すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

印象づけられる存在感

2017年06月30日 | 雑記帳
 「本物を観よう」がここ10年くらいの心掛けの一つ。一昨日秋田市に養老孟司・畑正憲の二大巨頭!が来るというので、のこのこと出かけた。どちらも80代ではあるが、まだ現役感はある。会場はかのお城近くのホテル大広間。400人を超す聴衆が詰めかけた。平日なのでさすがに年齢層は高い。向学心のある?方々か。



 養老氏は前日にヨーロッパから帰ってきたばかりというが、すぐに演台から離れ、マイク片手に軽快に話し始めた。喧伝されている「生産性の向上」を例に語った「データは分かりやすいけれど、正しくはない」という一言に納得した。個には個の持つ事実があり、データに惑わされてはいけないと認識を新たにした。


 畑氏、登壇する際によろけてしまうハプニング。テレビに出なくなってから久しい。少し小さくなった印象。しかし「愛ときずなのホルモン」であるオキシトシンについて語る口調はまだまだ熱い。この方ほど「生身に触れる」ことの大切さを訴えて続けてきた人はいない。「ムツゴロウ精神健在」と印象づけられた。


 加齢なのかお二人とも多少滑舌に難があり…そんな理由で?多少ぼやっとした一瞬もあった。しかしその体たらくを叱責する驚くべきことが!講演終了後の入場者抽選会でサイン入り著書が計20名へプレゼント。なんと、番号を呼ばれる幸運に。しかも連れまで当選だ…ぼやっと聴いた分を読書で挽回というお告げか。


一種、呪いの本

2017年06月29日 | 読書
 緯度が近いので気温も同程度であるが、ドイツには虫が少ないらしいという情報は持っていた。がしかし、無類の「虫からモテ男」だった。案の定4日目に一発刺されてしまったようだ。蚊なのか…そういえばバックにしのばせたが、一度もページをめくらなかったのが、穂村弘の文庫本。この本の呪いかもしれない。


2017読了70
 『蚊がいる』(穂村 弘  角川文庫)



 この書名決定の経緯は知らない。ただ収められたエッセイの題名の一つにはある。筆者が取り上げたか、編集者等の意図なのか、いずれにしても穂村の「世界観」が表されていると考えてもよくないか。つまり、蚊という他人からみれば取るに足らない存在を、どこまでも気にし、その気にする自分をもっと気にする。


 一度でも読んだことのある読者なら想像のつく「ほむほむ」節が展開されている。その調子とは、逆説的ながらこの一文によく示されている。「効果的な切り替えスイッチを数多く持っていればいるほど、私たちは多次元世界を生きることが可能になる」…そう、スイッチが足りない者たちはこんなエッセイで癒される。


 特別付録として又吉直樹との対談がある。ある意味では非常に似通った感性を持っているのではないか。結論ともいうべき次の文章に大いに納得した。「ないことにされているものに気づくこと。お笑いや詩歌の仕事って、それじゃないか」。定番として「あるある」が笑いになる根底もそこにある。切り口こそ才能だ。

南独旅窓⑤~きっと理由がある

2017年06月28日 | 雑記帳
 結局自分の一番の関心事は「人」だなと思う。だから、非日常ともいうべき旅でのウォッチングはとても楽しい。今回も出発時機内のやたらとフレンドリー(反面ずぼら)なCAに始まり、観光地で見かける人々の様子、さらにはツアーに参加した方々など観察対象がたくさんあり、実に興味深い日々を過ごした。




(リューデスハイムは、年に一度ハーレーライダーたちの集合する日だった)

 まず、完全な実感を得たこと…「白人は恰好いい(絵になる)」だ。映画などで観られるようなシーンが、バアーンと目前に広がっている。皮ジャンを来てカフェで煙草を吸う強面のライダーたちは、きっと我々を見て「また日本人の奴らが、カメラぶら下げて並んで歩いているぜ、ワッハッハー」と喋っていると妄想。




(船上の遊具順番争いで兄に負け、一人ラインの川面を見つめる弟)

 子どもも文句なく可愛い。兄弟げんかをして親に叱られ、泣いて慰められるところなどは全く日本と同様だが、それを外国の言葉で聴くと、また絵になると思うのは、きっと理解不完全な部分が想像力をかき立てるからだろう。廻った観光地の中に学校があり、休憩時の様子を覗いたら、声が日本より高い気がした。




