すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

( )で括られた苦難の結晶

2019年06月30日 | 雑記帳
 先日、朝のNHKニュースを見ていたら、最近のSNSで「・・・・・ああああああああ(語彙力)」といった投稿が見られることが話題になっていた。(語彙力)という表記を、「語彙力がもっと欲しい」というニュアンスで捉えているようだ。そういう流れで、語彙力辞典を使いこなしている女性を取り上げていた。


 (語彙力)には「(感動が強くて)語彙力を失った」という意味に使われる場合もあるらしい。いずれにしても、言語では表現しきれない状況にある、それほど凄いのだよ、と言いたいのだ。省略表現であり、強調表現とも言えるか。「」に似ているかもしれない。そこに「語彙力」という語彙があるから、注意を惹く。


 ということは、伝えるよりも自分が目立つことを優先していると考えられる。もちろん、肝心なことは「美しい」でも「おいしい」でもその対象に心が揺り動かされた事実かもしれない。しかし、それを文字表現によって誰かに伝えようとするとき、語彙を尽くそうとせず、逆手にとるような表記はいかがなものか。


 と書きながら、これも一つの工夫か、あるいは日本人独特の「察しの文化」か、と思ったりする。人が文字記号を使ってきた歴史は6千年ほどらしい。人間はその前9万年以上は文字なしで過ごしてきたわけだから、急にいろいろな思考や感情を記号化するなど難しいはずだ。だから、その苦難の結晶が語彙だとは思う。

こころ、素直さ、柔らかさ

2019年06月29日 | 読書
 たまたま観たTVドキュメンタリーに映っていたのは、噺家柳家小三治だった。何気なく眺めていたら、「これはね、極意とも言えるんだが…」と切り出した。会話する場面で声色をあまり使い分けないのが小三治の特徴でもあるが、その点についいて、「声色じゃなくてね、その人の心になるんだよ」と、淡々と語った。


2019読了65
 『暦のたしなみ』(小笠原敬承斎  ワニブックスPLUS新書)


 ここ数年、暦や歳時記には敏感だったのに、今年は「夏至」に気づいたのが当日の夕方だった。朝から明るいのは不眠症気味の自分に苦痛だったので、知らず知らずにそうした興味を封印していたのかな。二十四節気・七十二候を身体で感じる暮らしをするには、知識だけでは軽すぎるか。ちなみに今は「菖蒲華」の候。


 著者は「小笠原流礼法」の初の女性宗家。一般にもよく知られている「しきたり・年中行事」等が網羅されて、わかりやすく紹介されている。こうした類ではよく語られることだが、結局は「かたち」ではなく「こころ」だと力説する。ただ「こころ」とは「かたち」を知り沿おうという素直さも含まれると痛感した。



2019読了66
 『死ねば宇宙の塵芥』(曽野綾子・近藤誠  宝島社新書)


 「こころ」の強いお二人の対談。病気、医療、死生観など主張の厳しい方々なので、まさに言いたい放題が続く感じである。ふだんの生活自体が贅沢になったことで、昔は苦しまなくてもよいことに苦しんでいる人間の姿や、医療という名のもとに薬漬け等にされている現状が、ずいぶんと手厳しく批判されている。


 「毎日毎日、やることがあるのが最高のアンチエイジング」と語る二人の共通する死生観は、書名が語っているように思うが、同時に迷いも包み隠さず喋る。曽野は「わからないから、あの世は『ある』ほうに賭けることにしています」近藤は「最後の拠りどころとして神様が出てくる可能性はある」こころは柔らかい。

「わっぱが」な話

2019年06月28日 | 雑記帳
 26日朝刊に例のイージス・アショアの報告書にまたまた誤りがあったことで、秋田県の佐竹知事が防衛省の仕事を「わっぱが仕事」と秋田弁で批判した記事が載っていた。この表現を受けてということはないだろうが、翌日の文化欄連載の「あきた弁・一期一会」に、佐藤稔氏が取り上げたのが「わっぱが」だった。


 我々の年代であれば「わっぱが」は、よく「わっばがしょうあぶらっこ」(塩アブラッコ)と使った。このニュアンスは、「請負仕事→割当仕事→ずさんな仕事ぶり→非難をにじませる」という解説より、もう少し呆れたような感覚を持って批判・非難していたように覚えている。「アレなば、わっぱがだ」というように…。


 まさに今回の調査報告の顛末はぴたりと当てはまる。また「わっぱがそ(しよう)」は昔よく使った。これはパッパッと仕事を終わらせようということだ。ここには割切って早く済まそうというニュアンスがあり、その意味で政府の姿勢に通ずる。視点を変えれば、配置そのものが米国からの「わっぱが」な押しつけだ。


