すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「授業はあるが教育はない」はない

2012年09月29日 | 読書
 朝風呂読書でこんな一節を目にした。

 「授業はあるが教育はない」

 たまたま指導主事訪問それも生徒指導専任の方が来校し,授業参観,協議会が続いた日だった。各学級の授業の様子を見ながら,その言葉が時々頭をめぐった。

 解読した言い方に変えれば,「学習指導はしているが,生徒指導をしていない」「学力形成はされたが,人格形成ができていない」となるのかもしれない。

 が,しかし,そんなことはあり得ない。

 そういう大雑把な言い方は何かを見逃してしまう。

 つまり,授業とはいつもの場合も生徒指導の場であり,人格形成の場である。それが正であっても,負であっても。
 教師の言動は直接的にしろ間接的にしろ,何かしらの価値観を提示することになる。

 子どもが幼ければ幼いほど,その影響はあるだろう。漢字ひとつ,計算ひとつ学ばせるにも,どんなふうに身につけさせるか,そのものが「教育」なのだということを否定できる人はいない。

 そう考えてくると,改めて発達段階の把握や心理学的な認識の大事さが浮かび上がってくる。

 誰もが完璧なわけではない。
 何を心がけ,どうふるまうのか。
 
 おかしな結論だが,授業のその1時間の重みを「軽い気持ち」で受け止められる工夫が必要だ。

弱々しさを愛でる心

2012年09月27日 | 読書
 立ち寄った書店で目についた表紙に心誘われて、久し振りに雑誌『サライ』を手にした。
 http://www.zassi.net/detail.cgi?gouno=32102

 あの毛利衛さんが巻頭のインタビューに答えている。
 毛利さんのキャリアから導き出されたいい言葉が並んでいた。

 「月」を特集していることに絡んでいるが、次の一節は染み入る。

 私たち日本人は昔から太陽よりもお月さんを好んで愛でてきた。むしろ、その弱々しさを愛でる文化というのがあるわけです。ひょっとして、それはすごく重要なことで、その弱々しさのなかにこそ、生命というものを理解する本質があるんじゃないだろうか。

 生存するものにとって弱肉強食が避けられないのは定めである。
 時代による波はあったにしろ、その論理で覆い尽くされた世の中にしてこなかったのが、日本の文化だと思う。

 毛利さんは、かつてのアメリカとの貿易摩擦の折の日本の自主規制を例に、こんなふうに語る。

 摩擦を防ぐために自主規制する文化なんて、欧米はもちろん中国にもあり得ない。でも日本は相手の立場を思いやることを先取りして行った。

 こういうメンタリティに基づく行動を、「弱腰」と称したり「世界常識では通用しない」と批判したりすることはよくある。
 しかしそう語る人の本質は、最終的に勝利志向、権力志向ではないかと勘繰りたくなることが、私には幾度もあった。

 隣国との関係や原発問題にも当てはまることだろう。
 ただ、私たちは結果的にどうなのかだけに目を奪われてはならないと思う。その過程で起こっていること、様々な立場からものいう人、口を閉ざす人…自分のできる範囲でこれらを広く、深く物事をとらえながら判断する。
 同じ結論を出すにしても、その過程で得られる思考こそが、自分を支えるのではないか。

 「弱々しさを愛でる」ということは、つまり、勇ましさや頑なさの陰にある部分を見い出し、そこを汲み取って判断に加えることではないかという気がする。

 それはきっと世界全体にしてみれば、温暖化や環境破壊へ進む道に少しはブレーキをかけることになるのかなあ、と大きいことまで想像してしまう。

 30日は名月をしみじみと眺めたいものだ。

声に置き換えられた時から

2012年09月26日 | 読書
 野口芳宏先生のある古い著書を読み直している。
 全編読み終えてから改めて「学び」をメモしたいと思うが、第一章から実に読み応えのある本だなと感じている。

