すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

表現が奨励される教育の陥穽

2015年11月30日 | 雑記帳
 今日の話題の一つは、作家村上春樹の福島でのイベント登場だろう。

 マスコミのどれもが報じている。新聞でも大きく紙面を割いている。
 購読しているのは県内紙なので、おそらく共同通信だと思うが、記事の後半にこういうことが書いてある。


 村上さんは、登壇前に地元の高校生と語り合う場を持った。「高校生が一番今、共通して困っているのは、自分をどう表現していいか分からないということだった。何も表現できないなら、引き出しにどんどん入れておけばいい。表現できないことを恐れてはいけない」と助言したと報告した。


 この部分には考えさせられた。

 以前との比較とは記していないが、村上氏はそういう傾向が強くなっているのだと感じたのだと想像できる。
 この場合の「表現」とは自己表現、実現だと思うが、根本は表現教育に通ずる。
 「自分をどう表現していいか分からない」と困っていることを、「それは教育する側が、表現する方法をきちんと教えていないからだ」というように理由づけするのは、ちょっと違うと思う。

 おそらく、高校生たちの一部のなかに(これは福島とか東京とか秋田とか、関係ないと思う)表現が奨励される教育に対するアレルギーめいたものが生じているのではないか。

 小学校いや就学前から、表現、表現と言われ続けている現状がある。
 その理由については、今さらここで記すべくもない。
 ある意味で認めるし、自分も推進してきたことは素直に認める。

 しかし、その陰でなかなか馴染めなかったり、もう容量がいっぱいになってしまったりした子はいなかったか、と真摯に振り返るべきだろう。
 心ある実践者は、一律に進めないことでケアをしてきたことだろう。
 けれど全体としての表現重視は、単なる学業のことだけでなく、生活場面や進路選択の場でも深く浸透して、結果、重荷になっている場合があるように思う。


 軽快な喋りをするある有名人が、小学校時代はひどく寡黙で一人机でじっとしているタイプだったなどという例は少なくない。
 表現重視で全てを覆わない、速まらずに組み立てること。
 もう一度見直してもいいことではないか。

一種の人生訓小説

2015年11月29日 | 読書
 【2015読了】119冊目 ★★
 『マリアビートル』(伊坂幸太郎 角川書店)
 
 ふううっ長かった。月曜から始めた入浴読書だったが、今朝ようやく読了。460ページを超すボリュームは久しぶりだ。読み終えてからサイトを見たら、今映画化されている『グラスホッパー』に連なるらしい(未読だ)。いわゆる「殺し屋小説」。その名の通り、ごく簡単に人が殺されていく顛末、しかも東北新幹線内だ。


 伊坂作品は久しぶりだった。次々に人が亡くなっていく筋はあまりピンとこなかったが、相変わらず会話の妙は冴えている。檸檬と蜜柑という殺し屋コンビが、それぞれ得意な分野「機関車トーマス」と「小説」で応酬する箇所が随所にあり、テンポと切り返しが楽しい。考えようによっては、一種の人生訓小説だ。


 中学生の「王子」が執拗に繰り返す問い「どうして人を殺してはいけないか」は、かつてセンセーショナルに取り上げられた頃のことを思い出す。様々なパターンの答えを登場人物に語らせ、「王子」が反駁、論破させていく手法もある意味見事だなという気がする。読者もそのどれかに入っているように感じさせる。


 次々に殺し屋が登場し、それらも殺害されて数少なくなるなかで、いったいどんな形で結着するのか、途中から気になりだした。最終的に「木村」の父母が動き出したときに、ああこの人たちが駄目だったらちょっと救いがないなと思えたが、安心できた形で終えられたことにほっとした。世代的な共感ということか。


 筋には関係ないが会話を楽しくするコツも学べる。それは多くの伊坂作品にもあるが、この作品は特に多い。上に挙げたように小説、物語の一節を使うこと、マーフィーの法則など知られている用語を使いながら変形させること、そして「死んだ親父から…」というパターン。いずれも「引用」の有効性を強く感じる。