 さて、今回佐藤教授の解説で、「わっぱが」が「わりはか」の変化形で、「はか」が「計・量」を指しているとあり、なるほどと思った。「はがえぐ(はかが行く)」は今も使われている。結構、考えどころのある語だ。「わっぱが」仕事をしていると、なかなか「はかどらず」物事の進行が「はかばかしくない」というオチだな。

令和元年6月26日のこと

2019年06月27日 | 雑記帳
 家周りに植えてあるラズベリーが数日前から結実してきた。これから毎朝の収穫となる。もちろんわずかな本数なので限られた量なのだが、それでも我が家の商品(笑)の貴重な材料となる。小虫が多く飛ぶので、大げさな格好(防虫網の完全防備等)で連日奮闘の始まりだ。また自然の恵みに感謝する季節となった。



 職場に行き、朝一番で昨日打ち合わせた秋のイベントについて、学校へ依頼することをまとめた。その後、役場の方々と町ふるさとCMの三度目の会議。今年も案が通り、今後の予定を詰めていくことになる。撮影は来週から始まる。図書館業務についても町広報掲載や成人式関係など、新規の事がずいぶん進捗した。


 昼食を摂ってから湯沢市役所で開かれている教科書展示会に出向いた。小一時間で、国語教科書に図書館についてどれだけ取り上げられたかを確認する。ふらっと見ると小学校英語、道徳等目新しく感じた。かつての「教科書を」「教科書で」論議とも通ずるが、教えたいこと育てたいことの強い意識化こそ求められる。


 もどってから職員とコンクール関係の相談をした後退勤する。帰宅してすぐに横手の病院へ、未明に産まれた二人目の孫を見にいく。息をし始めて十数時間しか経たないその顔が、何か表情をつくる度に本当にため息が出そうになる。母となった我が次女はちょうど平成元年生まれ、その長子が令和元年の誕生となる。


 祖父母夫婦で祝杯。テレビでは国会や選挙の話題で喧しい。この人はいつもいつも「経済」というけれど、少なくとも本来の意味で使っていないことは確かだ。安心や安全がお金なしで実現できるとは思わない。しかし目指す世界、人間同士のあり方と齟齬はないのか。平成の孫も令和の孫も、守り切らねばと思う。

信念を持つ「趣味」のパワー

2019年06月25日 | 読書
 新書は数多く読んでいる。選ぶ基準はいくつかあるが、比重として「著者」が一番大きいかもしれない。エネルギーを強く感じる人が多いようだ。もちろんそれにはぐいぐいタイプもあるし、深く静かなタイプもある。ほとんど活字からの印象に過ぎないが、それは文体に現れてくるように思う。そんな二冊だった・


2019読了63
 『沸騰!図書館』(樋渡啓祐  角川ONEテーマ21)



 武雄市長であった著者が「時代の寵児」的なイメージでバリバリ進めたときの記録だ。武雄市の大きな二つの問題に対して、当時の副市長が言った一言は問題の本質をよく表している。「市長、僕は病院問題、仕事としてやっていきます。市長は図書館問題、趣味でやってください。」そこにどう展開させるかの鍵がある。


 二つとも利用者視線なのは間違いないが、どれほどの切実さを抱えているのかで異なる。医療と文化という質の違いも大きい。しかし信念を持つ「趣味」のパワーは人間にとって生業のそれより強いかもしれない。著者の考え、進め方もそうだし、従来の図書館に関わる多勢の思いもそうだし、まさに沸騰していた。



2019読了64
 『本の「使い方」』(出口治明  角川ONEテーマ21)


 ここ数ヶ月、読書に関する新書等を数冊読んだ。その中で最も「読書愛」を感じる一冊だった。「使い方」と書名にあるが、一番強く感じるのは「向き合い方」だ。第三章の副題は「1行たりとも読み飛ばさない」。この精神が貫かれている。ただそれは、著者自身が何度も強調するように強制されて出来ることではない。


 「読んでみたい」と心を動かされるような本と出会うためには、そういう場に向かうこと、時間を持つことが必須である。自分の今の仕事の深さや広さを考えてしまう。ともあれ、この一冊は優れた読書案内になっている。紹介のあった数冊はすでに注文済みだ。読書の質に悩む私のような者には参考になった。

梅雨時独り視聴者委員会

2019年06月24日 | 雑記帳
 BS1『CoolJapan』はお気に入りの番組になりつつある。先日のテーマが「空港」。なるほどと思った。外国人が一番初めに接する場、そこに働く日本人の行為、それをCoolと感じることがあるのは誇らしい。冒頭に登場する入国審査官はまさにいい例だ。ここ数年他国の空港で緊張してきたから、実感を持って断言できる。


