すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

知的努力の使用法

2018年03月31日 | 読書
 特に公的な給与生活者の皆さんにとって、年度替わりは大晦日、元旦に匹敵するものだろう。個による差はあるにしろ、気を引き締めてという心持ちになるに違いない。私淑するウチダ大先生の未読文庫を読み、かなり限定され読者層向けではあるが、少しは糧になるような一節を、今日明日と引用し、激励したい。

2018読了34
 『待場の現代思想』(内田 樹  文春文庫)


P113
 質の高い仕事をする人間にはいくつかの種類がある。
 「面白そうだったから」とか「暇だったから」とか「頼まれたから」とか「人生意気に感じたから」というような、どうでもいいような理由で仕事をする人間、ふつうこういう人たちがいちばん「質のよい仕事」をする。


 何かの対価を求めているようでは質は保障されないという感覚を、仕事を続けていくなかで身につけてきたかどうか、が問われている。


P119
 知的努力というものは、(遭遇するなら)ワニとアナコンダのどっちがいいかというような不毛な選択において適切な決断を下すためにではなく、「そのような選択にいかにすれば直面しないですむか」に向けて集中されなければならない。

 「正しい決断をすること」よりも、「選択肢が限定された状況」に追い込まれないことが大事なのである。
 とはいうものの、厳しい現実がある。もし直面したら…。

P121
 思い悩むのは悪いことではない。でも、そのとき、「自分は過去に一度不適切な決断をしてしまった」という自己史的汚点を直視することを忘れてはならない。(略)その事実から目を逸らしたら、君に未来はない。

 某ドラマの名セリフ「私、失敗しないので」なんて言える人は現実にはいない。誰しも失敗する。肝心なのは「失敗から学ぶ」ことであろう。
 積み重ねていれば、目前にある些細な出来事や変化に絶えず気を配る所作が身につくと思う。


 ここで少し寄り道。

P126
 知性というのは「自分の愚かさ」に他人に指摘されるより先に気づく能力のことであって、自分の正しさをいついかなる場合でも言い立てる能力のことではない。

 我が身を棚に上げて申せば、この国の行く道を委ねられている方々は、どうも「知性」に欠けるようだ。

手作りはいつも「未完」

2018年03月30日 | 雑記帳


 このコミックは第1巻をたしか去年の夏頃に買い求めた。結構前の漫画で題名は知っていたし、実写ドラマ化も記憶にある。食に関する漫画は気楽に読めるので手にしたのだが、「職人仕事」の部分もなかなかで気に入った。2巻、3巻と古本屋で見つけたとき買い足し、三月には20巻までネット注文で揃えてしまった。


 浅草を舞台に、主人公「安藤奈津」が和菓子職人を目指して修業に励む道のりが、物語の筋。和菓子好きの興味を惹くだけでなく、江戸文化の要素も盛り込まれ、楽しい。台詞が実に江戸っぽい。頻出する言葉に「おかたじけ」がある。広辞苑には載っていないが「かたじけない」の語幹に御をつけ、感謝を表す語だ。


 大相撲力士が登場する回では、「はっけよい」が漢字で表されている。初めて見た。「発気揚揚」。調べたらこれは相撲協会の審判規定に定められていた。「ハツキヨイ」と漢字通りの意味となる。「バカ」も馬鹿でなく、当て字とはいえ「莫迦」を使う場面がある。人の気持ちを文字で表わす極意の一つを漫画で教えられた。


 失敗して店に出せない饅頭を、捨てろと言われても捨てずに、それを謝りながら全部口にしていく場面など、今ならあまり見られないだろう職人修業の典型が描かれる。主人公の出生の秘密が、話の筋を支える有りがちなパターンではあるが、茶道の教えや店頭販売等絡んでくる話題も豊富で、よく練られた話だった。


 「未完」とは、原作者の病死によって物語が途切れたからである。病床で編集部が話の顛末を聞いたが、漫画化は了解しなかったという。完結までの大きな構想があったからだろうと最終巻に付記されていた。「手作り」にこだわる原作者には、手作りはいつも未完という思いがあったのではなかったか。納得できる。

