すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

大人になっても忘れたくない

2011年06月30日 | 雑記帳
 職員室の机上に、図書室用にと購入したある絵本セットが並んでいた。

 その題名、形容的な部分にひっかかってしまった。

 『大人になっても忘れたくない ○○○○○の○○○○』

 検索すればすぐに何かとわかりそうなので、改めて書くが

 『大人になっても忘れたくない いもとようこ世界の名作絵本』(金の星社)である。

 絵本のなかみ、作者や編者に文句があるわけではない。
 ただ、その題名のフレーズ「大人になっても忘れたくない」が気にかかる。

 まずは、誰が「大人になっても忘れたくない」のかである。
 普通に読めば、これは「私」ということだろう。つまり、書いた側、出版する側。しかし、「大人になっても」とつくから、子どもなのか。これは子どもが書き、出版した本なのか。
 違う。
 そんなことはわかりきっている。

 では、この表現は、他にどんなことが考えられるのか。

 類似した表現からの連想か。
 例えば「大人になっても忘れてほしくない」または「大人になっても忘れていない」。
 これでは、読者に訴えているのか、自分に問いかけているのか、ちょっと曖昧だ。

 表現を省略した形なのか。
 例えば「読んだら大人になっても忘れたくないときっと思うに違いない」または「大人になっても忘れたくないと思うほど、これらの話は面白い」
 うーん、そうなのかもしれない。

 しかし、その…「~~~ても ~~たくない」という語脈は、どうもこういう場合の形容にふさわしいのか、とまた思ってしまう。

 「来年になっても、言うとおりにはしたくない」
 「いくら怒られても、手放したくない」
 「死んでも、食べたくない」

 思いついた例文が悪いのか、「意地」や「意固地」のイメージが湧いてしまう。
 本を読むことは、そんなに意地になるほどのものじゃないと思うのだけれど…書きながらやや穿った見方だなと反省する。

 「大人になっても忘れたくない」は、その場で強く思う即時的な表現だと思うので、対象を同化させたいという効果をねらってキャッチコピーとしてはありかあ、とそんな結論になった。

 こんなだらだらと書いたことは、明日になっても忘れたくない、なんてとんでもない。

皿においてみたり、包んだり

2011年06月29日 | 読書
 最近、読んだなかで書き留めておきたいこと。


 自分らしくあるための消極の決断が、私の自立の始まりだった

 『金ではなく鉄として』(中坊公平 岩波書店)より


 見た目から入るのって、あんたが思っている以上に大事なの、人生では 

 『ハレルヤ!』(重松清 「新刊展望」連載小説)より


 静かに神経を尖らせることだ、そうすれば、今、自分は違った方向へ歩こうとしている、くらいのことはわかるものだ

 『大人の流儀』(伊集院静 講談社)より


 簡単に呑み込めそうもないものは、いったん取り出して皿においてみたり、とりあえず包んで冷凍庫へでも入れときますか。

心して置かなければ

2011年06月28日 | 雑記帳
 日曜日の夕刻に、録画しておいたある番組を観た。
 以前から観たいと思っていた映画である。

 『ブタがいた教室』
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%82%BF%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%9F%E6%95%99%E5%AE%A4

 妻夫木聰主演で少し話題になり、ちょうど去年の今頃原作本である『豚のPちゃんと32人の小学生』(黒田恭史著 ミネルヴァ出版)を読んでいた。こんなことを書いている。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/49ea5c45ca0a2fe1124e06fd8cabac00

 原作と映画の比較は簡単にはできないが、視聴してまず驚いたのは、その自然な口調だった。
 教師役の妻夫木くんにも力みがなく、子どもたちへの言い回しは本当に若い教師然としたものだった。

 そして何より子どもたちの台詞が、考えられないほど自然でびっくりしてしまった。
 最大の見せ場は子どもたちの話しあう場面。そこで見せる怒りも悲しみも、つかみ合いもまさに「迫真」というイメージをうけた。
 まるでドキュメンタリーを見ているような気にさせられた。

 映画としての全体像は、どこか半端な感じは否めないのだが、その討論場面だけでも実に貴重だと思う。
 解説を読んでみると、子どもたちの台本は「白紙」の台詞だったらしい。なるほど、そうでなければこの雰囲気は出せないだろう。

