すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

煌言33~読書する姿から見える

2016年02月29日 | 読書
☆もしも、「現在わが国の教育界における最大の欠陥は何か」と問う人があるとしたら、私は即座に、「それは現場の先生たちが、あまり本を読まないことだ」とお答えすることでしょう。
 森信三『教師のための一日一語』(致知出版社)


 その欠陥が最大かどうかはさておき、昔ほど教師が本を読まない現実はあるのかもしれない。
 どの時点の「昔」なのかという比較対象も検討が必要とはいえ、教師の読書量が上がったという話は正直聞いたことがない。

 仕事中心の読書、教養を求めての読書、娯楽としての読書…いずれにしても、「本に親しむ」姿が身体化している教師は、子どもの読書する姿を見たとき、声のかけ方に違いが生ずることだろう。
 同じような声をかけるとしても、その本やその本を読む子への興味がほんの少し重なっていくように思う。

シェーと思いきり叫びたい

2016年02月27日 | 雑記帳
 朝、なんの話をしている時だったろうか。「シェー」と家内が呟いた。「それは娘の世代にはわからない」と返したのは、そのポーズをとってみせてるからだ。瞬間ちょっとした違和感を覚えた。頭の上の手は、軽く内の方へ曲げることは問題ないが、問題は下方の手の向き。手のひらが下を向いている。「ちがうでしょ。」


 「えっ、こうだよ」と反論してくる。「こうだろっ」と手のひらを上方に向けたポーズをしてみる。「ええっ」「えええっ」とやり取りでは、埒が明かないので「じゃあ、学校に行って、わかる年代の人に訊いてみる」と出勤したが、忙しい職場でこんなことを口に出したら、それこそシェーだろっとネット検索に変更。


 で、見たら、ああそうだった…「手のひらは内向き」が模範解答のようだ。ただ、wikiには「上向き」もあったので、自分の方が正解といってよいようだ。漫画で育った世代にしても記憶はあやふやのものである。無理やり結論づけると、手のひらが内向きということで、シェーは驚きとともに自己防衛を示している。


 最近の某日、妙に「口が渇いた」一瞬があった。意外な展開に緊張した。その時、心の中では「シェー」だったか。その後、口から出るのは自己防衛だったから。これしきの事でやや動揺する自分が情けなく思えてきた。仏スラングではシェーとは「糞ったれ」を意味するそうな。口に出してみたら気持ちいいだろう。

煌言32~人権と迎合

2016年02月26日 | 読書
☆子どもをより大切にする、子ども一人一人の良さや個性を認める、主体性や生きる力、支援と援助という考え方や方法は良いのですが、それを使う者も使われる側も表面的な部分を理解したり、行うことで満足しています。そればかりか、子どもの人権を大切にする事と迎合するという事の違いがわからなくなった教師や保護者も増え始めたように思われます。 
 築地久子『生きる力をつける授業』(黎明書房)


 「人権を大切にする事」の認識の差がありはしないか。

 例えば、気分に左右される子が目立ってきたが、それをピシャリと指導するために、多くの優れた実践家は、学級開きなどにおいて様々な布石、手法を繰り出している。
 それはきっと自らの行為が、社会の中で人権を自分で守り、他者の人権を尊重できる心を育てるという確信を持っているからだ。

 昨今の、一部の現状と比較するのは酷かもしれない。
 しかし、単に教師間の力量の差で結論づけられない、人権に対しての向き合い方が少しずつ歪められている印象が拭えない。

細かい雪が降り積む朝に

2016年02月25日 | 雑記帳
 朝の集団登校の様子を見ていたら、真っ先に来た班の中ほどにいる女の子が、道路端の雪を少し蹴りあげていた。雪国では別に珍しいシーンではないが、目に留まったのは何故かというと、この冬そんな風景を見たのが初めてだっただろうか。2月も末に近づいたこの時期に、ああそうだったと感じることは結構多い。


 今朝は未明から降りだしたのだろうか、10cmほどの積雪。しかし自宅で車庫に入る時に気づいたのだが、実にさらさらしている。「砂糖のようだ」とありきたりのことを口にしたほどである。この冬は本当に湿気の強い雪が多い日が続いた。風雪が少ないだけ楽ではあったが、雪の重みは例年よりずっとある気がした。


 だからこそ、子どもたちが無邪気に道路脇の雪を蹴り上げていることが、珍しく感じたのだろう。雪との接し方を拡大解釈すれば、人間は結局自然がやさしくしてくれる(合わせてくれる)のを待っている存在でしかない。翻って人間の世界。自分たちで決め、実行してきたことなのに、そのことに常に縛られ続ける。


