すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「秋波」の色は泥水のよう

2024年08月30日 | 雑記帳
 何度か引用しているが、かの名曲『命の別名』は♪知らない言葉を覚えるたびに、僕らは大人に近くなる♪と始まる。しかしいくら「大人」になっても使ったことのない言葉は結構ある。聞いたことがあり、なんとなく雰囲気はわかっても意味は明確に言えないフレーズを新聞紙上に見つけた…「秋波を送る」である。




 新聞はこう記していた。「ハリス陣営は『トランプ氏にうんざりし新しい道を探している皆さん、われわれの選挙運動はあなた方のためにある』と訴え、秋波を送った」。慣用句であり広辞苑には「いろめをつかって、異性の関心をひこうとする」と記されていた。他の辞書では使用者が「女性」限定とも書いていた。


 なるほど。記事では、「皆さん」とは大統領選の行方を左右しそうな「ケネディ支持層」を指す。個人ではなく、集団を対象とした場合にも使われるわけか。ということは、向ける対象の性別ではなく、使用する者の性別に重きが置かれるわけだ。ジェンダーフリーとすれば関係ないか。いや使用自体がもはや偏見か。


 そもそも「秋波を送る」とは、どんなイメージがもとになっているのか。世の中、いろいろと研究している方がおり、ある病院の広報誌に載っていたので、興味深く読んだ。「眼差し」の強さを男女の違いで語っているのは、今どきの事情にあわない気がする。昔でも「流し目」が有名な男性俳優など結構いたはずだ。


 昭和後期の中高生であれば、好きな異性に「こちらを向いて」と念を送ったりした(笑)経験のある方は大多数のはず。そうした感情が徐々に乾いてくるのは仕方ないにしても、小説や映画などに触れ多少の潤いは残しておきたい。ともあれ自分が使いようもない「秋波を送る」は、今、権力闘争の泥水の色をしている。

そこに愉しさや懐かしさが…

2024年08月24日 | 雑記帳
 木曜日の朝刊一面トップに、教員の「教職調整額」増額の話題が出た。むろん、そのこと自体は賛成だが、付随している様々な「処遇改善案」なるものをみると、本当にそれが学校現場にプラスになることなのかは、疑わしく思えてくる。これは教員志望者の減少に歯止めをかけるための政策でもあろう。そもそもが違う。


 思い出すのは、教員採用試験!!を受けた時だった。確か二次の面接(あの頃は集団などなく、全部個別だった)で「ジンカクホウとは何か」という問いが出た。ええっ、全く頭になく思い浮かんだ字は「人格法」、思想上のことかと思ったが、正直に「わかりません」と答えた。「人確法」いわゆる人材確保法であった。




 公務員であるメリットは知っていても待遇がどうかという点には疎かった。時代的には、採用時に数万円台から始まった給料が急激に増えていく。その歴史はさておき、当時言われていたのは「金が欲しかったら教師なんかしないよ」ということだ。それは今でも変わらないのではないか。経済的な保障は不可欠だか…。


 極論すれば、志望する可能性のある者が全員、経験し接する「学校」「教師」の存在が、愉しかったり懐かしかったり必要があるのではないか。少なくとも、そう見える余地を残していることが、その「場」に仕事を求めたい者の下地になっていくだろう。誰しもが、毎日学校へ通い、毎日生の姿を見てきたのだから。


 教員業務に「残業」が多いことが既定事項になったり、上下関係が強まり今以上に上意下達になったりすることが、愉しさや懐かしさに結びつくだろうか。働き方改革と言われるが、それは教師裁量の拡大につながっているのか。人も物も隙間なく詰められ、効率性が重視され、息苦しさだけが募る場にしてはいけない。

