すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「親切」のレベル調整

2013年02月27日 | 読書
 昔、教室の前面に、「親切」という文字を掲げた若い教師がいた。その掲示が学級でどれだけ深められたかは定かではないが、そのシンプルさゆえに心に残っている。

 休みの日に立ち寄ったコンビニで、何気なく『PHP』誌を手にとった。「アーカイブ」とあって、以前(70年代)の文章を再録している号らしかった。
 ただ,巻頭はさだまさしのインタビューをもとにした最新記事で、なかなか読ませる文章だった。

 中学の頃、バイオリンを習うために東京にいたさだ少年がホームシックにかかり、金も持たずに郷里の長崎へ向うときに、乗り合わせた大学生に助けられた話である。
 さだは、その体験を思い起こして、こんなふうに語る。

 親切は程のよい厚みが大切です。薄すぎると親切にならないし、厚すぎると相手を思いあがらせるだけ(笑)。中途半端な親切は、単なるお節介で、相手を傷つけたりする。親切とは、お節介よりももう少し温度を載せたものです。

 死語になったとは言わないが、親切という言葉を使う頻度は低くなっていると思う。
「やさしい」「思いやりがある」といった言い方で代弁されているのだろうか。
 どんな使い方が正しいのか、また正しい言い方があるのか、ちょっとわからないのだが、「親切」の方がより具体的で、行動そのものを表わしていることは確かだろう。
 そして、親切はおそらく想像力と行動力によって発現する。

 このアーカイブスを読み進めていくと、「道草」と題した笑福亭仁鶴の1978年の文章があった。

 買い物を頼んだ家人の帰りが遅く、帰ってからその顛末を聞いた内容である。バス停で出会ったお年寄りにどこまでもつき合ってあげた妻の親切心について語っているのだが、妻は「都会不信」を陥っていたことを、その行為によっていっとき忘れたのだと語っている。

 取り立てて意識せずに、そういう「親切」ができたことは、やはりそれまでの様々な出来事によって身につけた心の発芽なのだと思う。

 さだは、それは学校教育では学べない、社会で学んでいくというようなことを語っている。
 たしかにそうかもしれない。しかしまた学校も小さな社会であって、親切が通用する場でありたいと願う気持ちは、多くの人が持っているのではないか。

 さだが言うように、親切(のように見える行為)のレベル調整は難しい問題だ。
 時に、学級内に発生するだろう、いろいろな行き違いによって起こるトラブルを、そのつまみ操作によって生じる感情、思考の違いなどを出し合って、話し合ってみることも面白いかもしれない。

他所の現場を覗いて振り返る

2013年02月26日 | 読書
 久しぶりに『日経アソシエ』というビジネス雑誌を買った。
 「文具術」という特集と附録に惹かれた。附録がついているとつい買ってしまうのは悪い癖である。うまく利用できていないものが多いが、なんとなく欲しくなるのは幼い頃の飢餓感だろうか。
 そんな大げさのことかよ!と一人突っ込み。

 さて、印象深い記事が二つあった。


 最初はプロローグとして「赤い二重丸のこと」と題された編集長の文章である。
 
 原稿の直しは、デジタル全盛の現在でも「赤字」で行われるらしい。
 編集長はこう書く。

 デジタルの利点を生かすなら、パソコン上で打ち直した方が早いのですが、それでは記者の「書く力」は育たない。

 なるほど、もっともなことである。

 このアナログ的作業は学校の現場にもある。
 自分自身の仕事の一つとしても大きい。それは批正ばかりでなく、評価でもあることを、つい忘れがちになっていることを思い出させた。
 
 伝わりやすさ、考えの明快さなどを要求するばかりの赤字になってしまいがちだが、時には「赤い二重丸」で称えることも忘れてはいけない。


 もう一つ、インタビュー記事の一つにNHKのプロデューサーが取り上げられていた。
 めったにないことではないか。
 評判のいい朝の番組「あさイチ」の担当者ということだ。

