すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ここも社会的共通資本の現場

2014年10月31日 | 雑記帳
 人間ドッグに来るたび思うことだが、関わる人は通常の外来とは違う苦労があるのだろう。つまり、同じことの繰り返し。マニュアルにそっての説明は、例えば肺活量を測る検査技師の人は実演つきなので、結構大変なはずだ。毎回やっていれば、ずいぶん肺活量も鍛えられるはずで、ついどのくらいか訊きたくなる。


 続けてこの病院に来て、変化した対応が一つあった。大腸や胃の検査は外来も一緒の所で行うのだが、その際に今までなら廊下に書かれた色別の矢印にそって自分だけで移動した。しかし今回は看護師の誘導である。リラックスさせるためか、話しかけたりもしてくれる。不安要素を取り除くことが徹底している。


 一緒に歩きながら美人の看護師さんと会話する。「今日は天気がほんとに良くて…」と鉄板の天気ネタから、「昨日まで雨が降っていたので、洗濯物がたまって困ってしまう」と、なかなか家事が進まない話まで及ぶ。シフトは決まっているから朝は早いだろうし,予想してはいたが,やはりハードな現場の一つだ。


 採血や検査時の「氏名・生年月日確認」は、取り違えの事故が発生してから徹底した。面倒と思うが省いてはいけないシステムであるし、それを完全に機能させるには日常の業務改善以上に,一定のゆとりを持てることが必要だ。それにはなんと言っても人手であることは間違いない。それは競争原理ではいけない。


 早い夕食が終わりベッドに横になってぼんやりテレビを見た。NHKの「クローズアップ現代」で経済学者宇沢弘文が取り上げられていた。田中正造のような容貌も印象的だが、揺るぎない信念も同様ではないか。「社会的共通資本」の考え方の最たるものとして、医療や教育,地域などを挙げた。強い共感を覚えた。


根を伸ばさず目印を求めるから

2014年10月30日 | 読書
 「2014読了」114冊目 ★★★
 
 『トラウマの国 ニッポン』(橋秀実  新潮文庫)

 担任した子と大人になって会ったときに、「先生に受け持たれたことがトラウマになった」と衝撃の一言を言われたことがあった。真相はともかく、その時「えっ、トラウマって生き死にの問題じゃなかったのか…、そんなっ」と、なんだか「苦手意識」と同義に使われているような感覚を持った。「心的外傷」と訳されているが、かすり傷でも適用できることなのか。


 個人的なことはさておき、この文庫には「トラウマへの道~本当の『自分』」を初めとして12のテーマが並べられていた。「教育」「話し方」「英語」「セックス」「地域通貨」「日本共産党」…10年ほど前のことなので、変貌している面もあろうが、実に鋭く楽しく描かれている。通常のメディアにはない情報があり、興味深く感じた。テーマはいわば病室めぐりだ。


 著者は、書名を「傷ついた日本という意味ではありません」と書く。しかし、傷ついた日本人は圧倒的に多い。その傷は誰がつけたかと言えば、ほとんどの場合、自分自身によって、というように解釈される。そこに誘導される、追い込まれる、そんなシステムをこの国は持っているのではないか。一人一人が根を伸ばそうとせずに、「目印」を求めている風景だ。


 特に「田舎暮らし」の章は面白い。かの「人生の楽園」のような生活が本当にあると信じている人はどの程度いるだろうか。当時は、行政や企業などが「希望」を持って進めたむきもある。いずれにしても、そこで真に「幸せ」を得られる人は、場所などあまり関係ないように思う。著者が最後に書いたこの一節は実に鋭いし、この国の実相をえぐり出している。

 田舎はのんびりするために用意された場所ではない。そもそも人間は自然や因習から解放され、のんびりするために都会をつくったのだから。

音読,朗読,暴論

2014年10月29日 | 雑記帳
 今回、校内での国語科指導案検討会で、単元名に入る「朗読」についての話題が出た。平成20年版の学習指導要領には、5,6年の読むことに「自分の思いや考えが伝わるように音読や朗読をすること」と記され、また復活した。音読と朗読の違いとは何か、という疑問は、以前から出されていたし、また頭をもたげた。