ゴーマンでトレーニング

2018年03月29日 | 雑記帳
 「秋田の人はゴーマンだ。」と、今日の講演で講師は繰り返した。通常、秋田県民に対しては「素直」「消極的」「見栄っ張り」等々がよく使われるが、「ゴーマン」はめったに聞かない。もちろん、講演内容から考え、論旨を浸透させるための比喩的やや反語的表現なのかなと思いつつ、どうも「ゴーマン」が気にかかる。



 「ゴーマン」は漢字としては「傲慢」が一般的だ。詳しい辞書だと「剛漫・豪漫」もある。意味は似通っている。広辞苑によると「傲慢」とは「おごり高ぶって人をあなどること。見くだして礼を欠くこと。傲慢無礼という四字熟語もあり、一般庶民の中にはそんなに多くいない。「センセイ」と呼ばれる人には多いか。


 終わった後の男子トイレでは「オレだはゴーマンだがらな」と笑い合う姿も見られたので、聴衆としてさほど重く受け止めてはいないだろう。しかし、講師があれほど「傲慢」と口にするには、何か訳があるのではないか。確かに秋田県民は一見謙虚に見えて、人の言うことに耳を貸さない傾向があるような気がする。


 講師の説によると「人の話を聞かない」のは二つのタイプがあるようだ。「危機だと思わない」と「あきらめている」、つまり鈍感・無関心派と消極・無気力派だ。これらのイメージから「傲慢」な姿と結びつくことはあるだろうが、少数なはずだ。つまり、相手を「見くだす」態度まで身体化できる人は限られている。


 あれほど使った訳は何か。講師は県内のどこかでそういう目に遭った場合が考えられる。いや、そうした秋田県人と複数回接した経験なのかもしれない。全ての市町村を回った経験が講師のウリでもあったので、肌感覚なのかという予想もできる。と、様々な可能性を挙げて、傲慢にならないトレーニングをしてみた。

見極める力と方法

2018年03月28日 | 読書
 マツコ・デラックスは、武田邦彦との対談で「本人の思っていることがあなたにとっての真実なのであって、そうでないことは真実ではない。そう考えればいいんじゃないかしら」と、メディアの見方を語った。最終的に「真実の報道」とは、歴史上も現在であっても検証しようがない。しかし見極めには力が必要だ。



2018読了32
 『おとぎ話に隠された古代史の謎』(関裕二 PHP文庫)


 古代史や神話への興味は、正直あまりない。絵本程度のおとぎ話なら知っているが、それらを歴史と結びつけて考えたことはない。しかしよく考えると伝承されてきた物語は、やはり誰かが何かの意図をもって作りあげられ、読み手に響く点があったので長く継がれてきたはずだ。その観点ではいくつかの知識を得た。


 著者はおとぎ話等が二つのコアに行き着くと記す。それは「トヨ」と「蘇我」。後者は歴史上の「悪役」として有名である。前者は意識したことはないが、豊受大神、豊玉姫、台与と再三古代史に登場する。そこから発し派生していると論を進める。私たちは何故「ヤマト」という言葉に愛着を持つか、考えさせられた。



2018読了33
 『先入観はウソをつく』(武田邦彦 SB新書)


 前著にある「蘇我=悪」という図式は、藤原氏一族によって植え付けられた先入観という見方がある。天皇家の存続に深い関りを持っていたことは否めない。そこまで逆ぼらなくても、明治以降、特に戦後の日本を動かしたのは「日本より欧米型の考えが優れている」という先入観だろう。その光と陰は明確になっている。


 少子高齢化が多くの問題の根にあることは誰しも承知している。その傾向を生んだ真の責任は、上記の先入観をそのまま受け入れる思考法、教育のあり方であったと言ったら言い過ぎだろうか。改善のために著者がいう「「『受け入れ箱』『比較』」を作る」提案は、実効性があるとみた。メディアリテラシーの核にもなる。