 生活科が始まった頃と現在を比較すると、「動物」の扱いに関しては実に大きな変化がある。理由はわかっているが、その是非について語る何物も自分は持ち合わせいない。

 しかし、ああでもないこうでもないと考えてはみたことはある。
 今、この映画を観て、また考えたこともあった。
 「命」の問題を扱うことに、絶対的な正解がないのは承知しているが、やはり人間の罪深さだけからは逃れられないということである。

 かといって、命の問題から遠ざかることはけしてできない。
 いつ、どんな形で出会わせるか、心して置かなければ見逃してしまう。

訓授されなくても

2011年06月27日 | 読書
 105円のコーナーにも教育書が並んでいる箇所がある。
 今までこうした類の単行本は買った記憶がないが、一冊ぐらいは見てみようかと題名だけ見てカゴに放り込んだ。

 『講話のポイントとすぐに使える講話事例』

 他の本と一緒に書棚に横積みして、どれどれと手にとったのが二、三日後。改めて表紙を見て、えっと思った。
 もちろん題名はそのままであるが、下にこんな文字が…。

 警察講話研究会編

 「なんじゃあこりゃあ」と腹に手を当ててひざまずく、ほどではなかったにしろ、あららららあという状態である。上部のシリーズ名には、こんなことも書かれてある。

 警察幹部のための実務選書②

 すぐ捨てるわけでもないので一応読んでおくかと開いてみる。
 警察署長として赴任したときの心構えなどと書かれている。正直実に一般的なことしか書かれていないが、独特の用語などもあって、やや言葉フェチ気味の自分には面白い部分もある。

 なかでも、この言葉。

 訓授

 広辞苑などの辞書にはない。「訓示」や「訓辞」は当然あるし、近いとは思うのだが、それはやはり組織独特のものか。

 ネット検索では、「警察礼式」という法規にあったので、なるほどと思った。 
 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S29/S29F30301000013.html

 少し調べたらこんなページも。
 http://blogs.yahoo.co.jp/kuroki_aki/15709982.html

 こうなってくると、組織だけが持つ用語には当然専門性もあるだろうし、独特の構造めいたことが重なっているものだなあと、今さらながらに思う。

 学校教育でいうと、辞書にはないだろう「机間」や「修礼」なども少し考えてみると深い気がする。地域によって違いがある言葉も多いようだ。

 若い頃、学期末や年度末に「コウテイハンセイ」という会議が行われていた。あるとき、これも他の職種ではあまり使われない結構特別な言葉であることを知った。今は「学校評価」が一般的なのだろうか。

 「コウテイ」は「功程」と表されていて、当時調べたとき手元の辞書にはなかった。
 しかし今改めて広辞苑をみると「仕事のはかどりぐあい。職人などの作業の程度」とある。
 なあんだ、これならいい使い方ではないか。学校評価より、ずっと職種にあっているなと思った次第…

 さて、肝心の「講話」のポイントとヒントはどうなった…

 結構あるものですねえ。
 「訓授」されなくても、人はいろいろなところから学べる。
 早とちりや勘違いによって手にしたものにもたくさん散らばっていた。

世の中で一番悪いこと

2011年06月26日 | 読書
 「世の中で一番悪いことは何か?」

 こう問われたらなんと答えるか。

 もし子どもにこう訊かれたら、どんなふうに言うだろう。

 「人の命を奪うこと」…人殺し、殺人、そして戦争などいう言葉が浮かんでくる。

 こんな文章に出会って、おおっと思った。

 「順番を守らないことがこの世の中での一番大きな罪です。」

 『カバゴンの放課後楽校』(阿部進 新評論)の中の一節である。
 カバゴンこと阿部進が2008年に出したこの本は、昔ながらの「原っぱ」や「だがしや」を、なんとか今風に再現できないかと、「カバゴン夏楽校」という催しを、上州高山村で行った実践記録を中心に書かれている。

 独特の漢字の学び方、ダイナミックな科学実験などに加え、子どもたちが自分のお金で自由に駄菓子屋体験できる設定など、見事に「楽校」になっているなあと感じさせてくれる。

