すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

平成一顧、21年~31年

2019年04月30日 | 雑記帳
 平成21年春に20代の頃勤めた学校に、再び着任した。以前のプレハブ校舎は三階建ての新校舎となっていた。様変わりしたモノや人との付き合いを考えねばならなかった。前任校で始めた学校ブログは全県的にも稀少だった。発信には意味を感じたが、障害もまた大きかった。壁は何より人の心の中にあったと思う。


 そこを皮切りに、三年前の春に退職するまでの期間を振り返ると、ダブルバインド(二重拘束)という言葉が思い浮かぶ。開かれた学校と言いつつ、安心安全のための管理強化が進む。個性を伸ばすことを叫びつつ、足並みを揃える大事さが説かれる。信頼や連携を強調しながら、人権・プライバシー保護に腐心する。


 綺麗に言えばそのバランスをとることが経営の肝ではあるが、そんなに容易ではない。自分が掲げてきた教育目標やスローガン、研修・研究を核とした学校づくりは、その点を意識してきたが正直志半ばだったことは否めない。ただ、その半端な姿が、関わった方々にとって僅かな踏み台となっていれば、嬉しい。


 21年の感染対策や23年の大震災など思い出されることは多い。突発的な校内事故や保護者との軋轢など、今になり懐かしく語れるのは、悪い結果が避けられたからである。ただ、その度に考えたのは対応や準備を整えることが教育としてどう働くかだった。管理の強化は個の生きる力を損なうことは見えていた。


 28年春、母校での定年退職はまさに僥倖だった。1月に実母逝去、2月末には下の娘の結婚があり、まさに「卒業」した。その時に、まず3年間はぶらりと過ごし、何か新しい芽生えを待とうと決めた。結果、外国旅行を重ね、孫を授かり、好きな映像制作で手伝いもして…。そして、平成最後の月を迎えてみたら…。


 なんと、非常勤であるが職に就く展開となった。勤務地は町立図書館である。読書人とは言えないが、本や言葉に対する興味は人一倍強い自分にとって、これ以上ない空間に身を置ける。隠居真似事をせず「令和時代」も生き抜くのだ、と彼方から導かれた気がする。今までの縁を大切に、新しい縁を結んでいきたい。


 平成の最後に何を聴こうかと思い、棚から出したのはbankband「沿志奏逢」でした。
 
 やはり、この時代のベストソングは桜井和寿が唄った「糸」だなとつくづく思った次第です。

平成一顧、10年~20年

2019年04月29日 | 雑記帳
 平成10年春、教頭を拝命し初任で勤務した学校へ。それから5年間を過ごした。ここも山間部小規模校。穏やかな同僚や住民に囲まれて楽しかった。ただ自分が管理職になったこととは関係なしに、教育や地方行政への風当たりが特段に厳しくなったのもこの頃だ。秋田では県庁の接待、交際費問題が浮上した。


 綱紀粛正を掲げた現場への締め付けは、多くの点で波動的に押し寄せてきた。ある意味でのんびりしていた学校に緊張感を持たせたと言ってもいいのだが、人を育てる環境として、寛容性や多様性が下がり、目標志向・効率優先がしみ込んできたと言ってよい。それは社会全体の成果主義に間違いなくリンクしていた。


 その時流に自分自身巻き込まれたことは認めざるを得ないし、費用対効果とか投資とかそんな言葉を使い学校を追い込むことに加担したかもしれない。反面、小規模校ならではの融通を効かして全校規模の活動や一人一人を生かすことに焦点化した活動など、結構好きにふるまった。今思うとどこか裏腹な気がする。


 教科実践に関しては依然ストックがあり、担任外ではあっても授業をそれなりにこなしてきた。ただ目の前の子どもたちを見据えて学びを創り出す、骨格が明確な実践を作りだした感は弱い。授業手法も徐々に新しい流れが出てきていた。それにすぐ馴染めない感覚も出てきて、吸収力の衰えを自覚するようになった。


 管外も含め三校8年の教頭生活を終え、平成18年に隣市の小学校に校長として着任した。そこに3年間勤め、実に楽しく充実した生活を送ることができた。十分に意思疎通ができる職場環境や地域の支えが懐かしい。書くことの発信は続けていたし、公私ともにネットを使った展開に手ごたえを持つようになった。