夢から醒めることの模索

2018年03月27日 | 読書
Volume99
 ひかりからのぞみへそしてタワーからツリーへ世界は比喩にかわった

 穂村弘が『ちくま』4月号連載「絶叫委員会」の、結びに置いた短歌である。
 毎号読んでいるがこうした形で締めくくるのは頻繁とは言えない。
 しかし、今回は言うなればこの歌の説明として本文が成り立っていた。

 かつて特急や新幹線の名前はスピードを表わすための名称だった。それが「つばめ」であり、「こだま」であり、そして「ひかり」だった。
 そのあたりまではかろうじて、スピードの実体として認識が可能だが、「のぞみ」となればそれは「もはや実体はどこかへ溶けてしまった」。

 電波塔の象徴は「東京タワー」から「スカイツリー」へ。
 「タワー」は塔という意味であるが、「ツリー」は樹である。
 このように「全体として比喩」になっている例は、CMに顕著になっていることは誰しも承知している。



 そして穂村は次の例を挙げている。

 「昭和ひと桁生まれの私の父は洋服を完全に実体として捉えている。すなわち洋服イコール防寒具なのだ。」

 ところが世代が下になるにつれ、その意識は薄れ、「お洒落」という概念が入り、強まってくる。

 「防寒という用途の明確さに対して、お洒落は捉えどころがない。社会的には、この捉えどころのなさこそがポイントなのだろう。実体をイメージに変換することで、人の心に働きかける強度が増すのだ。」

 イメージ化が人の「欲望を無限に肥大化させる」。
 それが、今の経済を動かす正体となっている。

 世界を比喩で覆ってしまおうとしているのは、何も芸術家やCMクリエーターなどばかりではない。
 政治家も、比喩的な言い回しを多用し、見てきたようなイメージを作りあげようとしているではないか。
 あの大きな国家の大統領や元首たちも半島の太った大将も、その目に民衆の実体を捉えているか、と言いたくなる。

 穂村はこう結んで、冒頭の短歌を置いた。
 
 「その結果、ほとんどの実体は溶けてゆく。最後に残る実体とは死。これだけはまだ避けられない。我々はその直前までイメージや比喩の夢の中にいるのだろう。」

 強がりになるが、穂村のこれらの思いを、言葉からのアプローチ、都市生活者としての視点なのだと踏まえたい。

 私たちは、それぞれの立ち位置から「夢から醒めることの模索」を、大事な日課としよう。

春場所横睨み

2018年03月26日 | 雑記帳
 横綱鶴竜の優勝。これを「」というのは生意気だろうか。素人目にも横綱の強さが出た取組は三分の一もない。はずみやほんの少しの隙が勝敗を分けた形が多い。しかし、運を引き寄せたのは、不安のあるなか出場を決意した心にあると思う。その意味ではいい幕切れだった。実力的にはまさに下克上の様相だろう。


 先場所優勝した栃ノ心は10勝だったが、かなり強いと感じた。また遠藤の活躍も印象に残る。結局、相撲とは「自分の(強い)型にいかに持ち込むか」が大きなポイントであり、そのために「立ち合い」の重要性が問われるのだ。得手不得手は誰にもどの分野にもある。得意に持ち込むための一手、常に意識したい。



 さて、全取組を観てはいないが、随分と幅を広げて注視した。一つには、地元力士豪風が番付を下げたこともあり、十両にも目がいくようになった。このところいつも団子状態の優勝レース、実力拮抗だ。その中で豪風の復帰が叶ったことは嬉しい。さらに生きのいい個性的な若手力士も複数いて、面白くなっている。


 その一人、身長が169㎝の炎鵬という小兵力士。新十両紹介インタビューで、大きな相手を倒す爽快感について語っていた。ちょうど当日解説は舞の海。炎鵬からアドバイスを請われ語ったことが「一番に相手の手の動きを見る」「土俵は丸いので動く範囲が大きい」…具体的な動きにつながるコーチングは見事だった。


