すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

大人問題に一理を示す

2020年08月31日 | 教育ノート
 五味太郎という人は、結構辛辣な物言いをする。しかし、光村図書出版の『飛ぶ教室』の編集長になったりして、教科書関連でも取り上げられるし、多彩な活動は注目している。読み始めた文庫本『大人問題』の冒頭には、絵本や図書のことなどが書かれてあり、また興味深い。読む人によってはきつい一言がこれ。

 「絵本の読み聞かせ」というやつ、ぼくは嫌いです。子どもに本の楽しさを教えたい、読めない子どもに読んであげたい…といったスタンスがまず変です。そしてなにしろ、そういう運動をしているおばさんたちは芸がなくて変な読み方をするから、つまらないのです。めくるテンポがずれているから、もうちょっとそのページを楽しみたいと思っているのに、パッとめくっちゃったりするのです。(P18)


 「一理ある」と素直に思う。絵本と対面するのは「個」であり、いくら幼くとも出会いは一人一人に任せられるべきという点はその通りだ。ただここで語っている指摘は、母親が赤ちゃんに対して読み聞かせている姿を想定しているわけではないだろう。幼児や児童を対象とする枠のある読み聞かせに向けられている。


 では、自分も「一理」示さねばならない。学校における読み聞かせ活動について考えてみる。勤めていた時は当然仕事の一部として読書推進をしてきたが、その延長線上にあるわけではない。ただ学校教育における位置づけはある程度理解している。私たちのような外部人材が入る意図は、「刺激」に尽きるのだと思う。


 読書刺激を与える…そう考えると、一つには「本を選ぶ」ことにある。選書の範囲を広げるためのきっかけになり得る。二つ目は「読む表現の楽しさを伝える」ことにある。これは単純ではない。伝えられる努力が必要であり、受けとめる側にとって「余計なお世話」になる可能性も十分持つ。表現の宿命といえるか。


 そうであっても小学生が「多様」な読み方に触れること自体、ブラスに作用すると信じている。もっと言えば、傍にいる教員に対してもそういう場になれば、もっといい。が、これは欲張りか。楽しさを伝える困難さに負けず、今週も、五味太郎の絵本を持って教室へ出かけよう。変な読み方と言われても…(おばさんではないけど)。




本当の花火を待つ

2020年08月30日 | 雑記帳
 「本当なら、あそこで観ていたのになあ」と思わず言ってしまってから、「本当ならって、いったいなんだ?」と一人ツッコミみたいなことが頭をよぎる。8月最終土曜は、大曲の花火の日。15年ほど前に初めて桟敷席で観てからとりこになってしまい、ここしばらくは通い詰めである。覚悟の中止だがつくづく残念。


 BSでは、予定されたサプライズ(笑)打ち上げの様子が放送された。オープニングの歌が始まったときのわくわく感は他に代え難い。そして、大会独特の「呼び出し」には、大曲なりの味がある。見続けてきたので10号玉の評価はそれなりに出来るようになった。今回、全国から参加した花火師たちの名もお馴染みだ。


 昨年のダイジェストを見てみると、メインである大会提供花火の構成は、自分の中では評価が低かったと辛口であったことも思い出された。桟敷の位置がよくて、ずいぶんと「灰」を被った。それらは事実としての「本当」で、冒頭に書いた本当の意味は、「本来」つまり「そうあるべき」なのだ。だからもどかしい。



 今朝の地元紙に「275(つなごう)プロジェクト」と題して、一文寄稿を募の花火の形にレイアウトした全面広告があった。この企画が見たときに書こうと思い立ち、60字以内の制限に苦労しながら収めた。しょぼしょぼする目で探すのは大変なほど小さいフォントだが、見つけることが出来た。まさに今の思いである。

  あの光に照らされ音に揺らぐ「命」を確かめに足を運ぶ
 「舞い上がれ、美しく」と歌声が流れるその瞬間を、
 もう一年共に待とう!