 文科省や厚生省が打ち出した「放課後」に関する政策が、どの程度成果を上げているのか、私には正直把握できないが、カバゴンがやっている、やろうとしていることは、かなり有益なモデルではないかと思う。地方にもそうした芽があるように思うが、自分たちの意識が向いていないことを少し反省させられた。

 さて、冒頭の「世の中で一番悪いこと」についての答は、カバゴンが、沖縄久米島にあるガジュマルの樹が植えられている墓地で、あるおばあさんから聞いたことである。
 ガジュマルの樹の左には、世間様に顔向けのできない犯罪者が入り、右にはもっと悪いことをした者が入るという。

 もっと悪いことは、ものの順序をたがえること。
 こんなふうにおばあさんは語った。

 それは親より先に死ぬことです。ものには順序があります。先に生まれた者は後から生まれた者よりも先に死ぬ。親は子どもより先に生まれ先に死ぬのが順序です。

 命をまっとうすることによって、あの世で親、子、孫、先祖と一緒に生きることができるという強い教えである。理屈抜きに響いてくる。

 命、その縦のつながりのなかに自分を見いだせるか。

 それはあまりに当たり前だから、時々立ち止らないと見過ごしてしまうことのようだ。

沈黙入門、挫折の気配

2011年06月24日 | 読書
 『沈黙入門』(小池龍之介 幻冬舎文庫)

 インパクトのある題名である。

 「沈黙」に憧れてきた気がする。少年期からどこかダジャレを連発して人の気を惹こうというようなタチだったので、無口な陰りのある同級生などを見て渋いと思ったり(さすがにシブイとは言わなかったが、そんな感じ)、「自分、不器用ですから」と呟く健さんにため息をついたりしてきた。

 無口や寡黙と同義ではないが、「沈黙」という言葉の響きがもつ思慮深さや冷静さは共通する傾向がある。
 人格の改善を目指そうとしたら、自分の到達点は沈黙かななどとも思ってしまう。

 それにしても、沈黙とは「入門」できるものなのか。そういう筋を持っているのか。なにしろ「話し方入門」とか「うけるスピーチ入門」とは正反対とも言えるわけだし。

 ただ黙ってりゃいい、何もしゃべらなきゃいいんだ、こんな簡単なことはない…いやいや、それはかなり難しいということは周知の通り。
 そして、それはなぜ難しいかといえば、この本に書かれている現実が世の中にあふれ、自分もその渦の中にいるからだ。例えば、こうしたこと。

 あふれる自分語り

 みんなコメンテーター気取り

 不幸自慢をする人


 この本には、そんな饒舌さはどんな心理に基づいているのか、そしてどんなふうにそれを薄め、沈黙を目指していくか、結構具体的な例が書かれている。
 ただ仏教的な用語の数が結構多いので、難解とは言えないが面倒なイメージも感じる。そこがまた著者の著者たる所以だとは思うのだが。

 欲望やイライラ、不安はなぜ膨張していくのか、それは紛れもなく言葉によって膨らんでいく。そのもっともな事実に目を向ければ、言葉を少なくしかもゆっくりしてみることの有効性は、なるほどと納得できる。
 しかしそれは習慣性であるから、かなり意識的にならないと難しい。しいていえば、一回一回の「禁欲」ということになってしまう。

 自分の欲望や不安を客観視して俯瞰してみることの効果については、よく言われることだ。
 この本では少し違っていて、そのあまり良くない心持ちを徹底的に見つめる、意識を集中させるという手法が奨められている。
 そのことによって本当にそう考えたり思ったりしているか真偽の見きわめができ、新たな発見、分析的な対処に結びつくという。

 たぶん少し苦しい作業だと思うけれど、他者への言葉という表現に逃げず、心身の凝視を続けてみる。うーん、なかなかに困難な道だ。

 沈黙に入門した初日から挫折しそうだ。

「脱線」するゆとり

2011年06月23日 | 読書
 昨日書いた98歳の国語教師の実践を読みながら、一字一行へのこだわり方は大きく二つの観点があるよう思う。
 一つは言葉の意味の分析や拡充、もう一つは体験と重ねて実感としてとらえること、と言ってもよいだろう。

