すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「呼ぶ」という心構え

2016年10月30日 | 雑記帳
 詩人谷川俊太郎が「呼吸」の専門家である加藤俊郎と一緒に書いた『呼吸の本』を再読した。結構この手の本は好きである。しかし、ほとんど呼吸法は身についていない。これは整理法などもまったく同じで、まあそれもいいかと諦め半分の本読みである。いつも関心があるのは言葉のこと。今回は「呼」が気になった。



 「呼吸」の「吸」はそのとおり「吸う」ということだが、なぜ「吐く」ことは「呼」なのか。実は「呼」を「こ」という音として載せている国語辞典は多くない。明鏡国語辞典には掲載があり、その意味に「➀息をはく」とあった。これでは全く解決しない。手元にある漢和辞典にあたってみたら2通りの解釈だった。


 『常用字解』によると、「呼」は「乎」がもとの字であり、「乎」は「板や鈴をつけて振って鳴らす鳴子板の形」であると解されていた。人(もともとは神)を呼ぶときに使用したところから「よぶ、さけぶ」に用いられて、さらに「息をはく」の意味に使われたとある。はっきりしない。どうして息と結びつくのか。


 『大漢和辞典』は違っていた。「乎」がもとになるのは同様だが、「乎」の解字はこうだ。「乎は、息が下から上へと伸びて、ハ型に分散するさま」とある。これに「口」をつけた、会意+形声文字ということだ。これならばイメージがわく。「呼」とは通常「声をかける」という意味だが、その原義は「息の動き」にある。


 呼吸法の本は多くあり、健康法と結びつく。共通点を挙げると「吸って吐く」のではなく「吐いて吸う」という意識を強調しているように思う。大事なポイントである。「吐く」つまり「呼ぶ」が先にあり、その後入ってくるのである。この流れは呼吸という生命維持の基本だし、「生きる」うえで大切な心構えでもある。

狂言を観れば

2016年10月28日 | 雑記帳
 昨夜は由利本荘市のカダーレへ。「狂言の夕べ」という催しがあり、かの野村万作、萬斎親子を一目見たいと思い出かけた。もちろん能や狂言についての素養はないが、できるだけたくさんの「本物」を…が今年のテーマである。初めての「生」狂言鑑賞は、冒頭に萬斎による解説もあり、結構楽しめた。観客も多かった。



 狂言は「昔のコント」なのだなと感じた。そもそも「物まね」「冗談」「ざれ言」を表したことから発しているはずなので、そんなに的外れではないだろう。いつの時代も庶民は常に笑いを求め、虚構の中に真実を見い出して、自分の置かれた環境を納得させている。演じられた「隠狸」「仁王」もかなり象徴的だった。


 「隠狸」はよく演じられる主人と太郎冠者の騙し合いだ。これは現代社会の諸事に当てはまる気がした。嘘と知りつつ相手を泳がせて、弱みを握る手法など、ありそうではないか。「仁王」は欲深い者の顛末。これもまた不変の真理である。観ているときに即感じるわけではないが、シンプルなだけにストンと落ちる。


 かのコーヒーCM「違いのわかる男」の野村万作は齢85。現役であることに驚く。萬斎は様々な場での活躍が著しいので、前から注目していた。本業をしっかり観られて良かった。ふと思い出したこと…狂言は2回目だった。保育所のときお寺の本堂で観た。あれは「附子」だった。五十数年前のことを覚えている。

「しねぁぶろぐ」と居直る

2016年10月27日 | 雑記帳
 「しねぁ」という方言がある。「しにゃ」という発音が近いと感じる人もいるだろう。これはいわゆる共通語にない表現である。『秋田のことば』によると「強い」と訳されているが、そう単純ではない。『秋田語の教科書』によると「歯で噛み切れないスジやイカなどの弾力」と記されていて、こちらの意味が当てはまる。



 最近、「しねぁ」ものは少なくなっているようだ。学校給食では時々「かみかみメニュー」として歯ごたえのある食品が出されたりした。しかし堅めということで、噛み切るのに難儀するわけではない。思いつくのはスルメだが、めったに口にしなくなった。また、昔は肉も「しねぁ」かったがずいぶん柔らかくなった。