日本語の正体をあぶり出す

2020年08月29日 | 読書
 目次から引用する。「よろしく…という言葉は、一見、相手の意志や判断を尊重しているように思えるが、じつはすべての責任を相手に押しつけるまことに困った”呪文”である。」…どうだろう。言葉や文章に関心が深くなくともえっと思うのではないか。こうした日常語への深掘りが連続し、「日本」をあぶりだしていた。


 『日本語 表と裏』(森本哲郎  新潮文庫)



 取り上げられた語は全部で24。「よろしく」から始まり「やっぱり」や「どうせ」「いい加減」などだ。どれも納得できる。かの「よろしく」であれば、私たちが何気なく発する場合も、ほとんど相手に察することを要求している傾向があるではないか。「よろしく」は「よきにはからえ」という殿様用語の別言である。


 「やっぱり」「やはり」はさらに刺激的である。著者は「私はこの言葉こそ、日本の主語だと思う」と記している。つまりこの慣用語を使う時「私が思っていたとおり」という意味の他に、周囲もそう思っているはずという認識がつきまとう場合が多い。そうしたニュアンスで連発されている。次の文章は噛みしめたい。

 「やっぱり」とか「やはり」とかいう間投詞をさしはさむときには、「自分」という主語のほかにもうひとつ、「日本」という、あるいは「世間」という大主語が無意識のうちに予想され、前提されているのだ。


 こうした思考習慣が生み出す典型な語が「いい加減」ではないか。多くの人が、その語の二つの対照的な意味(「良い程度」と「デタラメ」)について知っている。何ゆえか。著者は日本の恵まれた自然とそれによる自然への甘えが根本にあると指摘する。つまり、自然に任せている楽観主義の表と裏なのだと結論付ける。

暑気払いのお勉強

2020年08月27日 | 雑記帳
 スマホのお天気画面(居住地)が34℃を示していた。暑気払いをせねば…とごろりと文庫や新書を読もうと思ったが、「あつい」と口に出したら「暑」の漢字が気になった。「猛暑」とか「酷暑」という語が盛んに流れているが、では「●暑」にはどんなものがあるのか…我ながらこの向学心(笑)にあきれてしまうほどだ。


 何がいいだろう?「逆引き広辞苑」では無理だろうから、漢和大辞典の「署」を引いてみた。そこに載っているのは14個。思ったより少ないが、そう思いつつ見かけたことのない熟語もある。まずは全部引用してみる。『小暑・大暑・炎暑・烈暑・逐暑・残暑・隆暑・盛暑・寒暑・焦暑・蒸暑・酷暑・劇暑・避暑



 頻繁に使われる「猛暑」が入っていないのが不思議だ。として使われる「小暑・大暑」、通常の語でよく使われる「残暑・盛暑・酷暑・避暑」、たまに目にする「炎暑・劇暑・寒暑」、漢字からおそらく「猛暑」と同義と想される「烈暑」以外の四つは調べが必要だ。「逐暑」「隆暑」「焦暑」「蒸暑」。辞典の見出しはどうか。


 「蒸暑」は載っている。これは漢字そのままで「気候がむしあついこと。また、そのさま」だ。今使う人はいるのかな。後の三つは辞書には載っていない。ネット上にも中国系の語としてあるようだが、明確に説明しているサイトはない。ただ「焦暑」は予想できる。「焦がす」を考えれば、この熟語も猛暑系だろう。


 「隆暑」は「りゅうしょ」と読むのか。隆は「さかんになる」意味だから、レベル高だ。最後の「逐暑」は「ちくしょ」だろう。これは「順に」という意味もあるが「駆逐・逐電」といった「おいはらう」と考えてよさそうだ。つまりは「暑気払い」だ。「暑い!畜生!」と叫ぶより、静かに「逐暑」と唱えましょう。

晩夏、文庫本で愉悦

2020年08月26日 | 読書
 8月下旬になって日中の暑さが「暑中」よりも上がっている。さすがに夜には虫の鳴き声が聞こえ、熱帯夜ではなくなってきていても、「晩夏」の雰囲気とは言えないような…。しかし先週から今週にかけては、ネットや古本屋で手に入れた文庫本を、朝の寝床で、また風呂につかりながら、三冊読了した。愉悦な時だ。


 『日本語 表と裏』(森本哲郎  新潮文庫)