 空港スタッフ全般の几帳面な仕事ぶり、空港の場そのものの観光地化等、日本人の性格と工夫がよく表されていた。終盤のまとめでレギュラー出演者の荒俣宏が「忍者の精神」を持ち出したのは面白かった。けして表に出なくとも、任務遂行の達成感こそがモチベーションになるという言い方。古いが新鮮に聞こえた。



 録画で観た『踊る大捜査線』映画再放送。初回、2作目とどちらも大ヒットした作品だ。あれから20年近く経つがそれなりに楽しめる。サスペンス&コメディが一般化した作品だ。それにしても、2作目の監視カメラ導入場面に驚いたあの頃だったが、あっと言う間に拡散した。犯罪抑止より摘発の威力が凄い現状だ。


 今活躍している俳優たちがチョイ役で出演する箇所も楽しめる。一作目ではラストの病院場面で青島に寄り添う看護婦が木村多江。やはりこのイメージだと納得。そして2作目、相変わらず演技の下手な小泉孝太郎、声に活気ある佐々木蔵之介等々。小西真奈美はじめ女優陣というのは、あまり変化しないと実感した。



 これもBSだが『ザ・ディレクソン』という番組がある。視聴者の代表がグループを組んで番組構想を練って制作し競う。グランプリをとったのは「バーチャル家族に会いに行こう」という作品。見知らぬ同士が疑似家族なり2泊3日を過ごし語り合うという内容だ。共同生活をして自己を見つめ直すことが趣旨という。


 参加者が食卓を囲みながらそれぞれの家族や生い立ちなど話し合うなかで、考えを深めていく。確かにこれも試みの一つと思いつつ…。バーチャルを通してリアルを考えていくのは、近くと遠くを手早く結びつける手法のように思えた。それは、自分や家族の周りが希薄になっている一つの証左でもあると寂しくなった。

頼りに足る直感とは

2019年06月23日 | 雑記帳
 先日、高校生のスピーチコンテストを見学した。その中で一人の子が「将来のことはまだ決まっていません。」と言ったあとに、こう続けた。「仕事はチョッカン(おそらく直感)で決めたいと思います。」こんなふうに語った子を見たことはほとんどない。発表後、コメントを寄せた教師や関係者もそれに触れていた。


 認めつつも「直感で決めてもいいが、職業選択にはまた別の観点もあるよ」というアドバイスだった。妥当だなと感じつつも、私にはその子に対して尋ねてみたい別の事があった。部外者であるので、呑み込んだ質問はこうだ。「あなたが自分の直感を信ずるとすれば、かつてそのようにして成功体験があったのですか


 もしかしたら競技での勝利体験や、何かの選択を迫られたときの偶然性が彼女にはあるかもしれない。しかし悪いけれど、何かの雑誌で見た誰かの発言に影響されたとも予想される。よくあることだ。ただ、そんな一言をこうした場で堂々と言い放つ雰囲気が出来つつあることに、良くも悪くも変化の兆しを感じる。


 従来であるならば「積み重ねて」「いろいろ体験し、検討して」といった方向性から外れることはほとんどなかった。現在もそれが主流だろうが、実際には様々な選択を迫られる場で、身につけた学習の効力感が薄いのだろうか。そのなかで自分の感覚を信じるという意味での直感は、いい響きを持つし、頼りたくなる。


 しかし、頼りに足る直感とは一朝一夕に身につくものか。個体差はあるからそれで突き進む者もいる。ただ多くは様々な場面で成功・失敗、歓喜・消沈等を繰り返し脳内に構造化?されるのではないか。また「直観」力であれば多量の読書・経験によって鍛えられることは言うまでもない。意識化のレベルが問われる。

わたしも「羽後の子ども」

2019年06月22日 | 教育ノート
 年度当初からやってみたいと考えていた展示物を、ようやく並べることができた。これは元号が替わると聞いてから、なんとなく頭にあったことだ。学校に勤めていた間、長く地域文集づくりに携わったが、その一つに『羽後の子ども』がある。町内の小中学生の作文・詩を集約して46号まで続き、3年前に休刊した。



 その文集を平成元年の分から最終号まで陳列し、手に取って読んでもらいたいと考えた。事務的な手続きが滞ったのか、いくらか欠けている号があり、収集に若干戸惑ったが、どうにか揃った。ざっと目を通しながら各年代から作品を拾い数点展示してみた。当時の写真もカット代わりに使い、コーディネートした。


 元年は第20号である。ちょうど私が実務担当をしていた。記念号としてこの文集を立ち上げた先輩諸氏に寄稿していただいている。文集づくりを教育の有効な方法として機能させていたかつての教師たちが、それぞれの思いを吐露させている。そして、あとがきを記した自分の文章は、危機感と焦燥にあふれていた。



