すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

力士、来校する

2010年09月30日 | 雑記帳
 大相撲の例の不祥事騒ぎには正直呆れかえったが、実際に関取と会うとなるとそんなことは忘れてしまうから、人間とは現金なものである。

 本県出身の幕内力士、秋場所で敢闘賞をとった豪風関が、縁あって本校を訪問してくれた。
 小一時間の滞在であったが、子どもたちにとっては間近にみる本物のスポーツ選手であり、いい体験になったと思う。

 学校ブログへ http://miwasho.blog68.fc2.com/blog-entry-334.html

 今どき、テレビで相撲を見る子は少ないかもしれない。しかしある程度の認識はあるだろうし、やはり大きな身体から放たれる迫力は印象として深く残っていくような気がする。
 自分自身、小学生の頃に、当時のボクシング東洋チャンピオンが地元出身ということで、母校に凱旋したことは記憶している。

 豪風関は後援者の方々に支えられて、毎場所後に郷土に帰り様々な慰問を続けていると聞いた。どの程度の力士がそんなことをしているかは分からないが、相撲人気低下の中でそうした積み重ねはきっと何かの形で実るのではないかと思う。

 自分が触った!人が、テレビで対戦しているとなると、見方は明らかに違うでしょう。この感覚は大きいと思う。

 さて、今回は豪風関を紹介する役目であったが、出身地等ひと通りのことと、なぜ「関」か、なぜ「豪」か、「力士」とは、といったいつもながらの言語ネタだった。

 本当はネットで調べた愛称?を紹介したかったが、本人がどう思うかわからなかったし、気分を害されて押し込まれでもしたら、と思い怖くて止めた(笑)。

 そのニックネームは、「角界のピカチュー」です。

都合のいい言葉

2010年09月29日 | 雑記帳
 ある機関より職場に送付された一枚の文書。
 訪問者の変更を告げる内容である。もちろん事前に連絡があったので、面食らったわけではないが、次の言葉に首をひねった。

 【事由】都合により
 
 いいのかなあ、何か変じゃないのかなあ。同僚に訊いても同意してくれる。
 「職務の変更により」とか「私用により」であれば、納得できるが、まあ下々のものはそんなことを知る必要がないとばかりに…。
 これが逆の場合は、結構その内容が問われるんだろうなあ、などとひがみっぽく考える。

 さて、日本語としてはどうなんだろう。
 
 都合 「ほかとの事柄との関係、なりゆき、ぐあい」「その折の状況や事情」
 
 ああ、そうだね。これで文脈が通らないわけではない。どこまで詳しく説明するかは、やはり関係性で決まると言うべきか。

 ずいぶん、都合のいい言葉だね。

 とここまで書いて、なんで「都」が出てくるんだと思ってしまった。
 
 調べて、了解。なるほどだ。

 と安心したところ、なんで「つ」と読むのだと思ってしまった。

 調べて…まあ、これはいいか。

 都合があって、止める。

イチローのオノレはどちら

2010年09月28日 | 雑記帳
 イチローが10年連続200本安打を達成した翌日のスポーツ新聞に、ある記事が載った。
 イチローの偉業について作家伊集院静が寄稿したものである。
 10段ほどの結構長い文章だが、その終わり方がさすがに上手い。格好いい。

 昔、日本にも彼と似ている伝説を持つ剣豪がいて、無敵のまま生涯を終えた。その剣豪もまた持っていたのは一点、己にしかできない戦いだった。おめでとう、イチロー。君の苦難の未来に栄光あれ。
 
 この寄稿文のタイトルは「オノレという名の苦難」。

 なるほど、敵はもはや自分の中にしかいないか…。

 ふと、「オノレ」という言葉が気になった。
 これにはまあ二つの意味、つまり「自分」と「他者(に向けて言う時)」があるなあと思ったのが、一応電子辞書で調べてみた。
 そしたら、なんと辞典による大きな?違いを発見してしまった。

 広辞苑と明鏡では、①「名詞」→自分  ②「代名詞」→目下の相手を言う 
という点ではほぼ同じであるが、次の語意「感動詞」の箇所がこうなっているのである。

 【広辞苑】物事に激して自ら励ます時に発する声
      「―――、何のこれしき」
 【明鏡】くやしいときに相手をののしって発する語
      「―――、今にみていろ」
 
 確かに用例の設定も微妙に違うのだが、感動詞として発する点では同じ、それをどう解釈して意味づけたのか。
 「明鏡」にある「相手」とは人間でない場合も十分考えられるだろう。
 その意味では言葉を伝える対象、いや方向の違いが語意に影響を与えたか。

 広辞苑は内向的、明鏡は外向的…少し単純すぎるか。

 激情は内向させた方が何かを達成するエネルギーに転化しやすいような気がする。

 イチローのオノレは、広辞苑でしょ?

