すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

芽も、根も、見つめる

2006年06月30日 | 教育ノート
数日前に書いたことを煮つめながら、親向けに文章化してみた。
初等教育の場では一面的な見方に陥らないことを常に意識したい。



 サッカーワールドカップの「反省」がやけに目立つ最近の報道ですが、なかには見過ごせない記事もあります。「日本チームの敗北はフォワードの責任」ということは納得がいきますが、フォワードが育たないのは日本の国民性、そしてそれは教育のせいだ、という論調になっている内容もあります。分析は結構ですが、だからどうするとなれば、それはけして単純なことではありません。
 
 積極的で、間違いを怖れず、失敗しても何度でも挑戦する…そうした力は素晴らしいものですし、これからの国際化、情報化の時代には身につけてほしいことです。と同時に、思慮深さや慎み、熟考したり瀬戸際で踏ん張ったりすることもとても大事な資質・能力であるはずです。生まれ育った環境による違いもでてくるでしょう。何を伸ばすかは、適性とも言えるし、バランスの問題とも言える気がします。

 私たちはフォワードだけを育てる教育をしているわけではありません。世の中にはディフェンダーもキーパーも必要です。一人一人の芽が、何に向いているのか折々にしっかりと見つめてやりたいものです。もちろん、小学生の段階でそれを決めつける必要はなく、肝心なのは将来の大きな成長のために「根」を深く広くはれるように、適切な条件を整備してやることでしょう。そのために今欲しいもの、逆にいらないもの、その見極めが今大人に求められるはずです。

 担任と子供たちとの個人面談が始まっています。普段の会話も大事ですが、改まって話してみてわかることも結構あります。一人一人の根を見つめられる時間になれば、と思います。(6/28)

成就感と有能感と…その2

2006年06月28日 | 教育ノート
書き続けているうちに、少しずれてきたようにも思ったが
結局、今の仕事に近づいていったように感じたので、そのまま続けてみた。



前回、正しく自己評価できない若者たちが増えているというようなことを書きました。
では、この現象と私たちの仕事がどう結びつくか、です。『他人を見下す若者たち』という本の中には、次のようなことも書かれていました。

◇誰の通知表もかなり好意的な評価が記される傾向の中で、自分が何が得意で何が不得意かと、その通知表だけを見て答えることは、子どもにとって意外とむずかしいことなのかもしれない。P69
◇最近の小・中学校における観点別絶対評価は、ある意味では、ここで言う「誰もが並み以上の感覚」を助長しているのかもしれない。~略~ 新しい評価は本人の明確な長所はわかりづらいが、何となく自分は並み以上という感覚を持ちやすいと思われる。P104

 言われてみればなるほどと思います。絶対評価は個の可能性を引き出すために考えられた形でしょうが、実際の運用において「柔らかな評価」が主流になり、結果、個の長所や弱点は際立たなくなったということでしょうか。「よさ」といい続けてきたことが逆に「よさ」を見えなくしてしまっている皮肉な現象と言えそうです。ではどうすればいいか、を考えたとき、(制度的なことを抜きにして)、結局は日常の言葉による働きかけを強めていくしかないでしょう。

 小規模校の児童は、対教師との交流、対外行事参加などの面で大きなメリットを持っています。人数が少ない分だけ話しかけられる頻度は高いはずです。またやる気さえあれば、各種大会など(もしかしたらあまりやる気がなくても)参加、出場、応募できる環境にあります。ここでもたくさんの目や手をかけられます。しかし、だから本当に子どもの心により多くの言葉が届いているのか、と自問してみたとき、小規模だから有利と断定はできない気がします。

 自分も含めてとかく教師は「この子はこういう子」という決めつけをしがちです。子ども自身も環境が限定されれば「自分はこうだ」と思い込む可能性も高くなりがちです。そうした隘路がある中で子どもを深く知り、「その子のよさ」を心に響く形で伝えるのは結構難しいことかもしれません。(無意識的にそうした言動をしている場合はあります。そしてまた、その逆もありですね) 6/26