 今週は外部の役員等の会が2つ。いずれも長い間関わりを持った組織である。会員減や学校統合でそれらも変革期が訪れていることは確かだ。制約の多さゆえ前例踏襲としたくなるが、もはやそれでは立ち行かなくなる。振り返ると、ずっとそんな彼是に手を染めて様々動き回ってきた。それももうすぐ手を離れる。



「女王」にしては凡作か

2016年02月24日 | 読書
 今年になってから、もう三冊読了である。

 この頃は「イヤミス」という形容詞はどうかと思うが、個人的に「女王」と称してもいいほど、肩入れ?しているなあ。
 しかし、今回は辛口コメントしてみるか。


 『豆の上で眠る』(湊かなえ  新潮社)

 失踪した姉が戻ってきたら、別人になっていた…この有りそうもない設定、ちょっと無理があるかなと思いつつも、読ませてしまうのは筆力か。
 視点人物が現在と過去を往復するよくある手法だが、小学生の頃の感覚が大人過ぎるのも途中から気になった。湊作品としては、かなりくどく繰り返されている印象がした。
 ただ冒頭にある、貧乏な画家のエピソードはなかなか面白い。
 「新しいカンバスを買う余裕がなくて、絵が描かれているものを塗りつぶし、その上から新しい絵を描いていた」そして、「人間の記憶もそのカンバスのように、重ね書きの繰り返しではないだろうか」と導きだし、物語へ誘う。ここはさすが上手い。



 『望郷』(湊かなえ 文春文庫)

 最新の文庫。珍しく短編集である。
 ただし舞台は、瀬戸内海に浮かぶ白綱島と限定されている。その島内における人間模様を色濃く背景にした物語が並ぶ。作者の出身である因島がモデルらしい。
 ミステリ色は少し薄く、どちらかと言えば人間模様ということか。
 考えると、「島」「学校」「家」という規模に差はあるが、閉鎖的な空間の、そして人間の持つ閉鎖性、排除性が物語のきっかけを作っていくパターンが圧倒的に多い。
 意図的とは思うが「○の○」と題名を限定している。
 どんな言葉も当てはまるその枠組みは、まるで「島」のようにある面で揺らがない。
 しかし短編は、湊にとってなんとなく習作のようにも感じる。失礼か。

煌言31~BattleとWarを結びつける

2016年02月23日 | 読書
☆子どもをとりまく問題解決の場として学校に依存することで緩やかな社会をつくり上げてきた日本。「教育再生」が声高に叫ばれている。しかし今、本当に「大きな教育改革」が日本にとって必要なのだろうか。本当に変えていくべきこととは何か。
 増田ユリヤ『欲ばり過ぎるニッポンの教育』(講談社現代新書)


 改革を声高に唱える方々の多くは、おそらく実際の学校現場の実情はよく見えない。
 また、よく見る必要はないのかもしれない。

 それはBattleとWarの違いであり、Warを勝ち抜くという意識には、時に邪魔になるとも言えるからだ。
 しかしBattleを見なければ、改革が一人一人の幸福に結びつくかどうかも判断できないことは確かである。

 結局のところ、Warが巨大である限り、Battleとの結び付きは弱くなる。

 だからこそ、現場の者は常に語り続けねばならない。結びつけねばならない。


煌言30~選択で力はついたか

2016年02月22日 | 読書
☆世の中全体でプログラム化が進んで、あたかも自分で選んだかのようにして育ってしまった子は、ちょっとでも依存できる対象が欠けたときには、不安でしょうがなくなる。一見正解を教え込まれてないはずの子どもたちのほうが依存性が出てきてしまうとしたら皮肉な結果です。
 苅谷剛彦『欲ばり過ぎるニッポンの教育』(講談社現代新書)


 「選択」の時代と言われてから久しい。
 しかし、現実に「何を」「どのように」選んでいるか、そしてその結果に対して「どんな学び」が準備されているか…と考えてみると、その筋道はひどく固定化している印象を持ってしまう。

 正答主義と言われた時代には、よくも悪くもそれなりの緊張感を通した学びがあったように思う。
 それを多少緩くして間口を広げたけれど、結果出口はあまり変わらない状態だったりしているのではないか。

 選ぶことの楽しさから始まるにしても、最終的に選ぶことの難しさを感じさせない学習では、子どもたちは力を身につけられない。

同僚性にある陥穽

2016年02月21日 | 雑記帳
 昨秋だったろうか、校長会研究班の一つからアンケート依頼があった。年に何回かはあり珍しくもないが、その時は少し戸惑った。テーマは校内研究体制推進であり、そのキーワードとして「同僚性」が挙げられていた。校長と同僚性という結びつきに、どうもしっくりこない感覚があり、明確な回答が出せなかった。