 「NHKのトラブルメーカー」と自称しているらしいが、そのキャリアやエピソードからは学ぶことが多い。

 絶品なのは「根回し」という名の芝居。
 若いスタッフの出した、上部からダメ出しされそうな企画を、酒席を利用して通してしまう。まるでテレビドラマになりそうな展開で乗り切る。
 オリジナリティーを追求する仕事師とでも形容できそうだ。そのイメージは、次の一言に顕れている。

 「正直、クレームは来てほしくない(笑)。でもクレームが来ない番組は、ダメだとも思う。」

 学校現場とは同列に論じられないが、なるほどという部分を感じてしまうのは、現実の見方が甘い証拠だろうか。

「違和」に足を止め,転がす

2013年02月25日 | 読書
 いつか読んでみたいと思っていた批評だった。
 現在の時点での見方に、過去の論考が付加された本が出たことを知り、注文した。

 『物語消費論改』(大塚英志 アスキー新書)

 文化史に詳しいわけでもなく、漫画オタクでもない自分にとっては、かなり難解ななかみだった。
ただ「物語消費論」の意味を、ネット上の情報でなく、そう名付けた本人の著書からとらえることができたのは、少しは価値があるように思う。

 関心がわく全てのことに対してそんなふうに向きあうことなど到底できないが、肝心なところではそういう心掛けを持つべきと思わされた。時々、そういうつきあい方をして本を読みたいものだ。

 さて、この一冊を読み始めた頃に、たまたまテレビでジブリの『コクリコ坂から』を観た。初めてだったので、正直「ああ、いい雰囲気」程度の感想しか持てなかったのだが、この著に書かれてある文章を見て、ちょっとびっくり。
 改めて批評家というのは凄いもんだなと感じてしまう。

 著者は、この本の第一部(今回書きおろした部分)の最終第四章をこう締めくくっているのである。

 この作品が震災後において最も誠実で冷静な表現であったことは確かである。

 この作品とは『コクリコ坂から』である。
 主人公である少女の亡き父親のことが語られる場面に「朝鮮戦争」が顔を覗かせる。 
 そこにある「違和」と、その受け止められ方について、著者がする分析に、心を衝かれた。

 多くの観客が劇場に足を運びながら、しかし、その問いかけは殆ど届かないだろう。
 そう、絶望をもって言える。
 それでも受け手に小さな「違和」は残される。


 劇場に足を運びもせずに、CMの入った録画で見ている人種(自分のこと)など、問題外というべきか。
 残されるべき「違和」に対する印象度は、かなりかけ離れていることだけは確かだ。
 作品の選択さえも、実は誘導されたり、仕組まれていたりするという見方も可能だ。

 そうふりかえると、ごく単純な意味で、大衆的な「物語」は何かを意味づけられ、「消費者」の前に提供されていることがわかる。
 「違和」は極力薄められながら、目や耳の中を通り過ぎ去っていく。
 また「違和」について鈍感にならざるを得ない日常を生きなければならないという言い訳じみた現実もある。
 ごくごく低いレベルではあるが、自分の生活に引き寄せられた思考になっている。

 小さな「違和」に足を止めてみる。
 その「違和」を転がす方法を間違えない。

 手に入れた学びの一つである。

真っ白な二月最終週

2013年02月24日 | 雑記帳
 「二月も半ばを過ぎてから降る雪は怖くない」…これはいくら降ってもそんなに積もることはないという意味のことだ。
 豪雪地域と言われる多くの地方に住む人は,そんな感覚を持っているのではないか。
 私はこの冬ももう何度か口にしている。

 けれど,けれどである。

 この冬は違うなあ。

 あの震災の起きた年から三年続いての豪雪だと誰しもが思っていたが,まあいつも通りに「もうそろそろ(終盤)だな」と心積もりはしていたはずだ。

 それがここに来て,先週からまた降雪が続いている。
 それも明らかに積雪量が増えている。この時期になって記録を更新していくなんて,いったいそんな年があったのだろうか。

