たちが働いている現場でもある特定のシステムの経過をたどってみれば、よく見られることではないだろうか。

 「伝わるのはエネルギー」が最近私のお気に入りの一言である。
 システムを作るのなら同時にエネルギーを伝えなければならない。システムに血が通うために必要であることは言うまでもない。

 もっと言えば、システム自体が運用者のエネルギーを引き出す要素を備えているのが理想だ。そのためにはきっと社会学や心理学的なアプローチをしてみることも考えねばないだろう。
 いくつか提案されているシステムの中にそういう要素を持つものはないのか…などと、いろいろに膨らんでしまう感想を持った。


 番外だが、副島元教育長さんが、こんなことを言って笑いを誘った。

 落合監督の中日ドラゴンズは(強いが)、愛されているか

 本県出身の監督はやはり、名古屋人、愛知人、東海人には愛されていないのだろうか。
なんとなくわかる気がする。
 きっとシステムはうまく作っているのだろうが、内部では頑張りが認められているのだろうが、エネルギーの出し方に問題あり…。

 なかなか象徴的な結論となった。

「学び合う学び」私的解題

2011年02月18日 | 読書
 『「学び合う学び」と学校づくり』(副島孝 PLANEXUS)

 愛知県小牧市の副島前教育長がネットで公開した「教育委員だより」が玉置氏の手によって編集されたものである。

 何度かサイトを訪問したことがあり、時間があるときなどは読みふけったこともある。その度に、教育者として明確に理念を持つ骨太なリーダー像が浮かび上がってきた。

 書籍としてまとめられた形は確かに読みやすくなったように感じたが、微妙に字面が流れる気がして、縦書きだったらよかったのではという思いも浮かんだ。

 さて、読み始めてから題名のことが気になり始めた。

 「学び合う学び」…よく考えると、かなり特殊な言葉遣いである。
 「○○合う○○」という使い方が他にも考えられるだろうか。難しくはないか。「学ぶ」「学び」だからこそ成り立つとも言える。
 学びほど多様な姿を包括する総合的な言葉はあまりないのかもしれない。
 だから、これは例えば「『学び合い』という技法」とイコールにはならないことも示している。

 「学び合い」を求めた著者の立場からの発信ではあるが、最終的に著者が目指すのは、次のことばで表されている。

 型を突き抜けたレベルの授業

 「技法」を突き抜けたレベルの授業


 小牧市ではそれらが「出現」し「時折見られるようになった」とある。著者が仲間とともに展開してきたことの成果の実感であり、羨ましい限りである。

 不勉強にして、いくつかある「学び合い」の型や技法について多くを知らない。しかし、どんな教育思想をもった型や技法であろうと上記のようなレベルに達するには、突き詰めていくことなしには実現しない。
 「突き抜ける」とは私に言わせれば、型や技法の応用・発展であり、深化・芯化であるように思う。

 ここまで書いてきて「学び合う学び」の、前者の「学び」は活動を表し、後者は能力・態度を表すときわめて単純に考えてはどうかと思いついた。
 もちろんそこに独自の教育観はあるだろうが、いくつかの言い替えによって成立させられる世界がある。
 そして肝心なのは「合う」ことであり、そこに場と機が必要になってくる。その持ち方が型とか技法ではないのか。

 極私的な解釈になってしまった。

 さて本にもどって、読書記録を中心とした第三章を読むと、それこそレベルが違うなと思い知らされる。
 自分も読んだ本の感想もどきを記してきたが、著者のように位置づけを明確にできない。
 大局観を持つということなのかもしれない。

顔は広がり、貌は絞られ

2011年02月17日 | 読書
 読むことは知っていたが、自分で書いた記憶がない文字にまた出合う。

 

 熊谷達也のエッセイ『勘違いのサル』(PHP文芸文庫)には、次のような副題がある。

 日本人の貌、作家の貌

 辞典で調べる前に自分なりの予想をたてると、「顔」が一般的な言葉で、「貌」は特徴や表情が強調されているものではないだろうか。

 「漢和大辞典」(学研)によると以下の通り。

 【顔】❶ひたい ❷かお、かおのようす ❸いろどり
 【貌】❶かたち 顔のかたちや姿 ❷かたどる ❸みたまや


 広辞苑、他の国語辞典では、二つの別はないが、ただ「顔」の意味は大きく拡がっている。例えば「面目」「態度」「知名度」…などのように。

 こう考えると、顔の方がより総合的に使われるということかもしれない。いわば人格、内面を兼ね備えた頭部前面とでも言ったらいいだろうか。
 それに比べて貌は、形、様子という表面性、限定性を持つようだ。「容貌」「美貌」といった熟語にもつながる。

 そうすると、熊谷氏が(いや編集者か)「貌」を遣った意味が想像できよう。章立てされている見出しを見てみよう。

 蝦夷と大和、ふたつの貌
 個人的なふたつの貌
 北海道の貌
 北の貌と南の貌
 作家の貌を暴く本


…まだいくつかある。こう並べると表面性、限定性とは言えなくなるような気がしてくる。
 つまり、表面的な様子に加え、行動や性質、出自などが要素として外見に滲み出ている様子とでもいえばいいか。「相貌」や「風貌」にはそのニュアンスが含まれる。「変貌」などもそういう意味づけが強い。
 ただ「顔」ほどの拡張性?がなく逆に絞り込まれている印象となる。