働きを最高レベルで味わうために

2024年08月22日 | 読書
 お盆前から約10日間、寝床でゆっくり読んだ一冊、Re66『寂しさから290円儲ける方法』(ドリアン助川 産業編集センター)。「相談料290円」という「麦わらさん」が、メールをくれた困っている人、悩んでいる人に「麦わら料理」をこしらえ、会いに行くという設定で11話からなる連作集だ。さすがの面白さ、深さ。




 小説であるのは間違いないが、「麦わらさん」には著者の生き様が反映されていることは疑いなく、納得の結びとなっていく。例えば、第一章の相談者は多くの悩みに振りまわされてコントロールできない三十代後半(らしき)女性。待ち合わせ場所の、豪徳寺の招き猫と、作った料理ペコロスで「一粒だけ味わう習慣」に導く。


 国内各地とニューヨークが舞台となり、様々な悩み、困り事が寄せられていく。ただし最話終の相談相手が「昔の自分」と設定されていてファンタスティックに終わったは意外であったが、必然だったか。そこまで選ばれた場所も、実は著者の人生に深く関わりを持っていることがわかるし、とすれば悩みも困り事も…。


 個人的に行ってみたいと思ったのは「長野・小布施」。ここでは老齢の作家が相談者で、北斎館を訪れる。作品に触れ、北斎がこの地に来る経緯を聞き、「世界の受け止め方」について語る麦わらさんとやりとりをする。一種のクレイジーさがないと衰えていくばかりという現実は、読み手になかなか沁みる。きっかけは何処に。


コンピュータには、負けるための計算は存在しません(略)。利益がたった290円しかないような仕事は発想できないのです」という一節に著者の考えが集約されている。その値段設定こそが「よく働いたことを最高レベルで味わうため」と言い切る。現実無視の戯言と茶化す者には、AIに支配される未来しかない。

あの時、何を祈って踊ったか

2024年08月19日 | 雑記帳
 久しぶりに盆踊り本番の日に通りへ向かう。コロナ禍になってからずっと観ていなかったので数年経ってしまった。2019年の時は初日にその場で町CM撮影をしたことを思い出した。今夏は小学生になった孫も、少しの時間は列に加わったようでぎこちなく手足を動かす姿を笑いながら観た(ただし、スマホ画面で)



 様々な問題はあるにしろ、大勢の観光客が来る現状は町にとって嬉しいことだ。貴重な文化が残っていくことを誇りと思うし、継承する方々には励みとなるだろう。ただ、ここで生まれ育ち、間近に接してきた者としてより注意深く見れば、文化継承は夢中になってやる、自己感情に従うだけでは陥穽となるかもしれない。


 先日、NHKBS再放送で「スピリアル・ジャパン」で盆踊りを取り上げた番組を視聴した。リポーターであるスペイン女性は、自分が体験してきたdanceと盆踊りの違いに驚きながら、さらに独特である西馬音内盆踊りの特徴を、最後に「顔を隠す」という言葉で語った。ああそうか、と今さらながらに気づかされた。



 まだ踊りの輪に加わっていた学生の頃に、取材に来ていたラジオ番組の方にインタビューを受けた。質問は定番の彦三頭巾についてだった。「亡者踊り」と言われていることなどを話した記憶がある。ただよく考えれば、編み笠も深くかぶり、顔を見せない点は共通している。これは何を意味しているかと問うてみる。


 顔を隠すとは「自分をなくす」こと。表を晒さない、かがり火を囲んで並び、揃って同じ振りをつける意味の一つは鎮魂である。そこに個性はいらない。つまり自己表現ではなく身体を使っての祈りの共同作業と呼べるか。そう結論づければ、若い頃に踊りながら感じた居心地の悪さに納得し、冷静に全体像が見える。

空はパリにも広がっている

2024年08月14日 | 雑記帳
 三年前の東京五輪の事は読書と関連付けて書いて残してあった。今回も熱心に見たわけではないが、備忘の一つとしてメモしておきたい。まずは、従来とは違う開会式の設定は面白かった。ただ入場行進?はダラダラ感が強く、何で締まったかというといわゆるパフォーマンス部門だと感じた。「芸術の都」だからね。


