すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

電子辞書三昧

2015年01月31日 | 雑記帳
 物欲に負け新しい電子辞書を購入してしまった。もう4台目である。最初のSHARPの「GENUS」はいつ買ったのか記憶にない。おそらく昭和だと思う。広辞苑と英和、和英、漢和しか入っていない、小さな画面のものである。一旦、家人に譲ったのだが、戻ってきた。ほんの少し液晶が潰れているが、現役である。


 次に買ったのがSONY製。これはずいぶんと愛着がある。IC7000という機種、スタイリッシュで発売当時は一番薄かったはずである。CASIOかSHARPが普通だったが、そこはへそ曲がりの自分にSONYがあっていた。EX-wordとどちらがいいか野口芳宏先生と話したこともある。検索したらネットに載っていた。


 7000を長く使っていて不便は感じなかったが、いろいろな情報を見て欲しくなったのが、CASIOの EX-word。それもXD-SW-6000というモデル。ねらいは「筆順大辞典」である。東京書道教育会の作成で楷書、行書、草書と三つの字体が調べられることに魅力があった。広辞苑と明鏡の2辞書検索も重宝する。


 ということで、普通これ以上何が欲しいという感じなのだが、「日本国語大辞典」。ああ、いいなあと思ってしまった。もちろんカード単体でも買えるのだが、もうカラ―画面だろという新たな欲望も出て、とうとう魔のクリックに指を…。しかも「ジャパネットた○た」初利用。そう、このタイプの限定モデルなのです。


 詳しく仕様表とかチェックしないので、買ってから気がつくことも多い。まず驚いたのは単三電池使用。大きさはSW6000と同じのに、技術力の進歩って凄い。中身も類語辞典2種あり、アクセント辞典ありで楽しめる。コロケーション辞典というものも…何?さっそく調べて納得。今のところはいい遊び道具です。

今からでも大丈夫,何が?

2015年01月30日 | 読書
 【2015読了】15冊目 ★
 『還暦からの電脳事始』(高橋源一郎 毎日新聞社)


 広告にはこうある。

 「デジタルなんて」と敬遠しがちな人も、
 「今からでも大丈夫」と勇気づけられること、間違いなし!


 勇気づけられた、という感じは正直しない。

 内容は、ワープロ原稿に早くから切り替えていた結構デジタルな作家が、とうとうiPadを買い、その使いぶりや周囲の電脳状況などをあれこれ語っているだけである。
 真っ向から電脳生活を奨めているわけではないし、新しい活用法を提案しているわけでもない。
 しかし、齢相応に、いや著者独特の視点をもってというべきか、今の「時代」をとらえているし、かなり柔軟な思考でデジタル機器に接していて、同世代(私よりちょっと上の方々か)なら刺激にはなるかもしれない。


 印象深い二つのことがある。
 著者がiPadを買うきっかけの一つは、自分の息子が一年生の時に、誰にも習わずにゲームをダウンロードしたことだ。その是非を問うのではなく、それが普通になっている状況であること。
 もう一つは、あとがきに書かれている。著者の大学ゼミに参加しているO君の話だ。開発途上国の極貧の子どもたちが、街頭に取りつけられたPCをまったくの説明なしで、使いこなし力をつけていくというエピソードだ。

 これらは、現在のPC、デジタル機器等の特性が、知識技能習得などを激変させる要素を持つこと(既にその途上であろう)を端的に示している。
 その過程でおそらく、私達が想像し得ない能力が開発されるのかもしれない。
 あくまで仮に創造性と括るとき、その創造性は今まで培ってきた他の能力や態度とどう折り合うのだろうか。

 これは、大きくはきっと人間観、国家観まで視野に入れて語るべきことだと思われる。

 公教育に携わっている者であれば、誰しもがICT活用の推進は目に見えているわけだが、それ以上に現実社会における動きが加速しているわけで、それを確かな実態としてとらえつつ、対応しなければならないだろう。

 著者は全寮制の学校に息子たちを入れ、その連絡手段として「公衆電話」を使わせているという。
 冒頭のエピソードと重ねると、バランスを考えて…となんとも平凡な結論になってしまうが、その意義づけを怠らないことこそ肝心のように思われる。


