職員室の机上に、図書室用にと購入したある絵本セットが並んでいた。
その題名、形容的な部分にひっかかってしまった。
『大人になっても忘れたくない ○○○○○の○○○○』
検索すればすぐに何かとわかりそうなので、改めて書くが
『大人になっても忘れたくない いもとようこ世界の名作絵本』(金の星社)である。
絵本のなかみ、作者や編者に文句があるわけではない。
ただ、その題名のフレーズ「大人になっても忘れたくない」が気にかかる。
まずは、誰が「大人になっても忘れたくない」のかである。
普通に読めば、これは「私」ということだろう。つまり、書いた側、出版する側。しかし、「大人になっても」とつくから、子どもなのか。これは子どもが書き、出版した本なのか。
違う。
そんなことはわかりきっている。
では、この表現は、他にどんなことが考えられるのか。
類似した表現からの連想か。
例えば「大人になっても忘れてほしくない」または「大人になっても忘れていない」。
これでは、読者に訴えているのか、自分に問いかけているのか、ちょっと曖昧だ。
表現を省略した形なのか。
例えば「読んだら大人になっても忘れたくないときっと思うに違いない」または「大人になっても忘れたくないと思うほど、これらの話は面白い」
うーん、そうなのかもしれない。
しかし、その…「~~~ても ~~たくない」という語脈は、どうもこういう場合の形容にふさわしいのか、とまた思ってしまう。
「来年になっても、言うとおりにはしたくない」
「いくら怒られても、手放したくない」
「死んでも、食べたくない」
思いついた例文が悪いのか、「意地」や「意固地」のイメージが湧いてしまう。
本を読むことは、そんなに意地になるほどのものじゃないと思うのだけれど…書きながらやや穿った見方だなと反省する。
「大人になっても忘れたくない」は、その場で強く思う即時的な表現だと思うので、対象を同化させたいという効果をねらってキャッチコピーとしてはありかあ、とそんな結論になった。
こんなだらだらと書いたことは、明日になっても忘れたくない、なんてとんでもない。
その題名、形容的な部分にひっかかってしまった。
『大人になっても忘れたくない ○○○○○の○○○○』
検索すればすぐに何かとわかりそうなので、改めて書くが
『大人になっても忘れたくない いもとようこ世界の名作絵本』(金の星社)である。
絵本のなかみ、作者や編者に文句があるわけではない。
ただ、その題名のフレーズ「大人になっても忘れたくない」が気にかかる。
まずは、誰が「大人になっても忘れたくない」のかである。
普通に読めば、これは「私」ということだろう。つまり、書いた側、出版する側。しかし、「大人になっても」とつくから、子どもなのか。これは子どもが書き、出版した本なのか。
違う。
そんなことはわかりきっている。
では、この表現は、他にどんなことが考えられるのか。
類似した表現からの連想か。
例えば「大人になっても忘れてほしくない」または「大人になっても忘れていない」。
これでは、読者に訴えているのか、自分に問いかけているのか、ちょっと曖昧だ。
表現を省略した形なのか。
例えば「読んだら大人になっても忘れたくないときっと思うに違いない」または「大人になっても忘れたくないと思うほど、これらの話は面白い」
うーん、そうなのかもしれない。
しかし、その…「~~~ても ~~たくない」という語脈は、どうもこういう場合の形容にふさわしいのか、とまた思ってしまう。
「来年になっても、言うとおりにはしたくない」
「いくら怒られても、手放したくない」
「死んでも、食べたくない」
思いついた例文が悪いのか、「意地」や「意固地」のイメージが湧いてしまう。
本を読むことは、そんなに意地になるほどのものじゃないと思うのだけれど…書きながらやや穿った見方だなと反省する。
「大人になっても忘れたくない」は、その場で強く思う即時的な表現だと思うので、対象を同化させたいという効果をねらってキャッチコピーとしてはありかあ、とそんな結論になった。
こんなだらだらと書いたことは、明日になっても忘れたくない、なんてとんでもない。