すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

絵本、ひとまずの振り返り

2024年02月29日 | 絵本
 こども園の読み聞かせは昨日で2月分を無事終了した。まだ様々な感染が出ているなかで、やや心配な面もありつつ実施できている。残すは来月4回、楽しみである。小学校の方は先週で終わったこととなる。この後、春休みがどうなるかわからないので、ひとまず今年度の振り返りをしてみたいとリストを開いた。



 5月から2月までほぼ月2回ペースの訪問である。11月が自己都合と学校側の事情で中止になった。新規に一つ入れてもらったので実施は計16回。取り上げた絵本は29冊であった。訪問校が違っても同学年、近似学年だと同じ本を取り上げることも多い。集団によって違う反応を見せるときもあり、そこも面白い。


 今振り返って印象的な何冊かを挙げてみよう。低学年では『てんてんきょうだい』のアイデアが抜群だった。『ダンデライオン』という古い本も読みがいのある一冊で初夏にちょうどよかった。一度しか機会がなかったが『2ひきのカエル』は洋風落語のようで、勝手にキャラクタータイプと決めている自分にはあった。


 その意味では明らかにナレータータイプが読むにふさわしい『星に伝えて』を読み切ったのは、いい収穫の一つかもしれない。練習の回数も含めて今年度に最も読み応えがあったのはこの一冊か。こども園で扱った同作者の『ふゆのはなさいた』も、読み手として「力」のいる本だった。文章に込もる思いが伝わる。


 もう一冊、印象的なのは『つかまえた』。中学年を中心に三度読んだが、独特の絵に短く端的な言葉が重なって、迫力ある展開が子どもたちの目を惹きつけたことを覚えている。作者の絵本は他にも多いが、集団への読み聞かせとして伝えにくく感じる面もありためらうことが多かった。他にもっとないか探してみたい。

一万に届く頃、エッ!!

2024年02月28日 | 雑記帳
 ふと自分が書いたものを人に読んで(見て)ほしいと思ったのはいつからだったか、と考えた。記憶にあるのは小学校4年生。白ノート!!に描いた漫画だった。貸本屋へ入り浸っていた頃だ。アンドロイドのヒーローの話を友達に見せた。他に上手な子がいて(そいつはAだ)自分は2,3番手だった(笑)ことも覚えている。


 次は中学校1年生の時に「卒業生を送る会」の出し物として劇の脚本を書いた。お笑いを入れたドタバタ劇である。地元の商品ネタ、学校の名物先生ネタを入れた。今思い出すとあまりにベタだけれど、当時はそれで笑いが起こった。その驚きは覚えている。だからか、シロウト脚本は断続的ながらずいぶんと書いてきた。




 印象深いのは高校2年生の時だ。いつぞやも書いた気のする「2Dノート」、それは教室内を回覧する自由帳だ。そこに物語を連載風に書きつけた。といっても駄洒落オンパレードのくっだらない展開だ。それでも70年初頭の高校生のノリでウケまくるのがたまらなかった。他人に読んでもらう快感を知った最初か。


 学校に勤めていた頃の通信活動は、言うまでもない。関心を持っている読み手(父母等)が確実に存在する学級通信、学年通信。人によって関心度は違うので工夫が必要な学校報。そして職員に向けても、研究・教務・教頭・校長とそれぞれの立場からの「発信」という形にし、読んでほしいという願いだけで書き続けた。


 教育実践とは異なる個人的な考えや思いをやや継続的に書きだしたのは、ブログが登場した頃だ。「すぷりんぐ+α」というサイトを2年ほど続けた。HPを開設していたので「+α」とした。Blog黎明期、コメントも続きそのコミュニケーションも楽しみだった。そして仕事や読書を意識したこのサイトを開き19年近い。


 数年前まで添えていた「陥穽から風穴をさがす」という心は未だに残ってはいるが、ずいぶんダラケタ中味になっちまったなあ。現役時代の結構鋭い文章も残るこのサイトを「老害の人」間近の駄文と混在させては、汚れますよ(何が?)。と迷いつつも、なんと5000件目の投稿となりました。1万に届く頃は推定90歳(爆笑)。

ハードカバーでソフトを…

2024年02月23日 | 読書
 珍しいことに、4冊全部ハードカバー、図書館からの本が3冊あるので当然か。中味はソフトなものからちょっとハードまで様々。
 いろいろある、如月下旬。 