 新聞等でも取り上げられていたが、選手の活躍は大会前予想と違っていた部分が多数あった。当事者にすれば強化の時点から可能性の範囲を掴んでいたはずで、「勝負の綾」という面はあるにしろ、結果だけが今の力を示している。ただ、メダル数が国力を示しているなんていう乱暴な見解は、奢りに感じてしまう。





 いわゆるアーバンスポーツが前回に続いて注目された。カントリー(笑)に住む高齢世代にはまさしく縁遠い。映像やメディアを通してなんとなく普及しているイメージが少しだけ腹立たしく思えたりするのは、明らかにひがみだな。ただ、個々の競技がどんな「身体」を理想とするのか考える材料としては興味深い。


 男子マラソン放送を見られなかったが、女子は珍しくきちんと最後まで県出身者を応援した。増田さんの解説がいつも以上に冴え(笑)、鈴木選手が中学生の時に書いた作文の題名「走り抜けた夏」を何度か語ったことも微笑ましい。それにしても沿道の応援?伴走?の様子がいかにも自由で、羨ましく妬ましく思えた。


 自転車でスマホ撮影しながら追いかける若者もいた。日本開催ならまずあり得ない。そういえば期間中の新聞記事でパリの人々の様子を伝えるコラムがあり、「信号を守らない」ことへの驚きと考察があった。国民性の違いに関する見解は諸説あるが、根本は何を信じて生きていくか。多様性の時代に軽視されない点だ。

読書もまためぐりあい

2024年08月12日 | 読書
 最近の風呂場読書でようやく読みきった文庫本はRe65『短編伝説 めぐりあい』(集英社文庫編集部)。短編小説集は手軽さとともに、アンソロジーであればまさに作家との「めぐりあい」を期待して手にする。この一冊も13人の作品が並んでいるが、馴染みのあるのは4人ほどであとは名前を知っている程度だった。


 短編としているが、掌編と呼んでもいい話も三つほどあった。なかに三島由紀夫、五木寛之という大家の作品が並び、やはり五木がくりだす設定が好きだなと単純に感じたりした。考えると、短ければ短いほど作家の世界観、人間観が如実に表れるのではないか。表現意欲を喚起する事象への眼、そして結末の価値観。



 さて心に残った一つは「二人ぼっち」(森瑤子)。おそらく初めて読む。妙に人間臭さを感じる文体で会話の自然さで読ませていく。題名の「二人ぽっち」という表現はなかなか意味深だ。ここでは母子を指していると思えるが、他の登場人物との関係性も重なる。「ぽっち」は「ぽち」…それだけに抱える重みを感じる。


 「永遠のジャック&ベティ」(清水義範)は、顔を緩ませながら読み続けた。解説には「言わずと知れた名作」とあり、作者独特のパロディ感覚が存分に発揮されている。60歳以上のおそらく多くの者が、中学や高校の英語授業で体験したあの独特の言い回しを思い出すだろう。あの時、僕はジャックでありジョンであり…


 彼女はベティでありメアリーであり…これは「机」であり「ペン」であり…、〇〇の中で最も~~なのは…、~~するやいなや~~、そして~~するところの〇〇は…、と言わなくてもわかることや、ふだん使ってもいない日本語の「学習」をした。その成果はともかく、懐かしい時間に再びめぐり合った気分になった。

葉月立秋の頃日記

2024年08月11日 | 雑記帳
8月5日(月)
 パリ五輪真っ盛り。競技の時間帯が合わないので高齢者にはつらい。録画だと今一つ緊張感がなく、つまらない。午前中、いつものごとく孫の夏休み帳に付き合う。眠りが浅いのか、体調は今ひとつ。それにしても暑さが続いていて今年は夜もエアコンつけっぱなしの日が多い。9月の高校での絵本実習依頼あり。


