すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

変容できたかを常に問う

2009年12月31日 | 読書
 何百回もその言葉を目にしている。
 何度も何度もその言葉を直接聞いている。

 はてには、受け売りとしてその言葉を語り、引用してきた。
 それでもなおかつ、本質をとらえていなかったというべきか。

 向上的変容 

 野口芳宏先生が発する代表的なキーワードの一つである。

 『教師の作法 指導』(野口芳宏著 さくら社)には、手書き板書を模したページがあり、こうしたキーワードに短い端的な解説が加えられている。

 「向上的変容」のページには、こうある。

よりよい状態を目指し常に変わり続けること。ただし内面的な「変化」だけではなく、それは外からも分かる「変容」であるべきだ。
(中略)気分や内心だけが変わっても、それを「変容」とは呼ばない。


 「気分や内心だけが変わっても」という箇所を読んだとき、なんだか心がずきっとした。
 内心が変わったのならそれはそれで少し評価できるが、自分はもしかしたら気分だけではなかったか…。
 他者の目に見える形で変わったなどとはとてもとても口にできない。

 この言葉は、指導上のキーワードではあるが。「教師の作法」としての核になる言葉であることも間違いない。
 もう一度「変容」を目指すことを、年の瀬に噛みしめなければならない。

 さて大晦日。
 今年を表す漢字一字は「新」であったが、自分に「新」らしいことがあったかと言えば心許ない。
 確かに4月に職場を変わりその意味で何か「新」めいた気分だったのだろうが、振り返ってみれば二番煎じのようなことばかり。
 今年、「新」たに出来たこともほんの少しあるのだが、断片的だし緻密さもない。来年はそのあたりを見直すことから始めようと思う。
 「変容」できたかを常に問う、そんな年でありたい。

 訪問してくださったたくさんの皆様、よいお年をお迎えください。

面倒くさがらずに、と諭される

2009年12月30日 | 読書
 『日本辺境論』(内田樹著 新潮新書)は、読みどころ満載であった。もう一度、少し時期を置いて読み直してみようと思うほどだ。

 日本が辺境であるという論の根拠は数々挙げられているが、あっと思ったのは「日本」という国の名づけである。
 それが「日ノ本」「日出ヅル処」から来ている程度の知識はあったが、この一言に参ってしまった。

 「日ノ本」とは「あるところから見て東方に位置するところ」ということです。
 
 まさしくその通り。その言葉を国名として引き受けたこと自体に、辺境であることの自覚いや精神が作られてきているのではないか。
 そんな昔の話はともかく…ではない。
 そういう歴史を背負って思考や行動が出来上がってきているという事実を、いくつもいくつも提示してくれるのが、この本である。

 正直、半分ほどすっとは理解できない文面もあるのだが、残り半分だけでも十分に刺激である。
 特に最終章「辺境人は日本語と共に」は、今後の教育を考えるうえでも必須な論考と思う。
 『日本語が亡びるとき』(水村美苗著)とはまた違った視点で、日本語についての考えが展開される。辺境にある私たちが、辺境にある思考で行きぬいていくために、一番の武器は日本語そのものではないかという気にさせられた。

 最近というか今年の反省モードで語れば、「思考停止の心地よさ」に留まっている自分に気づくことがあり、これも老化とどこかで責任回避を繰り返している現実を認めざるを得ない。

 面倒くさがらずに考えなさい、と諭された本でした。

地域限定花魁言葉

2009年12月29日 | 雑記帳
 自分の出身を隠すために花魁言葉があることは知っていたが、どんなふうにその言葉遣いができたんだろうなどとは考えたこともなかった。

 「ありんす」で使われている「~~す」というのは、調べてみると「候」とあり、「サウラウ」から「サウ」に略され、さらに転じたものと載っていたので、たぶんそれだろう。

 「おさらばえ」の「~~え」というのは、結構迷う。単に終助詞としての「呼びかけ」「問いかけや念押しに親しみの気持ちを加える」ということだろうか。「故」という線もあるかなあ。

 どうしてこんなことを書き出したかというと、『JIN~仁~』である。
 ずいぶんと視聴率がよかったそうで、忘年会でも話題になるほどだった。
 もっともTBSをキー局としていない我が県では一週遅れ放送というのが悲しいが…。従って、最終回の結末に対する不満爆発?情報も事前にわかっていたところが、なお悲しい。