 何か軽い小説でもと思って、図書館で目に付いた一冊を借りた。コミック『あんどーなつ』を全巻揃えているくらいだから、このジャンルは好みだ。Re16『和菓子のアン』(坂本司 光文社)…職人ではなく売り子が主人公。しかし和菓子の薀蓄はかなり豊富で面白い。現代的な人情噺といってもいいし、ゆるりと読めた。


 Re17『ことばの社会学』(鈴木孝夫 新潮社)。蔵書点検後に「除籍本」として並べられた中から取り出した。昭和62年刊なので、隔世の感を否めない表現もあるが、論理と洞察力に学ぶ点は多々あった。例えば、録音した自分の声こそが、他人に聞こえている自分の声なのだという認識の仕方は、非常に象徴的だ。

 それは個人の行動・性格にも全く当てはまるし、住む地域や国についても同様だ。客観視できなければ、主観に過ぎない目的達成度など計れるわけがない。さらに、日本人の特性として人を「分割評価」できないという指摘は自らを照らし合わせても納得だ。頑なになるか、緩やかになるか、加齢はそれを突き付ける。


 Re18『星空の谷川俊太郎 質問箱』(谷川俊太郎 ほぼ日)。Webサイト掲載の質問を主にして64の問いに谷川が答える。当然、いわゆる人生相談ではない。詩人の発想を学ぶ意味では、何度読んでも新鮮味がある。人生の比喩はよくあるが、「要約しようとすることにぼくは反対」だそうだ。詩と要約の距離は遠大だ。


 続編があったので借りてみたRe19『アンと青春』(坂本司 光文社)。2冊目になると正直、和菓子の説明にくどさを感じる。『ジャーロ』という雑誌掲載だったのでお菓子関係かと思ったらミステリー誌(今は電子書籍)。確かに…。和菓子の薀蓄による謎解きがあるにせよ、展開は、やや「こしらえ」の感が強すぎるか。

情報を見た者も歴史の一部

2024年02月19日 | 雑記帳
 「秋田犬に、70代男性ももを噛まれる」…このニュース見出しをみて、何か引っ掛かりが心に生じた。詳しい中味は報道されていない。おそらくは放されていた犬が何らかの理由で近づいた人に傷を負わせたということだろう。先週「四国犬が…」というニュースがあり、類似的にピックアップされたのかもしれない。


 引っかかりを覚えたわけは、昔こんなことを耳にした(もしくは読んだ)記憶があるからだと気づいた。「犬が人に噛みついてもニュースにはならないが、人が犬に噛みついたらニュースになる」。まだ野良犬があちらこちらにいた時代だったろうか。「ニュースになるのは普通じゃないことである」と言いたいのだろう。





 話題性、ニュースバリューという言い方もある。現代では犬が飼われるとき、路上ではリードによって人に伴われて行動するのが普通であり。負傷者がいるので問題なしとは言えないが、管理上の不手際だけで、さほどの大事とはいえない。ただ、こうした事故が頻発しないような歯止め、予防の役割は果たすのか。


 ところで、昨秋だったか高校の教師らが校地内で喫煙したことがニュースとして取り上げられていた。もちろん現在の規制については知っている(個人的には行き過ぎだと考えている)が、こんなことまで…と思う。30年ほどまえだったら、タバコを吸った子どもを教師が呼びつけて説諭したが、今は先生が曝される。


 一つの「見せしめ」のようなものか。煙草を吸わないのが普通、吸っても公共の場では駄目、極めて限定された空間のみで許可される…健康被害という語の範囲を疑わざるを得ない。と言い始めてもきりがない。ただ、単純に流れていく情報にも歴史があり、黙認、容認も歴史の一部に組み込まれていくと自覚したい。


「なつかしい声」と言われて…

2024年02月17日 | 雑記帳
 某小学校の1年生、2年生への読み聞かせがあり出かけた。学校へ着くと、2年生に体調を崩している子が多く、1年生のみになったと言われた。2年生向けに話したい中味が少しだけあったので残念だった。それでも、まあこじんまりと教室でやれるのもいい点はある。お迎えの子が来てくれたので、一緒に向かう。


 教室に行くと「知っている」という声。もちろん一学期も来ているし、この子たちはこども園の時から語っているので、見知った顔も多い。PPTをモニターにつなぐために「ちょっと待ってね」と口を開いたら、ある一人の子がこんなふうに言ってくれた。「あっ、なつかしい声だ」…なんとなく、心にじいんときた。


