すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

綴ることが「相変わらず」を支える

2015年03月31日 | 雑記帳
 どんな一年間だったか。自分の部屋や仕事場の机周りは心の中を表しているという説がある。それに従えば、まさに「相変わらず」であった。職場が変わり、そこにある課題も半分程度は違う様相になった。なんとかやり繰りできたのは同僚や仲間たちの働きに頼ったことが大きい。その意味では「おかげさま」であった。


 「相変わらず」と「おかげさま」か。「相変わらず」で済んだことはある面で幸せだったとも言える。また自分なりに満足出来たこともあったに違いない。しかし、何か不十分な気持ちを抱えているからこそ、この評価になっているはずだ。その点をもっとえぐってみないと、結局一年後も「相変わらず」と言いそうだ。


 続けてきたこととして、広報活動や校内外の研修面でのリード、サポートなどは順調だった。地元在住だからこその視点が取り込めたかという点は物足りなかった。学校統合準備を言い訳にできないが、制約があったことは確かで、学校を取り巻く動的な環境への目配りをもっと事前にしておくべきだったのである。


 実現したいと思ったいくつかのことを、何故出来なかったか足踏みしたかを考えるとき、結局、従来までの慣習的なことに手をつけられなかったり、学校や教育界を取り巻く重い空気に押されたり…という総括になる。こうしたらどうか、別の手はないか…この思考をしたか。年々柔軟性に乏しくなるのは肉体だけではない。


 何一つ具体的な出来事を書けないままに「相変わらず」を見つめている。もちろん、具体的なことの多くはこのブログを通して語ってきた。数少ないが実践も研修企画も、そして私的な読書、日常茶飯事も…。綴ることが「相変わらず」の良質な部分を支えると信じ、進んでいきたい。具体的な点はこの後少しずつ書く。

鬼手も仏心も

2015年03月30日 | 雑記帳
 【鬼手仏心】(きしゅぶっしん)
 見た目は情け容赦がないようだが、実は相手のためを思う意向に発すること。外科医の、身体を切り開く残酷な手術と、それによって患者を救おうとする心のことなどにいう。
(日本国語大辞典)


 医師の書く連載で知った言葉である。
 外科医は使う道具を想うとまさにその通りなのかもしれない。

 では他の仕事ではどうだろう。
 表面上の厳しさと裏腹に慈愛に満ちた心の持ち主は、どの世界にもいるかもしれない。

 ただ時代は「鬼手」を求めなくなっている。
 まして「人」相手の仕事であれば、競技スポーツなどは別にして、激しさ自体が萎んでいるような気がする。

 「鬼手」と直接結びつけるのは危険かもしれないが、本来人間の持つ攻撃性は生身の相手が必要なわけで、それらが適度に発揮され、昇華されないと、突発的な危険は高まるのではないか。

 また「鬼手」も「仏心」も、きわめて主観的なことなのかなと考えがよぎる。
 イスラム国も、ドイツ旅客機の件であれ、個の中では「仏心」に近い感覚に満たされていたのかもしれない(これはなんでも言い過ぎかと思いつつ)、「鬼手」はそれに支配された手段だ。
 洗脳であれ病であれ、破壊的な出来事はそう映る一面を持ち合わせている。


 だんだんと大言壮語になりそうなので、日常に引きもどす。

 もし自分に「仏心」があるとするならば、「鬼手」の鬼の顔をどんなふうに見せるか…そういうことです。

箸を知らない恥

2015年03月29日 | 雑記帳
 「日本人なら『箸』を知れ」…こういうウイットに富んだ特集名は好きだなあ。読みたくなる。箸遣いには自信があまりない。先をいかに汚さずに使うかがそのポイントだと『美味しんぼ』で学んではいたが、育ちの貧弱さは消せない。この冬に居酒屋のカウンターで隣席から話しかけられた他県人からも鋭く指摘された。実際、そいつ!は嫌な男だったが…。


