すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

葉月晦日に噛み締める

2018年08月31日 | 雑記帳
8/26 今年も無事に大曲の花火を観ることができた。一時煙が流れず残念だったが、雨は降らず例年よりも過ごしやすく、また混雑もそこそこで楽な印象だった。写真は今年も上手く撮れなかった。この頃は、カメラを持つと良さを全身で受け止められないので減らしている。何より「眼福」を大事にするようにしたい。



8/27 9月目前なのに高温が続きやはりおかしい。しかし、松下幸之助はかつてこんなふうに語った。「私どもは商売柄(略)、毎年天候に左右されてきました。長い間、天候と付き合ってきましたが一度として同じ夏も、冬もございませんでした。それを異常と呼ぶなら、毎年異常ということです坦々と為せということか。


8/28毎度のことだがアナログ日記の書き忘れが続き、今日気づく。なんと半月!これは記録だ。14日からずっと…途中体調を崩した時もあったがすぐ復帰したのに…。そういえばと14日が金足農2回戦だったと思い出す。ちょっと勝利に浮かれたかな。応援短歌などに頭を使い、たぶん手書きはそれで十分だったからか。


8/29なんか凄い世の中だなあ。宿題代行の話題がメルカリで始まった時も驚いたが、それを文科省と企業がタイアップして禁止を明確化する文書を交わすのだから…。もちろん正しいことには違いないが、そんな形で防ぐこと自体、教育がもはや経済にがんじがらめにされている証拠だ。身の周りはそんなふうに動く。
「文部科学省『宿題代行』への対応について」↓
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/syukudai/


8/30今月じんと心に残った言葉は、山折哲雄が本町の盆踊り中継で語ったこと。「見せる盆踊り」とはかつて有名作家も口にしていたが、それとは別に盆踊り本来のあり方について言及した。それは「感じる盆踊り」。もちろん感じるのは聴衆ではなく踊り手である。かがり火を焚き精霊を送る時、私達の心はどこを向くべきか




なかみのある「なかみ」を…

2018年08月30日 | 読書
 この著には見覚えがあった。ブログに感想は残していないが、発刊された頃(99年)読んでいるはずだ。短歌作品集ではなく、言葉と歌に関するエッセイである。「ダンボの耳から」という前章は、当時の日本語の使い方などについて言語学者とはまた違う感性でとらえていることが新鮮だった。今読んでも納得できる。



2018読了83
 『言葉の虫めがね』(俵万智  角川書店)

 特に「彼氏とカレシ――どっちが本命?」は興味深い。アクセントの平板化が話題である。平板化はもう普通で、取り上げることが珍しいほどだ。当時典型だった「彼氏」や「かなり」という語は、アクセントによって使い分けられていた。語頭を強める言い方と平板化で使い分けする感覚は、若者からしか発しない。


 「パソコン通信」という言い方はもはや懐かしい。しかしコミュニケーション手段の進歩の位置づけとしては、かなり現在形に近づいた時点の話だ。ここでは「なかみ」と「そとみ」という考え方が提起される。人間同士のやりとりで、結局PC等で文字や画像を通して伝わるのは、「なかみ」ということを再認識する。


 画像から当然相手の顔かたちや声も知ることができるが、機器を通している意味では、真の実像ではない。「そとみ」のようで結局他者に伝わるのは虚実ない交ぜの「なかみ」と言ってよくないか。「書き言葉」主体の自分としては「日本語の、足腰が鍛えられなくては」に込められた著者の希いを、重く受け止めたい。


 後半は「言葉の味」と題された歌にまつわるエッセイ。万葉集から現代歌人の作品まで様々な切り口で語られる。歌集など読む機会が少ないので、歌人に対する興味を持つきっかけとなった。著者の師匠とも言うべき佐々木幸綱の歌が久々に心に響いた。「昨夜の酒残れる身体責めながらまるで人生のごときジョギング」。

あわいとあいだの間には

2018年08月29日 | 雑記帳
 久しぶり見た言葉「あわい」のことを書いたと思ったら、今読んでいる本に、また「あわい」を見つけてしまった。俵万智の短歌である。

 空の青海のあおさのそのサーフボードの君を見つめる


 若山牧水の有名な歌「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」の本歌取りとして作られたこの歌、「間」には「あわい」とふりがながつけられている