平成一顧、0年~9年

2019年04月28日 | 雑記帳
 お祝いモードで「令和」を迎えることに異存はないが、「平成」はそうではなかった。昭和天皇の崩御が改元を余儀なくしたわけだから当然だ。実は暗い始まりとも言える。我が家では妻が第二子を身籠ったはいいが悪阻が酷く入院となったのが確か平成になって二日目。それが三週間以上続く、まさに真冬の時期だった。


 自分はというと、上の娘を実家に預けて少しワーカホリック状態ではなかったか。病院へも実家へも毎日顔を出しつつ、学級のこと、研究のこと、あれこれ騒然とこなす日々だった。そうした線上に三度目の転勤があり、小規模校とはいえ、異常なほどの目まぐるしさが頂点に達したように思う。平成4年のことだ。

(このあたりのこと)ミツバチ教師、せっせと働く
https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160416


 翌年ある研究賞応募で最優秀をいただき、新聞に顔写真が載るという出来事があった。身体同様(笑)仕事も脂の乗り切った頃といえよう。平成6年、母校へ転勤となる。若い教員が多くなり、担任を外れた教務主任となった。この辺が一つの分岐点になるが、真剣に意識できなかった甘さがあり、実践対象も変化した。


 教務としての仕事もやりがいはあった。会議や行事等の改善、全校を巻き込んだ組織的な活動など、文科省指定を受けるなかで、かなり斬新な提案もできたと思う。学校報は2年間書かせてもらった。「学校を動かす」はやや大袈裟かもしれないが、その醍醐味や課題をとらえた時期だった。それが平成9年までだ。


 教員年齢層の不均衡があり、その影響で早く担任を退いたことが妥当だったか、今でも想うことがある。もちろん自分の力量の限界は知っているつもりだが、教室実践にもっと拘りを持てば、違う道も開けたのだろうか。ただ手放さなかった思いは、自他ともに興味や得意を生かそうという姿勢だったことは違いない。


 だから同僚や知人を巻き込んでのサークル活動を継続できたし、担任外でも教務だよりや学校報などに積極的に取り組むことができた。お上からの指導に対しても、論拠を持って向かうことができた。振り返れば、未熟ながら理論と実際の活動が遊離しなかった時期である。しかし、立ち位置は把握できていなかった。

平成一顧、その前に昭和

2019年04月27日 | 教育ノート
 昨日メモした本のこともあり、自分にとっての「昭和」が何だったのか、少し気になった。31年間の平成を振り返るなら、ほぼ同量の時間を生きた昭和を抜きに語ることはできない。そんな殊勝な(笑)考えで、頭を巡らしてみて出た結論は「生きる方向が決まった時代」という、言ってみればごく単純なことだった。


 ポイントは、故郷で教職に就いたことと結婚したことである。職業結婚、この二つが幸福の大きな要素だとかの国分康孝先生も書いておられた。昭和の時代、それは普通のことだった。そしてほとんど疑問を持たずに、その後の平成を邁進、維持できたのだから幸せ(ある意味お目出たい)と言っていいのだろう。


 高校を出て教員養成の大学に入り、地元で教師になった。そのあたりは三年前に退職した時、回顧録的にここに載せてある(下掲)。平成への改元を区切りと考えた時、その前に民間教育運動、そして野口芳宏先生を初めとした実践者と出逢えたことがその後を決定づけたと言っていい。不勉強な学生時代から脱却できた。


 もう一つあることが浮かぶ。中味はともかく今もこんなふうに日常的に書くことの素地があったことだ。日記は三日坊主(ただ近頃は少しだけマシだが)だったが、書くことは苦でなかったと思い起こせる。時代を感じさせるがラブレター代筆、演劇脚本執筆など中学でこなした。高校入試の作文の点数も良かった。


 高校では学級ノートの笑話書きに熱中したこともある。大学入試も論文がある学校を受験した。ゼミは「詩と音楽」だった。フォークロックブームのなかで詞を書き続けていた。職についてからは、子供の日記への返事、学級通信書きを無我夢中でこなした。今思えば一本の棒のような存在になっているのかもしれない。


 言うまでもないが、自分の基盤は昭和で作られた。しかし「昭和の男」と呼べば一見格好良くても、その質はどうなのだ。右肩上がりの時代意識から完全に脱せないのは仕方ないにしても、その時代が育ててくれた良き習慣や感性等が今どう在るのか。平成を振り返るにあたって、心の隅に留めながら観ていきたい。