 念のために,わが町で出しているデータを見てもその通りだ。
 昨年も,それより多かった一昨年ももうこの時期は,多少の波があっても少しずつ高さを減らしていくのが通常だ。
 それが,本町の山間部では金曜に266cmと今年の最高となった。

 雪に関わる不幸な事故も,今年はさらに頻繁に起きたように思う。
 自然の前の人間のちっぽさ,無力さなどと陳腐な表現でまとめたくはないが,やはりそうとしか言いようがない。

 機械やいろいろなものに頼り,以前よりはずっと楽になったとはいえ,周囲の人たちの顔に疲れも見え始めているような気がする。

 せめて,せめてと願いながら,先週撮った「生き物」の写真をアップしてみた。

 地に虫,樹に鳥,空かける翼あり,である。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-56e3.html

『誰が』に値するもの

2013年02月22日 | 雑記帳
 久しぶりに小朝の落語を聴いた。
 上手いなあと思う。流暢とはこの人のためにあるような言葉だ。言いよどみなどほとんどない。
 だがそれゆえにどこか引っかかるところもなくかえって物足りなく感じ、演目も少し地味だったので、満足度は7割ぐらいだろうか。

 さて「越路吹雪物語」のなかで、小朝がこんなことを言った。

 結局、何を言うかでなくて、誰が言うかなんですよ。

 確か江利チエミへの高倉健のプロポーズの言葉について語ったところだったと思う。初めて耳にした言葉ではないし、まあありがちな台詞でもある。 
 しかしまた、一方で深い知見のようにも感じる。

 先週、ある新聞に不惑を迎えるイチローへの、一面を丸々使ったロングインタビューが載ったが、まさしく同じことを語っていた。

 結局,言葉とは『何を言うか』ではなく『誰が言うか』に尽きる。

 言葉そのものではなく、言葉を語る主体こそ問題なのだ。
 同じ言葉であっても誰の口からそれが出たものであるかによって、人の受けとめる印象が違うことは、日常よく私達が体験している。

 そう考えると、言葉の重みとは発する人の重みである、という仮説ができる。
 もちろんその仮説が不備な点を抱えていることは十分わかる。

 そして、その例に当てはまらない多くの言葉や文章にも出会ってきた気がする。
 そうだ、そうした出会いを大事にしたくて「キニナルキ」という最初のネット書き込みを始めてから、もう十年は越しているのだ。
 結局、そうした言葉を通して「人」に逢いたかったのだと思う。


 イチローは先の言葉にこう続けた。

 その『誰が』に値する生き方をしたい

 あのイチローでさえ、いやあのイチローだからこその言葉なのだろうと思う。

 しかし、誰でも『誰が』に値するものを持っているのではないか。そう信じたい。

 心に宿るほのかなものに気づき、信じ、行動し続ければ、「言葉」は生まれてくると思う。

地味でベタな発信を続ける

2013年02月21日 | 教育ノート
 2年続けて参加した「愛される学校づくりフォーラム」だったが,今年は都合でいけなかった。
 有田和正先生と佐藤正寿先生の模擬授業を見ることができなくて,本当に残念だ。
 出張として行ってもらった本校職員から話を聞き,資料も見せてもらったが,ますます残念さがつのってくる。

 それはさておき,この研究会組織と関わりの強い「学校広報研究会」の情報からは,自分の関心がもともと高いこともあって,いろいろと刺激をうけた。

 地味でベタな情報発信
 
 プッシュ型メディアとプル型メディア


 今まで自分がやってきた,そしてやろうとしていることの価値づけをしていただいたようにも感じている。

 先週,ぐたぐたと本校ホームページ作成について書き散らしたが,月曜日に業者が来校して転送設定等の手続きを終えて,まだ不完全な形ながらオープンにこぎつけた。

 しかし,活動記録的部分の作成をしてアップを始めると,奇妙なことが発生。
 火曜日,どうしても思ったとおりに画面がアップできず,失意のうちに家へ帰って自宅からアクセスしてみると,正常な画面が出る。
 水曜日,学校でアクセスしてみるといったんは正常に出るが,再更新するとまた駄目になる。自分用の校務パソコンだけでなく,他の人からアクセスしてもらっても同じ。
 念のため,携帯電話をみてみると,なんとこれが正常にでる。