 これは名著だと思う。私たちがふだんよく使う日常の言葉を取り上げて、そこに潜む日本人の特質、またこの国の歴史などについて説いている。昭和63年発刊(単行本は60年)だが、今読んでも古さを全然感じない。ということは30年以上経っても、不変なことがいかに多いかという証左だ。もう一度めくり直して、いくつかここにメモしておくつもりだ。


 『ちいさい旅 みーつけた』(俵万智  集英社be文庫)

 週刊誌のグラビア連載のセレクトらしい。北海道から沖縄までの訪問地の様子を、平地勲という写真家のショットとともに、俵の気取らないリポと結びの一首で構成されている。少し出歩けない日々が続いているので、「旅情」という感覚を渇望していることに気づく。ああ、日本中に行っていない場所、行くべき場所はまだまだ残っていたと思わされる。ちょっと悔しい。




 『100万分の1回のねこ』(江國香織、他  講談社文庫)

 絵本つながりで手にした。作家佐野洋子の追悼アンソロジー、小説家や詩人が短編を並べている。いわば『100万回生きたねこ』の読書感想創作集ということなのだろう。初読みの作家もいるが、様々な切り口で描くものだなと改めて感心する。一冊の本から受け取るインスピレーションの膨らませ方というのは無限大だ。読者側にある芯をスパークさせる作品が、名作と呼ばれるのか。

欲まみれの幸せの予感

2020年08月25日 | 読書
 ヨシタケファンは多くいると思う。絵本に限らず、こうした「スケッチ解説エッセイ」に読み手が何を求めているかと考えると、脱力しながらの自己肯定感のようなものか。帯に「しいていうなら、くらしの知恵に。」と書かれてある。視点が独特なので、「たしかに、たしかに」と呟きたくなる「知恵」が見つかる。


 『欲が出ました』(ヨシタケシンスケ  新潮社)



 ずらっと30分で読了できた本。その中で心に残ったことを取りあえず三つ挙げてみよう。

 「心にはめる軍手のようなものが欲しい」

 危険物はともかく、軍手をはめるといろいろなモノに触ることの抵抗は減る。
 その意味で、心の中?周り?に何か入れておくような習慣があれば、様々な物事に挑戦していけるんじゃないか、と納得してしまった。
 軍手をするイメージづくりが大事かな。


 「世の中って、やっぱり正しいかどうかでは回っていない。正しいかどうかではなく、誰かの『気がすむ』かどうか、なんですね」

 この「気がすむ」という感覚を、著者は「子育て」をしていることから得ているが、孫と触れていて改めてなるほどと思う。
 そしてそれが人間の本性で、様々な日常の出来事、社会、政治等々いろいろなことであるんだなと、妙に納得できる。
 コロナ禍に関する政策も、そういうことだったかと思うと、腑に落ちる。


 「実際にいいことがなくても、『幸せの予感』さえあれば、どうにかやっていける」

 前向きとか楽観的とか言い換えられそうだが、「何かいいことが…」「明日はもっと…」と、誰にもある気持ちを動かす、膨らますということが大事だ。
 つい占いを見てしまう、そして「いいこと」だけを信じるような習慣は続けるべきだろう。そしてもしかしたら「幸せの予感」と小さく呟くのもいい習慣かもしれない。

 これも「欲」ではあるが…。

結局、アナログに頼るのよ

2020年08月24日 | 雑記帳
 何年ぶりになるだろうか。新しいPCを購入した。OSや入っているソフトから考えると今の機種は2011~12年あたりに買い求めたのだろう。Endeaverというこのエプソン製のPC、途中で一度死にかけたがなんとか持ってくれた。学校を退職した年の秋、こんなことを記していた。まあ、お疲れ様ということだ。


 動きが鈍ってきたし、替え時だなあと春頃から思っていて、いろいろ検索を重ねていた。またエプソンでもいいかなと直前まで考えていた。しかし富士通の広告が頻繁に画面に出て、誘導されてページに入っていくことを繰り返していたら、そのうち「夏の福袋」(笑)という掘り出し物に出会い、エイッと購入を決めた。


