すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

長月、長く続けば

2019年09月30日 | 雑記帳
 数日書き忘れることもしばしばあるが、直筆の日録も続けている。九月分をぺらっと見直す。今月は休日が多かったが、結構慌ただしく過ごした一ヶ月だった。仕事では読書紹介文コンクール関係に時間を費やした。先日の審査会まで八百を超す全作品に一応目を通した。文章だけとはいえ、9年間の変容とは凄い。


 ボランティアで小学校へは二度、高校へ一度、さらに県南中学生弁論大会に一度足を運んだ。この程度であればそこそこ心構えは出来るし、刺激になっている。人前に立つ緊張の場があることをプラスにできればと思う。何より対象者にとって役立つことを提示すると同時に、自分へのお裾分けの部分を大事にしたい。


 休日に時間を割いたのはビデオ編集である。金曜の打ち合わせで完成目途を立てることが出来た。昨年度より迷いが多く、複数パターンを作ってみたが、やればやるほど迷いも増す。クリエーター気分に浸るような格好いいものではなく、風呂や寝床でもつい頭に浮かび、悩ませる。後は最終仕上げのみ。解放される


 夜中に目覚めるのは慣れっこで体調面は相変わらずダマシダマシである。でも食べ物も飲み物も美味しくいただけているので良しであろう。例年に比べて、冷えた朝が突然来て秋の訪れを感じさせた。里山散歩はまだ一度きり。もう少しアクティブに動きたい。何か収穫や感動があってのBeerの美味さを求めたい。


 9月30日は初孫2歳の誕生日。平日は我が家の主人公であり、寄り添えば様々な発見、驚きを与えてくれる存在になっている。下の娘の子も三ヶ月を過ぎ成長が著しい。楽しみが増えた。と、実は私達夫婦の結婚記念日でもある。数えると35年が過ぎた。調べたら「珊瑚婚」というらしい。…ただの語呂合わせか(笑)。

赤ペン持って読み取れ

2019年09月29日 | 雑記帳
 この職場になってから初めての避難訓練というか自衛消防訓練を行った。非常時の機器、設備等への慣れは肝心ではあるが、つい後回しになりがちなので、こうした機会にこそじっくり学び、確かめる必要がある。学校現場でも同様だった。要は「いざ」という時に動けること。そのためには、心理的な要素が大きい。


 どうしても忘れられないのは3.11のとき、こんなふうに日録的なことを書く習慣があるので、残しておいたメモを見返すこともできる。それにしても人間とは慣れる動物である。あの時に心に決めた備蓄、非常時のための準備物など、かなり心許なくなってくる。車のガソリンや電気以外の燃料確保等も、ついつい等閑になり、「平常時は続く」という思い込みをまた大きくしているのではないか。


 3.11の余震が続くなか間近に迫った卒業式をどう進めていくか、あれほど様々なパターンを想定して組み立てたことはなかった。授業時の子どもの予想反応への働きかけを考える以上に悩んだように思う。一瞬の判断が生死を分けたという重い事実があるので、軽々しく口にできないが、瞬発力が大きなカギになる。


 それはどんなふうに養われるものか。おそらくは場を踏むということに尽きるだろう。ただ危機管理的事態に関しては、誰しも実際に起こることを期待してはいないので、いかにシュミレーションするか、もしくは修行をするか…いや下手な計画立てより、具体的に使える内容を学べ!ともう一度「非常用」を見つめる。


 するといくつか気づかされる。非常時のマニュアルとは、いわゆる手順を示しているが、その通りにならない不測事態が必ず発生する。思い込みや四角四面的な考えが引き起こすものだ。それを防ぐには局面理解要点把握が必要だ。マニュアルの本質は赤ペンを持って読み取ること。それが瞬発力の発揮につながる。

「いま」の反対語考える今

2019年09月28日 | 読書
 こんな歌を作り書き留めたことがある。

 「いま」と言うときにはもはや今はなく「いま」という音取り残される

 「いま」とはいつのことを指すのか…哲学的な問いなのかどうかもわからないが、何か書いてありそうな、読みやすい(笑)一冊を手に取った。


2019読了88
 『まんが 哲学入門』(森岡正博+寺田にゃんこふ  講談社現代新書)



 いくら漫画と言っても、やはり難しかった。
 ただ「いま」に関する、思ってもみなかったが、魅力的な問答があった。

 「いま」の反対語は何でしょう?