 つまり,市のサーバーを通すために何らかの障害がでるのだと思う。規定によりブログ発信もできないので,やむをえず新しいソフトを購入してこんな形にしたが,やはりこのシステムの困難さを感ずることになった。

 しかし,先の2点を頭に置きながら,更新は継続したい。
 前任校でもそうだったが,基本は一日20分程度の仕事と決めているのでそのペースを守っていきたいと思う。

 まだ情報量は少ないですが,よろしかったらアクセスしてください。
 http://www.yutopia.or.jp/~kawasyo/index.html

一番うまい歌い手を想像したら

2013年02月19日 | 雑記帳
 新聞に載っていた週刊誌の広告を見ていたら,「日本で一番歌がうまいのはこの人だ」という少し小さ目の見出しがあった。
 実に単純,かつ少し無謀な企画に思えたが,興味がそそられる。

 この時点で「まあ,美空ひばりでしょう」という予想はすぐに浮かんだ。

 コンビニに立ち寄ったついでに,その号を買い求め,どれどれとページを開いた。

 新シリーズ「日本一を決めよう」

 と題されていて,最初のテーマが「一番歌がうまい人」である。
 選者は16名。DJ,プロデューサー,アナウンサー,歌手…いずれも名の知れた方々であった。

 男女別にランキングがある。

 女子は当然というか美空ひばりであったが,2位はちょっと驚く。
 「ちあきなおみ」である。
 都,石川,八代といった演歌系,江利チエミ,越路吹雪という往年の名シンガーなどを抑えてちあきなおみが2位とは結構渋いではないか。

 男子はなんと桑田圭祐。
 以下,沢田研二,尾崎紀世彦,布施明と続くラインナップはさすがだなあと思い眺めた。

 6人も選者がいるので,中にはなかなかユニークな歌い手(例えば,藤圭子,グッチ裕三など)も入っていて,自称「歌い手研究家」としては少し楽しめた。

 予想はしていたが,いくら専門家が集まったとしても結局は「最大公約数的」な名前が挙がるのだろうし,それをランキングするのは結局「うまさ」の人気投票のようにならざるをえない。

 選者の一人である織田哲郎も「この記事,ランキングも作っているですよね,無謀なものを(笑)」と,総括の座談会で語っている。
 言われてみればもっともなことだが,うまさの基準は次の二つだと織田は語る。

 テクニック的な面での声帯のコントロール能力と「伝える」という能力

 さらに,作家の森達也はこう語る。

 歌って,メロディーや歌詞はあっても,大部分を占める要素は「声」なんですよね。

 「声」の魅力は,やはり決定的だ。
 そして「声」はやはり生き方や人間性とどうしようもなく関わりを持つような気がする。
 例えば,本当に本物とうり二つのように物真似できるタレント(歌手)もいるが,けして本人以上にはなれないことは,誰しも知っていることだ。

 つまり,声にこそ自分が宿ると言っていいのかもしれない。

 なんだ,「歌うま」から別の話題になっちゃったな。
 では,誰をうまいと思うのか…これは後日ですな。

消え去っている学びを信ずる

2013年02月18日 | 読書
 『勉強ができなくても恥ずかしくない』(橋本治 ちくま文庫)

 これは少し立ち読みしたことがあるなあという記憶があった。
 あとがきを読んでいたら,そういえば「ちくまプリマ―新書」にあったんだったということを思い出した。

 作者の自伝的小説の三部作を,文庫として全部収録したものだ。
 東大卒の著名人に「勉強ができなくても恥ずかしくない」と言われて,心から納得できるかどうかは別にして,確かに主人公のケンタくんの物語からは,題名どおりのことが伝わってくる。

