すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

もっと自分の頭で考える

2007年09月30日 | 読書
 『日本人よ!』(イビチャ・オシム著 新潮社)で、オシムが言いたかったことは間違いなく次のことである。

 日本人よ!もっと自分の頭で考えろ!

 様々な切り口から語られているが、私は「考えることのススメ」のように受けとめた。
 そして、考えるためのいくつかのヒント、いやいつも注意深くその点を意識し、忘れてはいけない警句として印象に残った文がいくつかある。

 一つは、まず私たち日本人の持つ弱点?とも言うべきものである。

 日本人は、すべてが整備され自然に解決されていくことに慣れてしまっている
 
 それは「先進国の証」でもあるが、同時に問題解決する力や意欲を向上させることに対してはマイナスに働いているという現実である。慣れきった身体、心を見つめ、日常に対して警戒を持ち続ける…結構大変なことである。

 次は、最終章で語られた現実である。

 現在はすべてにおいて商業主義である。
 
 勝利至上主義のサッカートレンドを評し「戦っているのはチーム同士ではない」と言い切る。スポンサーの重圧が強く、すべてが政治や経済などで起こる物事の下に起こると現状を把握する。繰り返し出てくるメディアやジャーナリズムへの注文・批判も、結局はそれに対する強い抵抗だ。
 これはもちろんサッカーのみのことではないだろう。全てのスポーツいや文化全般についても同様のことは言える。教育ですら密接に結びついている現実があるではないか。
 商業主義をどのレベルで理解し、自分の考えを作っていくか、これは私たちに課せられている最大の課題と言ってもいい。

 最後に、この本に何度か登場している「運」を語る言葉だ。

 運は必要で、それなくして私たちは何も成し遂げられない
 
 その言葉はオシムの出自や経歴を知るときに、ことさらに深く響く。

 何百何千の事柄を向上させる、走ることに全力をつくすといったことを包括しながら、そのうえでミスもある、不運もある、しかしそこで終わってはいけない、いかにそれらを乗り越えるかがサッカーつまり人生だ、と語っていることがわかる。

その比喩を使う者

2007年09月28日 | 読書
 『日本人よ!』(イビチャ・オシム著 新潮社)を読み始めた。

 プロローグは、次の文章で始まる。

 サッカーとは、人生である。

 こうした比喩は何度か目にしたことがある。「サッカー」の部分は様々に置き換えられる。
「野球とは、人生である」「競馬とは、人生である」などスポーツや競技系だけでなく、「ジェットコースターとは、人生である」とか、「列車の旅とは、人生である」なども考えられるだろう。「授業とは、人生である」…ん、これもなかなか格好いい。

 では、こうした比喩はそんなにたやすく使われていいかというと、それはまた別問題だろう。
 この比喩を使って説得力のある文章を書けるということは、やはり余程の人なのである。
 わずか3ページあまりのプロローグだが、オシムの強い言葉に私は魅せられた。

 人生で起こりうるすべてのことは、サッカーの中に集約される。

 サッカーで起こるすべてを、一生涯に引き伸ばして生きることができるのならば、実に魅力的な人生を送れるのではないか

 あいにくなことにそれほどのサッカーファンでない私であるが、その鋭い洞察力によって記される第一章以降の文章を読んでいくと、その言葉の重みがひしひしと圧し掛かってくるようだ。
 むろん、オシムは「取り憑かれている」としながらも、サッカー以外にも「人生にはたくさんの大切なことがあるのだ」と記している。それでもなおかつ、冒頭の比喩を使うということは、自らの人生そのものを語ろうと同義とも言えるだろう。

もちろん、他の人々は、違う仕事で自分の人生を象徴するものを持っている。
 
として例に挙げたのは、祖国サラエボの医師たちのことであった。戦火での学びは生涯に活かされていくという。

 この比喩を使う者は、仕事で人生を象徴できるものを持っている。
 鈍い鋼のような光を放つ冒頭句であった。

訊く子に寄り添う

2007年09月27日 | 教育ノート
 稲刈りの真っ最中である。こうべを垂れる稲穂が並ぶ姿はわずかの日数しか見ることができない。
 この姿は人が寄り添う姿に似ていると感じるのは私だけだろうか。学校報を書きながらふとそんなことを思い浮かべた。
 

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 今年も千葉県より野口芳宏先生をお迎えして、コスモス教育セミナーを実施することができました。
 5年生への国語の特別授業に続いて、研修会を持ちました。内容は「聞くこと・話すこと」の指導です。講話が始まってすぐに、野口先生はこんなことをおっしゃいました。

