すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

愛される学校づくりフォーラム,その3(了)

2012年02月29日 | 雑記帳
 当日の要項の表紙裏「ごあいさつ」に,次の一節があった。

 授業名人の追試をする際,ここぞという場面でICTを活用すると,経験が浅い授業者でも,授業名人の域に近づくことができるのではないか,という大胆な仮説

 この仮説は検証できたのか。

 「授業名人の域」をどうとらえるか。例えば「授業名人が授業したときと同じ程度のねらいの達成度」と言い換えてみよう。
 結果,どうであったか。数値的な比較も無理な話であるので,今回のことではわからないとしか言いようがないのかもしれない。

 しかし,これだけは言えるだろう。
 名人が同じ題材を同じ子どもたち相手にやったら,もっと子どもの表情は生き生きとし面白さが生まれる授業になったことは間違いないと思う。
 それは「飛び込み」自体の持つ魅力もあるかもしれない。しかしその魅力と同等にICTを活用することこそが,今回の主眼ではないのか。
 その意味では,失礼ながらまだ道遠しという印象を持った。


 さて,会の最後に野口芳宏先生が,会長の玉置先生に対して「いいことはやれ!相談せずに」と賞賛と激励を送られた。
 たくさんの拍手がわき起こった。

 野口先生ならではの言葉であったなあと思う。
 自分を貫いていくことの困難さは,精神力だけでなく,柔軟な知性に支えられる。
 その意味で,上への報告や了解を得るための相談などは決心を鈍らせる何物でもない。
 公務員としてはなかなか書きづらいことだが,といって書いてしまうが,「やってしまう」ことの重要さは,願いや勢いを委縮させないために否定しようがない。

 先般読んだ,糸井重里と『困ってるひと』の作家大野更紗の対談を思い出す。
 障害者運動に関わる人たちが言う,と紹介してある。

 制度とか社会の仕組みっていうのは,後からついてくるものだ。
 最初に誰かが突破したら,続く人はそれに合わせるしかんない。あとからついてこさせてなんぼだ。


 糸井氏がそれを「事実婚」と称したことが面白く,妙に心に残った。

 野口先生がしていらっしゃったことも,玉置先生が進めようということも,ある意味「事実婚」に近いものがあるかもしれない。
 (こんなこと書いたら,野口先生には品格がなっていないと言われそうだ)

 度胸がないので,そんなことは自分にはできない。
 またやり始めて挫折したり,墓穴を掘ったりしたことも思い出す。
 しかし,共感できることに関しては,せめて二番手三番手だとしても,一緒に歩んでいきたいという気持ちは残っている。


 会が終了しての帰路。会場出口近くで,連れだって歩いていた男性一人,女性二人の「ふりかえり」が,耳に聞こえてきた。

「愛知の先生方,頑張っているわね」
「そうね,凄いわね。今日の会は,ずいぶんとお得感があったわ」
「そうよねえ,これだけのメンバーでね。お得よねえ」

 微笑ましく聴いていたが,本当にお得かどうかは,明日の仕事にどう活きるかで決まる。
 もしかしたら,明後日いや来月になるかもしれないが,その時何かの形で見えてきたことで実感できる。

愛される学校づくりフォーラム,その2

2012年02月28日 | 雑記帳
 午後は「授業名人が語る!斬る!ICT活用」。

 この企画は実に素晴らしい。いわゆる名人の定番授業のその手法やエッセンス等を盛り込んだ授業を,ICT活用を取り入れて行う。
 それを名人に批評させようというのだから,面白くないわけがない。

 志水・有田・野口の各先生方が,それぞれの個性あふれる語り口で感想や批判を述べられる姿を見ただけでも,ずいぶんと価値があった。
 提示された個々の授業のよい点,要改善点や,別の切り込み方など一緒に参加した同僚や知人と少し語り合えたことも収穫だった(研究会参加はそういうライブ感も大事だと思う)。

