すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

五月小満の頃日記

2024年05月28日 | 雑記帳
5月19日(日)
 県内で警官がクマに襲われたことが大きく報道されている。これも象徴的な事件?事故?の一つと言えるだろう。晴天が続き、以前から取りかかろうとしていたデッキのペンキ塗りを行う。20年も雨風に耐えながらよくもったものだ。昼は、ワラビたたきを蕎麦に乗せて食する。なかなかローカルな味がしていい。


5月20日(月)
 父の命日。実家に寄ってから、西馬音内小へ行き3年生読み聞かせ。順調にギャングエイジになっていた。それでも「星に伝えて」はしっとり静かに聴き入り、雰囲気が良かった。初任者である担任は、三輪小勤務当時に在籍していた子。明朗快活さを見せて頑張ってと一声かけた。その後、来週土曜の研修会について打ち合わせ。


5月21日(火)
 読み聞かせボランティアの通信原稿を、当番なので書き始める。題は「のどあめ・めぐすり・リンドバーグ」としりしり風に決めていたが、ちょうど今日が「リンドバーグ翼の日」である。齢を重ねての衰えをどうカバーするか、心掛けを時々思い出さねばならない。大相撲夏場所は相変わらずの混戦、先が読めない。


5月22日(水)
 何度見直しても必ず引っかかりを覚えてしまい、なかなか終了しない作業がある。「見切り発車」は、かの酒井臣吾先生が強調していた原則の一つだ。それに倣おう。折しも宗教家の『一日一生』も読んでいるし…少し達観しなければ。大相撲、結びの一番で大関が実力を見せた。面白くなったがレベルはどうなのか。





5月23日(木)
 妻と娘と一緒に隣市に出来たカフェレストランへ。11時半頃に入ったのだが、ずいぶんと人の入りがいい。友人夫婦が働いていてびっくり。話し込む余裕もないほどの繁盛ぶりだ。1時間ほど待って定食にありつける。味はなかなかのものだが、この混雑ぶりと周囲音量(中心はおば様方)にちょっと辟易してしまう。


5月24日(金)
 4月以来取りかかっていた私事に一つのメドがつく。その連絡をしてから、田代こども園へ。年中児も一緒になって聞いてくれたが、怖い(笑)場面で目を覆う子がいて、あまりに可愛い。帰り道、山菜ポイントが気になって入り10分でタケノコ最終収穫。帰りが昼過ぎになり、家人に叱られる。心配されるお年頃だ。


5月25日(土)
 読み聞かせグループの通信を印刷し、朝一番で図書館にある連絡箱へ届ける。その後、リビングの床塗装が剥げた場所を少しだけ補修する。ふだん孫たちに痛めつけられているし労わってやりたい(笑)。5月も残り一週。来週も半分は何か予定がある。始めたいと構想していたアーカイブ的な事に、手をつけられない

一点集中しない生き方

2024年05月27日 | 読書
 今さらどうしてこんな本を注文するのと思いつつ、クリックして注文した一冊。Re41『音読・朗読入門 日本語をもっと味わうための基礎知識』(杉藤美代子・森山卓郎 岩波書店)。今月から毎週必ず学校や園で読む機会があるので、「初心」にかえり…と殊勝な気持ちを抱いたか。案の定読み始めたら、大概知っていた。


 ところが100%でないからこの本の価値はある。例えば無意識にしている語のアクセント、電話番号を言うときの数字の並びなど…発見だ。それよりも喜んだのは、一つのネタが非常に興味深く教室で試したいという気になったこと。宇野重吉の語りの文章で紹介されていた。あの味のある名優に一歩でも近づくか(笑)。





 何度目かのマイブームでRe42『流星シネマ』(吉田篤弘 角川春樹事務所)が風呂場読書の中心になった。読み終わりが残念なほどの素敵な世界だ。『ソラシド』と同じように、ここでも音楽が大きな背景をつくる。現代の私たちが縛られている効率とか常識とか世間体とかから、少し離れて「物語」に遊ぶに最適な一冊だ。


 たまにはこうした有難い人の文章に触れるのもいい。Re43『一日一生』(酒井雄さい 朝日新聞出版)。この方の偉大さは修行における一種の人間離れしたところにあるはずだが、記す内容は意外と人間臭い。ある大泥棒のエピソードから「千日回峰行」で長く歩き続けるコツを、老師から授けられた記述が説得力がある。


 曰く「歩きながら休む方法」。題して「足が疲れたら、肩で歩けばいい」。これはいわば精神の拡散について語っている。人生を歩くことにもそのまま原理を応用すればいいという。つらいことの一点に意識を集中させるから「苦労」に思える。しんどいことに向き合うという正論はあるにしても、大事に届くためには…。