 「聞く子は良い子 問う子は伸びる」
 
 この言葉は、何も学校だけ、学習の時間だけに限ったことではないでしょう。家庭や地域での生活にも十分通用するように思えました。野口先生のご専門の一つに家庭教育分野があり、それに関連する本も多数出版されているので、一冊取り出しぺらぺらとめくってみたら、先ほどの言葉が、もともとは次の言葉であることを発見できました。
 「訊く子は良い子」
                       
 「訊く」は尋ねることであり、問うという意味といってもよいでしょう。
 「キク」という読み方の漢字はいくつかあるので混同を避けるために、「訊く」を「聞く・問う」に分けて説明なさったのかもしれません。

 さて、その文章を読んでいくと、「子どもの質問への対し方の原則」が述べられており、興味深く読み進めました。
 第一に、「問うたこと、そのことをほめる」こと。
 第二に、「答えてしまわない」こと
 第三に、「子どもの疑問に寄り添う」こと
                  
 一つ目は「自信」を持たせ、二つ目は「探求心」を持たせるためだということは、わかります。
 では三つ目は、何のためでしょう…。
 これを実際に行うのはなかなか難しいように思われます。問いを受けとめる大人の方にゆとりがないと、そういう姿勢は生まれてきません。
 そうすれば、だからこそ大事なことなのだという考えも浮かびます。前の二つと比べて、時間も根気も必要な受けとめ方によって、子どもの「学ぼうとする心」が育つのかもしれません。
                 
 では、寄り添うにふさわしい疑問とはどんなものでしょう。単純なクイズのようなものでないことは確かです。例えば、今の季節であればこんなことが思い浮かびます。

 「お月見って、どうしてするんだろう」
 「コスモスラインが、毎年続いているのはどうしてなんだろう」

 それぞれに明快な答は確かにあるのでしょうが、実は豊かな背景を持っていて、そこからまた問いが生まれてくるような、そんなイメージでしょうか。
 「訊く子」が増えてくることも、実りの秋の一つの姿であってほしいと思います。
(9/27)
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一断面を見ただけでもつながる

2007年09月25日 | 教育ノート
 野口先生の授業を、殴り書きのメモを見ながら思い起こしてみると、改めていろいろなことを考えさせられる。
 この後整理するセミナーとしてのまとめも限定された紙幅なので、その他の機会をとらえながら紹介していきたいと思い、ある一断面を書いてみた。


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 縷述「つながる授業」25

 コスモス教育セミナーの感想集約とまとめは、来週には昨年と同様な形で配布できるように準備したいと思っています。その前に野口先生の授業の一場面を取り上げて、ちょっと考えたことを書いてみます。

 様々な見どころ?があったわけですが、私が改めてその素晴らしさを感じたのは授業前半の「擬態語」を取り扱ったときでした。

 野口先生は「しんしん」という言葉が様子を表すことを押さえてから、「擬」という言葉を板書しました。
 読める子がいないと分かると、「手偏」を隠して「疑」にしました。「ギ」という読み方が出ると「同じ読み方なんだよ」とまとめ、それから「擬態語」を登場させました。
 次に「態」を様子のことと説明し、「音」の場合は「擬音語」ということを並べて板書したのです。
 さらに、擬態語は平仮名、擬音語は片仮名で書くことを教え、文中から探す活動を指示しました。

 この場面の一連の指導は平凡に見えますが、まさに「つながる授業」を象徴しているように思われました。言い方を変えてみると、こうなるのではないでしょうか。

 既習知識から新しい知識へ(疑→擬・同音) 
 一つの知識から関連した知識へ(擬態語→擬音語)
 関連知識の分類の理解から定着へ(表記の違い→文中から言葉を探す作業)


 私たちもふだんの授業の中でできている時もあるでしょう。しかしこうした点に意識的であればあるほど、機会は増えるはずです。それは子どもたちの学びがつながる機会が増えることでもあります。
 また、この後他校での授業参観なども予定されていますが、つながるという観点で指導案や授業行為を見つめれば、気づくことも多いはずです。

 すぐれた授業とは、全体像だけでなく、一断面を見たときでもつながっている様相を呈しているものではないでしょうか。
(9/25)
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スポーツニュースに刷り込まれる

2007年09月24日 | 読書
 カーラジオからニュースが聞こえてくる。
「続いて大リーグの話題。今日先発したレッドソックスの松坂は7回表まで…、マリナーズのイチローは4打数2安打で…、ヤンキースの松井は…、」
 そのあたりまでならいいが「…井口は9回代打出場してフォアボール、田口は出場しませんでした。岩村は…」まで聞かされると、どうしてそこまで詳しく取り上げるんだろうと、少し首をひねっていた。「次に、プロ野球セリーグ巨人対阪神戦は…」と続く場合も多い。
 自分もごく普通の野球ファンだろうと思うのだが、世の野球ファンの多くはいわゆるメジャーにそんなに関心があるのか、そんなに需要が高い情報なのだろうか…。これはテレビもそうだし、新聞にもそんな載せ方があるからなあ、それにしても…。