 「生の声で語り聞かせる」ことが、この活動の一番の肝だと思っている。絵本について造詣が深いわけではないので、それなりの発達段階を考慮するが自分好みの選書である。対象人数に合わせ、絵本をモニターに映すことも取り入れ工夫している。けれども、いつでもどこでもど真ん中にあるのは、自分の声である。


 単に以前聞いた声を思い出しただけかもしれない一言なのだが、声で記憶されているなら、嬉しい。幼児や低学年だから練習に手抜きをするようなことは、禁じてきた。積み重ねていくらか声が表情を持ちその子に伝わっているのだとしたら…本当に語り手冥利に尽きる。気分をよくして『あばれネコ』から始めた。

  


 一冊終わったら校長先生から耳打ちされた。「3,4年生担当の方が来ておらず…」。ああっ、承知しました。数分後ぞろぞろと教室満杯の異学年を前に、大好きな『トラネコとクロネコ』そして初めて読む『ねこの木』の二編。内容は、各々の学年なりに聴き取ってくれたか。今日も、声を覚えていてくれたら嬉しい。

意味のない偶然は沈黙に

2024年02月15日 | 雑記帳
 先週月曜、通常休館日であるが本格的な蔵書点検の作業を開始する。前週に2階書庫(閉架)は手をかけているが、金曜までの5日間は臨時休館をして書架全部約7万冊を行う。職員総出(といっても5名)で、ハンディスキャナーを持ちピッピッピッとバーコードをチェックするわけである。4度目のベテランだ。


 作業は気をつけなければいけない点がある。まず単調な連続動作だと、何かの拍子で中断した場合、どこまで処理済みがわからなくなる時がある。目を離すと「あっここはどうだっけ」と自信がなくなる。一瞬の痴呆…また、飽きないように途中でチェック手順を変えたりすると、記憶が混在して飛ばしが多くなる。


 次は、同じ動作の繰り返しによる身体面の不調である。腰や膝は注意するので比較的大丈夫だが、初回、2回目と痛めた箇所がある。手首である。俗にいう腱鞘炎ぽくなる。懲りたので、去年から百均でサポーターを買って二重に巻き、時々左右の手の動作を替えることで、どうにか乗り切る。結構重装備である。



 さて、バーコード読み取りは当然ながら、本の種類などによって作業しやすさが異なる。個々の技術?や体力は異なるし、作業進行にも差が出るのはいつものことだ。協力体制で乗り切るわけだが、スタート時の書架分担はくじ引きで決めませんかと提案があった。ほぼ似たような箇所をやってきたので即賛成した。


 スタッフは昨年と全く同じ。くじは5枚。「じゃあ、お先に」と私から手を伸ばして紙を開いてみたら「B」とある。配置図をみると、「郷土関係」「雑誌等」の書架である。なんだ、また同じか…と思っているうちに他の4人が次々と引いてみたら…なっ、なんとこれが全員去年と同じ書架に当たってしまったのである。


 最初に引く者の確率は1/5。しかし5人全員同じとなると…。えっと驚きつつ、計算式は…1/5×1/4×1/3×1/2となるか。つまり120分の1。それはサマージャンボで1万円当たるより低いぞ!!と思ったら、何か別のラッキーが良かったなと誰かの声。意味のない偶然は沈黙になりはて、ピッピッの音が空しく館内に響く。

いつ、どこで、何を読んでも

2024年02月10日 | 読書
 ペースも乱れているが、自分の乱読もそのままでよい。かの外山滋比古先生が言われたように「風のように読め」がふさわしい。


 めったに読まない時代小説。でもこれは遠い昔に手にしたような記憶もある。Re12『雪明かり』(藤沢周平 講談社文庫)「新装版」となっているからロングセラーだ。おそらく同世代以上の多くのファンは、人間の業や闇を背景にした「煌めき」のような描写に惹かれるのか。理解できるが自分の的からは少し逸れる。


 Re13『日本人 数のしきたり』(飯倉晴武 青春新書)。『「一」のしきたり』から始まり、数ごとの雑学的知識をまとめている。数の見方は本当に多様で、一方では縁起がよくても、全く正反対ということもある。つまり数に込める考え方や思いは、根拠さえ知れば何も怖くないという結論。「数詞」は支配するべきもの。