100円読書メモいよいよ3

2010年09月27日 | 読書
 5~7冊目となる。

 『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』(中西輝政 PHP新書)
 
 4年前に発刊されている本である。様々な歴史認識があるだろうが、やはり「戦争」ということが大きな点であることは間違いない。教科書的な知識やドラマっぽい理解の仕方ではうかがいしれない事柄もあり、興味深かった。
 「最大の国難~中国問題」の章は、今まさに読むべきことである。
 聖徳太子が送った国書は「対等」の印であった。そこに思いをはせる昨今というべきか。


 『愛が好きです』(中島みゆき 新潮文庫)
 
 なんと昭和57年発刊の歌詞集であるが、いくつかエッセイなども含まれていて、それがまた微妙に面白い。「魔女の辞典」「魔女のことわざ辞典」というコーナーがあって、そうそう、そういえばオレもこんなこと書いていたっけ…と妙に懐かしい気分にさせられた。少し斜めがかった見方は似ているのかな。
 それにしても、彼女は「力加減のわからない人」だと感じた。
 生卵を上手く割ることができないという件もそうだか、「のどにささった小骨」を抜く方法に、その真骨頂を見た。ブラックだけれどね。


 『パレード』(川上弘美 新潮文庫)
 
 初めて読む作家。名作と言われる『センセイの鞄』の人物を登場させて、童話?青春小説?のような世界を語らせた小編とでも言おうか。
 観てはいないけど確か『センセイの鞄』という映画の主人公役は小泉今日子だなということを思い出して、ああぴったりと感じてしまった。この作品も映画にすればきっと面白い。
 どうして鶴見俊輔が解説を書いているのだろう。「パレード」という比喩はずいぶんと広がりを持つなあ…などとあれこれ考えさせる話でした。

100円読書のメモ2

2010年09月24日 | 読書
 『適当論』は書いた。現在5冊目と6冊目を読みかけている。
 これまでのところの読後の印象だけでもメモしておく。

 『おじさん通信簿』(秋元康著 角川oneテーマ21)
 
 いかにも秋元康の書きそうな本だ。言うなれば、自らの日常を照らし合わせながら、世間の「おじさん」並びに「おじさん的行動」を少し俯瞰してみているといったことだ。
 面白い内容ではないが、大まかに人生を肯定的にとらえるというスタンスが安心させるのだろうと思う。やはりそれなりの観察力はある。


 『持たない暮らし』(下重暁子 中経文庫)
 
 この方も女性の社会進出に一役かったと思うのだが、それは高度成長と同じ歩みとも言える。つまり、自らその過程の中で身につけた衣のようなものを脱ぎ捨てて本質を見ようよ、と呼びかけている。
 いろいろいいことを書いているが、都会人が昔の田舎に憧れを抱くことを繰り返しているに過ぎないような印象をもったことも確かだ。

 『ズームーデイズ』(井上荒野 小学館文庫)
 
 以前から気にかかっていた作家(名?)だったが読んだことはなかった。面白かった。恋愛小説とあるが甘美には感じられず、シビアな現実を独白されている、いうなれば「ぶっちゃけ話」のような語り口にも惹きつけられた。
 実際生活では、こんな厄介な女性とはおつき合いは遠慮するが、その関係性を見る目の鋭さは深く納得させられる。なんといっても「荒野」という名前がいい。何冊か読んでみようと思っている。

微々たる歩みに微々たる思い

2010年09月22日 | 雑記帳
 勤務校で昨年5月から始めた学校ブログ。
 http://miwasho.blog68.fc2.com/ 

 先週でアクセス10000をようやく記録した。紙版の学校報ではなかなか載せきれない写真を中心とした形式で、コメントなしの一方通行にしている。
 ネットの有効活用という面からはもの足りないが、日常的な情報提供としては有効な手段だと思う。
 日に30前後のアクセスという程度で、秘かに目標にしている保護者家庭の3割には遠いが、まあまあの線なのかもしれない。