 それはさておき、中谷美紀演ずる花魁野風がなかなか切なかった。叶わぬ愛の気持ちを「雪」に喩えるところは絵になりました…。
 ところで、最終回に野風がこんなふうに言う場面がある。

 「先生にお任せしんす。」
 
 家族とともに観ていたが、この言葉を聴いて思ったことを口にしたら爆笑された。

 「これって『し』と『す』を逆にすると、全く秋田の言葉だよな」

 つまり、「先生にお任せすんし。」となる。

 意味も全く同じ、しかもどちらも丁寧言葉。妙なところで接点?を見つけたものである。

 方言といえど「~~すんし」はまだ使われる頻度が高い。そんな機会に間違って「~~しんす」などと言ってしまったらどうなるだろうと余計な想像までしてしまう。
 「私がします」は「私がすんし」となるのだが、「私がしんす」じゃちょっと驚くだろうねえ。

 地域限定でしか、笑えないか。

今年最後の小説~ゼロ

2009年12月27日 | 読書
 『永遠の0』(百田尚樹著 講談社文庫) 

 第四章が「ラバウル」となっていて、そこを読んでいるとき頭の中でなぜか「♪さらば、ラバウルよ。また来るまでは~」という歌が繰り返し思い出された。
 きっと幼い頃に家の誰かが唄っていたということだろうと思う。
 気になって検索してみたら、こんなページがあり、ここではその歌よりも動画に写されるそのシーンにぐっと惹きつけられてしまった。

 まさに、この小説の舞台となったようなシーンである。
 出撃、戦闘、そして被弾、墜落という場面が随所に語られる話である。
 そういう私たちにとっては遠い歴史のような事に、どれだけ身を入れて読めるだろうか…戦争を題材とした小説はあまり多く読んでいないが、そんな思いにとらわれることもあった。

 しかし、この『永遠の0』は実に面白く引き込まれるように読めた。
 存在さえ知らなかった実の祖父が実は特攻隊であった、という設定もいいし、知り合いの証言でつないでいく構成も巧みだ。
 そしてその結末は感動的である。

 戦争や特攻を扱った映画、小説などはいつも「生きる」ということはどういうものかを問いかける。
 ここに登場する人物たちのそれぞれがきちんと向き合っている「生」の印象が強く出ていること、そしてそれを今語ることのできない何万人のもの命の存在、そうした重みを強く感じさせられる作品だ。
 『永遠の0』のゼロは「零戦」ということだけではない、もっと深い意味づけができることを気づかされる。

 そして、ことさらに強く出ている気がするのが、当時の指導部の不甲斐なさとそうした組織を作らざるを得なかった国の不幸。
 話題の『坂の上の雲』と照らし合わせたとき、明治維新から歩んできた道筋が知らず知らずのうちに捻じ曲げられてきたことにも考えが及ぶ。

 今年最後の小説になりそうだ。600ページ近い分厚い文庫だったが、いいものを読んだなあと素直に思った。

「つかい」のつかい

2009年12月25日 | 雑記帳
 学期末になって通知表のチェックなどをする時に、担任の書く所見欄を読んでいて、「あれえ、この言葉はどうだっけ?」などといくつか必ず調べなければいけないことがある。

 以前調べたことを何回も調べる自分がいたりして、まあまあよく繰り返して勉強になるわい、と思ったりする。

 よく迷うものに、「つかう」がある。

 「使う」と「遣う」、「使い」と「遣い」である。
 例えば、このOfficeのIME2007では「使う(一般的)」「遣う(限定的・工夫して使用する)」とあり、それなりに原則的なことは書いてあるが、個々の例ではすっきりできないこともある。

 こうした場合は、限定的な方を覚えておくことが効果的だろう。

 「仮名遣い」「気遣い」「金遣い」「心遣い」「小遣い」「言葉遣い」「筆遣い」はよくある例であるし、関連性も見られる。
 「気遣い」と「心遣い」はほぼ同義。「金遣い」から「小遣い」がつながるし、「無駄遣い」もつながるか。
 「金遣い」と「銭遣い」は同義だ。
 「仮名遣い」→「言葉遣い」→「文字遣い」というラインもあるなあ。

 難しいのは、「筆遣い」という物や道具類だが、思いつくのは「人形遣い」ぐらいか。「蛇遣い」とか「猛獣遣い」もなんとなくそうだと思うが、辞書には載っていない。
 今、類語辞典を調べたら、「操る」という意味合いが強いので、そうだと思うのだが、「使い」が広義だけに使えるというわけですか…