 この情景を想像すると、なんだか昨日書いた「あわい」のまた別の観点が見えてきた。

 サーフボードだけでなく、波の白い色も見えてくる作品と想うので、これは「空」と「海」が交じり合う、重なり合うような空間のイメージが出来るのである。
 読みも「あいだ」とするより「あわい」の方がしっくりくるのは、限定、固定されていない情景だからではないか。



 なんとなく「すきま」的な感覚で語った昨日の拙文から離れてしまうが、それもまた一興。
 すぱっと割り切れないのが日本人なんだよねえ、曖昧の魅力ということで締めようと思いながら、ふと中島みゆきの名曲の題名が頭をよぎる。

 「空と君のあいだに」

 一説には「犬の目線で描かれた」作品。それはそれとして、ここはやはり「あいだ」でなければ成立しない。
 「あわい」にある接近性、密着性を感じるものではないからだ。
 「あいだ」に込められる距離と拒否のイメージが湧いてくる。

 「空と君のあいだには 今日も冷たい雨が降る

 この歌詞だけの繰り返しにも理由がある。

 試しに「あわい」に替えて歌っても(笑)、ぴんとこない(しかも歌いづらい)。

 これは「あいだ」を強調する曲なのだ。お見事、中島みゆきとしか言いようがない。

 本当に、日本の女性歌人たちは最強だ。

私たちは「あわい」を生きる

2018年08月28日 | 雑記帳
 『図書』8月号の冒頭に「旅する兄妹」という対談が載っていた。原田宗典、原田マハの二人の作家で、どちらにも親しみはないが名は知っている。その話で久々に出逢ったと思う言葉があった。「フィクションとノンフィクションのあわい」。「あわい(あはひ)」という語は、苦手な古文の授業で目にしたのだと思い出す。


 対談中の言い換えとして「ちょうど間ぐらいのところ」「狭間みたいなところ」という表現がある。単純に「」で差し支えないが、新辞典を購入した手前、少し気になる。『現代新国語』は「(二つのものの)あいだ(古い言い方)」。『新明解』は「(東北から中国・四国地方までの方言)①境界(の地帯)②あいだ」とある。



 これでは何か物足りないと『日本語大辞典』を出してみた。「①あいだ・すきま②あいだから・交際」とある。少し範囲が広がっている。では、と電子辞書で調べると結構詳しい。広辞苑によると「①物と物、時と時のあいだ。すきま。」の他に、「衣装の配色や人間関係」「おり。都合。形勢」と、どんどん拡張している。


 もともと「あはひ」という古語で、その文例は豊富だ。現在の使用頻度は下がっているが、実に日本的な語ではないか。「色の取り合わせ、調和、配色」であれば、和装の着合わせや盆踊りの端縫い衣装にも当てはまるし、それ以上に日常生活の中で、私たちが大事にしかつ支配されがちなのも「あわい」ではないか。


 季節の移り変わりや一日の流れもそうだ。結構「あわい」と考えられることに目をつけている。仕事と家庭生活の切替も差はあるが、たいていの場合、時間的にも空間的にも「あわい」は生じている。大なり小なり「あわい」を上手くしっかり意識し、充実させることは大切だ。この世も、所詮「あわい」なのだし…。

「決める側」になる勉強不足

2018年08月27日 | 教育ノート
 ほぼ日「今日のダーリン」(8/27)で糸井は次のように書き出した。

 子どものころから、ちょっとずつ、
 家庭ででも学校ででもいいので、
 「決める側」になるという勉強をできたらいいよね。



 様々な場で生じる意見の違いを理解しつつ、限られた時間で解決するために、そうした場の経験を豊富にしたいということだろう。
 複雑でめんどうくさいことも多いけれど、物事を進めていくために「決める」ことが必須だし、それは直接携わらないと、なかなか身につかない。
 だからこんなふうに文章を締めくくったことも、納得できる。

 「少しゆずりあう」だとか「別の選択肢を探る」だとか、
 多少でも前に進む方向が見えやすくなるんじゃないかな。
 (略)
 学校の授業で、ディベートとかよりも、
 「決める側」になる練習をしたらいいのになぁ。