 こんな自分の疑問に、一つの見方を示してくれたのが『スポーツニュースは恐い』(森田浩之著 NHK出版)である。
 
 森田はこう書いている。

 スポーツニュースは私たちに<日本人>であることを刷り込んでいる
 
 なるほど。そうであれば異国の地で頑張っている野球選手たちを細かに取り上げることに十分な意図がある。
 いや、ではスポーツニュースとは誰なのか、…という当然の疑問がわいてくるではないか。
 これに対して、森田はこう返答する。

 スポーツニュースは「オヤジ」である
 
 「オヤジ」とはこの場合、日本人の持つ「オヤジ的体質」と言っていいのだろうか。
 保守的、小心、人間関係に細かい、無意識的なセクハラ、少し古風なところもある…様々な特徴を持つ、ぼんやりとしていながら、結構イメージしやすいような像である。(まさしく自分というギクリもある)

 海外でプレーする選手を取り上げたり、他国との対戦に物語を作ったりすることで日本人意識を強化しているという点だけではなく、スポーツニュースにおける女子選手の取り上げ方、価値観や人生訓をさりげない形で取り上げる報道の現実、さらには「国民」とは何か、というところまで論は進んでいる。
 スポーツニュースは、政治家のように声高に叫びはしないが、それゆえに毎日流されるさりげない怖さはあるだろう。そしてそれは、誰か特定の個人や団体の思想ではなく、多くの人々の心にあるだろう一つの価値観の増幅装置として働いているということなのではないか。

 メジャーリーガーやサッカーワールドカップなどの例、また世界中における「国民」の刷り込まれる例などもわかりやすく読めたし、納得できるものだった。
 それにしても、スポーツニュースをそんな目で見つめることは正直しんどい。森田自身も「厄介な話である」と書いている。せめて最終章で取り上げられたオシム監督の見方に触れることで、どっぷりとつかりながらも埋没しないようにするしかないだろうか。

 ひと月以上も前に買っていながら、書棚で横になったままの『日本人よ!』(イビチャ・オシム著 新潮社)という本が、こちらを見つめていそうな気がする。

ミツバチに重い一言

2007年09月22日 | 雑記帳
 野口芳宏先生をお送りする車中で、先生がこんな逸話をしてくださった。

 「昔、野上弥生子がね、ほるぷの社員を前に話をしたことがあってね、君たちの仕事は、人が花を咲かせるためにしているミツバチのような仕事だ。とても大切なことなんだと言ったそうだよ。それで、かつてほるぷでは優秀な社員がミツバチバッチをつけることができる、それが誇りとなっていたそうだよ」

 残念ながら野上弥生子は読んだことはないが、ほるぷとは子どもの童話など随分親しみを持っている…などと肯きながら聞いていたら、先生がこんなことを仰っしゃるではないか。

 「沼澤さんがこんな会をやってくれていることも、ミツバチのようなことだね。」

 なんともったいないお言葉であった。

 野口先生を初めてこの地にお招きしてから、ちょうど10年。
 様々な形で会を開いてみた。そのどれもが印象深いし、自分の心には沁みている。
 しかし参加してくれた何人の人が花を咲かしてくれただろうか、などと考えながら、今日の研修会のふりかえりを話していたら、先生はこんな言葉を…

 「今日の話の責任は、すべて私。参加者の心にすとんと落ちなかったら、それは私の責任なのよ」

 何度か耳にした言葉であったような気がした。
 しかし午前中の車中で、一国の宰相の責任の取り方を「沼澤さんには悪いけど、やはり戦後生まれは、弱い」と断言なさったことが蘇ってきて、か弱いミツバチにはその重さがずしんと響いてきた。

「もぐりこみ空間」の行方

2007年09月21日 | 雑記帳
 昨年竣工なった新校舎を持つ学校を参観する機会があった。
 ガラス張りの広々とした空間の多い明るい学校であった。「冬はどうなのかな」という雪国暮らしの心配はつきまとってしまうが、それにしても次々とモダンになっていく学校建築である。

 多目的ホールに面したところに一箇所、狭く薄暗い空間があった。
 ちょうど玄関側より二階に上がる階段の下部である。普通ならば物置に利用しそうな場所であるが何も置かれず、中を覗くと腰を掛けられるような造りとなっているのだ。
 校内を巡ってみると、にもう一箇所、体育館入口前にも似たようなスペースがあった。