 世界中の何人がこの問いに答えられるのか。
 哲学者だからこそ、導きだせるのだろう。著者はこう記す。

 「いま」の反対語は、「ものごとが生じ、変化し、消え去り、一度消え去ったものはもう二度と戻ってこないということ」です。

 
 反対語から「いま」を意味づけると、常に流れ去るものごとに対して、不変のままに残り続ける土台のようなものと言えよう。

 いくら文字や音で「いま」を表現しようと、それらが今を決定的に表しているわけではない。もはや、遅いのである。

 だから、冒頭の拙い歌を推敲すれば、こうなるか。

 「いま」と言うときにはもはや今はなく「いま」の音消え今があるのみ


 この新書は「時間論」「存在論」「『私』とは」「生命論」の四章と、哲学書の読書案内で構成されている。
 四章までは、文字だけで説明されるより、はるかにわかりやすい(気がする)。
 けれど、圧倒的にわからない部分だらけだ。

 ただキーワードになる語を覚えておくことは、まんざら無駄ではない気がした。
 いつか、浮かんできたら、それも嬉しいことではないか。

 「いまの土俵」 「詩的言語」 「誕生肯定」

紙芝居をやるぜぇぃ

2019年09月26日 | 雑記帳
 中学校での飛び込み授業の経験はあるが、高校生相手は記憶がない。今回は「読み聞かせ」について若干の説明と実技披露、それに生徒たちのグループ指導が役割である。3名で一緒にということなので気楽と言えば気楽である。分担として「では紙芝居を」と簡単に言ったが、考えてみれば「保育」の授業なのである。


 自分がいくらか積み重ねた紙芝居披露もしくは指導実践とは同じではないと、期日が迫ってから気づく。保育として幼児を対象として行うわけだから…。実技指導は絵本が中心だが、バリエーションとして紙芝居もあるという位置づけだと思う。しかし、そのあたりの基礎的な知識、留意事項等ははっきりさせたい。


 そもそも「絵本」と「紙芝居」の違いとは何か。通常、絵本は絵と文によって構成されている。ある説によると「絵本では、絵で表現できることは文で表現しない」という原則があるとかないとか。絵と文(ことば)の相互作用ということになる。その点紙芝居は絵を見せるもので、文は読み手の声によって表現される。


 紙芝居とは文字通り「芝居」なのである。そう考えると音声表現上の工夫がより求められる。物語が原作のものはもちろん、説話や落語などまであるから、内容が伝わるような脚色が必要だ。この観点で保育の場で活用を考えると…おそらく「参加型」と言われる脚本が多いから、ああ結局パフォーマンスかあと思う。


 紙芝居は対象人数を考えると、絵本より多くの子を相手にできる。また年齢が異なっていてもフォローできる。絵本の場が「動」も「静」(寝かしつけるときなど)もあるとすれば、圧倒的に「動」である率が高いようだ。その意味ではテンション勝負か。高校生の醒めたような笑い顔が想像できる…負けてなるものか(笑)。

着地の美しさと満足感

2019年09月24日 | 読書
 運動神経はなかったけれど、小学生の頃に水泳と跳び箱は人並にできていた。

 特に跳び箱(当時は台形型だけでなく、長方形型のものもあった)の最高8段を挑み、越した快感は今でも覚えている。

 自分が教える立場になろうと思った頃(大学の授業だと思う)、初めて美しさということを意識し始めた。
 跳び箱であれば、助走、踏み切り、跳躍姿勢、そして着地。
 器械運動の特性ともいえるのだろうが、特に着地が決まると、何より収まりがよく思えた。


Volume.178
 「若い人のように指は動かないし、僕の跳び箱の高さはすごく低いんだけれど、でも着地の美しさにだけは自信があります。」


 ポップスからジャズへと転身したミュージシャン大江千里が、インタビューで答えた言葉である。
 47歳でそれまでの活動を中止し、単身渡米してジャズを学び始めたという。

 もちろんハードルは高く、簡単に成功を収めることはできないわけだが、培ってきたポップスのキャリアが、ジャズを学び表現し始めることに深みや広がりを与えてくれているようだ。


 「着地の美しさ」とはもちろん技術的な要素と言っていい。
 しかし、それ以上に「柔らかさ」の表現であるような気がする。
 また、その動きに対する満足感が強く表れるポイントでもある。