 ぱっと思いつくのはホルモンか。もちろん化学物質ではなく、いわゆるホルモン焼きである。少し前は、ホルモン好きの女子をホルモンヌと呼んでいた。見た目はグロテスクな臓物でも栄養価は高く、美容効果があったからだろうか。その意味では「しねぁ」くとも噛んで口に入れることで、身になっていく典型だ。


 何故こんな与太話を書き散らしたかというと…。実はこのブログ投稿が3000という数に達した。開設して10年以上経つので、今月半ばにもうそろそろと思っていたが今日がその日となった。読書記録として始め、わずかな教育実践も組み入れてきた。結局身辺雑記が多くなったけれど、それも自分としては懐かしい。


 2年間ぐらい一日も休まず続けたこともある。いくら思いつくままにと言っても、多少の馬力が必要だったので、何かの足しになったかな。実は三月末で閉じようと決めていたが、思い切れぬままに今に至る。この状態、なんだか「しねぁ」と思いつき、書き始めてみた。もう「しねぁぶろぐ」と居直るしかないか。

今日何か抑制しましたか

2016年10月26日 | 読書
Volume26

 「どんどん自己限定を進めて今に至ります。現代の情報社会は、選択肢が多すぎる。意図的に自分を抑制しないと、翻弄されて疲れ果ててしまう」 


 脚本家山田太一が、インタビューに応えて語った言葉。

 かつて「可能性のよき断念」という実に印象深い言葉を拾ったが、その具体的な行動の一部を指し示している言葉だ。



 人間が構成する集団生活の総称を「社会」と呼ぶが、社会に個人が翻弄されるという状態は、個人が自分の位置づけ、方向づけをはっきりしていないからだと考えられる。
 何かが消滅し、何かが生まれながら、社会は日々変化し続けているわけであり、それは個人がどんなに確固たる意志や身体を持っていてたとしても(ほんの少しであっても)変わっているからに他ならない。

 その自分の変わり方を意識的に見る、できるだけ意図的に操作するという点が大事ではないか。
 
 「抑制」という二文字に込められる響きは、「自立」を目指す足音のようなものである。


 今日、何か「抑制」しましたか。

検索を「賢策」に

2016年10月25日 | 読書
『検索バカ』(藤原智美 朝日新書)


 この新書の冒頭は、著者の自省の一言から始まる。

◆私も「検索バカ」である

 そう言わざるを得ない日常に生きている私たちを、しっかり見つめている。

 結論は、ここにある。

◆大切なのは「検索」ではなくて「思索」なのです。

 難しい時代を承知で、著者は「考える」ことの重要性を説き続ける。
 
 そうだ、結局、あの池田晶子もそれしか言っていなかった。



 自覚的になるためのポイントはいくつか挙げられるが、概観するために章名を並べてみよう。

1章 検索バカは、何を失くしたか
2章 クウキに支配される日常
3章 「やさしさ」と「暴走」の時代
4章 不安定な「場」としての家庭、教室
5章 「予定調和」はいつ誕生したか
6章 同調圧力が独自の「思考」と「行動」を奪う
7章 世間から露骨へ
8章 失われゆく「対話」と「議論」
9章 身体性なき言葉は、貧弱になる
10章 沈黙の力
終章 生きることは考えること


 ここから何を思索するのか。

 「時代に流されるな」…言うは易く行うは難し、である。
 もっと「自己内対話」に時間と集中を注ぎ込み、言葉を自分に取り戻すことだ。
 そのために、まず自分の頭で考える。
 しかるのち、本当に必要だったり興味がわいたりしたら調べる。
 そして、むやみに信じない。

 そんな心がけを一つでも多く。

 そうすれば、検索は「賢策」になる。

手で舞い、足で踏むこと

2016年10月23日 | 雑記帳
 昨日の午後は、地元にできた「鎌鼬美術館」のセレモニーやイベントのビデオ撮影を頼まれて出向いた。明治期に建てられた旧地主の邸宅を利用したミュージアムである。開館セレモニーに続き、西馬音内盆踊り、記念講演が行われ、イベントの締めとして「儀礼舞踏(祝舞)」が行われた。久々に目にした表現だった。


 (鎌鼬にちなんで?このイタチが館長!ということでした)