 単純に言えば、校長がリーダーシップを発揮し、様々な手立てをとって、職員の同僚性を高める手法について考えればいい。しかし、その道筋そのものに違和感を持ってしまう。それは「同僚」という言葉そのものにこだわっているだけなのかもしれない。そんな思いを持ちつつ、ネットで見つけたある論文を読んだ。


 「同僚性」に持っていたイメージは、「学びの共同体」で著名な佐藤学氏がよく口にするなあという程度だった。この論文でも「その定義や機能に関して明確な統一見解はない」と記されている。そして、自分のしっくりこない感覚を見事に言い当てたのは、「同僚性」と対比される概念として「形式的」があることだった。


 「同僚性モデルは形式的モデルより」「形式的連携を越えた、『同僚的』連携」といった記述がみられ、結論部分ではこんなふうに位置づけられている。「教育現場における問題解決には、(略)形式的・官僚的モデルではなく、同僚型・参加型・分散型リーダーシップが有効であり」…予想された結論だが、現実は厳しい。


 教育研究の場においても「上意下達」的な現状はあるし、その点を棚上げした物言いのようなイメージが拭えない。そのためのミドルリーダー養成だ、と言われそうである。確かに有効な一つの手立てと言えよう。しかしそれも「『仕組まれた同僚性』の強制」といった姿に陥らないように意識し続けられるか、だろう。

まったく違っていたのではないか

2016年02月19日 | 読書
 『普通の家族がいちばん怖い 崩壊するお正月、暴走するクリスマス』(岩村暢子 新潮文庫)


 プロローグを読み始めたときから、なんだか不快な気分に陥った。
 この本は、正月やクリスマス時の主に食卓について調査した結果と考察が書かれている本であるが、徹底して主婦たちの声を載せることで現実を見せつけている構成となっている。

  子どもが中学生、高校生になってもサンタクロースを信じさせようとしている親や、正月の御節に全く関心を示さない状況を、生の声で読んでいると正直「もう、いいや」という気分になって、結局総括的な第七章まで飛ばし読みのように進んだ。
 つまり、親たちが「幼稚」「自己中心」でしょうがないなあという感覚なのだが、実は、これは自分にも当てはまるのではないかといった後ろめたさも感じつつあった。

 社会経済学者の松原隆一郎氏が、解説の冒頭で書いたことがぴったり的を射ている。

 怖い本である。不快とすら、言う人がいる。どうしてこんなことを書くのか、と憤る人もいる。なぜか。多くの人がそう思いたくない自画像が、ここには書かれているからだ。


 この調査の中には座談会が含まれていて、そこでの発言がまた怖い。
 「うるさい親にはなりたくない」「語らない親」と名づけられた章には、例えば、学校からのお知らせにあることは「書いてあるから、ウチでは話さない」「授業中に教えられたみたいだから、言わなくてもいいと思う」という、連携などという美しい言葉の底部がどうなっているのか、明確にわかる一節もある。

 その点とも通ずるが、著者が「子供の『目線』で見るならば」と前置きして語った次のような母の存在である。

 現実を見ない母
 事実とは異なることを平然と語る母
 言うことがすぐ変わる母
 現実に自分が行っていることとはかけ離れた考えや展望を語る母



 こうした母、主婦の登場に、教育が無縁であるわけではない。
 さらに、著者が調査対象者そのものに関する見解を書いている部分は、教育に携わる者ならば心して聞かねばならない。

 近年多くの対象者が「本当にそうであること」より、「そう答えるのが正解だと感じること」を答えるようになってきている

 つまり、自分が見えなくなっている人間…表現重視や「自分探し」のベクトルは、まったく違っていたのではないかという気がしてくる。

煌言29~次の行動に集約する

2016年02月17日 | 読書
☆「悩まないで、反省しないで」、「次をどうしよう」という問いかけが必要だと、私は考えています。「悩むこと」も「反省すること」も、「次の行動」に集約すればいいのです。このことを「当たり前」にする。ふっと生き方が軽くなる。
  野中信行『必ずクラスを立て直す教師の回復術!』(学陽書房)


 私などは「悩む、反省する」を性癖と半ばあきらめている。
 しかし、その思考の部分を限定、可視化することによって、「次の行動に集約」できるのではないか。
 たとえば、時間制限、締め切る時刻を決める。
 たとえば、書く。

 優先するのは、行動する自分。
 他へ働きかけること。
 その継続はきっと思考習慣を変える。