 後者については、幾度となく考えてきた気がする。

 まず、「総合的な活動の時間」についての議論が盛んだった頃、千葉大の宇佐美寛先生が書かれた「読書⇔経験」のことが思い浮かぶ。学習とはかくあるべきと印象に残ったことだ。

 ある夏、算数の研修会に出たときに、筑波大付属小の細水先生が講演で話された言葉も納得だった。以前にも書いた気がする。

 2年生の先生は、子どもに「暑いから、窓をちょっと開けて」と頼んではいけない。
 「窓を30cmくらい開けて」と頼むべきだ。


 杉渕鐵良先生の最近の著書「子どもが授業に集中する魔法のワザ!」(学陽書房)には、こう書かれている。

 国語、算数とキッチリ分けずに、他の教科へリンクすることで、子どもは「生きた学び」が体感できる。


 これらの考えの共通性は言うまでもない。
 「つながる」「往復する」と、言葉にすれば簡単ではあるが、現実に小学校の授業はそうなっているだろうか…以前よりそうした学びの姿は衰えてきているのではないか、という気がする。

 原因は特定できるものではないが、学校教育上の施策として、小学校の教科教育が専門性という点を重視し始めた傾向も見逃せない。
 そのこと自体は悪くはないが、担任裁量の場を狭めていることは確かである。  

 横断的総合的な学びという点も強調はされてきたが、もちろん著名な研究校ではそんな例も多くあったのだが、実際の多くの現場に拡がったかというと、非常に心許ない。
 またそれを拡げる余裕を見いだせない現実が横たわっていることは周知であろう。

 懐古的で独善的とは思いつつ、小学校ではいい意味の「学級王国」であった方が、学びの総合性を志向する可能性が高くなるのではないかと感じる。
 均質的な手段のうえにのる学習は、一定量と質を確保できるが、個性や面白味に欠ける。それなりの工夫と努力をしている教師は多いが、法規的な枠というより学校体制の中に小さくまとまらざるを得ないのかもしれない。

 しかし今そんなことを言いだしても絵に描いた餅であることには違いない。
 どう打開していくかは、ぎりぎり2点、やはり一年間の計画づくりの中にあるし、一時間の授業の中にあるだろう。
 つまり計画づくりを、自分が好きなことを基盤に実践の「芯」として取り上げられるか(この際子どもは無視だ、と暴言)。
 そして一時間の中に、何度「脱線」を組み入れられるか、だ。

 98歳の教師はこんなことを言っている。

 大切なのは脱線する「ゆとり」なんです。ゆとりは目的ではない、結果です。

98歳の立ち姿から教えられる

2011年06月22日 | 読書
 週刊誌の表紙に載った「98歳、奇跡の授業」という文字。興味がわいて買い求めた。
 かの灘中学校で教鞭をとり、優秀なる人材を世の中に送り出したとある。

 教職を退いてだいぶ経つが、請われて特別授業として教壇へ立つという。
 日曜日の新聞やネット上でもそのことが取り上げられていた。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110618-00000107-san-soci

 雑誌に特集として組まれたそれは、現職当時の授業がいかにして行われたか、結構ページを割いていて読ませる内容となっていた。

 中勘助作の『銀の匙』だけを教材に行う三年間かけて行われるという国語の授業。
 その内容は、一行、一字の意味、正体に迫るものである。
 「丑」という言葉が出てきたら、干支を扱い十干と十二支から五行思想までたどっていく。「駄菓子」が出てくれば飴をなめ、「凧」が出てくれば凧あげを実際にやってみる…徹底的に登場人物の気持ちに寄り添ったり、作者の意図を突き詰めたりする、それはそれは、まさに「羨ましい」という一語に尽きる気がした。

 こんな気持ちにさせられるのは何故か。

 指導目標、指導内容、そして教科書、時間に縛られていると感じている現場の教員からみれば、まさに自由闊達を絵に描いたような実践にみえる。
 しかし、それが単純に導き出されたものでないことは、誰にだってわかる。