 図書館で「キツネ」で検索して興味を覚えた一冊。Re14『ぼく モグラ キツネ 馬』(チャーリー・マッケンジー 飛鳥新社)。本の帯には「~~永遠の人生寓話」とあり、ふむふむと思う。生き物の象徴は何かと考えれば楽しい。学びは「ありがちな問いに対しては前提を疑え!!」かな。絵のタッチが実にユニークだ。



 この精神科医はいつも刺激を与えてくれる。Re15『あなたの人生が変わる対話術』(泉谷閑示 講談社+α文庫)。今回は「考え」の価値について揺さぶられた。「『正しさ』よりも、その『考え』が必要とあらばいくらでも変更されうるような即興性と柔軟さを備えているかどうか」。考えの幅や深さより「向き」が問われる。

この冬を能天気に語る

2024年02月08日 | 雑記帳
 それにしても、である。「雪が降らない」。二月も上旬が終わろうとしているのに…。有難いのはもちろんだが、ここまで降らないとなんとなく不安になるものだ。農業にかかわる方々にとっては大事な時期の水不足の心配が募っているだろう。雪が頼みの仕事もあるわけだし、災害とは言えないが災難かもしれない


 では、具体的数値はどうか。頼りない記憶よりは記録に当たってみよう。平成31年(つまり令和になる年)から今年までの西馬音内地区積雪量2/8分を町のデータで拾ってみる。111㎝⇒48㎝⇒158㎝⇒153㎝⇒73㎝⇒(15㎝)となっている。平成最後の冬もかなり少なく似ていたようだ。今後降ってもたかが知れている。



 今年はなかなかいい景色が見られない

 そういえば、去年の夏は東京では史上最も暑い夏というデータが出ていたはずだ。温暖化と片付けるのとは違うようだ。そして大雨…。近隣は大丈夫だったが、県内では大きな被害に遭った。これを「異常気象」と呼んでいいのだろうか。気象庁による定義は「30年に1回以下で発生する現象」と位置付けられている。


 となると、かなり以前から言われている亜熱帯化という説も頷ける。とはいいつつ関東で「大雪注意報」が出たり、西日本で雪が珍しくない状況があったりするので、そういった区分自体が意味をなさないだろう。つまり、断続的な異常気象というより、不規則な気象状況の常態化とでも言っていいのではなかろうか。


 科学的知識の乏しいなかで印象めいた事項を駄弁っているに過ぎない。ただ、この国も含めていわゆる先進諸国の工業化のツケが原因の一つであるに違いない。それは多くの人が感じているはず。そして自分は加担してないと誰一人言ってはいけない状況にある。雪の降らない冬を能天気に過ごせるのは、幸せなのか。

捨てられない「捨」問題

2024年02月04日 | 雑記帳
 何度目かの「断捨離」に気が向いてきたので、書棚にあった某誌の該当記事を読み直した。確認したのは目的が「離」にあり、そのために「断」と「捨」があること。現状「断」は書籍以外あまり気にしなくていい。これが年をとることなのだろう。物欲はあっても、もはや生活必需品以外は積極的に手が伸びない。




 従って、まあいつものごとく「捨」が問題となる。それでも「断っている」のだから古くなるモノはあり、徐々に廃棄はしている。あとはやはり本かあ…と思いつつ、先日もまたネット書店などをみて、唯一購読しているミシマ社の雑誌『ちゃぶ台(12)』を注文した。ところが、その特集名は…「捨てない、できるだけ」。


 半年に1回発刊のこの雑誌は1980円。「生活者のための総合雑誌」を謳いながら高い価格だが、新たな視点が必ずどこかで示されている。特に歴史学者の藤原辰史氏の言葉に教えられる。今回、彼は言った。「地球全体の自然破壊の度合いは『九回の裏』です。試合決着直前で圧倒的に突き放されている厳しい状況だ


 環境問題で妥当な認識かどうかはわからない。ただその切羽詰まった状況の中でどうするかを、「『捨てる』という行為から考えていくしかない」と表現した。この考えはおそらくミシマ社の姿勢とも共通するのだろう。徳島の「上勝町ゼロウェイストセンター」や「本づくりのゴミ」という記事は非常に興味深かった。


 さて、自分の「捨」である。身の回りの整理整頓も環境問題に結びついていることは明らか。具体的には分別、再利用、廃棄方法等になろうが、まず意識するのは「物の命を全うさせる」だ。しかし意外と難しいぞ、これは。見渡す限りの物、モノ、もの…ティッシュ1枚、納豆一粒から気を遣うしかないと諦念する。