 もちろん、家電販売店にも足を運び、値段はもちろんだがスタイルや操作性なども仕入れ済みだ。もう一つ某大手メーカーNも候補だったが、購入歴を振り返ってみるとどうも相性が良くない。そうした経過でメーカーダイレクトから手に入れたのがこの機種FMV ESPRIMO。そういえば、二代前もFMVだったのだ。



 さて、今だと「乗り換えガイド」のようなものがインストールされていて指示通りにやれば、トラブルなしでデータや環境を移行することができる。便利になったものだ。土曜夕方についたので日曜朝から早速梱包を解き、設置を始めお昼過ぎにはほぼ完了…と思ったのだが、メール受信だけができない。またかあ。


 以前、初期化したときもそうなり、どうクリアしたか覚えていない。パスワード関連で何度も失敗し、Endeaverに戻って確認しても駄目だし…不貞腐れて、寝た。そして朝を迎え、待てよと思いつき、前の書類を見直す。パスワードの正体はそこにあった。ふううっ開通。結局、アナログは捨てられないと思い知る。

ねこだらけブックトーク

2020年08月22日 | 教育ノート
 休み中の「放課後子ども教室」にお呼びがかり、持っていく本を選んでいたら、何気なく「ねこ」にはまってしまった。「ねこ」を題にした児童書は多いものだ。本館蔵書検索をしてみたら198冊と出た。いつもの学校読み聞かせは時間が限られているが、今回は少し余裕があるのでブックトーク的にできないと考えてみた。

 もちろん全部を探すことはできず、手当たり次第となったが、とりあえず8冊を選ぶ。対象学年の範囲が広いはずなので、低学年向けを中心に高学年にも通用する本を選びたいと思った。ラインナップは次の通りである。

『ねこです。』(北村 裕花 講談社)
『ねこだらけ』(あきびんご  くもん出版)
『ネコヅメのよる』(町田尚子 WAVE出版)
『ねこのそら』(きくちちき  講談社)
『ゆめねこ』(真珠まりこ  金の星社)
『ねこのき』(長田弘・大橋歩 クレヨンハウス)
『私はネコが嫌いだ』(よこただいすけ つちや書店)
『100万回生きたねこ』(佐野洋子 講談社)


 導入は『ねこです。』
 ねこの姿をアップにしたり、バックから見たりして、いろいろな形を見せてくれる絵本だ。

 次の『ねこだらけ』は読み聞かせはできないが、様々なねこの種類を並べたり、外国の衣装を着させたりしてする形で、400匹を載せている。



 『ネコヅメのよる』は、昨年どこかの学校で読み聞かせした。写実的な絵が素晴らしく短いけれど引き込まれる展開なので、これはぜひ読みたい。

 『ねこのそら』、これは独特なタッチだ。平易だけれどファンタジーさがあり、印象に残る絵本だ。

 『ゆめねこ』は、ユーモア絵本の類と言えるが、これも独特のタッチもあり読んで聞かせるには面白いだろう。

 『ねこのき』は、ずいぶん以前に発刊されているものだが、心に沁みる。長田弘の文にはまっている自分としては、読みたい一冊だ。

 この並びで紹介していきながら、『私はネコが嫌いだ』を出す予定だが、低学年がほとんどであれば、必要ないだろうか。少し迷う。反対したのに娘が飼いだした猫とともに過ごした日々が書かれていて、一貫して「ネコが嫌いだ」と男性は言い続けるのだが、猫とともにだんだん年老いて…といったような話。いつか読みたい。

 最後に名作として、上学年になったら読んでほしいと『100万回生きたねこ』を出そうと構想してみた。


 金曜日午後。
 「ねこ」のブックトークをだいたい20分ぐらいで予定通りに、十数名の子たちを前に行う。
 順に見せていきながら、3冊を読み聞かせをすることが出来た。楽しんでもらえたようだ。おわった後に、ある子から家の猫話をマシンガントークで聞かされたことも嬉しい(笑)。