 こんな一節がある。

 話すことは、自分の存在感を確認することであり、それは同時に、社会的存在としての人間の連帯欲求と、成長欲求とを満たす行為なのである。

 ここを読み、なぜか野球の試合及び応援のことが頭をよぎった。
 このような場面である。

 リードを許したチームが少し沈んできた。
 そんなとき必ずベンチや応援席から声がかかる。

 「声、だせーーーー」

 それに応えるように、守備についている内外野手から
 「イッチョーコーーイ」「オーーーエーー」(というような声、雄叫び)が発せられる。

 その声は、野口先生がおっしゃる上の三つの要素が混じったものだなとつくづく感心した。

 つまり、「俺はここにいるぞ」という存在の確認。

 そして、「みんな、がんばっていこうぜ」という連帯欲求。

 さらに、「ここへ打ってみろ、絶対取ってやる、アウトにするからここへ打て」という成長欲求。

 なんか見事に当てはまるのである。

 言葉が生の欲求を満たすとすれば、それは、やはり声に置き換えられた時から始まるということだろうか。

質問力の今

2012年09月25日 | 雑記帳
 来週の校内研修で「話すこと・聞くこと」を扱うことになっていて、そろそろ準備をと考えたときに、頭に浮かんだのが「質問力」ということだった。

 ある程度自分で意識し、残した実践記録もあったからだと思う。
「授業づくりネットワーク」誌でそのことを特集にした号があったはずと探してみた。

 №197 (2001.12) 質問力を育てる授業づくり
 №221 (2003.12) 質問力を育てる授業づくりパート2


 当時編集長だった上條晴夫氏の提案をうけ、諸氏が実践提案をなさっている。今読み返しても興味深い。

 さて、それでは今その「質問力」はどうなっているのか。
 ネット検索をかけてみると、ほとんどがビジネス関連、わずかにその当時の流れで学校における学習活動等があるようだ。
 公的な用語として普及はしなかったということか。文科省ホームページで検索をかけても、ある大学の研究の中に顔を見せるぐらいである。

 本県における重点のフレーズとして「問いを発する子どもを育てる」が登場したのは昨年度初めであった。夏にやや細かい説明パンフが配られたが、そのなかに「質問力」という用語があったことを覚えている。そこでは「グローバルな社会」・・・・といったことに絡んでの使われ方であるが、いずれ質問力に関しては、意識しているしていないに関わらず重要な視点であることに強い反論はないだろう。

 しかし、肝心なのは、その点が意識された授業は一般的になっているかどうかである。
 「子どもの問いが生まれる学習」「子どもの問いがたくさん発せられる学習」「問いが連続している学習」になっているだろうか。

 もちろん、すべての時間、多くの教科でそれを望むのは酷かもしれない。現実的ではない。
 ただ重点と決めた教科等で試したり、そういう授業スタイルを追求したりすることは、やはり普通の感覚でありたい。まだまだ「教師の持つ正解当て」のような授業から離れていない人もいることは認めざるを得ない。

 「質問力」は今さらのことではなく、もっと大きく取り上げられていいコンセプトだ。
 大雑把に考えれば、小学校では「問う習慣づくり」を意識するべきではないか。

 その観点で学習過程を組み立てる。
 その観点を必須にした活動、行事などを計画していく。
 問う形式を教え、問う活動に慣れさせ、他の活動につなげていく。

 では、国語科として何をするか。
 これは、やはり「質問の仕方」「質問の生かし方」ということだ。
 教科書教材もあるにはあるが、圧倒的に少ない。

縷述,4年ぶりの発信

2012年09月24日 | 教育ノート
 二学期を機に、研究・研修を中心とした校内報発行を始めた。とりあえずは週1回ペースを維持し、4号まで配布できた。

 題名は「縷述」。
 四年前まで勤めていた学校で「連絡用」の校内報にそのタイトルをつけたコーナーを持ち、勝手なことを書きつけていた。

 そのイメージで、ある程度テーマをもって一枚を仕上げることにした。
 PDF化して、ホームページへアップした。よろしければ見てください。
 http://homepage3.nifty.com/spring21/CCP149.html