道場にある言葉

2015年11月28日 | 雑記帳
 午前中に剣道大会があったので応援にいった。課外スポーツに関して児童減が顕著なのに、子どもたちの選択肢は増えている現状がある。古い歴史を持つ剣道も人数減は否めないだろうが、それでも根強く残っていると思う。ともあれここにも横断幕は広げられる。ああ、他の競技の言葉とは、はちょっと違うなあ。


 「活人剣」という三文字。これは意味は予想できる。広辞苑にも載っていた。「人を活かす剣」ということ。反対語が「殺人剣」で、ふと映画「るろうに剣心」を思い出す。ネット検索してみると、なんとあの柳生宗矩の言葉ではないか。「活人」自体が熟語でいい意味を持つ。結構、ほかにも応用できそうな言葉だ。



 「疾風迅雷」…風のように速く、雷のように激しくということだろう。確かに試合に臨む剣士の心構えとしてはふさわしい。対戦を見るとしっくりくる言葉だ。四字熟語として広辞苑にも載っていた。「すばやくはげしいこと」の喩えとなる。類語として「電光石火」があるようだが、剣道にはやはりこちらが似合う。



 わが校剣道部は「自彊不息」。「じきょうふそく」と読む。広辞苑には「自彊」はあるが「不息」はない。ネット検索にはある。四字熟語というより「易経」の文章の一節である。「(息)やまず」という読み方もあるようだ。意味は「自らから務めて励み、怠らない」。やはり「道場」で培いたい精神は一貫している。

ぎゅうぎゅう詰めの晩秋記

2015年11月27日 | 雑記帳
 先週金曜のセミナーを一つの区切りと考えていたので、連休を挟んであとは少しゆとりを持って…などという考えは、休みが明けたらあっという間に吹っ飛んでしまった。そりゃそうだ、先週は年間でもしかしたら一番忙しいかもと思ったほどだった。その余波はまだまだ高いのだ。ぎゅうぎゅう詰めの晩秋記である。


 火曜日。まずはセミナーのまとめの校内報作成に取りかかったが、電話やら問い合わせやら決裁やら出てきて、どうにも進まない。合間をぬって三分の一ほど打ち込む。その他、学校報の行事予定、職員会議レジュメを仕上げ、さらに来週の閉校式挨拶を考え始める。16時より企画会。その後、学年部から相談あり。


 水曜日。昨日取りかかった文書の仕上げの一日。校内報は感想のまとめ方が単純すぎるので一工夫を加える。五年生の収穫感謝祭、おにぎり作りや会食などをしているので、写真取材。そしてそれをネタにブログアップ。学校報も完成。17時半に予約した歯医者へ。毎週通っているが治療が進まない。しかも今日は痛い。


 木曜日。朝は剣道部の激励会。「剣道の得点(一本)は難しい。声と姿勢が大事」と話す。ようやく閉校式の第一次原稿を完成させる。4校時は3年生の国語補充。午後は職員打ち合わせで20年勤続表彰。3名もいる。職員会議を中座して教育長との人事面談。もどって書類修正して退勤。理髪店へ行き、その後実家へ。


 金曜日。街頭指導後に、明日土曜は大会応援と式典出席で忙しく行けないので1時間年休をとって通院。学校にもどり人事書類を完成させ送付する。他のノルマ達成はできないままに、午後から特別支援教育セミナー。授業参観後、研究協議、全体研修と続く。「教えやすさから学びやすさへ」を最後の挨拶で少し話す。

鉄板ネタ?で遊ぶ

2015年11月26日 | 教育ノート
 今週の初任者研修に入る職員の学級の後補充を頼まれた。確認したのが先程でろくな準備もできないが、担任にどこをやっているか訊いたら『ちいちゃんのかげおくり』の読みとりに入っているとのこと。途中からでは無理だなと思いつつ、手引きに「動作を表す言葉」があったので面白そうだなと、少し見入った。


 「『見る』に関係のある言葉」「『言う』に関係のある言葉」を、物語の中から見つけ、意味の違いを考えようということだ。ああ、そういえば確かに、この物語は冒頭に、そういう言葉が豊富に出てくる。「見上げる」「見つめる」「見える」「目を落とす」…「つぶやく」「きき返す」「たずねる」「せつめいする」「さけぶ」…