 もう少し準備をして、やりとりを入れれば面白いかなと思えたのは収穫だろう。
 次は何をテーマにしようかと思い始めている。

罪深き者、見切り発車

2020年08月21日 | 読書
 『わかりやすさの罪』(武田砂鉄 朝日新聞出版)に関わってはいくらでも書けそうな気もする。それだけ「罪深さ」に囚われているのか。弁明めいたことを書いても気が晴れるわけではないし、この辺で見切りをつけよう。「12 説明不足」という章は、「『見切り発車』という言葉、というか状態が好き」と書きだす。


 実は著者は「見切り発車」の意味を取り違えていたことを吐露しながら、文章を続けている。ここで思い出すのは、酒井臣吾先生の描画指導法の原則のことである。四つありその一番目として「踏ん切る」を挙げられ、「見切り発車をおそれない」と説明された。実に印象深く、それは生き方にも通ずるといつも思っている。


 遅い人は置いていっても構わないという対人的な思考ではなく、あくまで自分の行動指針としての「見切り発車」である。そもそも、人生において「完結」することなど「死」しかないだろう。日常非日常を問わず様々な表現活動も、その内容はおよそ見切り発車の状態で提示され、理解は受け止める側に委ねられる。



 「わかりやすい」を求めるのは、不安定さを回避したいからだ。曖昧でなく抽象的でなく、明快、具体的なことに偏ってきたのはいつ頃からか。ふと思い出したのは昭和60年。三校目の学校に赴任した直後、何かの機会に、ある6年男児に「先生、具体的ってどういうことかわかる?」と言い寄られたことがある。


 前後は失念したが、自分は何か言いよどんだのかもしれない。その頃から発問・指示にのめり込んだことを思い出すと、時代が求めていたというのは大袈裟だがそんなふうに導かれたと俯瞰できる。スッキリさを求めてわかったつもりになり、結果、心底に淀んでいる「泥」。それを搔き回すことを常に忘れてはいけない。

罪深き一人の弁明②

2020年08月19日 | 読書
 『わかりやすさの罪』(武田砂鉄 朝日新聞出版)の冒頭の4章までの題を再記し、ぐだぐだと書き進める。

1 「どっちですか?」のあやうさ
2 「言葉にできない」
3 要約という行為
4 「2+3=〇」「〇+〇=5」



 小田和正の名曲『言葉にできない』は、言葉にできない思いが誰にもあるということを言葉にし、あのメロディをあの声に乗せて、我々に伝えた。「♪言葉にできない」という詞に限らず、感極まった場合やまとまった形で言語化できない場合に、「言葉では言い表せない」「言葉がありません」自体がもはや常套句だ。


 そうした情感的な面では承知しながら、論理や伝達の場で言語化できないことは問題視される。著者が記す「わからないことを残す、わからないことを認めることが、他者の想像や放任や寛容の条件になる」という意味で、「言葉にできない」ことを否定したり、貶めたりする社会の危険性にはもっと留意すべきだと考える。


 「ずばり一言で」は、野口芳宏先生の指導におけるキーワードの一つである。だらだらと喋りたいことに任せるのではなく、流れに沿って言うべきことを明確にという話し合いのマナーであるし、同時に簡潔、明快を旨とする表現の習慣づけとも言える。こうした経験によって培われる表現力、理解力を疑いはしない。


 言語技術としてそれらを身につけ、仕事や暮らしに活かすことは価値がある。しかし現実社会の様々な事象は、要約で出来ているものなどない。報道等を中心に我々が接する要約とはあくまで「する側」に立ったものであり、簡単だからということで、要約を真実と受容しているような状況が、目の前に広がっている。



 日本の算数は「2+3=〇」だが、イギリスなどでは「〇+〇=5」を考えさせている…へええっと思ったのは前世紀の話だ。それは一つの答ではなく、複数解を求める教育への志向だった。その考えを教育の幅と捉えれば妥当だったと評価できる。ただ、想像力を養うことはそういうパターン化を促すことではない。


 著者は「本来、自由とは『〇+〇=〇』のことである」と記す。それが5と決められている意味に慎重でありたい。5が7であっても「利益」であっても、結論が先にありきの思考に慣れてはいけない。昔あった「1+1=」を「田」とするなぞなぞが持っていた、多様な見方や問題を見つける力こそ、今養いたい。