 さて、自分自身を重ねれば、近づきつつある「還暦からの」という言葉の後には、電脳ではなくアナログが入りそうだな。
 漢字熟語が相応しい気がするので「実動生活」はどうだろうか。

スキルを教わらない世代の悩み

2015年01月29日 | 雑記帳
 M社の4年国語教科書を開いた。今まで目に留めなかったのだが「話す言葉は同じでも」というコラム(囲み記事風なのでこう名づけたのだろう)があり、二人の子の会話を通して「話し方のちがいで、相手の受け止め方はどうかわるか」について、取り上げている。これはまさしくソーシャルスキルだなと思った。


 三例あり、①は相手に対する顔の向き、②は応答の言葉(礼か謝罪か)、③は間の取り方を問題にしている。こういう教材が入ってくるとは、直接授業をしていた頃とは隔世の感がした。当然ながら、自分たちが義務教育の中でこうした内容を直接的に教わったような記憶はない。知らず知らずに身につけた?はずだ。


 なぜこうしたスキルが必要か、今さら考えるまでもないことだろう。ただ、昔の人たち(大人も子どもも)がこうしたスキルを、今の子たち以上に持ちあわせていたかどうかはあやしいわけだし、その点は明確にしなければならない。つまりは自分はあまり出来なかったことを教えているのだ、という自覚を持つこと。


 その自覚は、居直りでなく反省に立ってほしい。反省は、苦手な子の支えになるだろう。反省は、指導の細分化につながるのではないか。例えば①顔の向きを取り上げても、単に相手に向く向かないの二者択一ではない。その間にいくつかの行動選択が予想される。タイミング、協応動作、声調…評価も多様になる。


 ③は結構難しい。本を貸すことに対して、「間をおかず」「間をおいて」了解の返事をする比較である。これは言い方の問題から状況把握まで拡大する気がした。そう考えると、相手に好感を持たれる対応は確かにあるけれど、内面との関わりでそれは「正しい」行為なのか…と、スキルを教わらない世代は考え込む。

Re-bornの条件を読む

2015年01月28日 | 読書
 【2015読了】14冊目 ★★
 『Re-born はじまりの一歩』(伊坂幸太郎・中島京子、他  実業之日本社文庫)

 7人の作家による競作アンソロジーである。でも読んだことがあるのは伊坂幸太郎と豊島ミホのみ。他の作家は名前も知らなかった人の方が多い。日本にはいったい小説家ってどれくらいいるのだろう、と今まで考えてみなかったことが浮かんだ。当然ながら、ここに書くというのは一流?人気?作家ということ。やはりそれなりに面白かったし、筋も明快だ。


 個人的に好きな作品を挙げれば、「ゴーストライター」(瀬尾まいこ)と「残り全部バケーション」(伊坂幸太郎)となる。伊坂作品は短編ながら伊坂らしい独特の設定にすっと惹きこまれた。瀬尾作品は、読みながら予想した結末とかなり違い、結構しみじみとさせられたので印象に残った。小説読みではないが、話に近づくには「知識」って大事だと改めて思う。


 中島京子の書く「コワリョ―フの鼻」はロシア文学の素養があったらずいぶんと楽しく読めたのではないか。冒頭の宮下奈都「よろこびの歌」も音楽的経験があると違った印象になるだろう。まあ、そうしたいろいろな環境にある民の大多数に読ませるのが、うまい小説家。そう考えると,短編というのは苦労が多いはずだし、名手の引き込み方の工夫を想う。


 さて、このアンソロジーのタイトル「Re-born」。日本が誇る大企業のCMを思い出させるが、あれは劇画チック。こちらは自己の再生である。小説の代表的なテーマか。再生の条件をこれらの話の共通点から導き出してみたい。まず「再生の芽」が生き残っていること。たいてい、そのことを信じていなかったり気づいていなかったりする地点から物語は始まる。