 学校で使われる言葉でも、例えば「指づかい」「箸づかい」などはどうなんだろうと改めて思う。

 いや、今回のきっかけとなった言葉は、文章のなかにあったこの言葉である。図工の学習について書いていた。

 「色遣い」

 気になったので調べてみると…これは、ちょっと使えませんよ。小学生が今からこれじゃあ困るもの。

今年中に読んでおきたい本

2009年12月24日 | 読書
 今年もあと一週間。

 読書100冊は達成できそうだが、振り返っていつも質はいかほどのものかと反省することも多い。
 今、手元にある文庫本二つの他に、三冊ぐらいは今年の締めとして読みきっておきたい。

 前から注目しているが、まだ購入していない本を即注文することにする。
 著者からしても、書評を読んでも、まず外れはないだろう。

 『教師の作法 指導』(野口芳宏著 さくら社)


 『日本辺境論』(内田樹著 新潮新書)


 『谷川俊太郎質問箱』(東京糸井重里事務所編)

 心配は、宴会疲れだけ…いや、大掃除、整理などを始めて挫折してしまうことも予想される。

 読書ぐらいは自己満足して、今年を終わりたい。

火天の城に散ってしまう夜

2009年12月23日 | 雑記帳
 久しぶりに映画を観た。

 『火天の城』

 ちょっとは話題になった作品とは思うが、正直あまりいい評価はできない。

 原作の小説の構想はいいだろう。
 安土城を建てるプロジェクトに関しては今まであまり知られていなかったと思うので、それなりのドラマが組みたてられる。
 木組みのこと、指図(図面)争いや親柱になる檜探しなどなかなか見所はあったと思うが、様々な突っ込みを入れたくなる場面も多くあった。

 小さいことはともかく、どうして結末が、城の出来上がったところで終わってしまうのか解からなかった。
 安土城ですよ、火天の城ですよ、これは炎上しなければどうしようもないでしょう。収まらないはずですよ、その物語は。
 その場面での無常、やるせなさじゃないかなあ、日本人が一番喰いつくのは!

 いや、これは自分だけの思いこみかも…と、冷静になって原作はどうなのか調べたら…。
 やはり、原作では書かれているらしい。しかも、火を放った人物がいるらしい…ああ、これは想像力をかきたてられるなあ。
 歴史小説は全然経験がないといっていいほどだが、もしかしたらそちらの方向へ行くかもしれないという思いもしてくる。

 それはともかく映画である。
 この映画も流行のお笑い芸人をずいぶんと使っているなあという印象。きっとギャラが安くて、売れない俳優よりは多少観客が見込めるからかしら、と穿った見方をしてみた。
 でも、そうやって映画や演劇で伸していく芸人もいるからなあ…。その辺りのインパクトの強さをどう見極めるかは、演出家や監督の仕事だね。M-1とか観て勉強しているのかなあ。
 しかし、M-1も少し新味に乏しいというか、マンネリというか…

 と、あらぬ方向に進み、散ってしまう夜。

その準備で充たされる身体

2009年12月22日 | 読書
 やっぱり上手だな、と思う。

 伊坂幸太郎『フィッシュストーリー』(新潮文庫)

 洒脱な会話とか気の利いた警句、緻密な構成などということばが伊坂作品を形容するコピーになっているがまさにその通り。今回も面白く読めた。
 4編の中編集?という分野らしいが、どれもそれなりの味がある。
 まあ、標題になっている「フィッシュストーリー」が印象深いことは確かだが、本文後の【参考文献】のところにあった、作者の書いた言葉に少し驚いた。というか、作家はこうなのだと改めて認識したように感じた。

 三谷龍二さんの作品を見たことで、長い時間と場所を漂う物語を作りたいと急に思い立ち、『フィッシュストーリー』ができあがりました。
 
 三谷龍二という名前は聞いたことがなかったので、ネットで調べる。
 なんと木工作家ではありませんか。

 木の造形作品を見て、そういうインスピレーションがわくということはちょっと一般人では届かないところなのだろう、と簡単に結論づけたくない気がする。

 そういう目で作品を見るから、音楽を聴くから、創作に結びつくのだろうと考えてみる。
 そういう目の正体は、背景、過去、意志、信念、希求…を感じとる心、反応する身体だ。

