すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

あの大樹と話した記憶

2015年02月28日 | 読書
 【2015読了】25冊目 ★★
 『千年樹』(荻原 浩 集英社文庫)

 映画で見た『明日の記憶』の原作本の作者であることは知っていた。文庫コーナーに何冊も並んでいる作家ではあるが、今まで読む機会がなかった。PR誌で興味深いことを書いていたので購読してみた。連作短編集という形、しかも一つ一つの作品に二つの時代のことが描かれるパターンは初めてのような気がする。言葉の密度が高そうな作家だと思った。


 登場するクスノキは、私の住む東北地方にはないものだ。九州に旅行したときだったろうか、その奇妙な木肌や枝ぶりにああ南だなあと感じたことを覚えている。自分にとって印象深い大樹は「大杉」である。卒業後にすぐ臨時講師として半年務めた学校の近くにあった。12人の2年生と一緒に手をつないで、その周りを測ったこともある。ああ、いい時代。


 あの子たちは大杉を覚えているかなあ。きっとあそこにも何かしらの言い伝えがあり、個々の物語があったろう。この小説は一面で読者のもつそうした背景、つまり自然物との対話経験に働きかけるのではないか。第一話で描かれる平安の時代の悲劇が、樹木の命を宿し、時代時代の人間の運命に寄り添ってきたストーリー。想像を拡げれば、自分の近くにもある。


 印象的なシーンはいくつかあったが、記憶に残るのは妙に生物学的な話だ。樹木は自分の身を守るために葉を落とすだの、くすの木はアレロパシーという化学物質を強く放ち、テリトリーを守っているとか…。人間社会の事象と対比しているのか。結局「千年樹」は人間の勝手な都合で倒されるが、その結末はつまるところ、人間の卑小さの象徴となっている。

会議の一言、頭に浮かんで

2015年02月27日 | 雑記帳
 ある会議で挨拶に立たれた方が、「校長は山の十合目にいる」とおっしゃった。この喩えはつまり頂上までの道のりを踏破し、全体を見渡せる位置にいるのだと言いたいのだろう。シンプルにそう捉えればいいものを、へそ曲がりはこう考える。「山も様々」「高い峰を目指して飛ぶ人がいる」「雲海で下が見えない状況だ」


 某会議で今春退職なさる方が挨拶された。「国語教育についてもっと語り合いたかったが…」。その情熱や方向には感心するが、「挨拶」という言語活動の目的や場や対象を考えた時、語られた内容や設定が的確だとは思われなかった。自分もそういう愚を重ねていないか。何を学んできたか。学ばせようとしているのか。


 「いくら話し合っても平行線。決をとった方がいい」…ある会合で、委員の一人が口を開いた。多くの頷きも見られた。そういうことはある。議論を尽くしても解決できないこと、感情的なこと、どうしても譲れない事情…抱えていることを存分に出し合えばいい。複数回の会を経てこそ、この言葉は的確に響く。


 披露された一つのエピソード…「目の前まで顔が迫ってきたので、断れませんでした」。あることを依頼する人が、迫力をもってせまってきたのでつい…と参加者の笑いを誘った。性格がどうかという前に、検討内容が何かという前に、伝わるのはエネルギーという我が信条の一つに合致する例。身体を使う好例である。

役立たないが貴重な学び

2015年02月26日 | 雑記帳
 立ち寄った書店で、よく購読する雑誌の最新号表紙を見て、「あっ、前の号、まだ読んでいなかった」ということに気づいた。ビジネス系雑誌にしては珍しく艶っぽい?特集名だった。曰く「女の口紅はなぜ。赤いのか?」…想像がつくようで、実は意外な事実や考証もありそうで。刺激的なタイトルであるのは確かだ。


 帰宅し、件の雑誌を開くと、これがかなり面白い。巻頭対談は京都大学総長の山極寿一氏とかの茂木健一郎氏である。ここでの結論を職場で口にすれば、セクハラと言われかねないが、ひどく興味深い。私が言っているわけではないからと予防線を張りながら引用する。「ゴリラのメスを見れば、女性の本質がわかる」