坂道とまずいコーヒーと

2024年05月16日 | 読書
 Re39『坂道~LesPentes~』(ドリアン助川 ポニーキャニオン)。一人の画家の人生を、年齢順に見開きページで短い文章と坂道・階段等の写真で構成する。「0歳、気付けば僕は生まれていた」から始まり75歳までの「夕暮れ」までが描かれる。付属のCDもあり、著者の朗読も聴けた。思えば、初めて声に触れた。


 いい声だ。一定の修練があってこその「響き」を感じる。別の作品も聴いてみたい気にさせられた。淡々とした読み方は、この本にふさわしい。一番ぐっときたのは「64歳、持っている絵の具をすべて並べてみる。色の可能性を本当に私は試したのだろうか。」次ページに読点を打つように見開き写真が使われている。




 今風に言ってみると、カッケー小説だ。Re40『ソラシド』(吉田篤弘 中公文庫)。冒頭の一文からまずそう感じた。「まずいコーヒーの話でよければ、いくらでも話していられる。」…これだけで、どんな生き方を送ってきたか。毎日との向き合い方のいくつかが想像され、「世界」がぐっと寄ってくるような気がした。


 「あとがき」を見たら、実は同様の一行を配した小説が三つあると明かされ、もともとの出典までが記されていた。実に興味深い。「まずいコーヒー」の持つイメージは、風景につながりやすいのは明らかだし、もっと言えば、時代の文化が背景にあるのだろう。それはきっと80年代から始まり、現在もどこかに残る。


 「『あとがき』ばかり読んでいた」には参った。「本編」は「あとがきほどには面白くないと知っていた」という考えは、様々な要素が絡むが一面では真実とも言える気がする。つまり、書き終えてあるいは編み終えて、作品から離れた目で感じた思いや考えが水面に浮かんでくるような…掬い取れるエッセンスがある。

令和の「芸能」最前線に

2024年05月14日 | 雑記帳
 手持ちの講談絵本は8冊で、うち神田伯山(松之丞)監修が7冊ある。読み聞かせた経験があるのは4冊。ミルハスで開かれた独演会で、前座?として三番弟子が語ったのはその一つ「宮本武蔵~山田真龍軒」だ。こいつはラッキー、プロの噺が聴けるなんて…と耳を傾け、不遜な心持ちで「勝ったな」(笑)と思ってしまった。


 それはともかく、その後泊山が登場し高座に上がる。計4席、正味2時間ほど堪能した。TV等では見ているが、その語り口の鮮やかな様は「今、一番チケットが取りにくい演者」と言われる評価を裏切らない。滑舌のよさ、声調の豊富さ、強弱・緩急の巧みさ…初生講談が多いと思われる800の観客を魅了したように感じた。




 最初は、絵本にもある「荒大名の茶の湯」。これは滑稽な内容であり、学校寄席ではウケると説明していた。絵本を読んだ限りではちょっと難しいと思って取り上げたことはないが、どうなのだろう。いつか試せるか。二つ目は「出世浄瑠璃」。これは登場人物が語る劇中の講釈が見事で、聞かせどころのある演目だった。


 三つ目はあの四谷怪談のエピソードZEROと称する「お岩誕生」だった。照明を落としての語りは、落語の怪談噺より迫力がある。最後は、落語のネタとして有名な「名工浜野矩随」。これは泊山が18歳の時に観客として聴いたエピソードが前置きだった。表情豊かな語り口はお見事、現役落語家を茶化した?締めも笑えた。


 Youtubeを探したら、先代泊山の録音が残されていた。聴いてみるとやはり特徴は違うものだと興味深い。演者の個性をひとまず置いたとしても、テンポの違い、聴き手を意識した滑稽的な要素や現代風なキャラを挿入することなど、やはり令和の芸能と呼ぶにふさわしい。その最前線に触れたひと時、反芻してみた。

予想しないかできないか

2024年05月13日 | 雑記帳
5月7日(火)
 おはなし会2回目は、もとにしこども園。教室にはわずか4名。それも男児ばかり。2名欠席だというが、それにしてもこれは…。先週実施のプログラム通りに進めたが今後の課題としよう。連休が過ぎて様々なことの動きだしが活発になるだろう。個人的なプロジェクト(笑)も進展がありメールでやりとりが始まる。



5月8日(水)
 水曜なので一年生の孫がいつもより早い帰宅。遊びたい盛りなので、ドミノやトランプ、四目並べなどをして付き合う。宿題も…と誘うと「これは先生がお家の人と、と言ってたからママと…」と拒否される。「先生」の教育力の強さを実感する。ニラの美味しい季節で、この頃レバニラやニラ鍋などが続いている。