 ただ「本当にしていないのか」と首を傾げる気持ちも半分はある。

 学校現場ではずいぶんと意識していることではないか。それなのに…。
 そう考えるのは、やはり身内意識だろうか。

 どのような経緯で糸井の頭に、こんな想念が浮かんだかは知らない。
 しかし実際の場で物足りなさを感じ、その打開策を求めているのは確かだと思う。   
 やはり、学校での「練習」は量的に少なく、現実社会には反映しないのか。


 小さなエピソードを思い出す。

 新任教師時代の「学級会」への取組みを、このブログにあっさりだが記したことがある。

→「学級会への取り組み、表と裏」

 その後、名称が「学級活動」と変わっても、自分の関心は結構続いていた。
 学級会の司会・記録について「全員による輪番制」も取り組んだし、それがある時期から上からのお達しでも主流となる動きを見せて、非常に頼もしく感じていた。

 しかしある頃から、どうも現実の流れが少しずつ変わり始めたと意識するようになった。
 特別活動の研究会の機会はそんなにないのだが、ある時の全県規模の授業公開にはびっくりしたものだった。
 整然とした進行、用意されたシートの活用など、実にスムーズに運ぶが、そこには真の意味での「話し合い感」が少なかった。
 その事実は、お上からの指導が反映された結果とも言えるのだ。
 
 もちろん「決める」場はあった。司会・進行の子たちは(全員輪番制かどうかはわからないが)、経験できたに違いない。
 ただそこで力が養われたか、というと残念ながらそんなふうには見えなかった。


 学級会に割ける時間は、おそらくは減り続けているのが現状ではないか。

 そして、量が減らされるから、質に結びつく実践はきわめて困難になる。

 それでも外部は、質を要求するから、ますます見栄えのみが優先されてくる。

 と、悲観的なことばかり並べても仕方ない。

 「選択」は、今もって教育のキーワードの一つには違いないだろうし、学級会に限らず、教科指導の中でも「決める側」の経験を積めることは確かだ。

 ただ、その重要性を理解し、推進する意志を指導する側が持てるかどうかが鍵だ。
 現場の賢察と底力に期待したい。

スポーツをボーッと考えるな

2018年08月26日 | 読書
 金農の吉田投手の姿を見ながら、我が子や孫に「どうだ、ボクもピッチャーやってみないか」と声をかけた人は、全国でどのくらいいるだろう。不肖ながら、私もつい声に出してしまった。そして数日後に立ち寄った書店で、この背表紙を見つけ思わず手にした。単純に感動もするが、すぐそれを疑い始めるへそ曲がり。


2018読了82
 『子どもにスポーツをさせるな』(小林信也 中公新書ラクレ)


 著者は今もテレビ番組などで見かけるスポーツライター。10年ほど前に著された内容だが、主張は変わっていないだろう。当然ながらこの書名は額面通り受け取る形ではない。前書きに記しているように「子どもたちにスポーツに取り組ませることを問い直し、見つめ直す」ことを提言した本である。考えさせられた。



 オリンピック至上主義のような空気は日増しに強くなっている。この新書はまだ日本が2016年の候補地だった時期のことだが、それから震災がありその後の20年開催決定を経て、この国のスポーツが歩む道への警鐘とも言える。何のため、誰のための五輪かは常に問い続けねばならない。不祥事の連続が警告している。


 それらの「」は報道で大騒ぎになるレベルに留まらず、広く国内の様々な競技の内部に浸透している。この本でもサッカー、ゴルフ、水泳など例を出しながらその実状を示している。同時に真摯にスポーツに取り組み、目的を外さない個人や団体の動きも紹介され、その対照が際立つゆえか、さらに考えさせられる。


 子どもにスポーツさせる理由は一律ではない。しかし「好きになる」という目的は必須だ。そのために指導者がどんな姿勢を貫くかは決まっているのではないか。学校教育であれ、クラブスポーツであれ、選手養成であれ変わりはない気がする。要するに「」になること。世間の「お金」の絡みを注意深く視ること。

何故か無性に食べたくなるのは

2018年08月25日 | 雑記帳
 昨日の新聞に「チキンラーメン60年」という記事が出ていたが、実は今日25日が発売記念日である。数年前、横浜のラーメンミュージアムを訪ねた時は楽しかったし、日本人の目の付け所の素晴らしさに感じ入った。→『「食足世平」を貫いた人』。今さらながら、ラーメンは実にこの国の象徴的、典型的な食べ物だ。