 学生時代にわずかに見た記憶があり、また二十数年前に同じ地区の雪祭りでいわゆる「暗黒舞踏」を目にしたことがある。あの時は学校の児童と共に人形劇を演じた後、舞台横から呆然として観た記憶がある。今回とは趣きが全然異なるが、いずれにしても舞踏を見て楽しむ感性、もしくは知識が自分には欠けている。


 そもそも「舞踏」と「舞踊」はどう違うのか、わからない。検索すると様々な解釈や論がある。一般的には「舞踊の一種として舞踏がある」ような括りになっている。しかし外国の解釈は、ダンスとブトーに分かれるようで、演じる側は明確に区別しているのだろう。「踏む」を「ステップ」以上にとらえていることだ。


 今回は開館記念であり「地固め、田楽舞い」と題した祝いのための舞踏であった。その観点では「踏む動き」に込められる意味は大きい。開館趣旨の一つに「舞踏を知り、舞踏で交流を行う」が挙げられていた。それ自体はユニークで個性的だと思う。またそれゆえハードルは高い気もするが、文化振興は応援したい。

ウルガシテおいたこと

2016年10月22日 | 教育ノート
 『ごちそうさん』の再放送をみていたら、米をとぐシーンがでてきた。ふと「ウルカス」という言葉が浮かんだ。最近あまり使われなくなったように思う。スピード化の世の中、その行為が不要になったのか。確かこの言葉には寄り道したはずだな、と調べてみた。念のため辞典を当たると、大きい辞書には載っている。




・・・・・「ウルカス」2004.11.20より

 5年生の家庭科の研究授業を参観した。
 「おいしいごはんの作り方」というテーマで子どもたちが調べてきた結果を報告しあう時間だった。

 一人の子が「米をウルカス」と言ったら、担任がなにげなく
 「水に浸しておくことだね。ウルカスは方言だよね。」
と軽い一言。
 授業はその後もよどみなく進んだが、私の心の中は「えっ、ウルカスって方言なの」とちょっとざわめいていた。

 授業が終わって、さっそく電子辞書で調べる。
 広辞苑にはない!(注:現在の版はあります)
 それではと、ネット検索。
 「道語辞典」と称した北海道弁のページに発見した。
 やはり方言か、と一人で納得して傍にいた同僚に何気なく伝える。
 「えっ、ほんと」ということで、別の辞典でも調べたが、当然のことのようにない。

 「ウルカス」は「潤う」+「かす」であることが判明。
 「かす」…「淅す」という言葉を初めて知る。
 それ自体に「米を水で洗う、とぐ、浸す」という意味がある。


 さて「ウルカス」(私の周辺では「ウルガス」だが)。
 「水につけて米をふくらませておく」
 「使った皿などの汚れをとりやすいように水につけておく」
 の他に、「物事を決めずに保留しておく」という場合も使われる。

 これは「棚上げ」と同義だろうが
 語源から考えると、少し違ったニュアンスにもうけとれる。
 つまり、「問題がふくらんでいて(いい状態)になっている」
 「問題の汚れがとれてすっきりしている」
 そうだとすれば、処理がしやすいということなのだ。
 しかし、現実の場面はどうか。

 「コレ マズ ウルガシテ オグガ」と言った時、時間の経過がよい方を示すとは限らないような気がする。
 中には、そう言ってしまってなぜか安心し、すっかり忘れていることもあるのではないか。
 仕事のことだったら、周りの誰かが気づいたり、催促されたりするが自分自身の問題は気づかないものだ。

 ウルガシテいたことがないのか
 ウルガシテそのことは今どういう状態なのか
 少し、心が落ち着かなくなっている。

・・・・・・・

 今は、ウルガシテおくことがあってもいいよなあという気分になっている。

堂々とブレていい

2016年10月21日 | 読書
Volume25

 「テレビでは政治家で『ブレる』人はだめだとよく言いますが、私たちの日常生活ではブレる人のほうが強いのです。堂々とブレるべきなのです。」 

 「~~すべきだ」「~~すべきでない」という決めつける言い方の多用にみられる考え方は「べき思考」と称される。
 それが強くなり思い込みが過ぎると、当然ながらいい精神状態とは言えなくなると和田秀樹氏は指摘し、上のように語っている。
 (この文章自体も「べき」になっているのは皮肉か。「ブレていい」が良いと思う)