 話が脱線しそうだが、箸の話である。この特集で興味深かったことは、まず箸の語源。諸説があり、三つ紹介されている。「物の端」「食べ物と人間の口を結ぶ橋」「神霊の宿る小さな柱」である。「小さな柱」説は、もともと宿っているのではなく、使った神や人の魂が宿るとされている。そういう解釈は重々しいが、道具に込める日本人の心性とはマッチしている。


 「箸を横にして、自分の前に置くのはなぜか」という問い立ては、思いもしなかった。そういえば、洋食などのセッティングとは違う。中国や朝鮮も異なると書かれてあった。箸の専門家はこう答える。「箸が結界の役割をしているのです。」なるほど。箸が分け隔てる「自分」と「食べ物をつくり出した他」。食べることを「食事」と称する奥深さを感じさせる。


 大陸から渡ってきたモノ・コトが、独自に変化し発達して、比類なき文化になった例がいくつかある。箸も間違いなくその一つであろう。箸にまつわる諸事の多さ、塗箸、箸置きなど多彩な用途品…それらが象徴的だ。「箸の上げ下ろし」とは細かな一挙一動を表し「つまらない事」の意味に捉えられるが、実はあまりに深い。早くから学習してもいいことだ。

教育雑誌にある不易

2015年03月28日 | 雑記帳
 「学級づくり『最初の一週間』の仕事術」という特集は充実していた。福山憲市先生の「最初の一週間は、キーワード《揃う》で仕掛ける」は実に納得が入った。担任として学級づくりをどう意識するか明確であるし、具体例もわかりやすい。一週間の「しかけ」が構造化されている。「心の揃い」「頭の揃い」という太い幹からどんどん実践が枝を伸ばしている。


 この特集で各執筆者の共通の要素を拾い出すと、「見える化」がある。それ自体は多くの教室で意識されていることだろう。ただし肝心なのは「何の」見える化ということである。福山先生は、「成長」の見える化であった。菊池省三先生は「学んだこと」の見える化であった。単なる目標やスローガンではなく、具体的な事実をはっきりと心に残すという点なのだ。


 「キムテリョン流」と題され、清掃指導と給食指導についても特集が組まれている。内容には触れないが、大きく取り上げること自体、実に的を射ている。この二つがうまく行われている学級のレベルは、心ある教師であれば想像がつく。子どもたち自身がしっかり行うべき活動として、またその活動が他に対して役立つという感覚を備えているかどうかである。


 二瓶弘行先生の「国語教室づくりの極意」という新連載があった。書かれている内容はずっと以前から主張され、実践をくぐらせてきたことだ。あの教室を参観したときの感激も覚えている。子どもたちとの出会いの一言が「誰か、この詩を読みたい人はいませんか」であり、最終のゴールが40人の手がぴしっと挙がることに置かれていることは、実に明快だ。


 それにしても他の「小〇教育技術」と比較すると、異色な内容になっているこの学年誌。実に見どころがある。他の学年と差別化を図っているのか。これだと、逆に特定の学年の名称をつけなくともいい気がする。立ち読みして魅力的と思っても小1担任がこれはなかなか買えないかもしれない。「学年別教育誌」も不易だろうか、と編集の仕方には疑問が残る。

教育雑誌にある流行

2015年03月27日 | 雑記帳
 退勤後にいつも書店に立ち寄ったら、小学館の教育技術誌の4月号が並んでいた。いつものように『総合教育技術』誌を手にとる。「どの子も伸ばす『授業』のつくり方」という特集。なかみをぺらぺらっとめくっても、秋田がどうの福井がどうのと、正直いつも変わりばえのしないラインナップだ。付録も一年間の仕事見通しBookなるもの。新鮮味に欠ける。


 ふと隣に目を移すと、小1から小6までの教育技術誌が2~3冊ほどずつ並べられている。4月号は入荷数が多いと思いながら背表紙を見る。もちろん、いずれも4月を意識した特集である。「4月のお仕事パーフェクトガイド」「クラスを大きく伸ばす『4月の学級経営』」ちょっびり具体的なのは「学級づくり『最初の一週間』の仕事」…これは小四かと中身を開く。