(ハイデルベルグ城で、世界最大のワイン樽の説明をする現地ガイド女性)

 現地で働く日本人たちも印象的だ。現地ガイドや観光地の店などで働く人たちが、どんな願いを持ち、どんな流れでそこに居るのか、様々であろうとは思う。しかしいずれにしても、その仕事に対して「熱」を持っているかどうかは、その言葉や所作でわかるものだ。何かを吹っ切って異国に立つ人の表現は判りやすい。




(ミュンヘン聖霊教会の中を子どもたちが小走りする)

 撮りたかったが、一瞬ためらいシャッターを切れなかった絵がある。ヴィース教会前のバス停にいた一人の老人。両手に持つ杖で大きな身体を支え、にこやかに我々を見つめていた姿が今も瞼に残る。旅を終え、改めて考えている。何故、かの国では幸せそうに見える老人が多かったのだろうか。きっと理由がある。

南独旅窓④~生きる力測定

2017年06月27日 | 雑記帳
 旅は「生きる力」を測る。「生きる力」とは、内田樹説?によれば「どこでも眠れる」「何でも食べれる」「誰とでも仲良くなれる」の三要素だという。それに照らし合わせれば、自分の力は7割には届かなくともソコソコあるのでは…と自惚れていたが、ちょっと挫かれた旅となった。特に「睡眠」はハードルが高い。



(機内映画を行きは3本、帰りは2本視聴。一番面白かったのは『永い言い訳』)

 予想していたとはいえ、11時間を超す飛行機旅はかなりのものだ。プレミアムなクラスに乗れる身分でもないので当然エコノミーであるが、ここでは十分には眠れない。それでも行きは昼の出発でなんとかなったが、帰りは夕方発で眠気が襲ってくる時間帯だ。眠いのに眠られないという繰り返しは、結構身に応えた。



(ホテルの窓から~午後9時半ころのフランクフルト郊外)

 びっくりしたのは、緯度はあまり違わないはずなのに、日没時刻がかなり違う事。ホテルに着く午後8時過ぎはまだまだ明るく、暗くなるのは10時過ぎである。いくらカーテンを閉めても漏れてくる光は、結構気になった。時差ボケが何かは知らないまま過ぎた気がするのは、移動バス車中での瞬間睡眠のおかげか。



(ミュンヘンのビアホール。かの銀髪女給さんに驚かれた)

 「食」は口にできないものはなかったので、まあ合格。参加者は大手の海外ツアーの縮図を見た思いがする分布だった(熟年夫婦が半数、あとは新婚、母娘、女友達のカップル複数、単独は全部女性)。よって女性が多く気後れした部分があり「対人」評価が下がる。現地人と話したのは買い物のみで、やはり力不足だ。

南独旅窓③~御手洗の障壁

2017年06月26日 | 雑記帳
 30人を超えた団体、まして年配者が多いとなると、ツアー添乗員が一番口にするのは「お手洗い」のことだろう。事あるたびに毎回見学地でのトイレの場所についての情報を流し、次地までの乗車時間の目安を繰り返す。参加者は「念のため」と思って行動する。それにしてもこの点日本ほど整備された国はないだろう。


(某施設の男性用トイレ)

 空港に着いて入ったトイレでは、日本で見かける小便器とは違っていた。へええトコロ変われば…という感じだった。さらに、我が国では小用でも個別便器が完備されてから久しいが、それさえない箇所がまだあった。それも世界遺産にある施設。このあたりは合理主義なのか、自然回帰(笑)なのか。昔の学校を思い出す。



(観光地駐車場の、立派な有料トイレ)

 便器の違いはともかく、なんといっても有料トイレが多いのは不便だ。50セントが多く、使用コインが限定される箇所もあった。サービスエリアではクーポンで返ってきて商品購入に充てる形だった。そして、やはり温水便座は一回として見かけなかった。慣れてしまった自分はまるで不幸を抱えたように思えてくる。



 三日目のビアレストランで帰りがけに入ったトイレには驚いた。すぐに座席に置いたカメラを取りに帰り、再び行ってパチリである。これは洒落が効いているなあ。こういう遊び心はいいなあと思う。すぐにモニターを見せると周囲にも大ウケ。連れが「じゃあ、女子トイレは?」と向かうが、これは普通らしかった。


(デカいドイツ美女に覗き込まれる便器)