5月9日(木)
 午前、ある業者の訪問あり。深夜電力を利用した蓄電池設置のセールスで今後のコストを色々考えるが、手が出せる金額ではない。午後から身内の地鎮祭に参加し、久しぶりにビデオを回してみた。順調にいってほしい。物価高騰の中でなかなか厳しい現実があるなか、少しでも定住人口を増やすのは社会的使命(笑)だ。


5月10日(金)
 五度目の春山(もう夏山か)。今回は第二ポイントで、ねらいをつけた箇所へ向かう時、50メートル先を横切る大きな動物を発見!!カモシカであった。少しビビりながらも、それなりに収穫した。黒いモノでなくて良かった。スマホで鳴らしていた曲はスピッツ。歌にあるような「未来こおろぎ」程度だと可愛いのだが…。


5月11日(土)
 小学校の運動会を見にいく。9年ぶりか。お天気が良く、さほど温度も高くならず無風で絶好のコンディション。細かい点に変わりはあってもやはり「不滅の空気」はあるなあと感じる。ただ花火(号砲)が鳴らないので勢い不足は否めない。事情を知るだけに複雑だ。昼前、図書館へ行き来週語る予定の絵本を借りる。




5月12日(日)
 楽しみにしていた神田伯山の独演会。早めに出発して軽井沢にある菜の花畑を観てから秋田市へ向かう。レストランでギバサタラコスパゲティを食する。ただ珍しいだけの味。午後2時開演、さすがだった。必死でチケット取ってよかった。大相撲夏場所をラジオで聞きながらの帰り道。大波乱の幕開け。予想できない。

消費化社会の斑として

2024年05月12日 | 読書
 大胆な書名である。Re38『「消費」をやめる』(平川克美 ミシマ社)。根本的に考えれば無理なことだと誰しもわかる。ここで著者が提言するのは「消費を変える」こと。つまり「消費しない」ということではなく、「賢い消費」の実践である。そしてそれは、例えば「いいものを安く買う」という意味での賢さではない。


 副題に「銭湯経済のすすめ」と記してあり、「半径3㎞圏内でめぐる経済」の重要性を説いている。銭湯が半世紀も前に姿を消している地方にあってもその比喩的な表現は通用するかもしれない。つまりは地元に昔から根付いてきた商店や産業に目を向け、できるだけお金をそこで廻す、それが生き方と直結するという。




 そうした指摘は以前からあったが、膨れ上がった消費者マインドに慣れきってしまい、なかなか実践できないでいる。その結果が地域の疲弊、空洞化につながり、少子化、人口減と重なるのは明らかだ…やはり「賢さ」が足りないのだ。経済合理性を求めてきたツケで身動きできない姿を、もっと見つめる必要がある。


 一般人であれば、電気や水道があり、実際に1円も使わない生活はあり得ない。しかしそれ以外で今日使ったお金もしくは行動が何のためか、問うてみる。まず「食」。そこに顔が見えるか。その顔につながる次の顔が身近で、シンプルであればあるほど良い。自給自足を一つの頂点として、何段階先にそれが見えるかだ。


 かなり極端な話だ。ただ「衣」であれ「住」であれ、少し調べ知識を使えば「位置」がわかるはず。一歩ずつ一歩ずつ「地縁」や「贈与」の割合を増やしていきたい。もちろん、例えば通販や百均などに頼るのをすぐ止めることはできないだろう。しかし、慎重に内面を見つめれば、消費化社会の斑の一つにはなれるか。

よたよた生き残ること

2024年05月08日 | 読書
 Re37『んだんだ 無明舎出版よたよた半世紀』(あんばいこう)を読んだ。一度は話を聞いてみたいと思っていた県内人。高校の同窓でもある。ホームページ等で多少生き様に触れ、もしかしたら自分にもこんな人生があったかなあと、漠然と感じていた。しかし、この著で詳しくその半生?を知るとやはり差は大きい。



 7歳という年齢差つまり団塊世代の最後である著者との違いは、大学が置かれた時代的環境が直接的と言えるかもしれない。自分も学生の時にミニコミ誌や劇団との関わりを持ち、少し手を引っ張られた経験もあるのだが、引っ込めて「安住」を求めたのは事実だし、結局、度胸なしの怖がりだったという結論かな。


 それを踏まえて、あえて共通項を求めれば「持続力」なのかもしれない。むろん、地方出版の継続の難儀さとはレベルが違うだろう。しかし、一つの生業をあれこれ模索しながら諦めなかったことに強く共感する。趣味的な範疇への首の突っ込み方も少し似ている。「んだ」は我が国語実践の中でも印象に残る語と言える。


 三章構成で一章が「後半の三十年ものがたり」、二章が「前半の二十年ものがたり」である。こうした組み立ても面白い、二章で語りの人称を変えたのは工夫だ。「私」から「安倍」になったのは、より客観的にとの意図だが、次第に同化してしまった印象も残る。ノンフィクションを綴るうえでは難しい点かもしれない。