 さて,結論的に思い出したのが,宇佐美寛先生の授業の定義である。

 授業とは,何かを用意し,何かをかくし,何かを問い,何かを考えさせ,何かを認識させるコミュニケーションである。

 デジタル機器や教材で,何が有利かを考え,この定義にあてはめてみる。
 「用意」「認識」のところは多くあてはまるだろう。ただ「かくし」「問い」「考え」の所はその使い方はどうなるか,かなり工夫の余地がある。

 二つ見方がある。

 デジタルで用意したり,認識させたりする便利さを禁欲的にできるか。情報の増大化,効率化によって陥る問題点を意識できるか,ということ。

 コミュニケーションを保障する構成になっているか。デジタルとアナログの差や育つ能力などを把握して構成できるか,ということ。


 このあたりが,結論ではなかったかと考える。

 かつて,「IT」と言われていたものが「ICT」になった。
 「C」のcommunicationは,「通信」という意味だろうが,もっと広義にとらえる姿勢が大事だ。
 教育もTechnologyによって,はかりしれない飛躍ができることは間違いない。
 しかし,様々な産業や分野において,その発達によって大きな何かを失ったこという例は,巷にあふれている。
 教育では致命的になることもあろう。

 機器や教材を「つかえる」という目で見ながら,必ず今までとの違いを,表からも裏からも探るという手順を忘れては,危険性が増すだろう。
 かと言って,慎重な姿勢は消極性に結びつく。積極性を持って活用のための観点をはっきりさせたい。

愛される学校づくりフォーラム,その1

2012年02月27日 | 雑記帳
 昨年の名古屋に続いて,今年も参加することができた。
 前回も充実していたが,さらにグレードアップした会となっていて本当に参加してよかったと思う。

 会場ホールの広さ,机やイスのゆったり感,巨大画面のセットなどそうした素晴らしさもあり,一日気持ちのよさを感じながら過ごした。
 こういう環境設定の大切さを見せつけられた気がして,その意味でも有意義だった。

 もちろん内容もばっちりだった。
 自分の思考に刺激を与えてくれたことを振り返りながら,思いつくまま感想を記したい。

 午前のパネルディスカッション。
 当初10名のパネラーは多いかなと正直思ったが,進行する会長の玉置先生が明快でわかりやすく進めてくれたために,幅広く多面的に考えることができたように思う。

 テーマは「学校のお荷物(学校ホームページ&学校評価)を切り札にするために」。

 「お荷物=負担となる,やっかいなもの」を「切り札=とっておきの最も有力な手段」にしようというのだから,そこには明確な現状分析と作戦が必要だ。もちろんそれを支えるのは教育についての熱い思いや揺るぎない観だということができる。

 その点は一人一人のパネラーの方がほとんど外さずコンパクトに語ってくれた。
 おそらく自分に一番近いのは(もちろん実践として及ぶべくもないのだが)大手小学校の水谷校長先生だろうなと感じた。
 そしてもしかしたら,多様な参加者各自の代弁的な意味も込められる可能性が高くなるということでの10名なのかもしれない,そんなふうにも納得した。


 かつて担任をしていていた頃,サークルの集約に「学級通信,二番打者論」を書いたことがある。
 広報活動を一つの核として意識してきた自分にとって,学級全体や子どもや自分の姿を,できるだけ継続的に,頻繁に伝えていく重要性,そしてその位置づけをまとめたものだった。

 学級通信発行を,野球の二番打者の役割と重ねて,学級経営,授業の充実に結びつけるという論は,今の自分の立場での学校報発行やホームページづくりと全くつながる。
 コトを進めていくため十分な効力を発揮させ,進塁,点数に結びつけるという意識だ。

 「二番打者」=「切り札」とは言えないかもしれない。
 しかし今回のディスカッションでパネラーの方々が語られたなかに,自分自身のマンネリ化した部分,曖昧なまま持ち越した部分は見事に指摘されたように感じた。
 