 うーん確かに面白そうだ。「類語(なかまの言葉)」ということを教え、集めさせ、意味を確認し、使ってみる(文作り)と流したいが、準備不足は否めない。少なくとも自分でピックアップし、例文を作っておかないと…仕方ない、では鉄板ネタ?の「ことばのかいだん」でいくかと、あっさり方向転換してしまった。



 ワークシート(といっても簡単なマス)を印刷し、準備完了。元気のいい子たちと挨拶をして開始である。マス目のシートを渡すと、ナニナニという目、「ビンゴでもやるの」という声。少しやり方などを確かめて、「語頭指定(頭韻)」「語尾指定(脚韻)」と進み、「語頭・語尾指定」までやった。面白い作も出てくる。



いき
いしき
いしがき
いしきてき


いき
いいき
いきいき
いっぽんぎ


 今回は字数指定だけの「お話づくり」を後半に扱った。「あ/いぬ/こわい/はしろう/こないでよ」と階段式に書くだけでは子どもたちはぴんとこなかったが、大げさに読んでみると「ああ」とすぐ納得してくれた。言葉遊びでもあるが、結構言語感覚を養うにはいい教材かなと思う。いい作品は読んでやると喜ぶ。



はな
すみれ
たんぽぽ
きれいだな


うま
にげる
やばいぞ
つかまえろ


うそ
なんで
せんせい
おこらない



うそ
ほんと
うそなの
ほんとなの

ゴドからゴミのような話

2015年11月25日 | 雑記帳
 昨日職場で学校田のことを話していたら、同僚の一人が「ゴド、ナゲラレテいるところがある」といったことを口にした。「ナゲラレル」というのは「捨てられる」の方言である。まだ一般的に使われている。問題は「ゴド」。もう十年、いや十数年は耳にしていないかもしれない。想像できるだろうが「ごみ」のことだ。


 夕食時に家人にそのことを言ってみた。同世代の話題として方言ネタは鉄板なので、盛り上がった。すぐに愛読書『秋田のことば』を調べず、しばしビールのおつまみとして話す。「ゴドのドは、土と書くのかな」などと変なことを言う。そういえば昔は、ごみと言ってもみんな土に還るものばかりだったことに気づく。


 「誤土かなあ」と想像するのは楽しいが、単なる当て字だろう。それなら「護土の方がいい」などと応戦しつつ、その発想はかつて「ごみ」は「護美」と何かのCMで使われたことに気づいた。ここで語源を求めて『秋田のことば』を開く。357ページ、ナニナニ「ごど」…「ごみ」。それだけかいっ!がっかりだよ。


 他に手がかりになる言葉もなさそうだ。仕方ないと、本家の「ごみ」を電子辞書で調べる。三種の辞書を比較すると、少し面白いことに気づいた。漢字は「塵・芥」とどれも同じであるが、「自然にたまるきたないもの。ほこり。また不要になって捨てられるもの」とふだん通用する意味のみ記述しているのは明鏡だけだ。


 広辞苑と日本国語大辞典には、最初に「水の中に浮遊したり、水の底に沈殿したりしている泥」を挙げる。それから「その場所を汚している、役に立たないもの」と続く。なるほど、ごみの始まりは泥か。ごみの別名としては「ちり」「あくた」「かす」「くず」などがある。「きたない」という共通点で括るのだろうか。


 ブリタニカも面白い。「(略)今日ではそのものが製品や資源として価値を持っていても、所有者にとって不要となり、所有する意志を放棄したものがごみであると考えられている」消費社会の拡大が廃棄物を増やしたように、地球や人間社会も、特定の誰かを「ごみ」と名付けたり指さしたりしてはいないだろうか。

まさに、まさにと苦笑する

2015年11月24日 | 読書
 【2015読了】118冊目 ★★
 『行為の意味』(宮沢章二  ごま書房)


 「こころはだれにも見えない/けれど、こころづかいは見える」という印象的なフレーズが、あの震災後のTVで流れ続けた。その折に知った詩人であり、原詩の「行為の意味」を集会で話した記憶がある。たまたま詩集を見つけたら「青春前期のきみたちに」という旧題があり、ずいぶんと手遅れ(笑)と知った。