 指導要領をみると、その違いについては昭和20年代から大まかに「理解のためを『音読』」「表現のためを『朗読』」という区分が感じられる。しかし教室現場でそれが成り立つかと言えば、かなり疑問であるし、今の要領の文言とも食い違いがある。また昭和33年版では「話すこと」の領域にあったことも注目したい。


 通常であれば、音読も朗読も、表現的な要素と理解的な要素そのどちらもが含まれるのではないかと思う。どこからどこまでが音読で、ここからが朗読という線引きは実際的ではないだろう。となるとこれは結局のところ区分のための区分をしているに過ぎないのではないか。そう思うと楽に考えられる。辞典に当たろう。


 『国語教育研究大辞典』(明治図書)からポイントがわかる。音読には、広義には黙読に対する意味、狭義には朗読に対する意味がある。前者はもちろん声を出して読むことだし、後者は「表出や伝達を意識することなく」読むということである。その点を基本とすれば、他者に聴かせる工夫があれば朗読なのである。


 しかし、全て「朗読」と括ってしまうことは現実的ではない。だからいっそ、発表会にだけ使うというのはどうか。朗読はどの辞典を見ても「読み上げる」という意味が出てくる。つまり「大きな声」である。聴かせるべき対象に向かって届く声で、意味を伝えるのは朗読だ!「音読発表会」の言い方は止める!暴論だね。

葉っぱに囲まれているとき

2014年10月28日 | 雑記帳
 「落葉」の季節になった。去年まで務めていた学校も校門から校舎までちょっとした桜並木があったので、この時期は本当に踏みしめ、踏みしめ歩いていたものだ。今年の学校はさらに大量だ。桜は葉が朽ちてしまい、きれいな紅葉はめったにみられない。ただこんなに葉っぱを満喫している年も珍しいなとふと思う。


 先週は久しぶりにフォトブログを更新できた。二ヶ月ぶりだ。夏写真のピックアップ以来である。一眼レフを持つ頻度がかなり下がったので画質はよくないが,それなりのアングルをねらいながら撮っている。色に心が揺さぶられることも多かったなあ…それを忠実に表現はできないけれど,まずは収めることだ。


 校内をまわっていて,特別教室に出かけている学級の教室に入って,こんな風景に出くわす。これだけ近くに樹木が迫っているところも珍しいのかもしれない。紅葉の時期はなおさらだ。もちろん,子どもや担任教師にとっては普通だろうから,見とれることはないだろうが,いつかここにいたことも覚えてほしい。

(このページ,久しぶりの写真である)
 

 

 

 ちなみに,外側からは先週写していた。この一枚です。

辞典は一粒万倍

2014年10月27日 | 雑記帳
 書棚を整理していたら『四字熟語の辞典』(三省堂)が出てきた。自分が買った覚えはない。まだ真新しいではないか。カバーをとってみると,娘の中学の卒業記念の刻印が押してある。なるほど,使われた形跡が薄いのは残念だが,じゃあ私が頂こう。何気なく手に入れたものが「飛耳長目」の機になるかもしれない。


 どれどれ,最近気になった四字熟語などを引いてみよう。いつか山中伸之先生が書かれていた「優勝」の語源,つまり「優勝劣敗」から見てみようか。「強者・適格者が栄え,弱者・不適格者が滅びる」という何とも現実的なお言葉だ。類語として「自然淘汰」「適者生存」が挙げられている。いわば人生訓の一つである。


 いつか書いた気がするが「経世済民」をもう一度確かめてみよう。ご存じ「経済」のもとになった熟語。「世を治め,民の苦しみを救う。またはそのような立派な政治」。経済優先の政治とは,実はそういうことなのだが,本当に「民」に届いているかと言えば,ご承知のとおり。施政者たちが何を見ているかということ。