 麺全般が好きなので、ラーメン食頻度はどうしても夏場は下がってしまう。しかも暑さの厳しかったこの夏だ。本当に数えるぐらいしか食べていない。カメラやスマホを見ても、残っているのはわずかにこの1枚ぐらいだ。これは、県内いや湯沢雄勝の方ならご承知のビジュアル。なぜか無性に食べたくなる日がある。



 ふと「無性」とは何かと思う。購入したての辞典で引いてみる。えっえっ、ない。待てよと目を移すと「むしょうに」の見出しで「むやみに。やたらに」という意味がある。「新明解」で引くと「無性」の見出しがある。「これといった原因・理由もないのに、その感覚が強まって抑えることができない様子」。なるほど。


 他の辞書で調べてみると結構これが深い。もともとは仏教語であり、「分別のない」「その行為・状態が前後の脈絡なく激しく行われること」という表記もある。広辞苑にはずばり「自制心がなくなり正体を失うさま」とある。まあ、ラーメンを食するにそこまでとは思うけれど…。実際、店に向かう時は気もそぞろである。


 ラーメンを無性に好きな国民という言い方は大方に支持される。ここで唐突に映画「タンポポ」を思い出す。興行的にはさほど成功しなかったが、米国での興行成績は邦画2位だと言う。30年以上前になるがあれほど、日本人とラーメンの関わりを多彩に描いた作品はない。書いていると無性にラーメンが食べたくなる。

辞典は想像のために読む

2018年08月24日 | 読書
 今や「辞書の神様の生まれ変わり」とも称される飯間さんの名を見つけ、思わず手を出してしまった。「無人島へ一冊だけ持っていく」としたら、たぶん大型辞書が最終候補に残ると思っている自分には面白くないわけがないだろう。国語辞典を「読む」コツが書かれている。「読む」とはいかに想像するか、だ。たぶん。


2018読了81
 『三省堂国語辞典のひみつ』(飯間浩明 新潮文庫)



 いわゆる『三国』の特徴を、「要するに何か、が分かる」ことだと宣言している。大事なことだ。辞典を引くとき、多くの場合にはそれが目的だからだ。同じ出版社の『新明解』と比較して、新明解は「にやり」、三国は「すとん」と表現している。新明解にお世話になっている自分が変化球好きと言われても仕方ないか。


 多くの人にすとんと落ちる表現とは、簡単なものではない。「国語辞典編纂者」の表面に出ない苦労話も載っていて、驚かされる。「語釈」を正確に端的に書くために、時には現物を分解したり、食べてみたり、時には一週間以上も専門分野(プログラミングなど)を勉強したり…。「語で分かる」とは何かを考えさせられた。


 『三国』の特徴は「新しい語に強い」。新語や流行語、また語の新しい使い方の流れが速くなっていることを誰しも感じる今、毎年の改訂がない辞書にとって、その選定は難しい作業だ。このあたりの見極めは興味深い。今年脚光浴びた「半端ない」も、実は90年代に発生し、2004年に定着している経緯も書かれていた。


 「ら抜き言葉」「全然」の使い方などよく指摘されるが、この点など非常に柔軟な対応をしている。「誤用」なのか「俗語」なのかを示すことは、語の歴史や他の語との関わりで判断される場合も大きい。語の「正しさ」とは一つでなく、使う人そのものに付随する気がする。幅広く受け止めるためには、知識が必要だ。


 それを支えるのはやはり辞書だと『三国』を探しに中古書店へ。残念ながらなかったが、『三省堂現代新国語辞典』(飯間氏も編者)が一冊あり960円で購入した。2011年刊定価2700円だった。本当に真新しく使った様子が全く見られず、注文カードまで挟まっている。想像の手伝いに加われなかった無念さを想う。

処暑の日に心理的避暑法

2018年08月23日 | 雑記帳
 「」には止む、とどまるの意味があるらしい。しかし今日は二十四節気の「処暑」であるのに、隣市では最高気温が38℃を超えた。そのギャップは毎年のことといえ、ここ数年ことさら大きく感ずる。「心頭滅却すれば火もまた涼し」…小学校の担任から言われた唯一(笑)覚えている、この詩文をしみじみ噛み締める時か。