 冒頭の特別対談が「金大竜×赤坂真二」である。現在の教育界では珍しくはない組み合わせだが、表紙の写真はおふざけモードだ。しかも、キャプションにはこうある。「この2人、売れないお笑いコンビではありません。」いやあ、これは今までなかったなあと思う。中身も、入りと締めはきちんと笑いをとるように出来ている。しかもうまい。こういう時代になった。


 この5ページの対談のあとのページにさらに驚かされる。「4月の先生のファッションノート」。ジャケットとシャツの組み合わせで印象がかわることを、スタイリストのコメントつきで紹介。モデルは教員歴3年目の男性。下欄には衣類の個別の値段があり、問い合わせ先も書かれてある。ごくふつうの商業月刊誌にありがちなスタイルである。見入ってしまう。


 めくっていくと「保護者の覆面座談会」という、読みたいような読みたくないようなページもある。なんと、これは連載だという。ここでは保護者会の持ち方について4人の母親が言いたい放題とまではいかないが、辛辣な意見を述べる。なぜかここも最後は「先生のファッションってどう思う」という話題が…。ママトークは「好感度」がキーワードだろう。


 だらだら書いたが、なぜ「小四教育技術」誌を取り上げたかは別の理由がある。他の5学年の編集とはかなり差があるようだった。表紙ページに「人」が多いことが特徴である。他学年誌でももちろん著名な方はいるのだが、いわゆる教育畑の実践者が圧倒的である。先の二人を始め、福山憲市、菊池省三、土作彰、さらに連載者として、二瓶弘行、横山浩之…


 中身は明日。

脳が歓ぶ、脳が苦しむ

2015年03月26日 | 読書
 【2015読了】31冊目 ★★
 『すべては脳からはじまる』(茂木健一郎 中公新書ラクレ)

 久しぶりの茂木本。
 なんだか、するうっと読めた。
 NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」でキャスターをしていた頃の著である。もう10年近くなるのだなあと、なぜかしみじみ。

 雑誌等の連載エッセーをまとめてあり、さすがに売れっ子らしく調理の仕方が上手だなあと思う。脳科学のエッセンスをスパイスに使って、世相や社会事象、そして自分の日常の瑣末な出来事まで、うまく収めてあるなあという印象を持つ。
 脳科学者なりの、文章テクニックがあるような気がするが…。


 さて、今まで考えてもみなかった知識を拾っておこう。
 まず、給食などでもたまに話題になる「好きなものから食べるか、好きなものは最後にとっておくか」に関連すること。
 筆者は、寿司屋でウニ、イクラが好きだけれど、その寿司ネタはとっておくタイプだと言う。
 この場合の脳の活動について、こんなふうに書いていて納得した。

 ウニ、イクラを食べるということもうれしいが、「そのうちウニ、イクラを食べられる」ことがほぼ確実にわかっているという予期自体がうれしいのである。
 脳の中で、やがて確実に来る歓びを予期するということのうれしさは、その実現を先延ばしにすればするほど長続きする。



 言われてみればもっともなことだ。
 ふと、今の世の中、そういう考え方をする子、しない子を単なるタイプが違うとそのままにしておいていいものか、と考える。
 つまりは「待つ歓び」は、もしかしたらもっと意識的に訓練する必要があるのではないか。
 回転すしの流行から普及は、そんな考えを吹き飛ばしてしまうか。
 「なんでも好きなものから食べなさい」…そうした太っ腹は、こらえ性のない子、いや待つ歓びを知らない子に育てる。

 ギャップイヤーの話、遊びと脳の活性化についても実に興味深かった。

 そして最終章の「応用編 ネット社会の新たな『階層』」には深く考えさせられた。

 著者はこんなふうに表現している。

 現代は、端的に言えば「システムの一人勝ち」の時代ではないかと思う。インターネット上に出現する、すべての人間の活動を包括的に含むような「プラットフォーム」を提供するシステムが一人勝ちする時代なのである。

