すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

諦めない力を,諦める

2014年09月30日 | 雑記帳
 アスリートの語る言葉を、書籍やメディアなどでよく目にするようになった。最近では陸上競技の為末大がなかなか面白い。「ほぼ日」でも取り上げられていた。『総合教育技術誌』(小学館)今月号の巻頭インタビューにも載っていた。話の中心が「諦める力」だという。いわば逆転の発想のようにも思うが、興味深い。


 この「諦める力」という発想は、一般的にはどちらかと言えば「後ろ向き」にとらえられがちだが、実は前向きであることがわかる。そしてそれは「俯瞰する」「判断する」「集中する」といったいくつかの要素を併せ持つ言葉でもある。直接、相手に向かって「諦める」は口にしにくいが、考えとしてはひどく妥当だ。


 このように語っている。「多くの場合、子どもたちが「夢」と呼んでいるのは、実は「手段」なわけです。その手段を通じてどんなことを実現したいかという気持ちを言葉にすることで、いま行き詰まっている道とは別の道が見えてくるはずです。」…夢と手段を混同しない、どの「レベル」で諦めるかが問われるのだ。


 競技スポーツなどのコーチングとして、実に明快のように思える。対象者の意欲や素質を見極める目を持ちつつ、対話ができたら、可能性が大きく広がるだろう。これはもちろん、学校教育の場にも有用な考えだ。一人一人が何を諦めたらいいか、これは単純ではないが、その観点で子どもを見つめることも大事だ。


 自分を振り返るとずいぶん諦めが悪いことに気づく。それゆえに何事も中途半端。あれもこれもは、授業をしている時も、校務に関しても目立つ。それなりのことはしてきたつもりだが…。いっそ「諦める力」を諦めるのはどうだ、などと言葉遊びのようなことを考える。思うままにできないと徹底的に自覚できるか。

キズついて甘味が出たら,もう期限切れ

2014年09月29日 | 読書
 「2014読了」101冊目★★
 
 『リンゴも人生もキズがあるほど甘くなる』(外山滋比古 幻冬舎)


 「キズのついたリンゴの方が甘い」…科学的にどうなのかはわからないが,というより様々な条件があるので一概には言えないだろうが,その考えが,人生の歩み方に一つの示唆を与えてくれることは確かだ。

 野菜や果物の栽培,出荷では,品質第一とは言いながら,外観,形状が大きく左右されていることは常識だ。
 それは直接携わる農家だけでなく,流通業界や卸し,小売り等々,全般に行き渡っている。

 教育の場では「個性」「多様化」というスローガンが大きく幅をきかせているが,その実,数々の規制があり,結局のところ外観や形状に左右されていることも否定できない。

 そういう世の中に多くの人は違和感を持ちつつ,やはり「常識的な線」とやらを歩んでしまう。自分もまたしかりである。
 そして,おそろしいことに,その常識的な線とは,年々いや日々,窮屈な体制の方が少しずつ少しずつ位置を変えているように見える。
 そして,線自体も硬直化が進んでいるような気もするのだ。


 超一流の学者である著者が語ることに,いちいちもっともと頷きながら,ではどうするかと考えざるを得ない。
 この頃,よく公的な文章を書く場合にも「失敗体験」「挫折」という言葉を使っている気がする。 意図的にそのことを組むわけではないが,それらが価値あることを前提とした活動のあり方,その点を周囲にしっかり認めさせる連携等が,もっとも大事ではないかと考えるようになった。

 その意味では,随所に使える,いろいろと「応援」してくれそうな本だなと思う。コンパクトさもいい。

 ただし,教員にとっては怖ろしい一話がある。
 「教師と生徒の車間距離」にある次の一文には,思わず考え込んでしまう。

 教えるものと教えられるものの年齢差は,二十年以上,三十五年以内がのぞましい


 小学校に勤める自分は,とうに期限が過ぎている。

「花子とアン」いくつかの発見

2014年09月28日 | 雑記帳
 『花子とアン』が終わった。今クールも週末のまとめ視聴ではあったが,全編を観た。前半から中盤はストーリーに変化があり面白かった。震災や戦争という歴史的な出来事が関わる後半は,少しあっさりした印象をうけた。正直いつも思っていたのは「アンはいつ出てくるの」という文学音痴丸出しのことだった。