 意味は「心の持ち方次第で何にでも耐えうる」とされる。「心頭滅却」だけで四字熟語にもなっている。つまり「心の動きを止めて、何も考えない、悟りの境地にいたること」。まあ、これを炎天下の公園でやろうものなら、まさに危ない。心頭だけではなく全身滅却というオチだろう。信長に焼き討ちされた僧のようだ。



 ところで「心頭滅却」と同義ではないが、ここ数年もてはやされている「マインドフルネス」という語がある。こちらは考えないではなく、心を今に向けること。高校野球などを観ていて、この頃ピンチの時の笑顔の頻度が増えたと感じるのは私だけではないだろう。きっとそういう手法が導入されているのだと思う。


 集中が要求される場面であえて弛緩的な要素を入れ、身体の動きが緊張に支配されないようにする意味を持つだろう。自分を「客観視」できることが求められている。そのために例えば「~~~と(私は)考えた」と呟くことが有効とされる。マウンドで「打たれるかもしれない、と私は考えた」と言ったら面白い。


 不安を持ったり、ネガティブ思考に陥ったりしたときの客観視の方法として、気持ちを「わざとゆっくりしゃべる」「歌にしてみる」「キャラクターの声で言う」なども考えられる。高校野球は終わったが、プロでも投手や打者がそんなことをしていると想像したら結構楽しい。処暑の日に、こんな心理的避暑もありか。

オガッタ、ヨカッタ、金足農

2018年08月22日 | 読書
 「雑草たちよ、甲子園でオガレ」と書いてから、ちょうど二週間。これほど甲子園を楽しませてもらったことはない。本県にとってはまさに金農フィーバーが沸き上がった夏だった。様々な視点から今回の躍進劇そして決勝は語られるだろう。自分なりの感謝を込めて、「キニナルキ」として記事から言葉を拾ってみた。


 「飼育するフナが待つ自宅に戻ると玄関をくぐる前、100に背番号の3を足した103回のスイングを欠かさなかった。」

 横浜戦で逆転3ランを放った高橋を取材した記事である。
 メンバーで唯一畜産を学ぶこの6番打者の存在感は、印象的な面構えと共に際立っていた。
 他者より多くノルマを課して練習する選手は多いだろう。
 しかし、たったこの3回に込める精神には何か、特別な力が籠るように感じた。



 「打席に向かう前、吉田にベンチで言われた。『このチャンスのために神様はノーヒットにしてたんだよ』。」

 横浜戦以上に劇的だった近江戦の2ランスクイズ。このバントを決めた9番齋藤は、それまで唯一の大会ノーヒットだった。
 その彼に、エースのかけたこの言葉の素晴らしさは、チームの強さを明らかに物語っているだろう。
 自分たちのしてきた練習を信じる気持ち、それが運を味方につけるという前向きな意志…ベンチにはその空気が流れているのだ。


 「練習してきたことで、試合に勝ちたい。」

 中泉監督は次の試合に向けて実に様々なことを語った。
 「全員野球」「最後まであきらめない」「金農スタイル」「強い気持ち」…そのどれも間違いなく選手たちに反映していると思う。
 しかし「練習してきたこと」というこの平凡な言葉のなかにこそ、それらが全て包括されるように思った。
 勝ちを決めた劇的な攻撃だけではなく、決勝戦での無念の投手交代であっても「練習してきたこと」だからこそ、出来たことなのだ。


 最後に、忘れられない数字として「25.9%」を挙げたい。
 
 ベスト8が出揃った時、yahooサイトで優勝予想アンケートを実施した。
 6万弱の参加、その結果に驚いた。
 大阪桐蔭25.9%は当然予想できたが、なっなんと同じ25.9%ととして(しかもわずかに票数が多い)金足農が挙がったのだ。

 結局その2校が決勝に残り、大衆の目の正しさが証明された。
 それと同時に大会決勝の持つ勝負の厳しさも知らされる。

 その現実を肥やしにして、雑草たちはもっとオガルに違いない。
 もっとオガッテ、できれば秋田のために活躍してね!