 霊長類学者が述べることにはいちいち納得させられた。その筋は省略するが、対談の最後に山極氏が動物の生態から結論付けた次のことは、耳を傾けたい。提言の重みを私達も自覚すべきだ。「少子化問題は単体の母子にお金をかけるのではなくて、地域で子どもを育てる仕組みをつくらないと解決しないでしょうね」


 「女ゴコロの科学入門」も蘊蓄が深い。「『美人は性格が悪い』という話は本当か」というテーマは、動物行動学の竹内久美子氏が書いている。その答えは×のようだ。直接的な研究はないが、美人は「チヤホヤされて」「素直な性格」となり「長生き」するという。ブスは同じことをしても感謝されず、その結果…ああ。


 肝心の特集テーマへの結論も竹内氏が書いている。これはチンパンジーの発情期との関連が特定されている。つまりは性的な興奮の信号としての「赤」。当然色彩心理学との関連もあるだろう。予想されたことだ。いずれこんな知識を披露しても、人間社会の不平等の解決に役立たない気がする。それも貴重な学びだ。

インタビューは相互に見ること

2015年02月25日 | 雑記帳
 今の時期、多くの学校で行われているだろう「卒業インタビュー」。本校でも昼の放送を利用して、委員会活動として実施している。「一番の思い出は何ですか?」「中学校に行ってがんばりたいことは?」といった質問にそれなりの答え方はできているが、どうにも物足りなさを感じる。長年進歩していない点でもある。


 学担時代の最後に音声言語指導に力を入れた経緯もあり、その面の関心は少し残っている。特に「質問力」や「対話」的な事柄についてアンテナを張っているつもりだ。小学生のインタビューとは紙に書いた文章を読む方がまだましで、準備なしでは、ひどく紋切り型になるのは目に見えている。細かな指導が必要だ。


 そもそもインタビューとは何か。interviewであり、原義は「inter(相互に)」「view(見る)」である。それを相手の顔をしっかり見ないで、つまり緊張感をもって相手の答えを待つことが出来ないのでは、インタビューとは言えない。言ってみれば「質問ごっこ」である。ごっこ遊びは、低学年あたりで卒業させたい。


 では、どんな手があるのか。一つには形式的な指導である。主として質問する側の言葉を1.5倍とすることが大事だ。つまり答えに対する感想、評価を入れ込んだ形で応答を終わる。これが出来るには練習が必要だ。シナリオを作って具体的に例を示し、演劇的に何度か繰り返す。次に空白を入れたシナリオで行う。


 いくつかのパターンを教えておくことも有効だ。「へえ、そうなんですね」といった相槌タイプ。「なるほど、さすが」という納得、賞賛タイプなど。そこから「では、○○はどうでしょう」とつなげる問いを出せるようにする。事前にある程度調べた後に、それを確かめる形でインタビューを行う活動は効果を発揮する。

詠んでも呑んでも山頭火

2015年02月24日 | 雑記帳
 サラリーマン川柳が発表され、思い出したことがあった。

 昨年、秋田県で行われた国民文化祭で、大潟村が「川柳の祭典」を催し、全国から作品を公募した。
 その入選作品集が先月学校へ送られてきたので、ちょっと借りて読んでみたことがあった。

 俳句や短歌に比べて気安く読めるし、小中生の出品にも興味があった。

 気分転換用に読み出したのは、友人たちと小宴を開いた次の日。
 少し二日酔気味だったので、題が「酒」のところに自ずと目がいった。

 特選になっている二つの作品は、あまり好みではないな。
 準特選が7句あり、この中で特にいいと思うものがあった。

 満月や貧しい鬼と酌み交す(山本毅)