 辞典を見て改めて思うのは「一」のつく熟語の多さ。「一意専心」から「一片氷心」まで数としては90あまり。「一」という指事漢字が表す広さや深さ…「ひとつ」であり「はじめ」であり「わずか」であり「すべて」であり…。捉え方によって「千変万化」いや「千姿万態」か。それとも「一粒万倍」と言うべきか。

半端なつくりにダメだし

2014年10月26日 | 雑記帳
 録っておいたドラマを観ていて気になったことがある。昭和39年の東京オリンピック招致に関わる話で,舞台は30年代前半が主である。そこで使われた登場人物の言葉に「いけます」があった。「うまくいく」という意味で使われていたが,その時代でも使われたのか。まだ「できる」「やれる」主体があったような…


 もう一つ「ダメだし」もあった。これは調べるとそもそも演劇用語らしい。今だとかなりポピュラーと言えるだろう。しかし,その頃には合わない気がした。演劇に関わっては昔からあったとしても,一般社会でこうした言葉が出回ってきたのは,個別化が進み対人関係に攻撃性が加味された頃じゃないかと想像する。


 これらは流行語ではないだろうが,やはりどこか時代を映しているように思う。ごく普通に使われているとすれば,そこにある感覚,感情が人の心に根づいたとも言えるだろう。「いける」と「できる」に明確な違いなどないが,きっと「いける」がやや客観的,一歩退いた表現に思える。「ダメだし」は評価性が強い。


 昔のドラマに現代性を感じる言葉が取り入れられるのは,ある面で仕方がない。結局は自分も今の目で見ているわけだから。しかし,だからこそと言うべきか,慎重にとも思う。もちろん新ドラマ「信長協奏曲」ぐらい支離滅裂?であれば,それはそれで別のレベルと割り切られる。結局,半端なつくりにはダメだしだ。



参考にする意見は,どちらの道か

2014年10月25日 | 読書
 「2014読了」113冊目 ★★★★
 
 『知ろうとすること。』(早野龍五・糸井重里  新潮文庫)


 話題の本である。

 ある作物が商品となり、ほぼ同じ値段で、片方が福島県産、もう一方が○○県産だったときに、どちらを選ぶか。

 …こういう設定を自らに課すこと自体が、見えない差別なのかもしれない。

 ほんの少しでも出来ることとして、震災の翌年には福島に旅行もしたし、そこで一定の知識も得たような気分になっていた。

 しかし、正直自分はあまり「知ろうと」していなかったなあと反省する。
 震災や放射能汚染に限らず、何かを本気で「知ろうと」すれば、今の生活、今のツール、今の使い方でいいのか…と問われている気がする。

 それは、仕事の関係で震災の年に招いたある方からも言われた記憶がある。
 いずれ結着をつけなければと密かに思うのだが…。


 さて、この本である。
 糸井が序章で語る喩えは、相変わらず見事だと思う。
 非科学的な行動が、それぞれの人間に普通にあることを、こんな言い方で表す。

 もしかしたらその「2冊目の週刊誌を取る」というような行動こそが、知らず知らずのうちに風評被害みたいなことにつながっているのかもしれない。

 本屋で週刊誌を買う時、つい一番上のでなく、その下を取ってしまう行動(たしかに自分もよくする)の行動心理とは、実に危ういことなのだと思い知る。

 「触らぬ神に祟りなし」…触らぬのニュアンスは若干異なるが、「触っていいか」を決める判断を持つための知識を持とうとする姿勢こそが肝心と言いたいのだと思う。
 それが弱ければ「とりあえず触らないでおこう」となり、その消極性自体がどんどん膨らんでいく。知識を持つことと行動は別個ではあるが、知識を持たなければ自分の中に基準など生れっこないのだ。