当たり前の環境から離れてみても

2006年06月27日 | 教育ノート
便利さに鈍感になってはいけないと思う。時々昔のことを思い返してみるようなことも必要だ。
ロハスという考え方にも興味があって、それにも少し触れながら書いてみた。



 先週行われたコスモスラインの苗植え作業には、T電力の方々が例年通りに作業協力してくださいました。開会式での代表者の挨拶に「電力の安定供給」という話題がありました。仮に事故等があっても短時間で復旧できる体制が整っていることは、私たちにとって本当に有難いものだと思います。しかし逆に、それが当たり前になり過ぎている環境についても少し考えてしまいました。

 数年前務めていた地域で、ある時、1時間を越える長い停電になった夜がありました。その翌日、ある子の日記に、その停電によって起こった様々な出来事がいきいきと書かれていました。今の子供たちはそれほど長い停電は経験がないでしょうが、昭和40年代頃までは結構日常的であったし、その度にローソクが活躍していました。久しぶりの停電で、ローソクの灯りを頼りに過ごした時間は、きっと子供たちには新鮮であり、年配者にとっては懐かしく、いつもと違う家族の会話があったのではないでしょうか。

 先日の学校評議員会の際、ひとしきり「小刀」の話題で盛り上がりました。以前と比べて、様々な道具を扱えなくなっている現実があります。鉛筆削りに鉛筆を差し込むことはできても、小刀で先を削り尖らせることがはたして今、どれだけの子にできるでしょうか。必要がないからいいのでしょうか…。停電とローソクのことも何か似ている気がします。自分の手で支配できる範囲を超えて、個人ではどうにもならない所まで急激に膨らんでいる環境とどう付き合っていくのか、悩んでしまうところです。

 ところで、新聞等でも取り上げられましたが、数年前から「夏至の夜2時間をローソクで暮らそう」という「100万人のキャンドルナイト」運動が展開されています。一軒にしてみれば、環境への働きかけはほんのわずかでしょうが、ローソクだけで夜を過ごしてみれば、心に感ずることは意外と大きいのかもしれません。今年は昨日が夏至でしたが、まだまだ日は長い季節が続きます。機会がありましたらぜひ…。(6/22)

サッカーワールドカップのための教育か

2006年06月26日 | 雑記帳
 ここ数日のジャーナリズムは、サッカーの敗北について
あれこれと書きたて、叫び続けている。
目にした新聞記事の中の、次の一節がどうにも心にひっかかる。

 ジーコ監督は評していた。
 「日本の教育ではシュートを打って失敗したことが悪い評価をされる。
 だから、打てるのに打たないでその責任から逃げる。」


 記事は、さらに続けてある教育学の権威者の言葉を並べる。
 
 「日本では間違いをする権利が認められていない。
 教室で子どもたちが発言しないのも間違えるとばかにされるから」


 「失敗を許さない教育と国民性が点取り屋の登場を拒む背景と見立てた」
とまとめてある。

 そこまで言うか、という気分になった。
 そして、この気分こそが、ある意味日本の国民性でもあるように思う。
 
 「敗軍の将、兵を語らず」
…これが日本の文化である。
敗因を考えることはとても大事である。
しかし、将としてそれを口にすることはあまり格好のいいものではない
という意識が私にはある。

 教育学の権威は「間違いをする権利」をどのようにとらえているか。
 仮にそういう傾向が教室の中にあったとしても
失敗を許さない教育の根幹は教室の中にあると断言はできない。
そんな大雑把な見方をしてはいけない。
 事実は緻密に多方面から検討を加えるべきだ。

 確かに点を取れなかったことが敗因ではあるが
多くの点を失ったことも事実である。
 その比較もしないで、まして大会対策や練習方法を大きく取り上げないで
(実際は、取り上げているのだろうが)
教育、国民性というところまで原因を掘り下げるべきか。
そんな時間があったら、するべきこと言うべきことはたくさんあるだろう。

サッカーに勝つためだけの教育をしているわけではない。
野球は勝ちました。女子マラソンも強いです。

「100Mを10分」という発想

2006年06月25日 | 読書
カリスマ体育教師として名高い原田隆史氏の対談が雑誌に載っていた。
以前読んだ単行本にも刺激をうけたが、今回の女性コンサルタントとの対談は
語りかけの良さが出ていて、読みやすかった。
次の一言に注目した。