 その点を棚上げしても『花子とアン』という題名はいかがなものか。人名を使い「〇〇と□□」という物語だったら,通常は二人を主人公とする話である。「安寿と厨子王」(古い!)「トミーとマツ」(何のことだ)など典型的である。それなのに「アン」が実際に登場しないとはいかなることか…と思うのは私だけ。


 もちろん『赤毛のアン』という本の存在をきちんと知らないから,こんな勝手なことを言っているわけだが…。となると,この「アン」とは人名でありながら,一つの象徴として使われているという結論に達する。主人公の花子の持つ精神の間近な存在として,また一つの到達点としてのイメージ作りと言えるだろう。


 それはよく出てくる「想像の翼を広げて」というセリフ,そして最終週の題ともなった「曲がり角の先に」(希望を信じる心)といったことと言い換えられるかもしれない。ある日,周囲の女性教員の方々の多くが『赤毛のアン』を夢中になって読んだという体験があることを聞き驚いた。遅ればせながらの発見だった。


 個人的に,主役の吉高由里子は少し合わない気がした。脚本家が当て書きをしたのだと聞いたことがあるから相当イメージに近い?のだろうが,自分の引っ掛かりは何なのか,今もわからない。さて,今回のキャストの中で妹役の土屋太鳳は,目力を感じた女優だ。『マッサン』を通り越して,来年の春が楽しみだ。

今年の百冊目

2014年09月27日 | 読書
 「2014読了」100冊目 ★★
 
 『銀座の花売り娘』(伊集院静 文春文庫)

 『あの子のカーネーション』から始まる週刊誌連載のエッセイ集5冊の、いわゆるセレクト集のような形か、「二日酔い主義傑作選」と銘打たれてある。
 1988年から1994年までのこと…このエッセイ集は全て読んでいるなあと、題名を見ながら思った。

 ここ数年、テレビなどへの露出が増えてきた作者。
 本人曰く意識的にそうしているとのこと。それはある意味で「大人」(60歳を越えている人にこういう使い方も変だが)になったからだろうか。

 エッセイに書かれてあることは、「酒」と「博打」と「家族」、そして「花」「美」のこと少々といった趣であり、ある意味では「繰り返されるだらしない日常と後悔」の記録なのである。

 それでも、多くのファンを持ち、男性、女性を問わず「恰好よい男」の代名詞のような見られかたをしている。その魅力については分析している文章も少なくない。

 結局はメディアによって飾られた、造られた部分もあるだろうが、それらを越えてなお、惹かれてしまうのは何故か。
 文章の上手さはさておいても「無頼」の持つ強い引力を感じるのは、人間存在の根本に根ざしているような気がする。

 外的な規制が多い世の中で、それ以上に必要以上に自己規制をかけている我らの精神を、ほんの一瞬でも解き放つ感覚があるのかもしれない。
 伊集院のエッセイはパターン化しているとも言えるが、その感覚を味わいたい者には麻薬的な文章とも言えるだろう。


 この作家との出会いは、たしか90年代の初め。
 研修会へ同行した知人から電車の中で薦められた。
 その小説はたぶん『受け月』だったと思う。
 それからとすれば20年は越している。著作一覧をみたら、間違いなく半分以上、三分の二程度は読んでいると思う。
 小説にある物語性とは違う意味で、作家の生き方の物語に強く惹かれるからだろうと自己分析してみた。

黒幕に背中を見られている

2014年09月26日 | 雑記帳
 壁面に飾ってある横額の書が読めなくて、機会があったら詳しい方に訊きたいと思っていた。勤務校の元校長で、書家でもあるK先生からの電話があったので、渡りに船と訊ねてみたが、記憶が不確かであり、実際に見たいと来校してくださった。完全な草書体なので判読できずにいたものが解決して、ほっとした。


 「山澤健児舎」(実際は右→左へ書かれてある)。どういう意味なんでしょう?と訊ねると、「そのままじゃないか」という返答。つまり「山」があり「澤」があるところの「健児」が学ぶ「舎」ということなのだろうか。誰の筆によるものか…落款は「瓠堂」と記されてる。こっ、これはかの、安岡正篤ではないか。