 これに要する作業時間は一日平均して20分ほどであるはずだし、時々話題にしてくれる人もいるので、ある意味いいルーティンワークと言えるだろう。

 さて、記事の中心をなす「写真」であるが、9割以上は自分のデジカメでとる。授業風景は当然だが、行事等であっても極力自分の目できりとった形にしたいという思いが強い。
 どうしても撮れない場合に、他の職員が撮ったものを使うが、そうなるとどうしても作品的に見てしまったりする。自分がシャッターを押したときの感覚というのは大事にしたいものだ。

 と、ナニヲエラソウニ…書いていてそう思った。

 もうひとつ、フォト版の個人ブログを持っているが、こちらはなんとなく開店休業状態。

 なんと5月から更新なし。気まぐれでいいかあ、今頃になって「夏の思い出」をアップしてみようかあ、と昨日チョコチョコッと更新した。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-a796.html 

 雑誌『PEN』が、「写真の学校」という面白い特集をしている。
 一億総写真家という時代だが、何か意図があって写真を撮ろうとする者は、いくつか身につけるべきことがあるではないかと、しごく当然なことを感じながら読んでいる。技術的なことも精神的なことも、という意味である。

 学校ブログも、個人フォトも、まだ続けるつもりでいる。

空白を怖がる貧しさ

2010年09月21日 | 雑記帳
 以前参加した研究会要項のデザインを参考にしながら、パソコン画面に向かってある会の講師プロフィールの配置を考えていた時、ふとこういう自覚を持った。

 ああ、空白が怖いんだ

 どうしても詰め込みたくなる。
 その空白に何かないと収まりが悪いなあと思ってしまう。
 だから、何かごちゃごちゃと入れ込む。

 この空きは無駄ではないか、ここはもっと何か使えそう、有益な情報はまだあるだろう…で、結局はそこを埋めることによって、すっきりしようとする。その空間は、すっきりしなくなるのに。

 物にあふれている住空間、日常生活にもまさしくあてはまる。
 『持たない暮らし』(下重暁子著 文庫)にはこう書かれている

 物に操られ、物を買い漁った暮らしは、貧しさの裏返しだったのだ。
 
 この貧しさは、空間だけでなく、時間にも当てはまるのかもしれない。
 空白の時間の怖さ。
 ぼんやり過ごしている時間を無駄だと決めつけるわけではないが、どこかそういう意識が残っているような気もする。

 もっと局面的には、ある話をする場合に「間」という空白をうまく使えないでいるのもそうではないか。
 問いかけた後の無反応に見える時間が耐えられなくなったりする。

 時々、一流の講演者、授業者に触れて、その間の取り方、落ち着いた待ちの姿勢に感動することがあり、おのれの未熟さを嘆いたりする。

 どれもこれも、空白を怖がる貧しさが透けてみえる。

 高度成長期に育った田舎者の宿命か。

ちょっと良くてかなり警戒する本

2010年09月18日 | 雑記帳
 さすがにこの図書が学校に届いたときは驚いた。

 『ニッポンの嵐』

 送付された文章を詳しくは見なかったが、国土交通省もお金があるねえ、という程度の認識を持った。その後少し気になってネットで調べてみたら、結構それにまつわる学校関係者(勤めている者、家族が教員の者など)の発言があった。これが第一週目のこと。

 二週目に入り、新聞の記事になった。なぜ市販しないのかと思うのはファンの心理だろう。
 ああ、やはり話題が広がったなと思いながら、改めて検索してみて、観光庁がコメントを出したことを知った。
 http://www.mlit.go.jp/kankocho/news08_000048.html
 これを読むと、へぇという気がする。

 この図書そのものについては、なかなかいいじゃないかと思う。
 まあ言うなれば「ディスカバー・ジャパン」の現代版である。詳しく読んだわけではないか、嵐の五人が訪れる場所、訪ねる人も、かなりいい線いっている企画である。
 小学生はともかく中高生など、正直、写真だけでなく文章も読んでほしいものだと思ってしまう。