 小学校から高校までの生活が中心の話で全体を通してみて「勉強」に力の入らないケンタくんが描かれているが、それはある意味で学校批判だというとらえ方をする人もいるかもしれない。
 しかし、印象としては「学校超越」という感じだろうか。

 一ヶ所だけページの端を折った表現がある。
 中学生になっても勉強しないことについて、こう言いきっている。

 勉強なんかするひまがないくらい、ケンタくんは忙しかったのです。
 なにに忙しかったのかというと、特別なことではありません。ただ体の中がずっと幸福で、生きているだけで忙しくて、勉強なんかしているひまはなかったのです。


 誰しもがこう思って、その通りに実行できるわけではないが、それに似た思いを抱えた時期はきっとあるような気がする。
 多くは高校、大学に入ってからだろうか。その意味ではケンタくんは早々にその時期を迎えた一人なのであろう。
 いわば、好きなことに没頭できる能力。その他のこととはとあまり関わらなくとも平気でいられる感覚。そんな一時期を過ごすことなく学校生活を終えるとなれば、それは少し悲しいし、大人側の度量なんてことも考えさせられる。

 さて、一つだけ腑に落ちないというか、考えさせられる場面があった。

 高校の終わりごろ、ケンタくんは鉄棒の逆上がりや懸垂が「突然」できるようになる。
 この顛末は、お話の冒頭(小学校に入る前に叔母さんと一緒に校庭に行き、鉄棒をしたけれど出来なかったこと)と関わりを持っている。
 そして、体育が不得意だったケンタくんは「できるようになりたいと思う」ことの大切さを説く。それは確かにそうかもしれないが…待てよ、と思う。

 運動が不得意と書いてはいるが、具体的な場面はほとんど出てこなくて、鉄棒の学習についてももちろん書かれていない。
 予想には、なかなかできなくて肩を落としている姿があるのだが、何も手をかけてこなかったわけではあるまい。教師が単にやらせっぱなしということもあるまい。
 
 学校生活のなかで教えられてきたこと、経験してきたことの多くは、記憶の中では消え去ってしまう。
 特に小学校の場合は顕著だ。
 しかし、消え去っている幾万の学びによって確実に培われた能力があり、花開く時期を待っていることもある。そう信じたい。

 ケンタくんの鉄棒は、まさしくその一つなのではないか。
 そう想像したい自分がいる。
 それはまた、多くの子どもの内部にあるケンタくん的な部分へ対応する心構えではないか。

「混乱」の道を行く私たち

2013年02月15日 | 読書
 『移行期的混乱』(平川克美 ちくま文庫)
 
 この文庫を読み終わった日に,内閣支持率が上がったと報道されたのは偶然にしろ,自分にとって印象深い。

 この著は,2006年をピークに長期的人口減少となる我が国の現状をどうとらえるか,そしてどのように向き合うべきかを述べている。
 ビジネス書のように,具体的な対応や処方についてのヒントを語っているわけではない。
 しかし,いくつもいくつも考えさせられる文章があった。

 物価上昇率と経済成長とは同義ではないだろうが,この著は現在進められようとしている政策の質を,真っ向から問いかけている。

 現在の日本に必要なのは,経済成長戦略ではなく,成長しなくともやっていける戦略だ


 一定のデータを示し,転換期であることを読み解いた第1章,そして2~4章では高度成長期から現在に至るまでを三期に分けて,労働の現場と人々の変遷を独自の視線で提示してみせている。

 東京の町工場の家に生まれ育った著者と,数歳年下で秋田の農家に生まれた自分との差は大きいが,その分析や感覚には納得,共感できるものが大きかった。同時にのんびりぼんやり過ごしてきて今頃わかったことの多さを感じつつ,逆戻りできない地点にいる情けなさも時々湧き上がってきた。
 この著にそれを打開する未来のビジョンが明確に示されてはいないが,私達がふだん使っている重要な言葉について吟味し,その意味を救わねばならないと思わされる知見がある。