 安岡正篤と言えば、政界や財界に強い影響力を与えた人物。一説には「昭和最大の黒幕」とも言われている。「平成」という年号は、彼の言葉がもとになっていると聞いた。そんな人物とこの学校がどうして関わりを持ったのか。それは、県内随一の山林を所有していたこの町の地主以外にはないだろう。歴史を感ずる。


 そういえば、20年前ここに務めたとき、その方の書があると教えられたことを思い出した。TVで「なんでも鑑定団」が流行っていた頃で、教材室を探した気もするが、結局定かではなかった記憶がある。もしそのとき見つけたらどうしていただろう。鑑定してもらっていたか。およそ「健児」らしくない振舞だが。


 安岡正篤といえば、うる覚えながら「指導人格」という言葉があったような気がした。検索してもぴたりと当てはまる文などは出てこない。確か「指導に絶対の理論というものはなく、あるのは指導する人格だ」といった文脈だったように思う。いずれ「人格」はキーワードだ。そんな横額の書に背中を見られている。

分水嶺は見えているか

2014年09月25日 | 読書
 野中信行先生がブログで取り上げていた『週刊東洋経済9/20号』を買い求めてみた。馴染みの書店では見かけたことがなかったので、Amazonに注文したら翌日に届いた。ああ、この雑誌いつぞやKioskで買ったことがあるなあと思い出した。何の特集だったろうか。今回は「学校が危ない」。予想がつく内容ではある。


 三つの視点から語られる。「先生たちのSOS」「変容する学力格差」「教育改革の光と影」。総ページ数126の中の50ページ近くを割いての特集である。ざあっと目を通しただけでも、気分が落ち込んでくるというのが正直なところ。論調は、現場や教師擁護のようだが、今後の厳しさがぐっと浮き彫りにされている。


 「秋田モデル」という語も使われていて、取材記事がある。大阪大学の志水教授による分析もあった。「応用力」に優れた秋田という括りは一般的であるが、必ずしも地元の教員がそう考えているとは限らない。テストで計れるのは、やはりある程度型を持つ問いだ。それらに向かう手立ての多様さはあるかもしれない。


 結局、この雑誌を見て最後に心に残ったのは、表紙にあるこの言葉「教育劣化は日本経済の大問題だ」。経済誌だから当然なのかもしれないが、ある意味、その発想自体が劣化をもたらす一因であることも確かだろう。むろん経済の沈滞を望むわけではないが、そこにとらわれている「改革」とやらが、首を絞めている。


 6月某研修会で某先生の言われた将来予測は、「教員は公務員でなくなる」。そこに描かれる学校の将来、日本社会の将来はどんなものか。特集記事にあった非正規職員の割合の増加、そして官民一体校の始動を考えると、分水嶺はそんなに遠い将来ではない気がする。その流れにいる自覚,見えているかということ。

罪を共有したいという愛

2014年09月24日 | 読書
 「2014読了」99冊目★★

 『Nのために』(湊かなえ 双葉文庫)


 「イヤミス」の女王と称される作者だが,今回はちょっとだけ毛色が違っている。
 カバーにあった純愛ミステリーという形容が確かに似合っている内容だ。
 ただ章ごとに視点を変えていく手法はいつものごとくであり,読ませ方は本当に上手だ。

 雑誌インタビューに応えて,作者はこう語ったと紹介されていた。

 「『Nのために』は,立体パズルを作りたいな,と思ったんです。登場人物たちは,最後まで誰が嘘をついているか分からない。」

 ミステリそのものがパズル的要素と言えるので珍しくはないだろうが,確かに入り組んでいる印象があった。
 それにしても考えてみると,これは現実にある事件,いや事件でなくともちょっとした出来事でも十分にありえることだ。
 一つの事実には,そこに関わった人たちそれぞれに個別の真実,事情があり,それらの組み合わさることで成り立つような…。
 だから個々の視点でみれば,かなり風景が違ったものになることは,例えば「授業」という場でも同じではないか…などと,またあらぬ方向に話が飛びそうだ。