 もう一つ渋い感想を。幕内格中堅に木村某という行司がいる。他と少し違っていたので楽しみに見ていた。具体的には呼び上げ、仕切り中の所作、取組中の動きなどだ。それが今場所少し雰囲気を変えた。よく言うと落ち着き、重厚感が出たが、一面躍動感に欠ける気がして正直つまらない。「指導」があったのかなあ。

単焦点の眼で見る

2018年03月25日 | 雑記帳


 カメラを購入した。初めてのミラーレス一眼である。候補はいくつかあったが、購入履歴を考えると、今さらニコンやキャノンではあるまいと、多く持つソニーと決めた。フルサイズのα7も考えたが、後々のレンズ購入が怖くなり、結局α6500に落ち着かせる。そして思い切って最初に選んだレンズが、なんと単焦点だ。


 いったいいつ以来なのか。フィルム式のミノルタ一眼を買った時もズームだったし、デジタル一眼のソニーもダブルズームだった。昨年リコーGRを買おうとした時もあったが、結局ソニーRXにしたし…と、我がブログを検索してみたら、なんと初めて買ったデジカメ、カシオXV-3は単焦点だった。もう20年近い。


 結局、使いこなせないままに次へ次へ、ズームも高倍率を求めていったのが、わがデジカメ歴といっていい。そして、ここで再びの単焦点の訳は、やはりボケ味を求めて…が正直なところだ。先週、届いたのでセットし早速撮ってみた。ところが、いやあ結構難しいなあ。あまりにも体がズームに慣れてしまっている。


 花粉が怖く、外で活動しにくい。それでもいくらか構えているうちに、本当にごく当たり前のことが身に沁みてくる。つまり、単焦点レンズでは、近づかなければアップにできない、離れなければ全景がとれない。身体を使って自分から寄っていく、または撮りたい景色が収まるよう一歩ずつ引き確かめねばならない。


 ふと、仕事や生活にも当てはまると思えてきた。ズームの便利さに頼るのはいいが、それでは対象の輪郭しかつかめないかも…。自らきちんと迫ったり、見渡せる位置まで遠ざかったりすることで、対象の存在を明確に感じ取れるのではなか。複眼の有効性に頼る前に、単焦点の眼で見る大切さを教えられた気がする。

「男の不在」に話膨らむ

2018年03月24日 | 読書


2018読了31
 『かわいい自分には旅をさせよ』(浅田次郎 文春文庫


 浅田次郎のエッセイ集を続けて読む。ずいぶんと範囲が広い媒体への寄稿が集められている。なかに一つだけ短編の時代小説「かっぱぎ権左」が収録されている。それは明治初期、禄を失った武士たちの生き様が描かれる設定。作品の締めの上手さに思わずうなってしまう。この一節など本当に素敵で格好がよい。

 「権左は、武士が背筋を伸ばしているのは徒に威を誇るためではないのだ、と言った父の訓えを思い出した。背に立てた旗棹を明らかにするために、武士はそうするのだ。吉兵衛と名を変えた三河侍は、目に見えぬおのが旗印を戦場の風に翻して、今も敵に向き合うている。」


 前作にもあるが、西郷南洲の詩「偶成」が繰り返し引用されている。著者の精神的支柱の一つと言えるようだ。「幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し/丈夫は玉砕するも甎全(せんぜん)を恥ず/一家の遺事 人知るや否や/児孫の為に美田を買わず」。最終行がつまりはこの書名の肝であるし、価値観を形づくっている。


 その価値観は、某週刊誌に連載した「男の不在」という章にわかりやすく述べられている。「男の不在」「父の不在」「親の不在」「リーダーの不在」と並べられた文章には、家庭生活からこの国のあり方まで、時代の流れととも変質した日本人の姿が典型的に描かれる。例えばこの「教育論」には凛とした思いがある。

 「子供の健全な教育というものは、父親がどれくらい子供らとともに時を過ごしたか、という一点にかかっていると私は思う。(略)無言でよい。手の届く場所にいつも寄り添っていることこそ、父のなすべき教育であろう。」