 早野教授が坦々と語っていることは、結構自分の誤解や思い込みをほぐしてくれた。そして、新たに知った事実は、私たちの判断の拠り所になる点が多々ある。

 ここで、なぜそうした情報がマスコミに無視、軽視されてきたかを改めて考えてみるべきだろう。

 照らし合わせると、糸井が「もうひとつのあとがき」で、震災の年にツイートした「じぶんが参考にする意見」は、軽やかでありながら真実に近づく手立てだと考えられる。

 「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。
 「より脅かしてないほう」を選びます。
 「より正義を語らないほう」を選びます。
 「より失礼でないほう」を選びます。
 そして「よりユーモアのあるほう」を選びます。


リーダーシップ最下位の一週間

2014年10月24日 | 雑記帳
 月曜日。10月も半ばを過ぎ「秋が深まる」という感じがする。今年はここ数年に比べて残暑がそれほどでもなくいい感じだ。今日は読み聞かせのサポーターの方々が来校した。時間の使い方について情報交換。「読書の秋」という言葉を繰り返し連呼するが、本当に意欲が高まっているのか、きちんと確かめねばと思う。


 火曜日。放課後に国語の指導案検討を行う。題材は5年「大造じいさんとガン」、不動の物語教材である。いくつも情報はあるが、肝心なことは学習する子どもにとっては初めてということ。そう考えると教師も新鮮な目でこの話を見つめる必要がある。教科内容優先とはいえ、教材の価値は十分引き出さねばならない。


 水曜日。県青少年劇場という事業で、ヴァイオリンとチェロのコンサートを聴く。どちらの演奏者も二十代ではあるが一流の経歴を持っている。午前に来校した時は寡黙であったが、2ステージこなして帰る頃にはうって変ってにこやかな表情であった。アーチストとはそんなふうに自分を燃焼させるのかもしれない。


 木曜日。1年生が近くの公園に生活科で行くというので一緒に行ってみた。まさに秋真っ盛りである。あちこちに目を飛ばしながら、さかんに動き回る。「活動」そのもの。弁当でも食べたら美味しいだろうなと勝手なことを考える。午後からは小1時間、隣の保育園へ行き発表会を参観した。観客の方が高揚している。


 金曜日。『総合教育技術』誌を読む。OECDのPISA調査では「校長のリーダーシップ」調査があり、その結果、日本は加盟国中最下位という「衝撃的な結果」だそうだ。項目の内容精査は必要だが、今回の財務省報道一つとっても、この国ではそのリーダーシップは求められていない、と直感的に思ってしまった。



思考を促進させた入門書

2014年10月23日 | 読書
 「2014読了」112冊目 ★★★
 
 『国語科授業づくり入門』(堀裕嗣  明治図書)


 堀さんの新刊、まあ今さら「入門」書でもないかという気持ちも湧いたが、私にとっては読む心地よさを感じられる著者であるから、即注文だった。

 冒頭の「第1章 国語科授業づくりの条件」にまず著者らしさが出る。
 「1 良い国語の授業って?」で問いかけ、私のようにスルーして次をめくった読者に対して「2 借り物を捨てよ!」と強く揺さぶる。
 半分は素直な読者の私は、「1」に返って、書きこみに真面目に取り組み、自分なりの「3条件」を書きました(笑)。

 この書きこみがその後の読みの主体性とつながっていくことは明白である。
 一つの仕掛けである。「1」だけならよくあることかもしれない。しかし「2」で追い込み、揺さぶりをかけることに、著者の授業展開にも似た妙味を感じる。


 ブログで読んだ内容、以前の資料にあったこともあり、比較的スムーズに読めた。そこは入門書らしい構成と言えるだろう。そこで校内研修用にと思い、久々に「図解」を試みることにした。

 手がけて気づくことがいくつか出てきた。
 図解は、本当に理解していないと難儀する。自分の理解力の足りなさは棚上げしながら、この本を章ごとの小項目でまとめようとしても無理だと気づく。

 つまり、本文に書かれている文言で言えば「言語情報のレベル分け」がきっちりと自分で出来ないと図解できないわけだ。
 図解の基本として使う「移動」「交換・売買」「協力」「統合」などを、教育実践として読みかえて作業を行うが、ちょっと考えてしまう部分もあった。