 今年の工夫(2号から続けている)は、この三つである。

 ①必ず、テーマに関連した図表的なものを入れてみる。自分で図化をすること。

 ②「見聞録」と題して、講演、セミナー等でメモした記録を最初に置いてみる(本からの引用ではない形で)。ただしこれはテーマと関わらなくともよい。

 ③裏面に、読んだ本の紹介(わかりやすい箇所のコピーとして)をする。なかなか本に手を伸ばす機会がない職員が多いようなので。(もちろん、これはアップできない)


 とりあえず二学期いっぱいは今の形を続けてみたい。

やはり敵わんなあと思う本

2012年09月23日 | 読書
 新しく買い求めた本がなかったので,休日の朝風呂にどれを持っていこうかと背にする書棚を眺めたとき,目に入った一冊である。

 『村上小の「学校だより」抄』(飯沼宏 明治図書)

 プチ自慢をすれば我が家の書棚は三か所に分かれており,この場所(小さい書斎)にあるのが,新刊や重要度が高いという並びである。
 昭和63年の本がそこにあることは我ながら一つの驚きだが,「学校だより」という分類なので,きっと近年舞い戻ってきた?のだと想像する(自分でやっておいてなんだが)。
 では,ということで読み始め,一時間ほどで読了した。

 著者の話を一回はどこかで聞いたような記憶があるがちょっと思い出せない。ただ,学校づくりという視点では憧れの存在であったことは確かだ。

 そんな二十数年前の,学校だより+PTA会報の文章を見て思うことは,やはり敵わんなあということである。

 師と仰ぐ野口芳宏先生よりももう少し上の,学徒動員を経験している世代である。著者自身は病気で入隊しなかったという経緯を持ちながら,戦時そして終戦を生き抜いたことが,その人生観や教育観を決定的にしていることは確かだろう。

 肩から力を脱き,笑顔を漂わせながら文章を綴っている雰囲気を漂わせながら,そこに垣間見えるのは肚の据わった,どこまでも人を信ずるという気概のある姿だ。
 だからこそ,個人名を平気で?出すし,きれいごとでない処世のあれこれもさらけ出すことができる。

 おそらく,今の時代にこんなふうに書ける人はいないと思う。
 しかしそれは表現や表記の問題だけではない。
 きっと「精神のありよう」というレベルで,けして追いつくことのできないものが流れているということだ。

 学校だよりの最終号に静かに語られた,この一節は単純のようであって,実はかなり深いと思う。

 当たり前のことに考えもなく馴れてしまうと,知らないうちに足りている物をまだ欲しがったり,他と比べて,己を卑下したり,他に媚びたり,ときには嫉妬したりしている自分に気づかずにいる場合もあるものです。

 今年も週1回のペースで学校報を書いている自分だが,どう伝えるかばかりに心が向いて,何を伝えるかを忘れがちになっている。
 そしてもっと肝心なのは,伝えるべきはそれでいいのかと問うてみること…いい本を再読できた。

「不易というあんこ」をしっかり持つ

2012年09月21日 | 読書
 『新落語的学問のすすめ』(桂文珍 潮出版社)

 確かフジテレビ系(たぶん関西テレビ?)だと思ったが、著者が報道番組のキャスターをしていた時があった。たまに番組を見たときに、なんと知識のある人よという印象を持ったことがある。落語家をばかにするわけではないが、少なくともその世界では指折りの切れ者ではないのかなと思う。

 その当時に(今から十年以上前)、慶應大学で9回にわたって講義をした記録がまとめられた本である。

 「笑い」ということを軸に、軽快な口調(文章タッチもそんな感じということ)で、歴史的なことを踏まえ、様々な視点から迫っていて読み応えがあった。
 当然、笑いをとる場面も多く、この講義はきっと人気が高かったんだろう。