 「階層」を、人と人ではなく、システムと個人で考えているところが、新鮮に思えた。
 もちろんシステムは人がつくるものであり、そこに人はいるが見事にその姿は希薄だ。

 インターネットから離れて、日常の仕事に当てはめてみても、システム化が図られることよって、個のアイデア、ユニークさが邪魔になっていく例は数多くある。
 この状態が階層をなしているのだとすれば、これはかなり殺伐とした風景なのだろうと、もう一度自分に言い聞かせてみた。

期待外れの脚本家ドラマ

2015年03月25日 | 雑記帳
 シーズン変わり目恒例の連続ドラマ回顧をしてみる。今回は結構多く視た。しかし、これはっという作品があったかと言われれば、ううむ、というところだ。今回多かったのは、どれも脚本陣が充実していたからだ。フジ「デート」の古沢良太、日テレ「○○妻」の遊川和彦、フジ「問題のあるレストラン」の坂元裕二、このあたりは見逃せないラインナップだ。


 これに、以前から見ていたシリーズものが加わる。NHKBS「雲霧仁左衛門」、テレ朝「DOCTORS3 最強の名医」。さらにどういうわけか、フジ「ゴーストライター」、一週遅れ放送のTBS「流星ワゴン」が加わっている。早寝の自分としてはとても見られるものではなく、ほとんど録画して休みの日にまとめ視である。従って「相棒」などは録画のままだ。


 脚本家で見たものは一定レベルにはなっている気がする。しかし、傑作とされる「リーガル・ハイ」や「家政婦のミタ」「最高の離婚」などには到底及ばない。キャストや演出のせいとは言えないかもしれない。セリフや動きをぼんやり見ているだけで、あまりに過剰だったり、短絡的だったり、うまくつながっていない面があったり、でこぼこしている感じか。


 シリーズもの二つはまずまず安心して見られた感じだ。「流星ワゴン」は期待してみた。重松清の原作は面白かった記憶がある。比較はできないが、役者陣のあまりの過剰な言い回しやキャラクターづけがくどく、到底成功したとは思えない。「半沢」あたりを意図したつくりだろうか。しかし、強い決め文句にはストーリーの下地が必要だ。そこが微妙にずれた。


 まあ口直し?に今週末は「相棒」の何話か分を必ず見よう。

持ち重りのする自分

2015年03月24日 | 雑記帳
 【持重】(もちおもり)

 初めはさほど感じないのに持っているうちに次第にその重さを感じるようになること。持っているうちに疲れて重く感じること。
(日本国語大辞典)


 「持つ」ということは、何かを維持する、保つことであるから、そこには力の持続が必要であり、重く感ずるようになるのは必然だ。
 それが感じないのであれば、持っているモノやコトに、重さを感じさせない魅力がある、または自分に適合しているということが考えられる。幸せな状態だ。

 しかし一方では、「持ち重り」によって鍛えられる精神や能力があるかもしれない。
 急激ではないけれど、じわりじわりとした負荷に対する耐性のようなものか。
 
 あっ重くなってきた、やあめよっ!なんてことの繰り返しでは、うまく進まない。
 こうした例が続く場合、重くなってくるのは、きっと自分自身の存在だ。

 持ち重りがしたならば、どうにかして紛らわす、重い感じを前向きに転化させる…そういう工夫がないと、どこまでも自分が重くなる。

昭和の教師が去っていく

2015年03月23日 | 雑記帳
 若い頃お世話になった方が、先週相次いで逝去なされた。

 M先生とは直接同職することはなかったが、無くなった父親と同期ということで、いつも声をかけていただいた。
 理科が専門で特に地域の自然保護に関しては、著名であった。
 教員を退職されてからも自然関係のボランティアをなさっていた。