 ちょっと気どった遣い方のような気がする「貌」。
 しかしそう書くと、どこか思考的な印象を受けるのは私だけだろうか。

 そんなことを止めどなく想い、夜更けにディスプレーに向かう自分は、今どんな貌をしているのだろう。

 (初めて書いてみた。あまり必然性がないか)

ぶれのない活用術の本

2011年02月16日 | 読書
 週末に参加する研究会に関わりが深いプラネクサスという会社がある。そこから出版されている三冊の書籍を先月にまとめて買った。
 感想をメモしながら自分の意欲を少しずつ高めて、会に臨みたい。

 『玉置流・学校が元気になるICT活用術』(玉置崇)
 
 本校のIT環境ではすぐに取り込めることは限られると感じたが、本当に刺激的な内容だった。
 何より「学校を元気にしたい」という著者の思いがひしひしと伝わってくるし、その一点に対してぶれが感じられない。
 特に次の三つが大変よく納得できる。

 生まれた時間をどう使うかが大切!

 機器の利用、活用によって効率化され、時間的な余裕が生まれた。それをどう使うのか。学校を元気にするという目的に照らし合わせて、様々な内容が考えられるが、「メリットを価値づけ」し、「生かし方について話し合」い、「価値の共有化を図る」というステップを踏まえていることに恐れ入った。
 ともすれば、拙速にあれこれアイデアを出してしまう自分を見つめ直さなければと思う。


 もうあきらめます、みんなの掲示版

 この生徒用掲示版機能活用の「失敗例」は貴重だ。
 十分に心して運用を始め、生徒への運用委任といった工夫もしながら展開していくが、結局トラブルはなくならなかった。
 失敗を通して学ぶ…言うはたやすいが、十分な準備と生徒への働きかけを伴った失敗こそがきっと職員にも生徒にも価値のある教訓として位置づけられるだろう。
 そこからまた別展開が拡がっていることも、ねらいがぶれていないからだと思う。


 学校ホームページでのマイナス情報は信頼度をアップする

 厳しい提言である。今の自分の問題意識とも重なっている。
 事件や事故を「記事」としてアップしていくことは、それが教育上有益となるという確信を持ち、なおかつ責任を背負うという覚悟のもとに行われる。どんなに些細なことでも膨れ上がる可能性が大きいのがマイナス情報であり、詮索されて振り回されることも多い。
 だからやらない、ということは簡単だ。
 しかしそこに「気概」があるかと問われた時、この仕事の持つ魅力も半減ではないか、という正直な気持ちもある。
 あっけらかんと大らかに踏み切れる度量がないのだから、後は適切な状況判断のもとに、戦略的な動きということになるのだろうか。
 そのための絶対的条件が、継続であることは言うまでもない。

 研究会参加で学びを深め、IT環境整備、職員への働きかけを続けていきたい。

「愉しむ」は生活を幸せにするか

2011年02月15日 | 雑記帳
 著名な付属小学校の国語科の研究テーマが気になった。。

 言葉と向き合い、愉しむ子の育成

 「愉しむ」におやっと思う。当然意図があるのだろう。

 「たのしむ」と読むことは知っていたが、自分で書いた記憶がない文字である。「愉快」「愉悦」程度の熟語なら知っている。が、そんなに違いがあるのだろうか。
 冊子は下部にこう記している。

 「たのしむ」を「楽しむ」と書くのが一般的であるが、あえて「生活を幸せにする」という意味を含む「愉しむ」という漢字にしたのには、次のような意図がある。

 ここから先に進む問題ではなく、「愉しむ」に「生活を幸せにする」という意味が含まれるかどうか、その検討が大切だ。
 電子辞書に入っている二種類の国語辞典、類語辞典、漢和辞典などをあたってみるが、どうもしっくりこない。
 ネット上にも「楽しむと愉しむの違い」について何度か問題になっているようだ。
 一番最近のものにはこんな内容になっている。
 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6310708.html

 結局、厳密な違いは認められないと言っていいだろう。
 だとすれば、この言葉の遣い手がどのような意図を持って、「愉」の意味に接するかということなのだと思う。

 字源的にたどると二つの説がある。
 「忄(こころ)」はそのままだが、「兪(旧字体)」は「刃物でくりぬいて丸木舟をつくること」と「手術刀で患部の膿血をとること」という説に分かれている。
 結果その意味としては「わだかまりがとれて、たのしい」「病気、傷が治って心安らぐ」ということにつながるらしい。

 結びつければ「生活を幸せにする」と言えなくもない。つまりは「克服系」と呼んでもいいだろうか。
 その意味ではじっくり取り組む姿なので、一般的な「楽」の使われ方の代表とも言える「楽(ラク)」と対比させれば、一層強調されることになる。
 そうすればテーマとして掲げた意図は明確だ。

 イメージを対比させれば、地味と派手、静的と動的、内面と外面、絵画的と音楽的…などということもできるか。
 そのあたりで遣い方が決まってくる。

 こんなふうに言葉とじゃれあってみることも、私の密かな愉しみである…ああ、初めての使用感である。

 0.5ミリほどは幸せになったか。