 次に、そのきっかけを与えてくれる人物との出会いがある。突然パターンが多いが、日常からの見直しパターンもある。このあたりの「気づき」をえぐるのが書き手の醍醐味か。そして多くの場合、再生を後押し、印象づける言葉がある。それはごく平凡さを持つ一言だ。それらがぴったりくる状況を想像すれば、残り1片のピースか、乾いた土への一滴の水か。

強くなれない力士たちの国

2015年01月27日 | 雑記帳
 齢のせいなのか、以前より相撲を観るようになった。今場所も最後に近い取組はテレビ観戦できた日が多い。今の相撲の状況は「1強多弱」。どこかの国の政治のようだが、相撲の「強」は他国の横綱が群を抜いているのだ。「巨人・大鵬・卵焼き」で育った世代は、三つのどれもが主役を退いたようであり、少し寂しい。


 白鵬があの大鵬の優勝記録を破った。この偉業は誰しもが認めなければならない。文句のつけようがない大記録だ。しかしそれ以上に私も含めて数多くの「日本人力士よ、奮起せよ」という心がさらに湧きたち、頼りないとわかっていても大関陣等に期待したいことは否めない。白鵬戦に時折起こる逆声援の心がわかる。


 けれど、そういう声援の意義を複眼的に考えることも必要だ。かの内館牧子女史が、日曜日の朝刊に寄せた文章が的を射ていた。「自分がどんなに努力しようと、どんなに新記録を打ち立てようと、どんなに身を粉にしようと乗り越え難い壁への抵抗表現」。この「レジスタンス」が白鵬を強くしているとは言えまいか。


 今場所は再び物議を醸している13日の取組だけでなく、土俵際における物言い寸前の勝負が他にも2つあった。白鵬が残ったのは、むろん足腰の鍛錬によるものには違いないが、それ以上に気力だと言っても多くの人は否定しないだろう。闘争心が手足に宿って漲っていた。場所が終わって口にも移ってしまったか。


 それはさておき、日本人力士へ横綱を上回る何かを期待するのは無理だろうか。正月にジャパンナントカというバラエティで、小学生力士がモンゴル相撲の強い子たちと現地で戦う番組があった。結果は日本の3戦全勝。単純に判断できないが、素質や練習量の問題でないことは確かだ。誰しも指摘できるアレだろう。

養鶏文明に腹立てながら

2015年01月26日 | 読書
 【2015読了】13冊目 ★★
 『こまった人』(養老孟司  中公文庫)

 この本も再読である。以前は新書版だったがどの棚にあるか定かでないし、文庫版が108円なので即買ってまた読んでみた。
 発刊がちょうど10年前。
 あのイラクの人質事件があった頃、盛んに流布された「自己責任」という言葉は、いまだに健在?であることをしみじみ思った。

 外交は自分には遠いことのように思われるが、この国を計る大きな一つの目安なのかもしれない。この10年で変わったこと、変わらないこと…。


 養老先生の書く文章は理解できない部分も多いが、どこかひたひたと馴染む感じもあり結構読み進めることができる。
 そして、時々びっくりするくらいわかりやすい比喩で、現実の位置を、私達に教えてくれる。

 今回は「養鶏場に似るヒト社会」が、心に迫った。

 ◇ブロイラーとして飼育されている鶏は、現代の都会人に似ている。目の前を餌と水が流れ、小さな金網の檻に閉じ込められている。いささか狭いとはいえ、この檻をマンションだと思えばいい。

 珍しい喩えではないが、実に的確だと思う。養鶏場とヒト社会を対照させた文章は続く。

 ◇人間は(略)、広義の餌の問題を考えると、移動は決して自由ではない。広義の餌とはつまり給料で、餌をくれる勤務先から勝手に逃げ出すわけにはいかない。


 生態とは多様なはずであるが、いつしか人間社会はその多様さをなくし、商品化や病気の流行などに見られるように単調さで覆われるようになっている。
 問題は,単純に場としての都会を指しているわけではない。

 ◇いま日本の町の郊外に出たら、どこがどこやら、まったくわからないであろう。コンビニ、ファミレス、パチンコ屋、ガソリンスタンド、これでは地域の特性もなにもない。大きく見れば、しだいに養鶏場に似てくるのである。
 ◇経済効率を考えれば、鶏をああいう形で飼う「しかない」。同様に、ヒトも都会人という形で生きる「しかない」。