 三章の略年表には1972(昭和47年から2022(令和4年)までの事項と年間刊行書籍が残されている。それをさらりと見ても、無明舎が果たしてきた秋田への文化貢献度は大きい。個人的にも数冊読み込んだ書籍がある。「よたよた」と「半世紀」生き残ることは、私のような者にも強く影響を与えていることを実感した。


フジ子・ヘミングと山の藪へ

2024年05月06日 | 雑記帳
5月1日(水)
 今日より「こども園おはなし会」スタート。大型絵本を読み聞かせた後TVにつないで映す絵本を選ばせてみた。大塚健太・作、柴田ケイコ・絵のシリーズを三冊見せどれがいいか訊く。二冊を取り上げた。一冊読まないのも余韻があっていい?最後は担任(実は姪)にのせられて、瞬間移動失敗!!で笑わせて退室した。


5月2日(木)
 早朝、三度目の春山菜取りへ。山間部はまだ早かろうと思ったが、結構太いワラビが採れた。さらにタケノコポイントを目指した。例年なら全然なはずだが細いなりにも「初物」を手に出来た。あと数日経てば…と連休最後に目算を立てる。今日は4月中に時間を割いた作成物のまとめをする。一段落してほっとした。


5月3日(金)
 夕方に近い時間帯から娘婿孫一同揃ってバーベキュー。本当に久しぶり、室内では定期的だが、屋外は去年一度もやってない。そのためにコンロも新調、翁は3時から炭火熾し。天気は心配なし。町には風5,6mの予報が出ていた。しかしさほどのこともなく穏やかに和やかな時間が過ぎる。あまり虫が出なくていい(笑)。


5月4日(土)
 地元紙「西馬音内小150年」の記事に複雑な気持ちを抱く。あれほど「閉校」を疑問視したのに…一般の受け止め方とはこのようにアバウトと今さらながら拍子抜けだ。スマホのGooglemapのタイムラインの通知に思わず驚く。これは「総記録社会」そのもの。「位置情報オン」の意味を今さらながら考えてしまう。


5月5日(日)
 睡眠不足は慢性的だが、少し気分がすぐれず朝からベッドで読書しながら休養。このGWに手にした2冊は結構読み応えがある。昼になったら小康状態。だらりと録画したドラマなどを見続ける。NHKマイルカップは予想通り2頭が強かった。馬券はトリガミ(赤字)。明日の朝に備えてドリング剤を飲んで就寝する。





5月6日(月)
 予定通りに山へ。クマよけは鈴以外にスマホでyoutubeを流す。アクセスしたら昨日家で聴いたフジ子・ヘミングのピアノが再生される。これで山の藪へ入るのもオツではないか。収穫は上々。極太のワラビ、それにそれなりのネマガリダケも捕れた。帰宅後、部屋の片づけ。明日はこども園の2回目、下読みをする。

想像力で昇華せよってこと

2024年05月02日 | 読書
 4月中旬からの読了はわずか2冊。Re35『僕たちの居場所論』(内田樹・平川克美・名越康文 角川新書)Re36『木挽町月光夜咄』(吉田篤弘 ちくま文庫)である。読み止め、読みかけも数冊あるが、まあ読書は進まなかったな。でもこの二冊は面白かった。内容が捉えきれなかった点もありつつ、肌が合うのだろう。


 吉田篤弘の小説は結構読んできたが、このエッセイで極まったのは、やはり都会人だということ。書名が表すように「江戸っ子」の血をひいている人はやはり違うなあと素直に憧れる。似たような感覚は松本隆にも抱いてしまうし、どうしても田舎者の手の届かない世界、その魅力は大きいし、この齢でもそう感じる。


 地方から都会への人口流失が止まらない訳は様々に分析される。人的環境や就職口の問題も確かにあるが、やはり「東京」への憧れが下地を作るのではないか。「テレビっ子第一世代」(笑)としては、あれだけ魅力のあるモノ・コトを見せ続けられたらそりゃそうでしょと言い訳がましく思う。諦めてこそ冷静になれる。


 それはそうと『~居場所論』である。あまりの整理下手は読了本の行方さえわからない。堂々と居場所を確保している三人の鼎談は痛快であり、「自分」のままに行動し見つけたようだ。「落ちつくべき場所。安心していられる場所」という意味に添えば、自分がもし都会に住んでいれば、その場所を見つけられたのか。



 2024.5.2 細いけれど今年のネマガリダケ初収穫。双子(笑)


 三者の道は様々だが、結局好きなことに没頭する、他者の締め付けに抗う、自ら居心地のいい場所を創り出すといったステップを踏んでいる気がした。だから説得力がある。引き寄せて我が身を考えると、中途半端さは否めない。ただ最後が肝心でありそれは可能なこと。都会への憧れは想像力で昇華せよってことか。