 超高層マンションで発見されたある夫婦の変死体。
 そこに到るまでの,登場人物である複数のNに向けたそれぞれの「愛」が,様々な言動を伴って表現されている。

 「愛とは罪の共有」という言葉が語られる。それはドラマの中でインパクトの強い台詞でもあり,この小説の底流になっている考えだ。
 きっとそれは,湊の他の小説にも表現されていたのではないか。


 さて,得意パターンとなっている文庫発刊に合わせたテレビドラマ化。いつものごとくこちらでは即は見られない(泣)TBS系であるようだ。調べたら番組ページももうある

 残念なことは,主人公の杉下希美が予想した配役ではなかったこと。もちろん勝手なイメージだが,これは満島ひかりにやってほしかった。
 呆れたのは,「NHK朝ドラ配役」パターンから抜け出せないことだ。悪くはない男優たちだが,ちょっと続きすぎていますよTBSさん,と言いたい気がする。
 地元局での再放送は期待していますが…。

言葉の外にある思い,景色

2014年09月23日 | 読書
 「2014読了」98冊目 ★★
 
 『言葉の力を鍛える俳句の授業 ~ワンランク上の俳句を目指して~』(山口昭男 ERP)


 著者は、教科書(三省堂、光村図書)に載っている作句の例を紹介しながら、こう述べている。

 俳句の言葉の取り出し方や何を中心に見て俳句にしていくのかということまで突っ込んだ内容にはなっていません。


 そして、俳句を作らせる学習の中で、教師の多くが抱くであろう思いをこう断言した。

 自由に作句させて楽しむだけでは、言葉の力を鍛えることはできません。


 そこをどう打開していくか、著者のいろいろな実践からのアプローチが示されている。

 私も結構いろいろなことをしてきたつもりだが、ははあ、こういう方法も面白いと刺激をうけた。

 指導の基本形は、一斉指導の中で発想をやりとりしながら、例示を豊富にすることだ。
 それを一連の流れで示すとこうなる。

 ・季語を示す
 ・イメージできる出来事をたくさん出させる
 ・使いたい、使わせたい言葉を選びだす
 ・定型に落とし込む文字、言葉を探させる
 ・出来上がった句のよさを話す
 ・語順の変更などについて検討したことを示す


 当然ながら一度や二度の実践では「言葉の力を鍛える」地点には届かない。
 しかし、いずれ教師が取り上げることによって「言葉の外にある思いや景色を十分に想像させる」ことを積み重ねていくしかない。

 後半の句会のあれこれや個別指導の具体的な手順は、実践を積んだ方の持つ自信と重みが感じられるものだった。


 勤務校では来週の学習発表会に向けて、俳句の取り組みも始まっている。
 校内報で多少、実践的なことを書いた後だったので、もうちょっと早く読めば、いい紹介になったのに、とちょっと悔んだ一冊となった。
 もちろん、今後どこかの学年で実践にかけてみたいとは思っている。


 窓の外にあった光景を見ながら駄句をひねり出してみた。

 秋高し雲梯わたる一年生

すべった口の奥を覗いて

2014年09月22日 | 雑記帳
 先週花巻市で行われた国語研修会の件で、主催する照井先生と連絡を取り合っていたときに、問いかけられたことがあった。
 自分が書いたメールの中にあったこの一文を指摘されたのだ。

 協同学習の可能性は否定できないものがあります

 先月ようやくまとめた拙い冊子の特に校内報の部分に、ペア・グループ学習やファシリテ―ションに関する文章も多かったので、まあなんとなくそんな表現をしてしまった。
 言ってみれば、子どもが協同でする学びという大雑把な捉え方である。
 しかし、読み手にすれば、非常に曖昧に見える使い方、言い方なのかもしれない。

 「協同学習」は学習の形態や手法を表す用語として、一般的になっているし、さらにそれが複数あるという様相なので、○○の立場と明確にしなければ、考察や議論はできなくなっている。

 まず、整理をすると、協同学習に似た名称として次の三つが挙げられる。

 共同学習  協働学習  協調学習

 違いをきちんと言いきるほど勉強していない。

 さらに「学び合い」という言葉を標榜する団体や書名なども多い。

 学びの共同体(佐藤)
 学び合う学び(石井)
 『学び合い』(西川)
 日本協同教育学会(杉江)