 一人酒に相違ない。少し作り過ぎの印象もあるが、なんといっても「貧しい鬼」という表現がぴったりとはまる。

 佳作のなかにも好きだなと思う数首があった。

 酌む程に世界だんだん小さくなり(鈴木田鶴子)

 酒ビンが転がる今日が捨ててある(四分一周平)

 酒の方がどうも私を好きらしい(真島美智子)


 なんだか、山頭火や放哉の句のように思えてくる。
 みていくと、「ずばり」?というものもあった。

 酒呑んでちょっと近づく山頭火(堀 正和)

 これは素直すぎて面白みが今一つの気もする。


 では、どんなふうに変えるか、と勝手に遊んでみる


 酒呑んで山頭火にちょっと近づく

 なかなかではないか。でも、平凡だ。


 山頭火に近づくために酒を呑む

 こんな決意をする人がいるわけがない。


 連想から妄想を働かせてみる。

 酒呑めば近づいてくる山頭火

 呑んでも呑んでも白いまま

 呑んでる姿のよろけていくか



 と、結局パロディか。

 キーボードを打っていると、呑みたくなってきた。

自ら助くる者の行方

2015年02月23日 | 読書
 【2015読了】24冊目 ★★★
 『「自己啓発病」社会』(宮崎 学  祥伝社新書)


 「天は自ら助くる者を助く」という言葉を知ったのはいつ頃だったろうか。
 誰の言葉か、という意識はあまりなかった。
 この新書のなかで多く割いて書かれてある次の著書が出典であることを知った。

 『self-help(自助論)』(サミュエル・スマイルズ  中村正直訳~『西国立志編』より~)

 今多く読まれている『自助論』は抄訳であり、全訳である『西国立志編』の中の
言葉であるそうだ。
 そして現在の日本では、抄訳『自助論』の普及によって「ゆがめられた自助論讃美」となっているという指摘は、この新書で著者が訴えたいことの骨格をなしている。


 自分自身も自己開発、自己啓発には興味があったし、ビジネスマンほどではないが、その手の書籍も読んでいる。
 その興味はもちろん自分の意志であったが、そこへ誘導した社会環境、政治等の影響を見過ごすことはできない。
 その意味で、今世紀初めの小泉政権誕生を一つのピークとして、この国が変節していく様子を詳らかにしてくれる一冊という見方もできる。

 
 「自己啓発病」とはよく名づけたものだ。
 「何のための自己啓発か」という問いに対して応答しようとすれば、必ず利己かどうかの見極めを要することになる。そしてその発想はどこにつながっていくか。
 これから私達の社会、世の中はどんなふうになるのだろう…といった予測なしには語られないことだし、それが真に望むことなのか、という深い問いが姿を表す。

 第三章の「自助と互助と共助」は歴史的な解釈も入れながら、真の「自助」とは何かを考えさせられる。
 自助や互助は、民主主義と切り離して考えられないが、「自己統治」という観点でこの国を考えてみると、かなりお粗末なことは自分でもわかる。
 次の文章は端的にこの国の「民主主義」をとらえているはずだ。

 国民は「国はなんとかしてほしい」とお願いするだけの「要望主義」になってしまっているのであり、これに対して政府は「なんとかするから、全部俺たちにまかせるといってくれ」という「請負主義」になってしまっているのが実情なのだ。

 この発想がいたる段階、場所で交わされている傾向を否定できない。

 第4章「『勤勉』と『成功』の終わり」にも、歴史的経緯があり、実に興味深かった。
 もはや勤勉が成功に結びつかないことを多くの人が知ってしまったし、その事実の地平に私たちはどう立っているのだろうか。

睡魔のせいでスイマせん

2015年02月22日 | 雑記帳
 えっ、と思った。
 朝起きて、一応ブログチェックをするのだが、アクセス数がふだんの半分だった。
 いつもの更新より遅れた時間帯だったので、あり得るだろうとは思いつつ、編集画面を開けてみると…