 それは,きっと「強い二番打者」を育てるための指針となる。
 大きく二つの点である。

 自分たちがこうありたい,こんな子どもにしたいということを,明確に,具体的に伝える

 広報と評価の一体化を図る


 役割意識,ふりかえり,結びつき…いろいろな観点が浮かぶ。
 新年度のめどにどんな形で具現化できるか,練っていきたい。

 さて,そういえば「二番打者論」は,実は著名なある実践者の雑誌記事に反論する意味を込めたものだった。

 当時(90年代前半)の学級通信発行ブーム?に対する批判。
 それが有田和正先生だったことも,何か因縁めいている。

「捨て目」ということを知って

2012年02月24日 | 読書
 家本芳郎先生の著書『子どもと生きる 教師の一日』(高文研)の中に,こういう項目があった。

 <捨て目>を使う教師になりたい

 恥ずかしながら「捨て目」について,初めて知った。

 捨て目というのは,見ようとして見るのではなく,行住坐臥,目にうつるものやできごとを目の端にとらえ,心覚えしておくことをいう。

 ううむ。なかなか深い。
 しかし,なにゆえに「捨て」なのか。
 意味から命名したら,「拾い目」の方が妥当のような気もする。ネット検索では語源は探せなかったが,さすがの家本先生はこのように記している。

 捨て目はもともと,家政のための気くばり,心くばりから発した。すべてのものを心に留め,あとで役立たせようというのである。


 つまり,端切れや糸の残りなどを心に置いておくという所からきているらしい。捨てられたものを見る目ということが,そもそもの始まりのようだ。

 学校の中にある物品や場の様子だけではなく,子どもの何気ない動きや表情なども,日常のなかで心に留めておくことの大切さを象徴している言葉なのだ。

 当然ながら,空間認識,視野の範囲といった身体能力ともいうべきことが関わるだろう。しかしある意味で習慣化し,機能させておく姿勢こそが求められている。

 また「見取る」ことを考えてしまう。
 「見取る」ためには,注目・着目という,いうなれば「捨て目」とは相対する言葉や動きが使われることになる。
 しかし,実のところ「見取る」は,常にズームを利かしている状態でいいのか,と問い続けねばならないだろう。
 広角の中に,はっきりと焦点化させるようなイメージを抱けるかだ。

 それにしても,学校現場の中では「捨てられている」モノ,コトが案外多いのかもしれない。 いや,どんどん増えているんじゃないか…きっとそれは確かだ。
 知らないうちに,ヒトも仲間入りしたら,どうなる。

 自分の毎日も反省しなければならないが,それはそれとして,連日の報道で賑わしく教育を改革しようとするどこぞの方々も,「捨て目」を利かしてほしいなあ,でも「捨て目」なんて知らないだろうなあ,と思う。

語るべき未来のためのデータ

2012年02月24日 | 雑記帳
 「秘密のケンミンshow」というバラエティを「蔑視的な語り方を繰り返している」と評した文章をみて,なるほどと頷いたことがある。

 そう思いながらも相変わらずミーハーな私は,そんな特集などをみるとついのぞき込みたくなる性質で,PRESIDENT誌の今号「『県民性』の統計相性学」も購入してしまった。

 当然ながら購読層を意識して,上司と部下の相性,職場の人間関係にかかわるデータが並んでいる。
 しかし,それ自体あまり興味はなく,次の「出身地のDNA鑑定」と題された,やや法則めいた記事の方が面白い。

 我が秋田が取り上げられている項目は,次のような見出しが…

 なぜ,秋田は学力テスト1位なのに,進学率が低いのか?

 つまり,小中の学力全国テストでトップでありながら,大学進学率だと33位(2010年文科省データ)になっているのはどうしてか,ということである。
 結論として「競争よりも横並びが大切な気質」「NO!といえないこと」というもっともらしい理由が記されているが,実際はそれだけでないとは思う。

 また,こういう見出しの立て方そのものを疑う必要があるだろう。
 逆にみたら,どうだというのだ。

 なぜ,秋田は進学率は低いのに,学力テスト1位なのか?