 ◇三年過ぎたら、もはや書いたことさえ懐かしい。回顧録たち。


カミナリ先生
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/c85187bef780f2b0f4928d0bb94686c2

無能教師、春を待つ
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/3d7485775a40376e178bee681437adfb

学級会への取り組み
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/bf3b374d184228c604f73a9bf2d898df

ハリネズミ教師、かなり小さめ
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/344d6b6119fdb4740d3abbfc3eb8bfbd

イノシシ教師、うまく回れず
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/61b4823d47fcffde2e3c7f3fb290f8ab

ウナギ教師、上れたか
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/1fb37ad71377356a3de1f16f08bfb5f7

ウナギ教師、蠢いている
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/04e0ac90e13be88a2ff9e2eacca8bda9

長い時間が過ぎても
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/6534f2827fc131ce346025229c1a5f0b


平成末期に昭和の本読み

2019年04月26日 | 読書
 この頃、「問題意識」という語をなんとなく多用している気がしたからか、古本屋で背表紙を見てすぐ、思わずカゴにいれてしまった。扇谷正造という人の顔は昔TVで何度も観ている。しかし著書を読んだことはなかった。家で開いてみたら、なんと(いや、やはりか)「昭和」の本だった。エッセイ、書評集である。


2019読了41
 『街に学ぶ~問題意識とは何か』(扇谷正造  グラフ社)



 奥付に発刊年月日がなかったので読了後検索すると1987年つまり昭和62年刊だった。バブルが始まった頃だ。「リッチな十二歳」という頁は、当時の「日本人の評判が芳しくない」ことから、ある米国人が日本人をそう揶揄したとして紹介してある。その12歳から30数年経ち、我々はどんな姿になったと言えるのか。


 リッチとは物質的な意味と絡ませ「ブクブクふとった姿を連想させる」と書いている。時代の流れに沿うと、現在の姿はみすぼらしく不健康な中高年のイメージか。そう想う原因がいくつか浮かんでくる。政治経済的な理由は持ち出すまでもないが、個々の人間の精神面が連動するように、不健全な「成長」を遂げた。


 この本の中心をなす第二部「問題意識とは何か」は、「第〇講」と章立てされている。「時間にツメを立てろ!」「空気にツメを立てろ!」「聞き上手のすすめ」「アイデアは『現状否定』から」等…自己啓発本にありがちなタイトルは、昭和の頃から不変のようだ。それは結局、人格形成の課題も不変ということと言える。


 「ツメを立てる」は慣用句として「逆らう、抵抗する」の意味がある。時間に逆らうことはできないが、時間に振り回わされずに有効活用を図る意味だろう。また空気にツメを立てるとは、情報をいかにキャッチして発想していくかと捉えられる。つまり、時間と空間を把握して、己の位置を確かめることが問題意識だ。


 書評では一人の学徒兵の日記が紹介されている。著者自身の思いが重なるとみると、昭和18年という時からして暗示的である。「5月27日 バスが走る。電車が走る。彼等は叩かれた馬車馬のごとく、あわただしく走つて行く。そして走ることの忙しさのために人間を運搬するといふ重大目的を忘れてしまつたかのごとく。

今、トリックスターを守る時

2019年04月25日 | 雑記帳
 目にしたことはあるが、今一つはっきり理解していない言葉は結構あるものだ。先日読んでいたある二冊の雑誌で偶然同じ語を見つけ、読み進めながら考えさせられた。それは「トリックスター」。…広辞苑には「詐欺師」そして「社会の道徳・秩序を乱す一方、文化の活性化の役割を担うような存在」と記されてあった。


 一冊目はあの籠池夫妻に対してのインタビューだった。森友事件についてはマスコミ報道レベルでしか知らないが、TVで見る限りなんとなく胡散臭い感じを抱いていた。ただ、一方の対象となる現職総理夫妻と比較して語られるのは、あまりに不公平感があり、思わず親身になってしまった。彼らの乱した空気は何だ。


 やはり長いものに巻かれろという思考の蔓延ではなかったか。事実がどうあれ、決定的な証拠がない限り、時の権力側に有利に働くことは自明の理である。しかしそれを自分の認識範囲内で責任を持つために、拘留もやむなしという選択をしたことに敬服する。スターとまで呼ぶ逆転は厳しいだろうが、確かに跡は残した。