8月6日(火)
 午前中はこども園へ。「海」がテーマなので「波音」をBGMに使ってみた。これがなかなか良かった。午後、歯科医院に行く。本格的治療は盆明けとなる。知り合いの方へ自作本を届けたら、礼状が届いた。この内容が凄い。自分の志向を見事に言い当てられている。さすがの「読書人」だ。新しい気づきもあった。


8月7日(水)
 立秋。とはいえ真夏日は続く。昨日に続き別のこども園へ。今日は年中児が相手なのでTVは使わず、すべてアナログで通す。久しぶりだが顔を見渡す頻度が増え心地よい。借りていた本の返却で隣市の図書館へ。今日まで七夕祭りだが日中は閑散としている。帰宅後、今月後半の読み聞かせ候補本をリストアップする。





8月8日(木)
 朝のベッドで読み続けた是枝裕和の本の感想メモをアップする。夕刻から知人たちが発起人になって、出版記念会を開いてくれた。たくさんの懐かしい方々と会う。気恥ずかしかったが、こういう機会がある幸せを思う。たくさんの「交換」が出来た。知らず知らずのうちに盃を重ねて、なんとか家にたどりついた。


8月9日(金)
 昨夜手当てはして寝たつもりだが、やはり撃沈状態。ぼやっと甲子園での金足農業戦を視聴する。六年前とは違うと予想しつつ見ていたが、最終回に「らしさ」を発揮し、なんとなく落ち着く。台風が東北地方へ向かっている予報が出ている。地震情報といい、災害対応に終始する国になったか…とまたぼんやりする。


8月10日(土)
 一昨日お世話になった方々へ御礼メールを送信。その後、予約した大型絵本を取りに図書館へ。イベントありで忙しそうだ。次の読み聞かせは「こわい話」で攻めてみる。展開を工夫したい。五輪は新競技の活躍が目立ち、放送もそれが多い。TBS系が見られずマラソンが観戦できないとは、いかにも時代の流れだ。

閉じれば豊かさは見えてこない

2024年08月08日 | 読書
 この本の存在は知らなかった。Re64『映画を撮りながら考えた』(是枝裕和 ミシマ社)。映画ファンとは言えないが、是枝作品にはシンパシーを感じる。主として台詞に表れる人間性の発露に心が響くのだと思う。読み進めて、TVドキュメンタリー制作を手掛けながら研ぎ澄まされてきた感覚が支えていると感じた。


 ドキュメンタリーというと、「やらせ」の問題がついてまわるが、そうした事例も含めながら、なるほどと思った記述がある。そしてそれは創造的な仕事に関わる者であれば、共通する要素があるのではないかと思った。先に見えない社会と言われて久しい。日々の暮らしに向かう時にあって、ふと思い起こしたい警句だ。

 「真面目な社会告発型ドキュメンタリーだろうが、撮る前からあり得べき理想が確固としてつくり手のなかに存在し、そこへ精神が閉じてしまえば、目指す志のいかんを問わず『やらせ』だと思います。」





 春頃に放送された『花よりもなほ』を録ってあったので、読書の合間に視聴した。元禄の忠臣蔵の時代に、一人の「仇討しない武士」を描いた劇映画である。是枝は、志ん朝と談志の落語を例として出し解説してあり興味深い。「フィクションは陶酔を、ドキュメンタリーは覚醒を(略)引き起こす」という分析も面白い。


 そしてその映画は陶酔を目指したが覚醒に留まってしまったと自己評価する。確かに迷いがあった分だけインパクトの強さは感じられなかった。しかし、いつの時代にあっても喧しい「生きる意味を問う」論は、是枝が『花よりもなほ』の脚本第1稿に残したコメントのこの言葉を通して解釈することができると信じる。