 これに対して語られること,解説されることは全く表現が異なるに違いない。

 それは結局,表裏の関係にあり,そのどちらを見せるかに過ぎない。
 ただ当事者である「県民」は,表裏一体であることの認識を忘れてはいけない。浮かれてはいけないし,卑屈になってもいけない。

 経済的なこと,そして少子高齢化が急激に進むこの県の状況は,教育にも大きく影を落としている。
 また,学力のこと,進学率の意味はもっと多面的に語られるべきで,それが何の指標なのか,検討されてもいい。
 ただ,県内進学,県内就職も少ないまま,人口が流出していく現状を良しとしている県民はほとんどいないと言ってもいいだろう。

 大きな構造的な問題が横たわっているという認識は持っている。
 また県という括り,国という括りの意味づけにも違いが生じてきているのは確かだ。

 そのなかで,どんな未来を描くか…まず大人は語るべき未来を持っているのか…。
 データの選択は,そこが問われている。

人の姿に懐きたい

2012年02月23日 | 読書
 この頃はあまり見ることはなくなったが,以前はよく「ゴミ屋敷」のことがテレビなどで取り上げられていた。
 興味本位で見たけれど,どうしてあんなふうになるものなのか,その神経がどうにもわからなかった。

 それがこの小説を手にとった一つの大きな理由。

 もう一つは,やはり作者への興味。たぶん読むことはないだろうと思ってはいたのだが,先日の対談集を読み,その全然わからないということに惹かれて?チャレンジしてみた。

 『巡礼』(橋本治  新潮文庫)


 これを「純文学」と呼ぶのかどうかはわからない。
 表紙裏に「橋本治 初の純文学長編」と書いているので,そうなのかもしれない。
 でもきっと作者はそんなことは関心ないのだろうなと思う。

 何か今までにあまり読んだことのない文体,文脈のような気がして,例の対談集で「橋本さんの小説って,よく読むと『あらすじ』なんですよね」という内田氏の言葉が思い出された。
 それから橋本氏自身がいう「ぜんぶ説明していく」ということもわかるような気がした。
 その意味では新鮮であった。

 そして,何より「ゴミ屋敷」が造り上げられる訳が,ほんの少し分かったような気がする。

 この小説で語られる場面から,「懐かしさ」という言葉に象徴されると感じた。

 一つ一つのモノには思いがくっつくときがある。
 どんなに大量生産されたものであっても,想像してみれば必ず発生する。
 それがポイと投げ捨てられたモノであっても,投げ捨てられたという思いがくっついてしまう。

 「ゴミ」を貯めてしまう心は,それを想像してしまうということではないか。
 モノにまとわりつく思いを見てしまう。
 見なければそれで済むのだが,何故か呼んでいるように聞こえてしまう。

 それは結局人が恋しい,モノの陰にいる人の姿に懐きたいのではないか。
 だから,際限なく自分の心を,その行為に傾けてしまう。

 これが今のところの自分の結論。
 整理下手な自分への警告。

 そして,この小説が何故「巡礼」なのか。このあたりの解読は楽しみ。
 深い意味がありそうで,なさそうで。

ココントコロのトラブル

2012年02月22日 | 雑記帳
 どうも二月は,小さなトラブル,面倒なことが目立つ。

 まず自宅の食器洗い機がセットできなくなった。これは業者に依頼するしかなかった。
 それから二日ほど経って自宅のボイラーの調子が悪くなり,そのせいで全体の暖房システムに影響があった。
 この寒さの中,大問題であった。これも専門家でなければ解決,修理できず,豪雪と相まって結構厳しい時間だった。

 翌週,例の左手のトラブルがあり,痛みに耐えて片手中心に除雪をしているときに,手動で開けた車庫のシャッターが,電動に戻すことができなくなった。
 これはなんとか小一時間かかって,自分で処理できた。