 条件的な違いはあまりに大きいが、それにしても、多くあっただろう障害を乗り越え、その授業づくりを決断し、構想し、実現させる、「教師」としての矜持のようなものに憧れを抱いてしまうのだろう。

 今、言われたこと以上に上からのお達しを抱え込んだり、必要以上に足並みを揃えたりする傾向を、身のまわりに感じる。自分もまたそうした流れに身を任せたほうがラクチンだなという感覚が、時々ふっと湧いている。

 全てとは言わないが、これだけはというもの、そしてそれは自分の好きなこと…一つは国語の授業なんだろうなあ…がいいと思うのだけれど、曲げない、折れない、揺るがない芯のような思いを持っていたいと、98歳の立ち姿から教えられる。

リニューアルしてスタート

2011年06月21日 | 教育ノート
 朝に3年生の女の子に廊下で呼び止められた。

 「うちのお父さん、ブログが見られなくなってさみしいって、なんとかしてくれって言ってた。」

 今さらではあるが、うれしい言葉である。

 習慣とは怖ろしいもの、ほぼ毎日更新してきたわけで、時間的に多少のゆとりがあることが、淋しくもあり不安でもありという感情もちょっぴり湧いた。

 しかし、それもほんの二、三日だけ。前向きに考え、学校ホームページのリニューアルに取り掛かり、先週から少しずつ時間をかけながら、7割ほどは完成した。

 作成中のページもあるが、まずはサイトアップをしてみた。
 しばらく扱っていなかったソフトで、かなり肩の凝る作業となったが、新機能もあったりして、出来栄えはまずまずだろうとほっとしている。
 http://www.yutopia.or.jp/~miwasho/

 当然ブログより制限は多いが、とにかくタイムリーに載せていくことが大切なので、しばらくはこの枠の中で頑張ってみようと思う。

 『日本の学校』のサイト巡回コメントで、ブログ頻度に比べてホームの情報不足が指摘されたことがあったので、挽回する意味も込めてみたい。

 また愛読してもらい、応援団になってくれる人を増やしたいものだ。

「ひとり」同士がふれ合う電車

2011年06月20日 | 雑記帳
 半年ぶりに映画をみた。

 『阪急電車 ~片道15分の奇跡~』 
 http://hankyudensha-movie.com/

 内容は地味であったが、なかなか染み入る映画だった。

 様々な悩みや苦労を抱える人間がいて、固く紐で縛られたようなその中味が少し解かれたような、緩くなったような、そんなストーリーなのだが、劇的な事件や展開があるわけではない。

 全国どこの鉄道沿線でも、もしかしたらあるかもしれない小さなドラマが結び付けられている、そんなところか。

 いじめにあっているらしい小学生の女の子が「誰か助けて」と呟き、そのまま「往路」と題された前半が終わってしまった。
 当然、そこに登場する誰かが関わって、問題解決する場面が「復路」に予想されたが、それはちょっと意外な形(いや、考えれば当然な形)でやってきた。

 駅の階段をホームへ降りてきたその女の子は、友人たちの言動に対して、強く立ち向かうのだ。それを見ていた中谷美紀扮する祥子がその後に声をかけ、その小学生は涙を見せる。
 「ああ、これは、励ます映画なのだ」と思った。

 悩みや苦しみを解決するのは本人の力以外にない。誰かが力を貸してくれたり、頼りになったりすることはあっても、結局は自分…そんなことを考える。そんな「ひとり」を励ますために、映画は作られた。

 たまたま読んでいた、『あたまのなかにある公園』(糸井重里)に、こんなフレーズがあった。

 ほんとにつらいときっていうのは、
 たいてい「ひとり」だし、ほとんどの人は
 その「ひとり」に耐えたことがあるんだよなぁ。


 そのフレーズにのっとれば、そういう「ひとり」を乗せた電車は毎日走っているし、その「ひとり」同士がふれ合うことは奇跡なんだよ、でも、たしかにあることなんだよ、と言っている映画だと思う。

 映画では悪役?にされた、関西のオバちゃんグループも、ひとりになればそれぞれの悩みを抱えていて、それをどこかで繕っていることを忘れてはいけない。