 「意味のある死より、意味のない豊かな生を発見する」

よし「想像の海へ」行こう

2024年08月04日 | 絵本

 小学校高学年で語った『海は広いね、おじいちゃん』を、やっぱりこども園でもやってみることにした。でも最初からそれでは唐突かなと思い、同じ五味太郎作の『うみのむこうは』を、その前に持ってくる構成を考えた。これは海辺でいろいろ想像するスタンダードなつくりで、今の時期にはふさわしいと思った。

 二つのこども園で語ったが、『海は広~』を小学生用にPPTを作ってあり『うみの~』もPPT化し続けてみた。モニターで行うメリットを考え、海辺の動画映像をちょっとだけ入れた。この流れはいいと思ったが、重くなったのか少し動かない時間があったりで…、残り二つの園はやはりアナログだけでやるかな。

 

 

 夏にふさわしい大型絵本を二つ持ち込んだ。一つは『ありとすいか』。これは大きい版だと実に迫力があって、楽しい一冊だ。すいかを食べる場面もそうだが、ありの巣全体の絵が二場面描かれていて、これがまた実に興味が惹かれる。最後に食べきったすいかを、ウォーターシュート(すべり台)にする発想にも夢がある。

 

 

 もう一つは夏の定番といってもいい『うみきりん』。これは小学校低学年で読んだ時もあり、もう何度か語っている。スケールが大きい話なので、いつも見入ってくれる。大雨の影響で、秋田の海は流木が多いそうだが、子どもたちはこの夏、海へ一回でも行っただろうか。必ずそんなことを訊きながら始めているが…。

 

 子どものうちは、毎年一度は海で「ヤバッチイ」(笑)経験をしてほしいと思っている。しかし家庭環境によってずいぶん違いがあるだろう。絵本爺としては、行けても行けなくても「想像の海」へ聴く子たちを誘わねば…。そのために読みの工夫はもちろんだが、他に何かないか…そうか、今思いついたぞ!!報告はいずれ。


文月のエッ!!三つ

2024年08月01日 | 雑記帳
 七月のハイライトは、愛知・岐阜への旅行だった。アクシデントと呼べるほどの出来事はなかったがエーーーッと思わず声が出たことはある。二日目に長良川沿いのホテルの温泉に浸かり、部屋に戻って浴衣の裾をみると、血が点々と付いている。結構な赤さに染まっていて、どうやらふくらはぎからの出血らしい。
 
 
 右足を見ると、ポツンと虫刺されのように赤くなり、なかなか血が止まらない。立ち寄ってきた「天空の茶畑」と予想がついた。絆創膏を貼ってみたがすぐ滲んでしまう。単なる虫なのかそれとも蛭なのか見当がつかない。痛みも痒みもないが不安は残る。結局、翌朝には血が固まったが、赤い跡は今もって消えない。
 
 
 
 一学期の終業式があった日の午後。(やる必要はないのに)夏休み帳の一ページ目をやり終えた孫と居間で寛いでいたら、窓の外からバタバタと轟音がする。障子を開き目をやると、そこにはヘリコプターの大きな姿。墜落ではないよなと思うほどに近い。あっという間に降下して、我が家の近くの中学校グラウンドへ。
 
 
 エエッ!!ドクターヘリだ。孫の手を引き、着陸が見える場所へ。担架が出され、乗員が降りて校舎の方へ。何か重大な事故や怪我などがあったのだろうかと、心配してしばらく見ていたが、状況が進まず家へ戻る。少し経過してからヘリも戻った。命に関わる件ではなかったらしいが、平凡な日常には珍事と呼べる一つだ。
 
 
 
 以前「道の駅」で家人が菓子販売していた経緯もあり、知り合いから商品用シール作成を頼まれ続けている。久しぶりに注文があり消耗品をネット通販で購入しようとサイトに入ったら…エッ!!用紙も印刷インクも随分と値上がりしている。物価高は言われ続けているが初めて実感した次第。何事も身に迫らないとね…。