 前半の中心に「笑いの効用」というものがあるが、その中で特に納得できたのがこれだ。

 自らを笑う力

 よく子どもが緊張をごまかす手段として、薄ら笑いを見せることがある。
 これと全く違うとは言えないかもしれないが、数段高い視点で使いこなせるとすれば、それは「優秀な人」だという。この大切さをこう語っている。

 最後の緊張からエスケープする。自分を緩和させていく方法として、自らを笑う。厳しいプレッシャーから自分を解放する、自笑。

 自笑できずに自傷する子のなんと多いことよ…こんな洒落で笑いをとろうとしても駄目か。
 自己の客観視、メタ認知を「笑い飛ばす」という動詞で実行できる人の精神力は確かにかなりだと思う。


 さて、にわか落語ファンの一人として、深く納得されられたことが一つある。
 最近はだいぶ落語番組などを放送したりするが、どうもあまり見る気がしない。やはり回数は少なくともライブに限ると思っている。
 それは単なる「生」「肉声」の良さということだけではない、ということが、この本を読み考えさせられた。著者はこう書く。

 架空の場所に人物がいるのを演じているのに、それをTVカメラをスイッチングで変えてしまうと、空間が全部つぶれてしまいまして、何のためにやったかわからないということになるわけです。

 つまり、違う角度からカメラで写すことは、観客にとってみれば、自分が作り上げた空間がない、もしくは壊されるということになってしまう。
 落語というのは観客の固定的な空間を楽しむものなのである。そしてそこから、空白を楽しむ日本の伝統まで話が及んでいる。

 このような実に味のある話の連続で引きつけられた。
 「情報化時代」を取り上げた最終講義で出てくる「不易流行」を、アンパン型とミスタードーナッツ型に分けて説明しているところも秀逸である。
 時代はドーナッツ型。
「不易というあんこ」をしっかり持ったアンパンでありたいと思った。

 著者桂文珍は、まさに味のあるアンパン顔だものね。

花を咲かせる一歩前

2012年09月20日 | 教育ノート
 全校集会で、コミックマンガ『花もて語れ』を紹介したことを以前書いた。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/97bdacbfdb3135418065210ba09f11b9

 その第三巻は取り上げられている話(主人公が朗読するテキスト)が『花さき山』で、なかなかドラマティックな筋書きだった。
 ※絵本ナビ→http://www.ehonnavi.net/ehon/604/%E8%8A%B1%E3%81%95%E3%81%8D%E5%B1%B1/

 それに影響されたということもあるし、また図書館で『花さき山』の大型本を見つけたこともあって、補充で入った一年生の教室で読み聞かせをしてみた。

 朗読と絵本の読み聞かせでは当然違いも大きいが、マンガの中で強調された「間」の大事さなど、参考になるものも多かった。

 特に、その場では言葉を発しない人物を意識する読みは、やはり物語の中に入り込んで語っているかどうかの観点になり、読み方を考えるうえでの大きなポイントだなと、今さらながらに考える。


 それにしても、斎藤隆介・滝平二郎のコンビによる絵本はしっくりくるなあ。去年は、全校群読で5年生に『八郎』の一部を取り上げ、音読の指導をした。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/25f20b8862b6eab99e260b1149d07385

 秋田の風土を題材にしていることが、何よりの理由かもしれないが、言葉にのっかっている重みを直に受け止められるような感覚が好きだ。
 『花さき山』であれば、ここか。

 やさしいことを すれば 花がさく。
 いのちを かけて すれば 山が うまれる。


 「自己犠牲」という言い方をする場合もあり、そのことに批判めいた考えを持つ人も少なくないだろう。
 極端な国粋主義につながる危険性がないわけではない。

 しかしいつの場合も、人間の心根にある気高さのようなものを感じ、ほんの少しでもそうありたいと願う気持ちは意識していきたい。

 そんな気持ちも声に出して読んだからこそ,湧き上がってくるものだ。

不安定のなか非合理性を想う

2012年09月19日 | 読書
 『間違いだらけの教育論』(諏訪哲二 光文社新書)を再読した。

 読書記録によると2009年の五月連休時に読んでいた。
 そのときは案外あっさりと「啓蒙」のことを書き残したのだが、今思うとどこか棚上げしたような感がある。
 改めて読み直してみて、その時以上に著者の言うことが沁みる。