 練習の中身を見てもらうと
 同レベルの学校の10倍は密度が濃いと思いますよ。
 普通は「100Mを10本」と目標設定するところを
 「100Mを10分」と決める。
 10分間に何本走るかは、本人次第です。


それぞれの目標設定に応じて本人が決めていくシステムを作っている。
タイムマネジメントの話なのだが
これは明らかに教育現場のことであり、実践理論と言える。

「中学生・陸上競技練習」という設定での「100Mを10分」の発想は
例えば「小学生・漢字練習」という場でもありえるのではないか。
もちろん学年段階によって、本人による目標設定の有効性は考慮すべきだろうが
少なくても活動メニューの細分化を図ることで
10分という時間の濃密性そして効率性が上がるだろう。

書きながら、ふと思い浮かんだ一つの教材がある。
TOSSの作った「赤ねこ計算スキル」である。
時間は共通に限定し、目標になるコース設定を行う。
すぐれた指導には
「どの量を限定することが、全ての子に有効に働くか」がはっきり示されている。

それでも「日本代表」は考えなければならない

2006年06月23日 | 教育ノート
 日本代表のワールドカップが終わった。
開催前日、本の紹介という形でこんな文章を書いてみた。
おそらく一戦目が全て。なぜ惨敗したか、考えることが、彼らにとって一番大事である。



 近所の書店で目に留まった本を全校集会で紹介しました。『教えて!ヒデ』(小学館)というサッカーの中田英寿選手へのインタビューで構成されている本です。サッカーのことが中心なのですが、こんなやりとりもありました。

――――Q 中田選手は小さい頃、どんな子だったんですか?
「小学校の頃は人見知りしない子供でしたよ。ぼくは、2つ上の兄がいるんだけど、兄の友達と遊ぶことが多かったかな。よく野球やったりサッカーやったり、ほかにも『かんけり』とか、なんでもやったよ。小さいころにいろんなことして遊ぶのって、後々プラスになることが多いと思う。最終的にサッカーをやるにしても、ほかのスポーツをやったことが役立つ場合がよくあるしね。」

 中田選手の「視野」の広さや「動体視力」の素晴らしさは人並み外れていると言います。よそ見をしていても車の運転が出来るという逸話もあるほどです。きっとエネルギッシュな児童期を送ったことでしょう。この文章によく表われていると思いました。

「外に遊びに行くんだったら1日ずっと遊べないとぼくはいやだし、中途半端に遊びに行くくらいだったら家にいたほうがいい。やるんだったら100パーセント。そうじゃなきゃやらない。そこをきちっとしないとダラダラして、どっちつかずになっちゃうしね。」

 集中力や切りかえの早さも、そうした態度で養われたのかも知れません。このように中田選手には動的なイメージが強いのですが、実は本人が一番大事と思っていることは、「考える」ということだそうです。他の人から多くを取り入れたとしても、最終的には何でも自分の頭で考えて判断する習慣の大切さを強調していました。物事の上達には欠かせないことだと改めて思いました。

 間近に迫ったワールドカップサッカー、ドイツ大会。日本チームの健闘を期待しましょう。
(6/8)

人の話を聞く力の深さ

2006年06月22日 | 読書
 最近よく話をする友人のミホちゃんは、人の話を聞く力が深い

山田ズーニー著『17歳は2回くる』(河出書房新社)の中の記述だ。

家本芳郎氏の著した『教師のための「聞く技術」入門』
教師の「聞く」という行為について掘り下げている好著だったが
その本の芯となるところは、上記のような表現なのだと思った。

自己アピールが求められる世の中にそぐわないことかもしれないが
コミュニケーションはまず聞くことから、という基本をまず見つめるべきだ。
反論や助言や指導をするために聞くということではなくて
「へぇ、そうかあ」「うん、なるほど」と認めることで
相手を理解していくことが何より肝心である。
それが「聞く力」と言えるのではないか。