 共通の活動をしている所もあるようだ。違いは少しわかるにしても詳しく語れるほどではない。
 調べても上の「○○学習」の定義は様々であり、一様に区分することもなかなか困難である。

 そこで割り切ってざっくりと括ってしまえば、「協同学習」とは小集団を活用した学習方法であり、構成員相互で作り上げる学びを主眼とすることと言っていいだろう。
 しかし単なる形態のみを指すものではないことは明らかだ。
 それよりは、志向性の問題が大きいのではないか。つまり一面的ではなく多面的、正答主義ではなく修正主義、結果重視ではなく過程重視…といったようなことだ。

 で、自分がどうして「可能性」と書いたか。
 これは端的にいえば、一斉指導の限界ということが一つ頭にある。
 また、協同、協働的な学びの体験がもたらす自立や社会性伸長への期待を持っているということだ。

 残念ながら、自分にはそういう教育を受けてきた感覚が非常に乏しい。
 それゆえの限界を感じていることもある。
 ミーハーを自称しているし、様々な研修も受けたりしたが、根本的な姿勢を変えきれない自分を見つけて、もどかしさを覚えることがある。

 大胆にそういう実践を取り上げるタイミングを自ら逸したので、率先はできないが、後押し程度なら手を添えたい気持ちがある…そんな心持ちでの「否定できない」という表現がでた、ということになろうか。


 あまり意味のない文章になったが,これ以上の奥は見えない。
 この限界も、自分が受けた教育の欠点とは言わないが、「学びの場」がどんなふうに作られてきたか、またどう求めてきたかに大きく関わりを持つことは確かだ。

本質を見誤らず,潔く歩む

2014年09月21日 | 読書
 「2014読了」97冊目 ★★★
 
 『教育者・野口芳宏の歩み』(松澤正仁  授業道場・野口塾文庫)

 いつかこういう仕事をする方が出ていらっしゃるだろうと思っていた。
 (できれば関わりたい気持ちが自分にもあったのだが、そこは能力、意欲の差が見事に露呈したか)


 野口芳宏先生の薫陶をうけて三十年近い月日が経とうとしている。
 実際に講座を聴きに隣県へ行き、その帰りに呼び止められて言葉を交わさせていただいたのは「昭和」であった。
 その意味では、そこから以降の記録は、まさに自分もあの時はと振り返ることにも通ずる。

 ご誕生から幼年期、学生期…いくつか知っているエピソードもあるが、ミニ伝記を読むようでもあり、楽しい。
 出合ったヒト、コトを見事に「価値」にしてしまう、先生の見事なまでの才能は、きっとご両親をはじめご家族の方々によって培われたものと想像できる。

 先生がよく使われるキーワード、たとえば「意図的計画的」「向上的変容」「他律による自立」「結果幸福論」など、こうした一見ばらばらに見えることも、先生の中では常に反芻されているし、きちんと位置づけられ整理されている。

 読んでいて思いついた語はこれ。

 潔さ

 これほど、先生に似つかわしい語があるだろうか。
 目の前の事物に正対していく秘訣とは、まさにその精神の具現化である。


 さて、今まで目にしたことのなかった先生の言葉で、深く得心したものがある。
 教育委員会の会議録であり、記名されていないのだが、先生以外にあり得ないと紹介したのは松澤氏の慧眼であり、その内容にも深く共感できる。
 少し長いが一部を引用する。

 県教委が主になって行う研修にはどんな意味があるのか考える。県教委の体制が充実すればするほど、先生方は、そこに参加すればよいのだと錯覚してしまう。本当の研修は、勤務時間外に自らの意志で身銭を切って学ぶ、学ぶ意欲をもつことが本当の研修の成果だと強く考える。県教委が音頭を取るのは、あくまでも動機付け研修であり、そのことによってどのくらい教師自らが学ぶようになったのかが成果だと思う。日数、時間を掛けてやったという事実が問題ではなく、そのことが教員をどう変えたかが問題である。


 学校における研修もまた、その視点を抜きには語れない。
 本質を見誤ってはならないと、また教えられた。