 例えば,「格差」という「物語」が生まれる背景について,そのプロセスとして浮かび上がること。

 バラバラに切断された個人は,常に他者との比較,あるべき自己との比較において,自らを同定しなければならない。


 例えば,巻末に収められている鷲田清一氏との対談で語っていること。

 多様な生き方っていうのは,今一番強力な権力を持っているマネーを捨てることによってしか獲得できない。

 ここずっと,持ち続けている関心のなかに,自らの立ち位置を知ることがあった。それは一面で急激な社会変化に飲み込まれそうな,もしくは飲み込まれている自分への漠然とした不安があったからだ。
 一定のレベルで俯瞰していたつもりではあったが,この著を読んだことで,もう一つ大きな視野が見えてきて,ほんの少し居直る術を身につけられるかもしれない。

 私たちは「混乱」のなかにいる。
 いくら経済成長戦略が宣伝され,仮にいっとき何かが良くなったとしても(それを喜ばないというわけではないが),安定や新展開はまだまだずっとその先にあり,しばらくは(それは「生きているうち」と同義だ),そんな道を行くということだ。
 それだけは,はっきりわかる。

題名に宿る怖さ

2013年02月14日 | 読書
 『孤独の森』(大崎善生 角川文庫)
 
 600ページ近い長編である。連休を待ってページを開いた。
 久々に読んだ大崎の本だったが,いやあ惹きこまれてしまった。
 こんな作品を書くとは思わなかった。
 将棋ジャンルから始まって恋愛小説まで結構読んでいるつもりだが,こういうサスペンス,ファンタジー,それにホラー的要素があり,しかも歴史的な因果を絡ませた内容は意外の一言である。

 読み始めたときは,主人公の少年の施設からの逃走劇を描く筋かなと単純に思っていた。しかしそれはまったくの序章であり,実に壮大なスケールで展開されていく。

 舞台は北海道。岩見沢につくられた教育養護施設「梟の森」。
 何かモデルになった団体があるようだ。
 戦後,この施設を作り上げ,拡大させていく過程に,教育や養護にかかわる人間の支配欲の根深さがじわじわと伝わってきて,怖ろしくなる。
 その物語に,ナチスのユダヤ人虐殺や幕末のキリシタン弾圧などとつながり合う過去を持っていて重層的な恐怖を増幅させていく。
 映像にしたら面白いだろうなと単純に考えた。

 さてこの小説は,単行本の時は上下二冊で,次のような題名がつけられていた。

 『存在という名のダンス』

 これは話の中に重要なキーワードとしても登場するが,実に意味深い。
 ある悲惨な歴史的事件に関わってこの言葉が出てくるのだが,それを別にしても,この表現は考えさせられる。

 シニカルということではなく「人生は所詮ダンスのようなものだ」という見方はできる。
 肝心なことは,それは踊っているのか,踊らされているのか,である。
 そして一番悲惨なのは……死にゆく直前に踊らされるような動きになっている状況ではないか。

 作家の意味したいことはもっと深層にあるかもしれない。
 「ダンス」そのものに価値があるのではなく,「存在の在り様」に価値を求めるわけだから,それはきっと小説の中のあちらこちらに散りばめられているはずだ。

 ひょっとすれば『孤独の森』という凡庸な名づけの中にも,潜り込まされている可能性は大きい。

 主人公の少年が後半に悟る感覚に「本当の敵は,孤独だ」という一節がある。
 それは確かに一つの間違いない真実に思えてくる。
 さらに,一人一人が抱えてしまう「孤独の森」というイメージが湧いてきて,その暗さ,怖さへの対峙はどこでもいつの時代でも普遍的なテーマと言えるのかもしれない。