南独旅窓②~たべびと探訪

2017年06月25日 | 雑記帳
 「たべびと」を自称する者としては、食に関して素通りはできない。が、実際のところあまり期待はしていなかった。事前読書によってドイツの食事の質素さを知っていたからだ。とは言っても「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」フリーク(古っ)としてはBEERへの熱情を抱いた渡欧である。その点は心掛けた(笑)。



(ミュンヘンのビアレストラン・ソーセージ料理)

 ホテルの朝食とツアーに組み入れられた名店(と称される所)の食事だけでは安易に断言できないが、それでも「ジャガイモ」「豚肉」が主役であることは間違いない。個人的に美味いと思ったのはパンやチーズだった。本場ソーセージはボリュームたっぷり味も合格点だが、やはり日本製品でも十分だと思ってしまう。



(ローテンブルグ名物菓子のシュネーバル)

 お菓子類はほとんど口にしなかった。いろいろな名物があるようだが、個人の嗜好によって評価が分かれるだろう。羨ましいのは、日中からオープンカフェで飲食している雰囲気。当然BEER、WINE派も多く、横目で恨めしく眺めて歩いた。地元スーパーにも入ったが、正直ややバラエティに欠ける品揃えと感じた。



(午前10時半の王立ビール醸造所・ビヤホール)

 最終日の自由時間に念願のホフブロイハウス(世界一有名と称される)へ。午前中なので客はまばらだったが「乾杯」は果たした。前夜のビヤレストランでBEERのお代わりを続け、ベテラン女給(笑)の呆れた顔も忘れられない。帰る頃はさすがに日本食が恋しくなったが、空港レストランのショーケースには参ったなあ。


(ミュンヘン空港・日本食の店)


南独旅窓①~虚飾なき景観

2017年06月24日 | 雑記帳
 羽田を発ち、降り立った地はフランクフルト。現地時刻はもう夜7時でそのまま宿泊ホテルへ向かった。バスの窓から見える景色は高層ビルが多かったが、実に質素な感じを受けた。建物そのもののシンプルさに加え、我が国によく見られる広告看板等がまったく見られない。そっけなさも感じつつ、一種清々しい。



(ライン川添いの風景)

 翌日、旅のハイライトの一つであるライン川下り。天気に恵まれた絶好のクルーズとなった。大河を行き交う船舶の輸送船、両岸沿いに鉄道、道路も走り、往来も結構頻繁だ。しかし、斜度のある山々に耕された畑、そして観光名所となる古城群…そのどれにも、いわば伝統が色濃く感じられて、そのまま絵になる。



(ローテンブルグ市内の民家)

 ハイデルベルグ城、同市街地、城壁都市であるローテンブルグ等、そしてノイシュバンシュタイン城や世界遺産の教会群など、建てられた当時はある意味絢爛に違いなかったろうが、今の価値がそこにあるわけではない。歴史の中でその地の人間が何を考え、どう残してきたか。実に淡々と、あからさまに表れていた。



(ロマンチック街道沿いに広がる農地)

 バスの車窓から見える景色は雄大で、牧草地や麦畑などが延々と続く。北海道とさえ比較にならない広がりが、島国人を圧倒した。同時にそこは工業国でもある。デザインセンスの良さが目についた。施設内の設備の多機能さ、便利さは予想通り日本よりは低いが、必要性という観点で突き詰めているのだと思えた。


(ホテルの部屋に置かれた湯沸かしポット)

旅の窓に目を移す前に

2017年06月23日 | 読書
 窓から見える風景がどんなふうに目に映るかは、その時の心持ちによっても違うものだが、知識や情報の量によっても左右されることが多い。先週末から昨日まで南ドイツへ旅をした。初めて尽くしが多かったので頭の整理に時間がかかりそうだ。まずは旅行前の仕入れ読書、そして旅の合間にめくったページを振り返る。


 (ハイデルベルグ市の街並)

2017読了66
 『森と山と川でたどるドイツ史』(池上俊一  岩波ジュニア新書)

 帯の惹句は「ビール&ソーセージだけじゃない!」。本音はその二つがあれば文句はないが、少しばかり素養をと中高生向けの新書をめくった。それでも世界史の苦手意識は消えない。ただかの国には、独特の自然観が強くあり、それは哲学や環境保護、そしておそらく現在の移民政策にも結びついていると理解できた。