 図解の肝心なことの一つに「グループ化」があり、自分なりに本文中の文言を括って囲むことで、すっきり感が出た気がする。
 ちなみに、私がグループ化、重点化を図り、名づけたのは「授業の実際」「指導のポイント」「国語科の学力保障」「小集団交流のポイント」「スピーチ活動の例」であった。
 この作業を通すことは自分の言語能力が問われるし、また授業づくりの骨格も見えてくる。

 第4章の「思考促進」は「言語情報のレベル分け」から始まる。
 図解を手掛けると、まさしくそうだなと感じる。本文中の説明文読み取りの言語技術⑳にある「図解化」の価値を、実感できる読書となった。


 最終章の「力量形成」は、実に的確で唸ってしまう。
 こんなにタイトにポイントを突くとは、「国語科授業づくり人生の中間締め」…お見事というしかない。


 最後に一つの疑問。

 表紙にも「まえがき」にも「110の言語技術」とある。
 これは小項目の数ではなく、おそらく「第3章」の「8 話すこと」から「13 音読朗読」までに挙げられた言語技術を指すのだと思うが、数えてみても112である。
 何ゆえか。隠された秘密があるのか、自分の読み落としなのか。それとも購読層を意識して注目させる言語技術の駆使か。

内を観て,外を知り,路を選ぶ

2014年10月22日 | 読書
 「2014読了」111冊目 ★★★
 
 『整体的生活術』(三枝 誠  ちくま文庫)


 「整体」という言葉からうけるイメージは、気や身体的な動作に関わることだ。
 もちろん、そこへ帰結することになろうが、著者がこの本で強調しているのは、「人間が健康に暮らしていくためにどうしても必要なこと」として挙げた次の三つのことだ。

 ●誰とつきあうのか
 ●どんな場所に住むのか
 ●何を食べるのか


 ともすれば、自己の内面を見つめ直す作業の重要性にとらわれがちだが、それよりも誰(何)と関わっていくかをしっかり押さえることだという。キーワードは

 外経絡(がいけいらく)


 この言葉自体は辞書にはない。著者の造語である。
 「経絡」とは「漢方医学で気血が人体をめぐり流れる経路」のことなので、外経絡とは人間の内部でなく、外部とのかかわりのすべてを指している。
 文中の言葉では、次のように記されている。

 自分と関係を持ち自分を取り囲む秩序を構成している時空間(とそこに存在するもの)


 となると「生きる」とは、外経絡を知り、選んでいくことにほかならない。
 そのための人間の見方として四つの気の型が記されていて、その点がこの著の前半の中心でもある。

 そこはさておき(と言っても結局つながるのだが)、個人的に「なるほどなあ」「そうそう」と思う記述がいくつかあったので、ピックアップして備忘録としたい。

 感謝という感情は、センスの問題であって、努力の問題ではないと思っています。

 これは実に深いように思う。外経絡の選択においても、自分の内面を大事にしないと無理が生じて、結局はうまく流れない。感謝とはその最たるもののような気がする。自分の感情をしっかり見つめることが、もとになっていく。


 声は、人間が時間をかけて完成させなければいけないもののひとつです。

 言わずもがなのことである。身体をテーマにしている以上、これを抜きにしては語れない。
 一番日常的であり、一番根幹的であること。
 唐突だが、改めて学校教育の責務を自覚する。


 面白い表現がある。
 子どもの頃の「悪い身体記憶」、これには様々な段階があろう、そして誰しもが多かれ少なかれ抱えていることかもしれない。
 その「傷」を癒すための一つの手段として「復讐が一番いい」と著者は書く。
 なんとなく物騒な話にも思えるが、それは目には目を、歯には歯を…というレベルではなく、こういう表現で提案している。

 大事なのは、復讐に市民性を持たせることなんです。

 簡単なことではないが、そういう市民性をつくり上げようとする社会が健全であり、困難な現実に立ち向かうことなのだと思う。