 えっ、原稿に題名がつけられず、書いた文面は自動保護になっている。
 投稿は21日21:49であったが、結局ネット上に反映できなかったということらしい。
 連続更新は500日をとうに超えていたのに、ちょっと残念。しかしまあ記録は残っていることで勘弁してもらおう。

 そうかあ、歯ブラシを咥えたまま、寝ぼけまなこで操作していたんじゃ、こうなってしまうのか。
 眠くてということもあったが、そのあたりの記憶がないことに唖然である。


 そういえば、昨日は結構タイトな一日だった。
 夜中に目覚めるのは齢だから仕方ないにしろ、そのまま寝付けない日が時々ある。
 昨日がまさにその日であり、うつらうつらとした時間を含めても4時間ぐらいしか眠っていないだろう。

 朝8時過ぎに会議があったので秋田市へ。お昼に終了したので、家族が入院している病院へ行った。その後ラーメン店で遅い昼食をとり帰ることにしたが、運転していると睡魔が襲ってくる。
 途中休憩をしても、再開すると少し暗い箇所だとまた寄せてくるような感じで、ずいぶんと辛かった。

 帰宅し少しゴロンとしたら、途端に眠くなったが、5時からは予定があった。
 某スポ少の年間納めの会である。挨拶やら表彰やら懇談やら…それなりに楽しく過ごし、次の予定の場所へ…。


 で、結局、上のような顛末だった。
 読書記録は思いついたときに少しずつ書いているので、見直しながらブログアップするのだが、昨夜は役に立たなかった。

 眠けりゃ眠ればいいだけの話。しかし眠りたいときに眠れないということは、身体コントロールの問題だろう。

 脳が肉体を管理できるかと言えば、それは全く限定的なことで、つくづく脳は肉体には勝てない、それが自然というものだなと、高僧のようなことを考える。
 そんなふうに思いつくと、また眠れない夜が続いたりして、どこが高僧か、お前の場合は「鴻爪」(こうそう…あとに形が残らない意)だろうと自嘲する。

今さらながら、断捨離

2015年02月21日 | 読書
 【2015読了】23冊目 ★★
 『新・片づけ術 断捨離』(やましたひでこ マガジンハウス)

 ブームになったときはさほどの関心はなかったが、インパクトの強い言葉だなと感じていた。
 そもそもは何かと調べてみる。

 ヨーガの行法、「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方を応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え方、生き方、処世術である。

 とある。そして、三つのことを次のように位置づける。

 断=入ってくる要らない物を断つ
 捨=家にずっとある要らない物を捨てる
 離=物への執着から離れる


 古本屋で108円だったこの本は、いわば「捨」によって自分のところに巡ってきたが、それは本当に必要だったかどうなのか、結局「断」ができなかっただけか…などと「離」の境地からはほど遠いことが笑える。

 とはいえ、こうした類いにありがちな、ミニ知識が得られて結構おいしい?本だった。

 この名言は知らなかった。
 かのゲーテはこういう言葉を残している。

 「人間の最大の罪は、不機嫌である」

 「罪」として想像できる残虐な行為も、不機嫌から発することが圧倒的に多いことを考えれば、納得の至言である。


 コラムの一つに「ナイチンゲールが説く住環境と健康」という文章があり、ナイチンゲールの文章を紹介している。
 「空気を不潔にする」ような住環境を戒め、日頃からの清掃、陽光、換気の重要性を説いている。
 
 溢れている、はみ出している、散らかっているモノたちから発する「気」に鈍感になってはいけないということだろう。


 さて、著者によるこの本の一つの総括は、これらの文章によく表れている。

 所有とは結局、思い込みです。

 あらゆるモノが地球からの借り物なんだと考えていけたら…自ずと感謝や畏敬の念が湧いてきます。


 そうかあ、しばらく前にこれからの一つのモットーとしたいと思った言葉が、また降りてきたようだ。

 すべてはフローという覚悟。

 「断捨離」とは、フローを生きる原則なのだと思う。

身を委ねられる対応

2015年02月20日 | 雑記帳
 3年ぶりに歯医者通いが始まった。行きつけは、もう10年以上前に炎症が酷かった頃から不定期に通い続けた医院である。歯を診てもらうことは、つくづく無防備だなと常に感じている。専用のシートに寝かされて、口を大きく開ける。そこに治療用具とはいえ金属片が入れられるわけだから、まさに「身を委ねる」とき。