 次に,携帯の画面が突如見えにくくなるという現象。
 マニュアルを見ても探せず,自分であれこれいじってみたが断念。ドコモへ駆け込む。
 あっさり「そういう機能」と説明され,あるボタンの長押しを学ぶ。

 やれやれと車に戻ると,こんどはCDチェンジャーの調子が悪く,6枚のCDが次々と出てきて,再び中にロードできない現象が起こる。
 これは何度やっても同じことの繰り返し。故障だ。
 しかし,ディーラーに行く余裕などない。あっさりあきらめラジオ族に転身しよう。

 職場でも屋根からの落雪により,雪囲いの破損が連続した。
 変な気温状態からか,凍っている箇所が多く,落ちた時の衝撃が凄い。
 随時見回りをするぐらいしか手がない。

 そんなとき,渡り廊下から見える「つらら」は,こんな様子を見せてくれたりして…思わずパチリと撮った。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-c192.html

 こんな駄作,駄文でも残しておけば,ああこんな些細なトラブルもあった冬だったと,ちょいとはおつまみにはなるだろう。

その坂までの遠い坂

2012年02月20日 | 読書
 『坂の上の坂』(藤原和博 ポプラ社)

 絶妙なネーミングだと思う。
 副題として「55歳までにやっておきたい55のこと」。著者自身の年齢にかけ合わせた構成の仕方や,さらに普通なら新書かなあと思うような内容を,なんとなく意味ありげな写真を使った装丁でハードカバーに仕上げたところなど,さすがに上手だなあという印象を持つ。

 内容に関しては今までの著書に書かれていたことと大差ない。ただ自らの世代的な特徴の部分がやや丁寧に取り上げられている気がした。
 いわゆる高度成長まっただなかに育った同世代として,存在を一言「サイボーグ」と自分を揶揄してみせたところなど,まさしく納得するしかない点である。

 著者も紛れなく日本社会のトップランナーの一人であるが,同年代は他分野でも大きく牽引している存在が目立つ。
 政治やビジネスの世界ではよくわからないが,大雑把にマスメディアや芸能界,軽音楽界などに数多いような気がする。これはきっと,経済成長やカルチャーの変化と無縁ではないだろう。

 その意味で,これらの著名な同世代人が支持された理由,支持され続けている理由は何だったのかを考えてみることは,個人的には興味深いし,十分に価値あることだと思えてくる。


 本の内容からずれてしまったか…
 さて,著者の目指すものは,あとがきにずばりと書かれている。

 脱「正解主義」の教育です。

 その結論もしかり,仕事上,どうしても教育上のエピソードに目がいってしまう。特に興味深い情報紹介があったのでメモしておきたい。

 一つは,明治維新における学校教育の教科設定のことである。
 言われてみればもっともなのだが,富国強兵策なのである。
 そのすべてが進軍のために意義づけられた,必要とされた学習なのである。音楽も図工もそうだという件には,納得されられた。
 「頑張る学び」はこういう根を持つのである。

 もう一つは,これは以前何かで読んだが,ボランティアが大震災の避難所へ運んだロールケーキのことである。
 その場に避難されている人数とあわないので受け取りを拒否されたこの出来事が,見事にこの国の教育を表していると思うのは,私だけではあるまい。

 当事者だけを責めることはできない。
 そういう凝り固まった発想が蓄積されていく日常を作っていないか,サボらずに振り返ってみよう。
 柔軟にと言いながら,その言葉が,実は柔軟を欠いているような筋道でやってきていることは明らかなのだから。

私もディープピープル?