 ここに必要なのは「父の権威」。それが今の時勢に合わないのは承知している。それを吹聴すること自体、窘められる世の中でもある。しかし「父性」という要素を抜きに、優しさだけが肥大する日常が続けば、逆に世界が悪意に染まることに手を貸すことになるのでは、といった懸念だけが募る。また話が膨らんだ(反省)。

「嘘つき」に沢山教えられて

2018年03月23日 | 読書
 浅田次郎の小説は短編を多く読んでいる。時折目にするエッセイも上手で、この文庫は様々な雑誌、冊子等への掲載原稿を集約した一冊だ。改めてその出自を知ると「東京人」「江戸ッ子」らしさが随所に感じられる。江戸ッ子は、事情で東京を去ることを「江戸を売る」と言ったそうである。どこか矜持のある表現だ。

2018読了30
 『君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい』(浅田次郎 文春文庫)




 この作家の特徴(書く内容とは別に)は、規律正しい生活にあると以前から知っていた。「時間割」と呼び、執筆時間の確保はもちろん、読書時間を一日4時間取り続けていることに驚嘆する。「継続という実力」の章では、それが小説家として「神様からもらった資格」の維持に欠かせないと語る。信念とはかくありき。


 「一日一冊」は自ら課したのではなく「そのくらいにしておかなければ」と考えた末の設定という。まさにその読書人中の読書人が「役立たずの最たるもの」として「ノウハウ本」を挙げている。「人生を活字から学ぼうとすること自体横着」という叱責は、心しなければ。想像力の涵養こそが、効率性を乗り越えられる。


 「『嗜み』はよい言葉である」と書き出した章がある。ここで白川静博士の「老いて旨しとするもの」という字義に納得し、「好きなものをよい心がけで味わう」ことと意味づけた。そしてそれは、狭い国土の暮らす日本人に必然的に生まれた「すぐれたモラル」と説明する。なるほどと思う。特に都市部にはそれが顕著か。


 「好きなものを好きなように味わう」ことが「アメリカ流の個人主義」だと知りつつも、消費文化に浸食され、「よい心がけ」の部分は希薄になってしまったのが今のこの国ではないか。「嗜み」が駄目になれば「身嗜み」も下がる。その字義から、オシャレは己のためでなく、他者に不快な思いをさせぬのが本意と知る。

妄想鑑賞文…その参

2018年03月22日 | 読書
 この句集は1996年から2004年までの作品を、編者である曽我氏が構成したものである。年代別で、後半は作者が闘病生活をしていた時期である。編者がまえがきに記した「僧と俗との分かちがたい混淆」という表現は、この句集の貴重さを示していると同時に、一個の人間のどうしようもない有り様に直結している。

2018読了28
 『石の器』(田口恭雄  編集工房円)




 凛凛とこの世のいのち車椅子

 病院の廊下の窓から、子どもたちが連れ立って自転車を走らせる姿が見える。今は動くに任せないこの自分にも、初めて自転車に乗れたときが確かにあった。大声と笑顔にあふれた日々…。窓から少し強い風が入ってきて、車椅子を動かす手にも思わず力が入る。私も背筋を伸ばして病室までの道をこぎださなければ。


 開かない蕾のままの小宇宙

 買い求めた木瓜の鉢植え。赤く色づき、次々と花びらを開かせるが、固いまま開かない蕾が一つだけある。同じ幹、枝にあっても養分が行き渡らないのか。もしかしたら、外気に触れてたまるか、という意固地な奴だったりして。偏屈なこの俺にも似ているか。しかし、どんな姿にも息づく命があり、巡る水脈はある。


 花火師が己を宙に打ち上げる

 日本一の花火大会に向けて、俺は一心不乱に頑張ってきた。親方のように形のいい「三重芯」を揚げられるよう懸命に腕を磨いてきた。一瞬で消えてしまう花火だが、観客の心の眼に長く残り、何より俺の中で輝き続ける、そんな一発をもうすぐ打ち上げられる。空は少しずつ闇を濃くして、準備万端。さあ、行くぞ!