 全編を読み通し、気づくことがいくつかある。収められた多くは中学生対象の冊子に書かれた作品であり、大半が4連の構成をとっている。当然スペースの関係があろう。型としては「起承転結」というより「起承結」的なまとめ方である。なんとなく連想したのは坂村真民の詩。仏教色は薄いけれど、似ている。


 ある意味では、ソフトな「説教」と言っていいかもしれない。ところどころに、本当にいいフレーズがあり心に沁みる。言葉に対する目のつけどころ、センスがいいからこそ「詩人」なのだから、当然とは思う。しかし難解な現代詩を読むにつけ、こんな言葉を使う人こそ、本当に伝えることを大事にしていると感じる。


 目が 一定の方向を指す行為を
 <めざす>と いう
 心が 一定の方向を指す行為を
 <こころざす>と いう



 「黎明の季節」と名づけられた最終章は、それまでの中学生向けとは違い、童謡のような作品が並ぶ。資料をみると小学校教科書に採用されているらしい。こちらは、どこか金子みすずの作品を彷彿させる。共通するのは、小さき弱きモノへの眼差しである。なかでも「知らない子」「はるをつまんで」は傑作である。


 いやあ、それにしても老年前期の身には、「性能が良くても ポンコツであっても/自分という車は 自分でしか運転出来ない」と始まる「自分でわかっている」という詩は、殊更こたえる。結局自分は中学生から進歩していないのでは…と時々苦笑したりするが、まさに、まさに。最終連四行をそっくり引用する。


 一年が終わろうとする北風のなかで
 自分の車の調子は自分でわかっている
 要するに 生きて前進し続けるためには
 自分という車をまじめに運転するしかない


皿を見て一事が万事

2015年11月23日 | 雑記帳
 隣市にある温泉施設が休業すると聞き、この連休中に家族と訪ねてみた。もう20年以上前になるが、開業した頃は結構利用したような気がする。職場で連れ立って行っただけでなく、個人としても宿泊したことが数回ある。広い浴場、なかなか洒落たレストラン、付随する施設もあり総じてよかったという印象がある。


 思い出は赤いボンネットバス。職場(現在務めている学校だ)の忘年会で利用した。その宿泊日がなんと終業式の前日、みんなでそのバスで子どもたちが登校している時間帯に玄関先に降り立った記憶がある。前夜の盛り上がりは凄かったし、いったいどんな顔を見せていたのだろう。つくづく、いい時代であった。


 さて、いわゆる第三セクター運営となっている地方の施設が、休業、閉業に追い込まれていることは珍しくはない。その理由としてこの辺りでは、震災以後の客足が伸びないことを挙げる。確かにそうなのかもしれない。しかし改めて休業間近な箇所を訪れてみて、本当なのかと、少し首を傾げたくなることもあった。


 関心のある「食」に絞って語ろう。何度か経営者が変わったため、メニューに一貫性がなかったのは仕方ないことか。しかし結果的に「あそこに行けば、あれがある」というイメージを築けなかったことは大きい。規模からすると、家族向け、中小団体向けがねらいだが、先鞭をつける者の舌を納得させねばならない。


 休業間近で混み合い忙しくしている従業員たちがモチベーションを下げているのか、残念な食が目の前にあった。そのいちいちは記さないが、白いスープ皿の拭き取り跡が残っているのは少し悲しかった。評論家気取りで些細なことを遠因に挙げるわけではない。しかし皿を見つつ「一事が万事」という諺が浮かんだ。

働かないヒトの希望と真実

2015年11月22日 | 読書
 【2015読了】117冊目 ★★★
 『働かないアリに意義がある』(長谷川英祐  メディアファクトリー新書)


 数年前に話題になった本である。結構ロングセラーにもなっているらしい。理系の読み物は少し苦手意識があり、この本も理解度十分とはいえないが、刺激的な書名にふさわしく面白い知見が豊富にあった。「身につまされる最新生物学」というコピーはなかなか的を射ている。読んでいて思うのは、人間のことばかり。