 一連の動作を満足して終えられれば、また次の一歩も自信を持ちながら踏み出せる。

目がショボショボ、秋読書

2019年09月23日 | 読書
 夏終盤あたりから、少し読書ペースが落ちてきたかな。
 目標を持って読書しているわけではないが、体調のバロメーター的な一部になっている気がする。

 目がショボショボというのもあるか。
 しかし、そのせいなのか、見えてくる箇所が以前と違っているのもまた楽しい。


2019読了86
 『架空の球を追う』(森 絵都  文春文庫)


 再読。読んだ後に以前のメモを読み返してみたら、少し印象が違う。今回圧倒的に心に迫ってきたのは最終話「彼らが失ったものと失わなかったもの」。わずか7ページの掌編である。
 
 スペインの空港で買ったばかりのワインが粗悪な箱から落ちてしまった英国人夫婦の様子を描いている。わずか十分間の出来事に人生の大事な要素が詰まっている、とあれこれ書き連ねたい自分の気持ちが陳腐に感じるほどの鮮やかさがある。
「最後まで一言も発することなく」人が向かう場には、煌きがある。


2019読了87
 『悩むことはない』(金子兜太  文春文庫)

 昨年没した俳句界の重鎮。句に馴染みがあるわけではないが、何冊かエッセイは読んでいる。激しさと淡々さが同居している人だなといつも感じる。
 今回、心に残ったのは「『即物的』は東洋的で、欧米的なものの考え方は『対物的』」という箇所。
 かつてはよく言われた考え方だそうだ。俳句はまさしく即物的な文芸だ。それ以上に考え方としてこの二つの比較は興味深い。

 現実世界は、明らかに対物的な思考が拡大しているのではないか。
 どんなふうに生きるかと大きく関わっていると気づく。

ボーッとしてネット散歩

2019年09月22日 | 雑記帳
 10日ほど前だったか、北海道の堀裕嗣さんがFBにこんな文章をアップしていた。

 危機管理は「危機管理」自体よりはどうしても「アリバイづくり」に近づいていくものだ。それが学校を疲弊させてる。無駄とは言わないけれど、ほんのちょっとズレてる。1度、2度のズレも時間がたてば大きなズレになっていく。


 今さらながらそうだよなと思いつつ、そのさなかに居る者はだんだん見えなくなる、鈍感になっていくことも承知している。
 打開策な簡単に出せないが、一つは、ボンヤリする時間を持って俯瞰的な思考を失わないことだ。


 こんな記事を見て、共感した。

 「ボーっとして、何が悪い?」
 何事にも100%出し切ってしまうと、次への意欲は湧いてこない



 「働き方改革」と名づけられて、逆に休みまで管理されているような感覚も強まっていくようじゃ困るなあ。


 その記事を読んでいたら、興味深い話題があり、そのサイトにとび読み入った。

 衝撃の自由研究! 
 小学生による「宿題をさいごの日まで残しておいた時の家族と自分の反応」


 面白かった。
 こんな子がいて、見守る者がいるなら、まだまだやれるぞ、という気もしてきた。

楽日前の秋場所総括

2019年09月21日 | 雑記帳
 チケットが取れれば国技館へと思っていたが、見事に外れ続けやや悔しい思いでTV観戦した場所である。

 思えば前場所の名古屋は、千秋楽に横綱同士が力のこもった熱戦を繰り広げ決着したのだった。最近では珍しい展開と言える。だから早々に二人の横綱が休場しても「またか」と思ったし、やはり興味は貴景勝の大関復帰、カド番の大関の行方が主になった。


 炎鵬人気が盛り上がった。前場所より技が冴え楽しませてもらったから当然だ。しかし中盤から疲れを感じさせ、体格の重要性が重く圧し掛かっている。まただからこそ、勝利時の喝采も大きくなる。怪我だけしないで取り続けてほしいと願う人は多いだろう。


 その点で言えば、嘉風の引退は実に寂しい。ここ数場所、いわゆる古参力士が続けて土俵を去る。いずれも個性的で応援しがいがあった。家では「ヨッシー」と勝手に名づけて見入っていた。あの闘争心あふれる取り口を継いでくれる者がぜひ出てきてほしい。


 勝負とは関係なしに(そうでもないか)、行司についても話題があった。復帰した玉司郎が自分でつまずいて流血するし、立行司の伊之助は「待った」連発で物議を醸しだす。力士だけでなく、大相撲を成立させる様々な者が背負っている文化も貴重だと思う。