2012年02月19日 | 雑記帳
 昨年の秋にドラマ「北の国から」の再放送を見ていることを書いた。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/dabf9301fa53f5b7483e122bda1cf2bb

 先々週だったか,たまたま買った週刊誌に「熱討スタジアム」という新連載が始まっていて,その初回として「『北の国から』を語ろう」が取り上げられていた。
 いわゆる○○フリーク(ここでは,ディープピープルとしている)が登場して熱く語ろうという企画である。

 演出家と漫才師と芸人という三人の取り合わせ,68年~74年生まれなので,私としては少し年齢ギャップを感じながら読み入った。

 個人的にいろいろと印象深い場面の紹介が続き,ほとんどわかるこちらとしては読んでいて楽しい。
 ただ演出家の知っていた裏情報には,正直驚きだった。

 多くの人が知っていると思う,あの「かぼちゃ」。

 そう,タマコの叔父(菅原文太)へ差し出す,例の「誠意」のかぼちゃである。
 あのアイデアが,もともと倉本聰の脚本にはなかったそうである。演出の杉田成道の発案らしく,取り入れられたという。

 うーーん,そうか。
 倉本先生はそう考えなかったのか。最初はメロンか何かだったらしいということも書かれてある。

 いや,あれはやはりかぼちゃのほうが…。
 富良野で「誠意のかぼちゃ」というチョコレートが売られている情報にも笑ってしまう。

 さて,演出家が語るには,杉田も倉本もサービス精神旺盛で,典型的なのが草太の死だという。

 しかし,私としてはあれこそが現実の劇的な象徴のようにとらえている。
 「なぜ草太を死なせねばならなかったか」は,このドラマを考えるうえでとても大事なことだ。

 それは結局,地方に暮らすことと無縁ではないと思う。あの出来事に似たことは皆無だったと言い切れる地方は少ないのではないか。

 と,こんなことは週刊誌の「熱討スタジアム」では語られないだろう。
 政治のあげあし取りも結構だが,そんな切り込み方もいいんではないの,と提案です。

禁句が金句になるとき

2012年02月17日 | 雑記帳
 先日,臨床心理士の方の講演を聴く機会があった。
 中学生のスクールカウンセラーをしていらっしゃり,実際の例を交えながら思春期の子供たちとの付き合い方についての原則的なことをコンパクトにまとめられていたと思う。

 「自尊心」を育てていくためとして挙げられた項目化された7つのポイント。

 おはようコミュニケーション
 めしコミュニケーション
 好きなことトーク
 ドジ話コミュニケーション
 ほめるコミュニケーション
 (認めるコミュニケーション)
 一喝コミュニケーション


 ネーミングもわかりやすく,具体的でよかった。

 ただ一つ,ちょっと気にかかって考えをめぐらした一言が「一喝コミュニケーション」の配慮事項のなかにあった。

 愛情があること(禁句を言わない努力)が大切。

 確かにその通り。
 「それを言っちゃあおしまいよ」という一言は,フーテンの寅さんがよくいっていたセリフのようにも思う。しかしこの場合はどんなことだったかな…よく思い出せない。

 「勘当だ!」「出ていけ!」「お前はここの家の者じゃない」だろうか,
 「お前が決めたんだから,お前が好きなようにしろ」「すべてお前の責任でやれ」だろうか,

 なんだかどれも古臭い感じがする。
 中学生に対して,どんな文句が「禁句」と言えるのか。

 「おまえは,本当にダメな奴だなあ」
 「結局,おまえの頭の程度は,そこまでなんだよ」
 「死んでしまえ,おまえのような者は!」

 侮蔑する言い回しは心を傷付けるだろうと想像される。

 そんなことを考えると「勘当だ」などという古典的な禁句は,「つながりを断ってもいいのか」という強い問いかけとも言えるし,一喝コミュニケーションとしては,使える文句かもしれない。

 そういえば,昔「小学校学級経営」という月刊誌に原稿を書いたとき,「つながりを断つ言葉」を最終的に用いた実践を書いたことがあった。

 禁句が金句になるときもある…

 しかし今なら「あっ,そう」と軽くかわされるかもしれないし,やはり時代遅れの感は否めないか。