 この本にはアリだけでなく、ハチなどの例も出てくる。質の違いはあれどやはり社会的な生物ということに変わりはなく、だからこそ、百田尚樹の書いた『風の中のマリア』のような物語ができると改めて確認した。「社会性昆虫」という言い方は、格差や労働などの厳しさをイメージさせるが、実際の中身はずっと深い。


 説明文教材で有名な「ありの行列」に登場するウィルソン博士(だと思う)の研究の、そこに書かれていない範囲のことが取り上げられていない興味深い。
 例えば

 道を間違えるアリが交ざっているほうが、エサを効率よく取れる場合がある

 これは「間違って迷っているうちに近道を発見できる」という例を根拠にしている。これ一つとっても、なかなか味わいある警句になっているではないか。


 「働かない働きアリ」についての言辞は、さらに奥深い。その存在は「ムシたちが用意した進化の答」だと結論づける。「働かないアリ」とは刺激に対する反応の違いによる個性なので、「働けないアリ」とも言える。しかし仕事が増えると働くようになり、仕事の総体としてはうまく回るようになるシステムだという。


 働かないアリがいるからこそ組織が存続できるという事実は、即人間に当てはまるとは思えないが、少し高みに立って様々な社会や組織を考えたとき、共通点もある。ダメ人間が再生しヒーローになるドラマはよくあるが、あれは一つの希望でもあると同時に、個性尊重こそが救済するという真実をいつも伝えている。


 そのほか「利他行動の根拠」「群れの効果とデメリット」など、実に教えられることが多い本である。特に終章にある、「人」について書いた研究姿勢は納得した。

 多くの研究者は、教科書を読むときに「そこに何が書いてあるかを理解すること」ばかりに熱心で、「そこに何が書かれていないか」を読み取ろうとはしません。

 この一節は、研究や勉学に限らず、目前の仕事ばかりに追われ、こなすことに精一杯で満足した気になり、どこか肝心なことを忘れがちな自分たちに似ている。

授業観が形成されていくこと

2015年11月21日 | 読書
 『授業づくりの発想』(藤岡信勝 日本書籍)というおよそ30年前の本を書棚から取って読み始めた。正直、こんなにしっくりと今の自分に入ってくるとは思わなかった。この頃、正面きった教育書?にはとんとご無沙汰で、自分の意欲減退をひしひしと感じていたが、なんだか少し元気が出てきたような気がする。

 まえがきにおいて、大きな結論を述べている。


 授業づくりにおいて、教師は、まずレベルの異なる次の四つの問題領域を自覚的に区別するべきである。
 ①教育内容(何を教えるか)
 ②教  材(どういう素材を使うか)
 ③教授行為(子どもにどのように働きかけるか)
 ④学習者(それによって子どもの状態はどうなるか)

 これをもとにしながら、「教育内容」と「教材」の異同をはじめとして、実践例や日常事項を譬えとしながら、話を進めている。
 かなり基礎的な事項であるが、ふむふむと読み進めて、やはり自分の関心の多くは「教授行為」ということに気づく。


 ある勉強会の例を紹介して、子どもがのってこなかった状況をこんなふうに表現している。

 教えられてしまうことはつまらないことなのである。


 いくら優れた教材、教具が準備されても、適切な教授行為に載せられなければ、効力感は低いだろうし、結果学力に結びつかない例は数多ある。
 アプローチの段階で、どのようなレベルで「教える」か、またどこで「考え」させ「調べ」させるかの選択することは、授業観そのものである。
こうも書いている。

 教師の授業観は、むしろその教師の教授行為を見ることで明らかになることが多いのである。


 共感できる。
 「自覚的な授業行為」(正確な表現かどうか自信はないが)を強調したのは、上條晴夫先生だったと思うが、それをいつまでも自分が持ち続けているのは、きっと教師が自らの「授業観」を反映させているかどうかに関心があるからだ。

 そしておそらく「授業観」は初めから確固たるものがあるわけでなく、子どもとの授業の中で、教職のキャリアのなかで培われ、形成されていく。

 その変容の有様に興味を抱いているのだろう。
 自分自身をまったく棚上げしているわけではないが、今は分析のほうにより興味が湧いている。


 ところで、30年前にはどんな読み方をしていたのだろうか。
 ちょっと想像できない。