 昔務めていた学校の、校門近くにあった巨大な石(岩と呼んだ方がいいか)は、F先生が中心になって鳥海山から運んできたというエピソードを聞いたことがある。
 アウトドア派の先駆けのような先生であったと、懐かしく思い出す。
 私が若い頃買った車で履いていたスパイクタイヤのお古を、親類経由でM先生が履いているということを聞き、そのアクティブさに驚かされたこともある。


 T先生とは、今務めている学校で20年前に2年間、机を並べた。
 苦労人という形容がぴったりする先生で、当時は教頭として本当に職員への気遣いをなされていた。
 私が主任としてぐいぐいタイプの頃だったので、助けられた職員は多いはずだ。

 理不尽なことについては明確に主張なさる方であり、幾度か自分もたしなめられた記憶がある。
 専門である社会科を通じて学んできたことは、まさに地域の歴史と民主主義そのものではなかったか。
 酒はあまり強くなかったようだが、自分が酒席で初めて記憶を失った時に抱えられたのが、あの細身のI先生だったことを、葬儀の席でふと思い出した。


 お二人は80代後半と70代後半であった。
 教師としての全部また大半を「昭和」で過ごした。
 現役世代とは明らかに違う要素があると思う。

 それが何かは、明確に言語化はできないが、時代と対峙してきたというイメージが強く浮かんでくる。
 昭和の熱さ、苦しさ、疾走感のある空気の中で立ち上がってくるような姿だ。
 それは自らを振り返ったときの希薄さと、まさに対照的だ。

 昭和の教師たちがぽつりぽつりと去っていく。

 合掌。

『下流志向』を再読する

2015年03月22日 | 読書
 【2015読了】30冊目 ★★★
 『下流志向』(内田 樹 講談社文庫)

 中古文庫本を買って再読してみた。
 書棚にあるはずの単行本は2007年発刊なので、およそ9年ぶり。
 その時の読み取りとしては3割ほどだったような気がする。
 読み直して、その倍ぐらいにはなっているかなという感覚である。
 これは別に能力が上がったのではなく、この本で触れられている事象がより身近になったということではなかろうか。
 以前は、わずかな感想しか残していない。

 今読むと、傍観的、楽観的だった自分が浮かび上がる。
 それゆえ、ろくな仕事も出来なかったということか。

 今回は第一章から繰り返し述べられる「自己決定」に関する点が、とてもよく響いてくる。それはきっと自分が知らず知らずのうちに染まっていた思考が指摘されたからだろう。
 読み直している途中にふと気づいて、予定していた修了式の挨拶の一部を変えることができたのは、わずかに救いか。

 教育の中に「選択」というキーワードが入ってきて、さらに「めあて」掲示の強調が浸透し始めてから、もうかなりの年月が経つ。
 改めて次の言葉に立ち止まり、普通になっている感覚を、どのレベルで疑ってみるか。これこそをまず自分に課してみたい。

 自分が何を学んでいるのか知らず、その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそが学びを動機づけているのです。


 本来、学びがそのように構造化されているとすれば、今私達が進めている授業のあり方には疑わなくてはいけないことが、たくさんある。
 それは、自らの仕事や研修についても言えるはずで、その部分で学びのプロセスを実感できていなければ、かなり困難になると言っていいかもしれない。
 そう考えると、学校を覆う実情は厳しい。

 もう一つ、この本にある内容で、教師の資質について、大きく頷けることがあった。

 親の仕事というのは、本来子どもの発信するノイズをシグナルに変換することだと思うんです。


 ノイズをシグナルに…これはまさに教師にもぴったり当てはまらないか。
 社会的にはノイズに振り分けられるものも、対象をしっかりとらえている者が聴けば、それはシグナルになる。
 伝えることに関して「わかりやすさ」を求めることは当たり前だけれど、そのルートだけ求めていてはひどく一面的であろう。
 「わかること」の領域を広げていくために、教師に必要なことを、次の比喩は明確に示している。

 「可聴音域を広げる」
 「チューニング能力を高める」