 もう一冊では、その名は参議院議員山本太郎に向けられていた。作家島田雅彦が書評で彼をそう評した。六年前当選してから様々な言動が話題を呼んだ。普通に考え突飛すぎると思ったこともある。しかし彼の真骨頂は、国会外のことより、国会内での鋭い質問だった。たった一人に与党全体が揺さぶられた時もある。


 その成果がどれほどかは判断しかねる。ただ、彼が立候補前に出演した震災関連のドキュメンタリー、さらに三年前、雨の銀座で街頭演説している姿にたまたま出くわしたことを思い起こしてみると、その存在は貴重だなと思わざるを得ない。空気を読まないからこそ真価が出る。島田はこう書いた。「山本太郎を守れ」。

「死ぬほど」と言える幸せ

2019年04月24日 | 読書
 著者は間違いなく日本を代表する知生派の一人だと思うが、それにしてはエキセントリックな書名だ。ただ、仮に編集サイドが命名したとしても著者は了解しているはずだから、ここにそれだけの「決意」があるはずだ。全編を通してその熱が伝わってくる書きぶりだった。読書人としての矜持、軸を体現化している。


2019読了40
 『死ぬほど読書』(丹羽宇一郎  幻冬舎新書)



 「はじめに」に結論が集約されていると思った。大学生の投書(2017.3.8朝日新聞)は「読書はしないといけないの?」という素朴かつ深刻な問いだったが、著者は「読まなくても本人の勝手」と突き放す。一方ですぐ役に立たない、効率の悪いものを避ける価値観に毒されている現状を救えるのは「読書」だと強調する。


 本を読むことは強制ではないと言い切りながら、読書の楽しみを知ることによって得られるものの大きさや深さについて、自分の体験を語る。「知」への向き合い方が決定づけた仕事上のエピソードも随所に入れながら、読書行為がいかに「理性の血」を体中に豊かに巡らせてくれるか、説得力のある内容に溢れている。


 著者なりの「読書術」も興味深い。曰く「読みながら考えないと身につかない」「人がすすめる本は当てにならない」「ハウツー本は読まない」。なかでも救われたのは「見栄をはるための読書にも意味はある」だ。読書メモを公開していると、なんとなく選書にも虚栄心が入り込むこともあり若干気になっていたことだ。


 著者は「虚栄心があるからこそ」「虚栄心を上手に使えば」と、その心の自然な現象を転化させるよう勧めている。正直もう難しい本には手が出ないと思いつつ、気取ってページをめくると新しい世界が開けることも確かにある。本の持つ出逢いの要素は無限大と言っていいかもしれない。その魅力に気づく幸せがある。

心を多めに使う当たり前

2019年04月23日 | 読書
 十年前いやもう少し前か、「あたりまえ」という言葉を学校関係者がよく口にしたことを思い出す。今まで当たり前であったことが当たり前でなくなったという感を持った教師が多かったのだろう。とすると「あたらしい」と形容することは一つ違う観点を加えることだなと勝手に解釈する。当たり前も更新されるのか。


2019読了39
 『[よりぬき] あたらしいあたりまえ BEST101』(松浦弥太郎 PHP)



 「当たり前」という語は、「当然」が「当前」と誤記されたことから生じたという説もある。しかし日本国語大辞典によると、「共同労働の収穫を分配するとき…」がまず挙がっていて、「一人当たりの配当」を意味している。それが当然の権利であるところから「道理」「当然」「ごく普通のこと」につながったとみている。


 そこから「あたらしいあたりまえ」を考えれば、更新していけば「当たり前」が増えていく、つまり一人一人が豊かになっていくという方向が見いだせるものだ。となると個別の当たり前ではなく、全体に貢献する意味での当たり前が求められている。『暮しの手帖』前編集長である著者はその観点はよくわかっている。


 記されている101の項目は特に斬新とは思わないが、淡々とした普通の心がけがさりげない表現によって柔らかな風のように伝わってくる。例えば「農夫になりたい」。自立の根本は食べること、その際の二通りの選択「狩人か農夫か」と訊かれたら、著者は農夫を選ぶと答える。「種を蒔いて待つ」ことを続けるという。