 おそらくグローバル化とは、そういうことなのだなと、じわりじわりと沁みてくる。
 経済効率という指標について辛辣な批評をしながら、一人一人に暮らしの決断を促して文章は結ばれている。


 ああ養鶏場かあ、と想像してみると、身の回りのいろいろなことがそう思えてくる。
 せめて、放し飼い程度の環境改善を、などとみみっちいことも考えてしまう。

 四角く狭い金網のなかで、「養鶏文明」に腹を立てたところで何も解決しないことはわかっている。
 そんな自分の姿が見えたことが、何かの足しになるとすれば、まずは声をかけるべきは身の周りであることははっきりしている。

動く心をとろうとする習慣

2015年01月25日 | 雑記帳
 放送委員会の子どもたちに廊下で呼びとめられた。「先生クイズを作るので質問させてください」とのこと。笑顔でOKしたが、「趣味は?」と訊かれて「読書とお」と言って「写真やビデオを撮ることかなあ」と続けたら、少し声が弱くなった。写真は、学校ブログアップのため毎日結構な数を撮っているにはいるが…。


 個人趣味として写真をアップしているブログは,ちょうど二ヶ月ご無沙汰である。いい被写体がないと言えるレベルではない,単にそういう向き合い方をしていないだけ。徒歩通勤していることで世界が広がりそうな予感も覚えたが,的外れだったか。そう振り返るとどうも考え事をしながら歩く率が高い気がする。


 確かに冬場は足元も気になるし,余裕がないのかもしれない。五感を働かせるにも,外界は少し表情が乏しいのがこの季節だとも言える。猛吹雪であれば全く撮ろうなんて考えない。やはり晴れ間がのぞいた時がチャンスか…そういえば,と思い出したのがあの2011年。その冬の1月は,三週間お日様を見なかった。


 正月からずっと雪が続き,三学期が始まっても晴れる日はなかった。下旬の高学年スキー教室の日に,本当に久しぶりに青空を見て,思わずシャッターをきったのが,この1枚だった。写した時の自分の感覚を強く思い出せるのは,写真の醍醐味だよなあ。よしっ,と少し周囲を見回して切り取った光景は次の2枚

 時々ネジを巻きなおさないと動かない。つくづくアナログタイプだと自覚する。

「齋藤孝力」再読再考

2015年01月24日 | 読書
 【2015読了】12冊目 ★★★
 『相手を伸ばす教え力』(齋藤 孝  宝島社)

 再読である。2004年の新刊当時に読んでいる。人気絶頂の頃かもしれない。ちょうどその当時に近隣で行われた講演会にも行き,本にサインをしてもらいながら話しかけたら,非常にフレンドリーに応えてくれたことを覚えている。テレビに出るあのままだなと印象づけられた。単著として持っている冊数は,師野口芳宏先生に次いで多いのは,著者の本だろう。


 今改めてこの本を手にして,著者の専門が日本語ではなく「教育者教育」であることを思い出した。最近,私が注目している実践家の多くが「教師力」「教師教育」といったことを頻繁に語り始めている。それらをじっくり目にしてはないが,私自身が意識してきたことを振り返ると,齋藤孝が唱えてきた考え方はかなり大きな部分を占めているような気がする。


 この著には本文の他に,Q&AのコーナーがCASEとして設けられている。その最後の質問はこうである。「『俺の背中を見て育て!』というのは,いまは通用しないのでしょうか?」。これに対する齋藤の答えは「通用しません」という一言から始まる。では,どうしたらいいか,という具体がこの本の内容といっていい。それはつまり「教え力」の筋道といってよい。


 多くの著書の中で語られてはいるが,「憧れに憧れる力」「評価力」「テキスト素材力」「ライブ能力」「自立を促すコメント力」…これらの総体を「教え力」と称している。「教えることに臆病になってはいけない」とよくわが師は仰るが,学ぶ姿勢が弱くなっている子どもを前にして,うまく教えられないことを自己責任としてみれば,ポイントはきっと見つかる。