 曖昧なことばかり言いやがって!なんだっ玉虫色かよ!…そういう批判がよくされ、まあたいていそれは的を射ている。
 しかしその考え方は、変わらないこと、揺らがないことが最高価値であるような判断がされている。

 もちろん、政治家のようなリーダーの言辞がころころと変わっていくようでは困る。
 しかし、庶民は変わってもいい。
 その都度考えて、ベターな方を選択していくことが生きる知恵でもある。

 結局、どの段階で「ブレる」か、なのである。

 一番優先する、自分にとっての最高価値さえ間違えずにしっかり抱えていれば、他人にはブレて見えても一向に構わない。

 むしろ、選択の幅を拡げて柔軟に行動していると堂々としてればいい。

眠れぬ夜にウチダ節

2016年10月20日 | 読書
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(内田樹  角川文庫)


 読んでいないような気がして、中古書店で求めた文庫だったが、しっかり書棚に並んでいた。

 ちょっと面白い感想も書いていた。→こちら

 しかし9年前の発刊、もう一度と思い読み直してみた。
 考えると、仕事を辞めてから内田本は読むのは初めてになる。

 結局、いつものごとくうんうん頷きながら読み進めた。
 確かに難しい部分もあるけれど、やはり肌に合っている。

 そんな自分の感覚を見事に言い当てている文章がある。

◆ある著者の「愛読者」というのは、その人の「新しい話」を読みたくて本を買うわけじゃない。むしろ「同じ話」を読みたくて買うんだと思います。

 文学の世界だけでなく、音楽界の例を引きながら論を進めている。
 なるほど、好きな小説も、好きな音楽もその通りなのかもしれない。

 ああこういうフレーズが好きだなあ、胸にガツンとくる、許されるならオオオウッと拳を上げたくなる(そこまではしないか)…
 
 では、この文庫ではどんな「同じ話」かというと…

◆「むかついて」人を殺す若者や、一時的な享楽のために売春やドラッグに走る若者は「利己的」なのではありません。「己」が縮んでいるのです。「自己中心的」なのではありません。「自己」がほとんどなくなっているのです。

◆現代人は「群れと行動をともにする」ことの生存戦略上の有利さと安全性をを過大評価する傾向にある。

◆欲望の充足を生態系の安定より優先的に配慮する生物、それが人間である。



 大きく括っていえば、この著では、生き方の多様化と言われつつ、どこまでも単線化に突き進んでいることへの鋭い指摘がある。

 身についている「型」を注意深く掘り起こして、自分の身を守っていくことについて考えている。

納豆ネタが糸をひく

2016年10月19日 | 雑記帳
 「たべびとブログ」に納豆汁のことを書いていたら、結構よみがえってくる思い出があった。私が小2の時亡くなった祖父は、よく納豆をすり鉢でつぶしていた。それを傍でじっと見ていた気がする。ほどなく自分がその役目を担うことになった。「納豆つぶしは男がやるのだ」と祖父に言われたような気もする。



 納豆といえば、よく話題になるのが調味料のことだった。現在だとタレ付きが普通なので、地域や家庭による違いは少なくなっていると思う。私が育った家では「県南砂糖王国」を象徴するように、砂糖と醤油であった。高校生の時、たまたまその話題になり、砂糖を入れない家庭があったことに驚いた記憶がある。


 納豆を使った料理はバリエーションが多くなり、楽しめるようになった。昔に比べると匂いもきつくない気がする。それでも苦手な人が多いのは確か。そんな人に食べさせるおせっかい?も楽しい。かつて大嫌いという同僚に、知り合いの店でマスターに頼み、串揚げにしてもらったらなんなく食べたのは痛快だった。


 幼い頃は自宅で藁に包んで作っていた。いわゆる藁納豆。しかし当時は「チチコナットウ」と呼んでいたような。気になって調べたら「チチコ」とは「人に贈る土産物」の意味で「包み」に由来することに納得した。ところで、納豆を取り上げた名曲をご存知だろうか。『くどい太めの納豆売り』bye伊藤秀志。笑える。

 こちらのyoutubeで→https://www.youtube.com/watch?v=TY0Ir_iCxSg