 全ての日常生活でそんな構えをしていることは不可能である。
 しかし出会いは突然やってくる。
 とすれば、その準備をしていることこそ、一番肝要なのではないか。

 こじつけと言われればそれまでだが、この小説の中でハイジャック犯をいとも簡単に倒してしまった瀬川という高校教師が印象深い。
 『フィッシュストーリー』の第二場面、何気ない最後の言葉がかなり格好いい。

 ハイジャック犯が計画を立てるずっと前から、瀬川さんの準備はできていたのだ。 

 瀬川の身体は、正義への準備で充たされていた。

多様な仕事を申告せよ

2009年12月20日 | 雑記帳
 こんな文章を目にした

 大正時代には今の10倍以上の職種があった 

 あるインタビュー記事である。詳しく説明している箇所は次の通りである。

 大正9年の国勢調査で、国民から申告された職業は3万5000種もあったそうです。一方、総務省の日本標準職業分類によれば、今は約2000種類しかない。

 そんなことは問いかけられたこともなかったが、単純に何か現在の方が多様な職種があるイメージを持っていたように思う。
 当然、申告されたものと把握しているものの違いはあるにせよ、これはちょっと驚きのデータである。10倍という表現は単なる誇張とはいえないだろう。

 確かに、なくなった職業もあるだろう。
 社会の発達、生活の変化があれば当然だ。まあ職業として実際には無くなってはいないが、「八百屋」「魚屋」「薬屋」「下駄屋」「家具屋」「自転車屋」…自分が生まれた家の周辺だけでも、こうした単品?の店は姿を消している。百姓や普請工事に必須の「鍛冶屋」とか「トタン屋」「種屋」などかつてはあったが…。

 もしかしたら、それ以上に統合された職業になっていったのかもしれない。これはきっと、大きな括りの中に入れられた、ということなのかもしれない。
 工業の近代化、商業資本の拡大による地方進出…いろいろと絡んでくるのだろうなあ、そんなことを漠然と考える。

 仕事そのものが必要なくなったという面と、仕事の多様性に名づけがいらなくなった面ということで考えれば、後者にこだわってみることは面白いのかもしれない。
 もちろん職業として考えた場合、それが「生業」になるかという点は抜きにできないのだけれど、格差社会とは言いながらどんなことをしてでも暮らせる現在のような状況では、個別の好きな仕事に絞って生きることも悪くはない。

かたづけ士に頼むべきか…

2009年12月18日 | 雑記帳
 世の中にはこんな職業もあるのである。かの女流作家は知っていたのか。

 かたづけ士
 
 掃除や整理専門のホームヘルパーではない。
 「個人や企業向けに片づけのコンサルティングやセミナーをてがける」仕事だそうな。
 「整理術」(の記事を読む)マニアに近い自分、つまり徹底した片づけ下手の私には、実に関心がある職業だ。

 雑誌記事を読んだだけで、理路整然としている様子が見て取れる。
 まず大事なことは「片づけ下手に3タイプ」という現状分析である。

 ・片づけ前が苦手(なかなか手をつけられない)
 ・片づけ中が苦手(着手するが、完了しない)
 ・片づけの後が苦手(すぐリバウンドする)

 なるほど。自分はどれにも当てはまるが…あえて言うと「中」タイプか。

 次に、課題設定をした片づけをしてさらに問題点を見抜くのだと言う。そのために、時間をきっちり決めて片づける実習をしている。
 片づけ下手の対象者となった人への問題点の指摘が鋭い。

 ・判断を先送りする癖がある。
 ・置き場所が決まっていない
 ・機能の違うものが一緒になっている

 ああ、オレのことではないか。
 次は「マイルール」なるものを作り、実践を始めていくという段取りである。雑誌記事では「一日のどこかで、必ず机の上に何もない状況にすること」がルールとされる。
 自分にあてはめたら。うーん難しい。面倒だと感じてしまう。もしかしたらタイプは「前」か。

 今の状況を見ても、机の上は昨日使った資料、読もうと思っていた雑誌、今日使った文集綴り、電卓、デジカメ、ペン4本、マスク、のどあめ…とカオス状態である。

 私の場合は、複合タイプで根が深い。
 それでもなんとかなっていると思う気持ちが残っているだけにたちが悪い。
 やはり「かたづけ士」を呼んで個人教授を受けるしか手はないだろうか。