 しかし、しかしである。
 この本の出所が、とある株式会社だということ、お金はそこから出ていると知ると、アレェーーという気がしてくる。

 これはかなり金のかかった広告ということではないのか。

 全国各地の学校施設にまんべんなく置かれて、この国の素晴らしさを伝えようとするアイドルグループの好感度はさらにアップする。

 そこまでしなくても、もはやスマップを越えたという人は多いし(本当?)、テレビなどへの露出でいいとは思うのだけれど。
 国民的アイドルへ向けての念押しのつもりか。

 学校という場は、結構そんなふうに利用されているのではないか、ということを思わざるを得ない。改めて周囲を見回して警戒してみることも必要なのだろう。

 ただし、この本は、多くの学校でそのまま図書室には入れないようだけどね。
 考えた方は、それだけ人気が高いということを証明できただけでもいいかもしれない。

心の筆使いという妄想

2010年09月17日 | 雑記帳
 心の筆使い

 こんなふうに書かれると、コトバ蒐集癖というか妄想癖というか、そんな体質の自分は思わず立ち止まってしまう。

 気遣いとか心遣いと同じ、と言ってしまえばそれまでだが、そこに「筆」を入れたことで、なんとイメージが広がったではないか。
 筆を使うように心を使いこなすというような感覚だろうか。

 さにあらず…実は、「心」という字を毛筆で書く場合の、点画のつながりを意識させたいという意味で書かれた言葉なのである。
 昨日、本当に久しぶりに書写の研究授業を参観した。その学習過程の中で指導した先生が、カードに書いて黒板に貼りつけたものだった。
 つまりは、子どもに「はねやはらいの向き」に着目させたいがための言葉なのだが、変な参観者の一人は違う方向へ心がはねてしまったとでもいおうか…。

 それにしても、この妄想、なかなかいいと思いませんか。

 筆の特徴としてある、太くも細くも書ける、強さ、弱さ、勢いを自由に表現できる、などは「心」と重ねられる。
 さらに、点画の長短、方向、接し方、交わり方、形を整えること、配列などという指導上の言葉も、何か「心の使い方」として十分通用するような気もする。

 ここまで書いて気がつくのだが、これも技術が伴わなければ上手に使えないのだよ、という真実。

 そしてまた、上手よりもっと大事なことは、丁寧に、気持ちを込めて行うことで、その思いは伝わるはずだよ、という信念めいた経験則。

 ペンや鉛筆だとあまりぴんとこないが、筆に感じられる振幅、緩急という感覚が心に近いから、そんな想像を働かせたのだと思う。

 あなたの今日の心の筆使いはどうでしたか。

適当とはバランスをとることなり

2010年09月16日 | 読書
 『適当論』(高田純次 ソフトバンク新書)
 
 適当という言葉にある二つの語意。
 つまり「ほどよい、ふさわしい」と「要領よい、いい加減」。
 なんとなくイメージとしては「適当」と「テキトー」だろうか。
 「いい加減」と「イイカゲン」も少し似ている気がする。(わかり難いかな)

 この新書の「適当」は「テキトー」と解釈されるものだ。
 裏表紙にもこう書かれている。

 発言の「適当さ」「無責任さ」が魅力となり、一般視聴者はもちろん、各界の著名人にもファンの多い高田純次。 

 高田純次の個性はなかなか得難い。いわゆるキャラがかぶるタレントはいないのではないか、と思う。
 常識にとらわれないトークというよりも、普通の人間が持つ文脈を混乱させる、その混乱のさせ方が意外と人間の本質をついているものだから、はじけたような笑いにつながるような気がする。

 そして、ウケようとしてこんなことを言ったりしたりするということを、カケラも見せないところが魅力だ。彼の人間性そのものをそのままにさらけ出していると感じさせる魅力だ。
 しかし、実際は計算しつくされているのだろうなあと予想する。

 一番心に残るキーワードは「人生はバランスだ」。
 バランスよく何かに取り組むということではなく、良いも悪いもバランスよく表れる、つまりプラスマイナスがゼロになるという発想。
 いいことがあれば悪いことがあり、悲惨な目にあっても次はバラ色になるものだ、そうあるべきだという信念が感じられる。
 これは人生観としては、相当強い考えだ。そういう下地があれば、逆にいつも前向きに考えられる。

 文脈の混乱と感じさせるトークも、結局彼の「バランス」のとり方を、言葉で示しているというように思う。
 一方通行の考えや思いはどうしても重くつらくなってしまう。
 建前としての常識などお構いなしに、さらっさらっと高田純次が語る言葉は見た目通りに「楽観」ということの強さを示している。

 それにしても、この本も作りがテキトーである。
 「高田純次」と大きく著者名?を出しながら、一章が和田秀樹と高田の対談、二章が和田秀樹による高田の分析、三章は記名なし(編集者?)氏による高田純次論、最後の四章わずか20ページばかりが高田の独白という構成である。

 しかし見方によっては、これもバランスがいい。適当である。