 人間関係から日々の暮らし方まで「大切なのは次の三つのうち、何を使うかです。体を使うか、頭を使うか、心を使うか。」…さりげない一節だけど、ちょっとドキッとした。それは自分の使い方のバランスが悪いからだ。今の時代、案外みんなそうかもしれない。だから、著者はこう提案する。「若干、心を多めに使う

脱線だらけの聴講者で

2019年04月22日 | 雑記帳
 久しぶりに「講義」を聴く時間を過ごした。興味ある内容なのだが、やはり一方通行では瞼が重くなるので、自分なりに講師にツッコミを入れてみたり、コトバに問いを持ったりしながら、シノグ工夫をしなければいけない。あまり褒められたことではないが、脱線する聴講者のメモを書く。まあ、脱走はしないので…(笑)


 まず資料にある一節「知的な自由を保障する」。一瞬、「ウン?知的な自由」と思う。しかし、ふだん使う「知的」つまり「知識が豊かな」という意味でないと気づく。この場合は「知識に関する」ことだ。広辞苑にも「知識・知性に関するさま」と載っている。具体的には「知識などを得るための自由」と言えるだろう。


 講師がパワーポイントで文書資料とともに写真も紹介する。その時に「こちらは、~~~の写真にナリマス」と口癖になっているようだ。フード店で店員が「こちら、ハンバーグ定食にナリマス」という言葉遣いがよく批判されるが、同様だな。「成る」は多義な動詞だが、どう考えればいいか。成り行き任せなのか。


 「解答」と「回答」。どう違うのか。PCワープロの意味は「問題・疑問を解いて答える」と「質問・照会に対する返事」である。いろいろな場でこの二つは使い分けられるが、コミュニケーション的なのは回答の方だと気づく。様々な問いに対する唯一の答がない時代は、まず根拠になる資料、情報探しから始まる。


 真面目に(笑)心に響いた一節「クレームの中には宝もある」…十数年、頻度は高くなかったがその処理は一つの業務だった。自分の臨む姿勢にその観点があっただろうか。正直、衝突を避けたいという意識ではなかなか見つけられない。思い起こすと、本気でぶつかった若い時が宝を見つけられていたなあと回顧する。

生活を掘る所から始める

2019年04月21日 | 読書
 8年前に比べ読みのような形で読んでいて、記録を残していた。時が経つと目をつける箇所も違うなと、不思議な感覚がする。これが再読の良さであり、記録の価値になるのだろうか。読み手としての自分は進歩せず退化する一方のようであり、良さ・価値なんて明らかに言いすぎだろっ、と一人ツッコミをしている。


2019読了38
 『対談集 むのたけじ 現代を斬る』(聞き手:北条常久  イズミヤ出版)



 戦後の日本で、地方から国全体へ向け、鋭いメッセージを送り続けた新聞「たいまつ」。その発刊者、むのたけじの功績を忘れてはならない。その語る声から耳を遠ざければ、国や世界の衰えは酷くなるだろうことが予想できる。「たいまつ」創刊に寄せられた恩師石坂洋次郎の「東北の人々へ」にこう記されていた。

 「自分が正しいと信じたことを、自分の生活の上にすぐ実現しようと焦ることなく、子供の時代に孫の時代にそれが出来上がつていいのだといつた風な根気と熱意をもつてもらひたいものである。」


 昭和23年から30年継続した「たいまつ」には、「根気と熱意」は比類なきものだったが、なかなか届かなかったというべきなのか。いや、反戦平和にとって大事だとむのが考えていた「民衆の交流」ははるかに進んだ。ただそれが結局のところ大半が「経済優先」の形で根を下ろしてしまったところに、残酷さを感じる。

 この本の結論、むのが晩年に多く語ったことは、やはり教育への期待なのである。それは公であれ私であれ全く同じで「人間の可能性を信じて、それをひきだそうとささえ合う」こととしている。むろん教育する側の「正しさ」が常に問われる。それはおそらく、今の生活を自ら「掘る」ところから始めねばならない。


 巻末に「鉄之助さん」という父親を語った小文がある。明治生まれの愚直さがずんと胸を衝き、感動的である。「独立独歩で築き上げる」「どんな仕事も世の中に必要である」「モノにはみなイノチがある」…些細であれいくつかの信条を日常の営みの中に染み込ませているかを問い続ける。それが「掘る」ことではないか。