 「今必要なのは心がけやスローガンではない」「意味のない忙しさや形式を打ち破る」などと言った気負った文章は、今読むと赤面の至りである。自分としてはその後も「書くこと」は実践の中核でもあったが、年ごとに地域文集の意義が薄くなっていく様を、なすすべもなく見つめていたというのが正直なところだ。


 それにしても町の子の文章を年に一度集約する大切さは多くの教員が認識していたのだと思う。学校統合が進むまでは継続できた。紙面活字が徐々に廃れゆくなかこの営みの持つ意味を問い直したい。文集として形づくる意味は、一つには時が経ち文章を読み直したとき、きっと何かが立ち上がってくると信ずるからだ。


 偶然だったか必然だったか、最終号に巻頭言を書く役目を果たした。綴ったのは「子どもの生活、子どもの時間」と題した駄文。私たち大人はそれらを保障しているだろうかと提起した。文集から読み取れる子どもの姿に、何を感じ、どう働きかけていくか。読み手の「その時」が問われ、「今」が問われてると思う。

欲望の新しい基軸の導入

2019年06月21日 | 読書
 無職生活をしていて、自分で出来ることはあまり業者に頼らずやりたいとごく普通に思った。それはお金と時間、あとは達成感的なことが絡むだろう。そこに自然保護、環境保全的な視点があっただろうか。残念ながらわずかだ。ただ実際に動いてみたからこそ、便利さに溺れている現在を考える機会はいくらかあった。


2019読了62
 『人にはどれだけの物が必要か』(鈴木孝夫  中公文庫)


 書名はトルストイの「人にはどれだけの土地が必要か」という寓話からとられたと前書きにあり、その筋も紹介されている。ずいぶん前にこの話は読んだ記憶がある。土地もモノもカネも手に入ると「もっと、もっと」とさらに欲しくなる。この限りない欲望とどう向き合うか。古今東西、たくさんの人が問うてきた。


 この著での結論として、「欲望の基軸」の新しい導入が示される。今までの「時系列の発展の判断基準」(昔より今、今より明日をもっと良くしたい)と「他者との比較による相対比較の基準」(隣より金を儲けたい、豊かになりたい)とは異なる、自分の行動が地球に対有害ではないかと問う「地球的原理」基準である。


 「地球にやさしい」はもはや常套句だ。しかしそれをどんなふうに行動化しているか訊かれれば、返答に困る。著者は徹底している。ゴミ拾いの習慣や頻度・量が半端ではなく、一般人の目から見れば尋常ではない。とても真似できるレベルにはない。だからこそ、論として「地球」を持ち出されても納得させられる。


 著者は読者にごみ拾いを強要しているわけではない。しかし、ここ半世紀ほどの間に爆発的に進んだ環境破壊の影響を無視して生活できなくなったことは誰も感ずるはずだ。だから一人がやったって…と思わず、出来る行動をして居場所たる地球を少しでも救おうと、言葉を尽くしている。その熱さに背中を押される。

成績をつけない時間・空間

2019年06月20日 | 教育ノート
 久しぶりにアクセスした「内田樹の研究室」に昨年6月の私学研究会での講演録が載っていた。「英語教育について」と題したその内容は、印刷すると三十数ページになった。外国語教育ばかりではなく、いつものように広く持論を展開しており、学校教育に向けての提言は「成績をつけない」という一言に集約された。


 そう言われても、指導する教員にさえ成績がつけられ序列化が進むなかで「道理はわかるけど…」と割り切って考える当事者は多いだろう。しかし具体的なアクションは初めから無理と決めつけないで、耳を傾けてみよう。「カリキュラムのどこかに、子どもたちが誰とも競争しないで済む時間帯を設けて欲しい」と氏は語った。


 学校勤務時代に毎年いいなあと感じる時期があった。それは学習発表会の練習が始まり、準備が忙しい頃だ。学年・学級に違いはあるが、ハレの日に向けて一体感を高めていくような雰囲気が好きだった。そこには競争はなかったし、評価はしても成績とはまた異なっていた。何より担任が裁量する範囲が広かった。


 またそれとは別に、いつもいいなあと思っていた活動がある。この周辺ではよくやられている、校内マラソン大会となべっこ会が続く一日である。マラソンは確かに競争の象徴のような活動だが、その後に異年齢集団グループで鍋をつくり、一緒に昼食をとるといういわば解放されたときが設定されるのが常だった。


 その秋の一日は格別だった。早めに食べ終わったグループでは遊び始めた子たちもいた。のんびりと食べ続けている子もいる。教師と共に後片付けをしている高学年。時間的な余裕もあり、下校後には会議・研修もいれなかった。こんな日がもっと欲しいと強烈に思った。希求する姿をもっと意識すべきと唇を噛んだ。