  人権と教育について書かれてあるところなど、いったい本質は何かと考えざるをえない卓見があちこちにある。
 特に最終章での、ワタミの渡邉美樹氏への批評は、私たちが間違えてはいけないことが、ずばりと書かれていると思った。

 経営は教育を補強し、強化するために必要だが、経営の論理が教育に取って代わることはできない。・・・中略・・・教育を合理的(経済効率的)にすれば、教育や人間の持つ非合理性を排除するから、かえって教育や人間は不安定になる可能性がある。


 今、「教育や人間は不安定」になっていないか。

 それはきっと合理的な追求が教育の場に進んでいるからだ。
 おそらく多くの人が感じていながら、なかなか公的には発言できないことが数多くある。
 学力問題であったり、いじめ問題であったり、統合問題であったり…。

 そしていくら単発的にそのことを語っても、その合理的な追求を進めようとしている構造はなかなか揺らがない。
 その構造を構造と気づかないような心性が養われているような日常だ。
 また,その中に組み込まれている個人としての自分もいることは正直に言わねばならない。

 不要と切り捨てられてきたこと、程度の低い「目標」によって「改善」を要求されたもの、そして理不尽と称されてきた「伝統」あるもの…それらに含まれた「価値」は様々であったとしても、括れば非合理性の持つ重みや濁りのようなものだ。

 非合理性を学ぶ(身をもって知る、受け入れる)機会を失っている子どもたちが、非合理性が染み込んでいる世界の中で生きていくのは過酷なことだろう。
 その点を意識する人は多いだろうが、意図的に踏み出す人は数少ない。
 どこか何かで挽回しようと叫んでいる人たちは確かにいる。それは反骨なのか、あるいは善意なのか…。

 えっ、ひょっとしたら、もしかしたら、その昔「生きる力」と言い出したのは、まるっきり正反対の位置からその代替を求めてのことなのか…あり得ない。
 合理的にとらえられない言葉を、無理に当てはめたのだから。

 考えていくと、ますます不安定になる。

辞典の存在は思うよりずっと大きい

2012年09月18日 | 読書
 辞典を使った指導をもうひと押ししてみようか思い、再読してみた。

 『7歳から「辞書」を引いて頭をきたえる』(深谷圭助 すばる舎)

 2006年、深谷氏が立命館小学校教頭として動き出した年の発刊である。教員対象というより保護者層も含めて読者を想定している本といってよい。
 もともと自分にとって関心の高い領域であるので、発刊後すぐに手にしたと思う。
 今改めて読み直しても共感できることが多い。

 いわば冒険的といってよい一年生への国語辞典の導入、そして指導について、学ぶべき点は多くあるが、たとえば次の二つのことについては、辞典に限らずもっと前向きに考えていくべきと意を強くした。

 教材、教具導入の学年段階に関して
…一般的とか常識にとらわれてばかりでは進歩がない。背伸びが必要なものを与えていいこと。
 むしろ、その可能性に期待する心意気が大事だ。

 児童の意欲の尊重と他の活動との関わりについて(ここでは例えば給食中も辞典を引いている子がいることなど)
…一つのことに夢中になったとき、他がおろそかになる例は多々ある。しかし、それを理由に徹底できなければ、結局半端なものにしかならない。
 そして多くの場合、そんなに心配なく他のこともやれるようになるということ。


 さて、「金田一一家の『日本語修業』はヒントになる」という章は、体験と言語の結びつきが日本語の力を高めることの好例が示されていた。

 これは学校現場で実現できることではないにしろ、「モノ、コトを見る目」を育てるために言語が果たす役割は決定的であり、その言語環境として、傍に教師がいて、手元に辞典があるということは間違いなくかなり大きいと言える。