そしてその深さは、たとえばこんなことばをすっと使えるかどうかだ。

 「それはどういうところが、よかったの」

相手という人間を掘り下げ、相手もまた自分を見つめていく。

声は塩である、声は気である

2006年06月21日 | 読書
一昨年の末頃に出版された『手帳200%活用ブック』(日本能率協会マネジメントセンター)を読み返していたら
冒頭の糸井重里さんと和田裕美さんの対談で、
和田さんの次のような言葉が、心に残った。

 「自分の声を塩だと思って声という塩をまきながら気を変えていくんです。」

ビジネスの現場でのことではあるが
教育の現場にもそっくりとあてはまることだ。

そういえば、ちょうど一年前に東京・新河岸小の杉渕学級を訪問したとき
朝の「一発目」の挨拶に、度肝を抜かれたことがあった。
今思うと、まさに「気の集中」である。
それをスタートに数々の実践が繰り広げられていた。

声の重要性は、いくら強調してもしすぎることはない。

成就感と有能感と…①

2006年06月20日 | 教育ノート
生徒指導関係の会で聴いたことと、最近読んだ本のことがだぶったので
上記のようなタイトルで書いてみた。


 S先生の講話の中で、一番印象的だったのは次の言葉でした。

「成就感だけでは、子どもは育たない」

 私たちの仕事は、おそらく「子どもに成就感を持たせる」方向で動いていることが非常に多いのではないかと思います。教科の内容がわかるようになった、できるようになった、達成した、勝った、いい成績をとった…それらのどれもそこに肯定的な評価の言葉かけがあり、子どもの活動を認める表現が多くなります。

 しかし、問題なのはやはりその過程なのです。過程の中で「考える」「悩む」という場が少なければ、どんなに結果が良かったとしてもその取り組みは子どもにとってどれほどの価値があるのか、ということを考えなければいけません。

 視点を変えれば、結果的に達成したというような成就感が少なくても、考え、悩むという体験さえ積めば、子どもは育っていくとも言えます。もちろん敗北感や無力感だけでいいというつもりはありませんが、今の風潮はあまりにも満足感や成就感を大切にしているような気もします。
(保護者の多くも同様でしょう。そうした子どもと保護者がいる現実が、相手なのです)

 さて、私はかなり以前から、キーワードとして「有能感」とか「自己肯定感」という言葉を考えてきました。初等中等教育でそうした意識を育むことはとても大切と思っています。しかし、先月読んだ新書『他人を見下す若者たち』(速水敏彦・講談社)で、この言葉を見かけてから、もう少し細かくその感覚を考えてみる必要があるかなと感じてきました。

「仮想的有能感」(他者軽視する行動や認知を伴って、本人が感じる有能だという習慣的感覚)

 正しく自己評価できない若者たちが増えていることの表れでもあります。
(6/19)

その家の「ニギリマンマ」

2006年06月18日 | 教育ノート
遠足に一緒に行った後、書いた文である。
「食」の変化も著しい昨今の社会。やはり残したいものはある。



 農業科学館に企画展示されていた「米」のコーナー。置かれている資料に『おにぎり大研究』というパンフがありました。起源やよさについて書かれた文を読みながら、ふと「おにぎりとおむすびとはどう違うんだろう」と思いました。

 帰ってから調べてみたら、これが諸説入り乱れて明確な根拠がないようです。はっきりしているのは、西日本は「おにぎり」という言い方が多くて、東日本は「おむすび」が多い、けれど「おにぎり」が一般的になってきているとのこと。でも「おむすび」という言い方もいい響きだなあと感じます。

 まあ、自分が幼い頃は「ニギリマンマ」と言っていたわけで、そしてそれは母親が握ってくれた、中に具など入っていない、味噌だけをつけた俵型の、まさに「家の味」でした。

 遠足の日、おいしそうなおにぎり、おむすびにパクつく子供たちがいました。今、飽食の時代と言われ、どんなモノでも店先に並べられていますが、子どもの舌に記憶させたいのは、やはりその家の味だなあと思うことがあります。味噌汁や漬物、卵焼きやカレー…様々あると思うのですが、特におにぎりはそのシンプルさゆえに深く身体に沁み込むような気もします。

…ああ、ニギリマンマ喰いでゃなあ。  
(6/2)