 さて、明日の見どころは優勝争いに尽きる。贔屓はいるが、三敗力士の誰に決まっておかしくない。。相撲を見続け、やや詳しくなればなるほど、技術と心理、二つの要素の絡みが面白く思えてくる。一瞬の動き、仕掛けに魅せられる。

他者の他者であること

2019年09月20日 | 読書
 「からだのじぶん」と「こころのじぶん」がどうにも一致しなくなった、と思うのは齢をとると誰しも同じだろうか。いや、そもそもそんなふうに分けることの無意味さはわかっているのだが、どうにも別々であると思い込みたいのか。老化の一つの典型なのだろう。それにしても「じぶん」はいつも悩ませてくれる。


2019読了85
『じぶん・この不思議な存在』(鷲田清一  講談社現代新書)



 このロングセラー新書は間違いなく名著に数えられるはずだ。五年前に初読した時も90年代の発刊と感じさせないほど、問題意識にフィットしていた。それはきっと、自分の中で頻繁に湧き上がってきた問いだから、と言えるだろう。そう結論づけたときに、このプロローグの結びの文章の意味はとてつもなく重い。

「わたしはだれ?」という問いは、たぶん<わたし>の存在が衰弱したときにはじめてきわ立ってくる。ということは、ここで、<わたし>の意味というより、<わたし>が衰弱している事実とその意味をこそ問うべきではないのだろうか。


 いつ頃からか、たぶん小学校高学年か。「じぶんを変えたい」と思うようになったのは。そのうち思春期を迎え、「わたしはだれ?」と幾度となく問いを向けたので、衰弱しっぱなしだったのだろうか。問いはきっと何かに夢中であったときや必死に駆けていたときは現れないから、何事も長続きしなかったのだなと思う。


 若い時分の繰り言を重ねてもしようもない。今を生きる糧とするために、言葉を拾ってみよう。この著の一つの結論は、第四章のタイトル「他者の他者であるということ」と言えるだろう。「わたしは『なに』」を問うより「わたしは『だれ』」を問うべきなのだ。つまり「だれにとっての特定の他者でありえているか」だ。


 そこを起点とすると、家庭、職業、地域等々に持つ「役割」を越えた意味を考えねばならない。つまり代替可能でない固有の存在として成立しているか。極端な仮定を立ててみないと、見えにくい問いだろう。ただ言えるのは、言葉以上に身体で受けとめる感覚が、よりかけがえないものと言えるのは確かなようだ。

驚きを力にし…

2019年09月19日 | 雑記帳
 「驚く力」が幸福の一つの源になるという説を聞いたことがある(ようなないような…勝手に作りだした論か!)。なんでもありの世の中で、ちょっとやそっとでは驚かなくなっている傾向は自分にもあるが、時々そんな鈍感さが嘆かわしくなる。驚く、面白がる、なぜと考える、働きかける…目減りさせてはいけない。


 連休を利用して隣県の温泉へ。以前から見たいと思っていた紫波町の図書館へ立ち寄る。複合施設内に設けたことは知っていたので、ある程度は予想していたが、広場あり産直ありで羨ましかった。驚いたのは、図書館とドア一枚隔てたホール内で、アームレスリング大会が開かれていたこと。頭も身体も鍛えられる。


 温泉からの帰路。高速に向かわず久々に国道46号線を通る。途中、そう言えばと思い出したのは角館にあるそば屋。我が町の某店に修業しにきてから開店したと聞いた。なんと住職が本業?らしい。興味が湧いたので立ち寄ってみた。ここはシンプルに冷がけと思ったが「かぼすそば」というメニューを発見。驚いた。



 図書館横のアームレスリングも、冷えた蕎麦にカボスをのせるのも、いわば組み合わせの妙である。意外性が面白さを生むのは当然としても、それがどう成立し、どう発展していくかを考えることが大切である。それは「驚きを力に」変えていくことでもある。その流れは、きっと歴史を作ってきたのではないかと…。


 連休明けの火曜日。読み聞かせで出向いた山間部の小学校で、『豆しば』を明るく「ねえ、知ってる」と読み始めたとたんに、外でバァァンという激しい音。先生も子どもたちも平然としているので、えっと驚き、何ですかと訊くと「熊よけ」とのこと。20分ほどの間に三発も鳴った。熊には驚きを力にしてほしくない。