 再読して私なりに「斎藤孝力」を定義するならば,一つは「実感重視」ということである。この本でいうと,テクストの選択とライブ感のところに表れている。次に「繰り返し重視」である。これは音読関係の著書によっても明らかだろう。そして何より「基本重視」。目的,根幹は何か,を常に意識している。だからこの本の最後は「自分で自分を伸ばす力」なのだ。

「しまった」はしまってないから

2015年01月23日 | 雑記帳
 何度も書いているが、整理整頓の才能がない。それゆえ整理術などの雑誌を読んだりするが適用できるのはわずか。PCの「ゴミ箱」的な扱いをする引きだしを決める、期限のある書類やぱっと出したい文書などピン留めしておいて見える位置に置く…この二つぐらいか。それらにしたって、量が増えると不完全だ。


 冬休み中だった。期限はまだだが提出を求められている大事な書類(重要度中程度)があった。今日の仕事にするかと思って、その書類を探したが見つからない。さあ、どうする。該当するファイルに綴じられていない、雑然としている机の書類束のなかにも見当たらない。探すこと小一時間。…ピン止めしてあった。


 所属する会へ提出する紀要の原稿があった。結構早く取りかかったはずだ。テーマは早々に決めたので執筆も終え、間をおいての推敲もした。チェックの跡がある。しかし、送付したのか。急に不安になる。共有PCを検索する。ひと月以上経過してるから削除の可能性も…。20分、送信済みファイルをようやく発見。


 メールソフトの受信トレイにあった、アマゾンからの「注文完了」のお知らせ。一瞬、あれ何だっけえと思いつつも、利用頻度が高いのでクリックして文面をみると、なんとアダルト系のお知らせ。ええーっと改めて見直すと、これがanazonというスペル。ひっかかった。おかげで迷惑メールトレイが繁盛している。


 「しまった」の連続を書きだして、かなり大きな「しまった」を想いだす。我が家自慢の2階のスライド書棚。5面が天井まで使える大容量だが、設計士も自分も気づかなかったのは、取り出す時の空間の狭さと暗さ。動けるが窮屈さは否めず、探し出すのに常時苦労する。結局いつも、しまってないからこうなるのだ。

明るいそれらの未来は明るい

2015年01月22日 | 雑記帳
 時間術を特集したビジネス雑誌に面白い記事があった。「グズvsせっかち 人生90年の損得勘定」。年代別に仕事面、健康面を二つのタイプごとに評価するわけだが、これはなんとなく素人でも予想がつくだろう。問題は自分がグズなのか、せっかちなのかという判定である。こう思うこと自体、せっかちだろうか。


 「調べる方法」が載っていた。机で人差し指によるタッピングをし、そのテンポを測るそうだ。1回の平均速度は一般的に0.4秒から0.9秒の間に納まるのだという。その範囲でどちらに近いかで、グズかせっかちかが判定される。マニュアルに沿って行う。1回目0.6秒、2回目0.5秒。この精神テンポはやはり。


 せっかちだとは自覚していなかった。体型的にはのんびりムードを漂わせているように学生の頃から言われてきたし、今までぐずぐずしていて手をつけられない出来事も多かったように思う。あえて言えば、段取りを早くつけたいという傾向はある。これはきっと計画的というより何かに追われている感覚だったのか。


 この記事も言うように、今さら「性格を変えようなどと考えないほうがいい」だろう。気をつけたいのは、この性格が他に悪影響を及ぼさぬように配慮することだ。それにはやはり、自分は○○だという決めつけが一番悪いのかもしれない。居直って気ままにふるまえば、それは我がまま老年?の道まっしぐらだ。


 グズにもせっかちにもメリット・デメリットがあるなら、いいとこ取りを目指すことではないか。自分自身、極端な偏りとは思われないので、ここはせっかち、ここはグズという使い分けを考えるか。いやむしろ、明るいか暗いかの方がより肝心ではないか。暗いせっかち、グズよりは、明るいそれらの未来は明るい。