 そういう状況のなかで一定期間通院できたのは、医者やスタッフを信用できたからだと思う。地元にも通院したところはあっても、少し距離のあるここを選んだのは、また「仕方ない」「面倒くさい」という発想が出てこなかったのは、ありきたりだが、信頼・信用なのだ。それが、ここに来て少し崩れ始めている。


 一時休院したことがあり、スタッフの入替があった。治療時の感覚がどうも今までとは違う。はっきり言って雑、乱暴、親身さに欠ける…以前からの方もいて、問診や最初の処理等してくれるから余計に差を感じてしまう。こうします、痛みがあるかもしれないという予告、表情に対する気遣いの言葉…その大きさを知る。


 確かに同じ言葉を言うには言っているようだが、言われている感じが非常に薄いのは、気持ちが入っているかという本質論もあるが、「言い方」によるだろう。そこには高低、調子や速度といった要素がある。そんなに砕かなくとも「優しそうに」と括ればいいだろう。そういう言い方に満たされていた治療室が変化した。


 と、クレーマーのような独白。この後続けるかどうかは次回次第だろうな。ところで先週身内が入院し、ある大病院で説明を受けたが、同意を求められる事項があまりに多く、やや閉口してしまった。イマドキの病院事情か。ただスタッフは良好らしく安心している。身を委ねられる対応とは、はっきりしているものだ。

しがらみを、まず解きほぐす

2015年02月19日 | 読書
 【2015読了】22冊目 ★
 『しがらみを捨てると楽になる』(保坂 隆   朝日新書)

 著者は聖路加国際病院の精神科医。「50代」という言葉が頻繁に出てくるように、その世代を読者層として想定している。近づく定年を前にした者へ「しがらみから自由になる」ようにアドバイスする内容である。そう言われてもなあ、と正直に思う。表題の意味はよくわかるし同感しつつも、そうできなかった今までの長い時間を簡単に修正できるものなのか。


 そもそも「しがらみ」ってなんだ?と、語意モードに入るいつもの私。電子辞書(明鏡)によると、次の二つの意味がある。「①水流をせきとめるために、川の中に打ち並べたくいの横に竹や木の枝を結びつけたもの ②ひきとめるもの。まつわりついて離れないもの」つまり「設備」としての本来の意味と、転じて社会における人間関係等も表わすようになった。


 英訳した語は端的で面白い。「障害」「束縛」である。ついでにシ―ソラスはどうか。「関係ある」「絡む」「余儀なく」「情け詰め」「義理のしがらみ」「囚われる」「絆される」「ダム」など。漢字で書くと「柵」…「さく」であるのはもともとの意味に沿っているのだが、人間関係においても暗示的である。柵をつくっているのは誰なのか、外に出るためにどうするか。


 自分がつくっている、周囲がつくる…どちらかと決めつけられないだろう。では、柵を障害としてみれば、その対し方としてどんな方法があるのか。自ら行動できるのは「壊す」「移す」「跳び越える」「潜り抜ける」(笑)というところか。定年とは仕事という柵を成立させる太いくいは除かれるが、その場に漂う竹や木の枝はずいぶんとやっかいのような気がする。


 上手に切り抜ける教えがいくつかある。「モノを少なくすると、頭がやわらかくなる」…なかなか実行できないなあ。便利なモノ、コトが開発されるとそれに頼ってしまう。あっ、過日読んだ「便奴」そのものだ。続けて「便利グッズが発想力を萎ませる、頭を固くしてしまう」…この流れからの支配をどう破るかだ。…数年前流行った「断捨離」と通ずるなあ。