2017読了67
 『曲げないドイツ人 決めない日本人』(ネルケ無方 サンガ新書)

 ドイツ人禅僧の目から見た日独の文化の比較。書名はよくあるパターンであり、言い換えも一つの主題だ。つまり「決めるドイツ人 曲げる日本人」。ドイツ人の意志の強さ、日本人の柔軟性ととらえられる。印象的なのは「『がんばっている』はけなし言葉」だ。日本人には努力や経過が大切で、ドイツ人は結果が全てだ。


2017読了68
 『旅の窓』(沢木耕太郎   幻冬舎文庫)

旅の達人、エッセイの名手が雑誌連載した「感じる写真館」というページの集約。一葉の写真に文章が添えられる見開きスタイルだ。人物や風景の見事さを堪能し、行きの飛行機内で読了した。特に「視線」にこだわりを持っていて、想像力を掻き立てられる。形だけでも真似してみようと、旅の目的の一つになった。


2017読了69
 『チルドレン』(伊坂幸太郎  講談社文庫)

 再読。実は飛行機場面のある『フィッシュストーリー』と間違ってバッグに入れた。それでもこの頃の伊坂作品は好きなので、改めてその会話の妙を感心しながら読んだ。以前も書いたが、この連作短編集の偉大なる脇役「陣内」のキャラクターは大胆で破天荒で、そして壮快だ。こんなキャラなら海外でも無敵だ。

未練のピックアップ④

2017年06月21日 | 読書
 堅苦しく言えば「発達段階に応じた効果的な指導法」ということを、若い頃からずっと考えていた。

 発達学や心理の研修は興味深かった。

 手を伸ばせないままだったが、幼児教育の重要性はますます高まっていると感じている。



Volume57
 「ひとつのことを習得するにはどのくらいの努力をしなければ身につかないのかを、早い時期にひとつ知っておくのが大事。(略)習い事に限らず、大学で専攻したことすら仕事で使う人は少ないですから、将来何をするかにかかわらず、“出来るようになるレベルまで自分で到達する力”自体を身につけることが大切なんです。」


 糸井重里との共著『知ろうとすること。』を出版した物理学者早野龍吾が、なんとあの音楽教室スズキ・メソードの会長に就任した。
 インタビューで、自らのスズキ・メソード体験を語りながら、幼児教育についての考えを述べている。

 どんな教育機関、組織にあっても、述べられたようなことを目的として掲げているのではないか。
 では、なぜ、それが効果的に習得できるところと、あまりうまく進まないところがあるのか。

 おそらくは次の二つの差が大きいのではないか。
 一つは、対象者の可能性に対しての信頼度。
 もう一つは、言うまでもなく教育法(メソード)ということ。

 前者に関する見解は、特に「幼児期」教育の重要性と結びつくはずである。
 様々な媒体で取り上げられ、話題にはなっているが、今一つ進んでいない幼児教育への取組みは、「社会格差是正」への抜本的な切り札のように思えてならない。

未練のピックアップ③

2017年06月19日 | 読書
 作家平野啓一郎の書いた「私とは何か~個人から分人へ」という考えに関心を持った時期がある。
 それを、いわば「私」の横軸的な考えととらえると、縦軸的な考えもあるかなと思った。
 縦軸は個人で完結しない考えになり、それは大きく生き方に関わってくるだろう。



Volume56
 「子供は『私』なのだと僕はみなしています。子の私、孫の私、ひ孫の私と、私を渡しながら続いていくのが「私」。私を厳密ではなくアバウトに見て、子も私とみなそうという見方を持ち込んでいます。こういう『私』観が今こそ大切だと思うのです。」

 『ゾウの時間 ネズミの時間』で有名な生物学者本川達夫の言葉。
 生物の本質は「ずっと続く」ことと言い、子供を作るのは「体を定期的に更新する」システムだと考える。
 そう思えば、子供は「私」というみなし方もできるわけである。

 このような『私』観を持てば、将来の環境保護やこの国の赤字国債のことも、違った視点でとらえることができるかもしれない。
 オレが…ワタシが…ジブンが…そんな言い方は、結局その場限りの「私」だけであり、もっと広げ、アバウトにしていくことで、考え方は豊かになる。

 かの永六輔は「この地球上に命が生まれてから私はずっと生きている」という考え方をしたそうである。
 その意味がじいんと噛み締められる。

 「今、ここ」にいる私だけが、大事ではない。