 ははあん、あれかと思い出したことがある。
 かつて『「子どもがいきる」ということ』(藤原智美著 講談社)を読んで、あるメールマガジンに寄稿した駄文がある。

 そこに書かれてある「もぐりこみ空間」なのだな、と思った。
 実際に目にしそのスペースに入ってみると、明るく開放的な教室や廊下などと実に対照的で、薄暗くこじんまりとしていることがわかる。こういう空間を好むという感覚も確かにあるだろう。

 それにしても、校舎の中に配置された以上、管理された空間であることに違いない。かつてある世代以上が「もぐりこんだ」秘密基地的なものとは大きな違いがあるだろう。
 もしこうした校舎に勤務することになったとき、私たちはそのスペースの活用について協議することなどあるのだろうか、などと思いが浮かんでくる。
 改めて、藤原氏の著書の一部を読み直してみると、同行者のEさんが「気分転換の装置」としてあるのだということを言っている。そう割り切れば、確かに活用のアイデアはいろいろとありそうだ。

 どんなにお膳立てしても、それとは別に子どもたちは「もぐりこみ」の空間を探しにいくだろう。
 以前にも書いたが、おそらく電子空間へ向かう率が高くなっている。それは牧歌的といっていい秘密基地より、はるかに複雑で暗いかもしれない。

 大人はもちろんそこに入り込めないが位置取りぐらいは把握しておかないと、這い出した手にいつも足元をすくわれるだろう。
 そんな日常にあることを自覚していなければいけない。

「繋ぎ目」論に目からコンタクト

2007年09月20日 | 読書
 年に2回ぐらいは買うだろうか。
 『ダヴィンチ』(メディアファクトリー)という読書系の月刊誌である。
 コンビニで何気なく表紙を見ていたら、こんなコピーが…

 保存版 中島みゆき 大特集

 ちょっと惹かれた。そしてその横に「寄稿 谷川俊太郎 井上荒野…堀江敏幸」と続いている。ぐんと惹かれる。さらにその横にこうあった。

 対談 中島みゆき×糸井重里 

 もう買うしかあるまい。
 ということでレジへ。家でどっぷりと読む。

 さすがの糸井重里である。
 相手からの引き出し方や言葉をうけての喩え方など糸井は非常に巧みでいつも感心させられるが、今回は逆に質問されて答えている場面が印象深い。

 中島みゆきが、「糸井さんにうかがってみたいことがあったんですよ」と問いかけたことは「なぜ誰もが知りたがるのか、どうやって詩や曲を書くのか」ということであった。
 記者やファンだけでなく、たまたま出会った人でさえそのことをまるで挨拶代わりのように聞くのは何故か、「みなさんはそれを知ってどうするのか」と中島は疑問をぶつける。

 これに対して糸井は「教えてあげましょう(笑)」と受けとめて、次のように言う。

 人は繋ぎ目が好きだからですよ。
 
 これこそ糸井重里という返答である。
 このシンプルさとこの明快さ。そして奥深さがたまらない。
 キョトンとしている中島に対して、糸井はこう繰り返す。

 人間の性として、あらゆる繋ぎ目に興味を覚えてしまうんです。
 
 そのあと「解説」が続き、中島はこうおどけるほど納得した。

 目から10枚くらいコンタクトレンズが落ちました(笑)


 「繋ぎ目が好き」という見方、これはかなり広範囲な場で刺激的に響くような気がする。
 すべての素晴らしい芸術の魅力について語るとき、「繋ぎ目」がどこなのか想像してみることは結構興奮することではないか。
 そして、すべての素晴らしい「仕事」について語るときも、「繋ぎ目」という見方は鋭い視点になるのではないか。

 もしかしたら自分はそれを探しているのかもしれない、と思い始めた。

相手を敬うことの実現

2007年09月19日 | 教育ノート
 慎み深くないことを自覚している私のような人間でも、こうした言葉を探っていくと時々自分のふるまい方を反省することがある。
 「敬」の字源の一説として「羊の角に触れてはっと驚き、身を引き締める」ということもあった。漢字を調べていくとそういう瞬間も結構ある


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 「苟」と「攵」の組み合わせですが成り立ちは少し複雑です。
 苟は「羊の角や頭」の形から作られたようですが、人がひざまずく形という説もあります。攵は小枝を持ってうつという意味、辞典によっては単に動作を表すしるしと載っています。
 いずれ、神への祈りから出来た文字であり供え物をして願うときに「身体をひきしめてかしこまる」という意味に落ち着きそうです。

 さて、敬老の日、祖父母の方々に感謝の気持ちを述べた子もいたでしょうが、気遣いを毎日の暮らしの中でできるかが肝心です。
 言葉だけでなくお辞儀の仕方一つにもそれは表れます。
 「相手を敬う、丁寧にする」とは、自分の心身をひきしめかしこまることで実現されていくのです。
(9/19)
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「ほめる」の芯にあるもの

2007年09月18日 | 読書
 あるビジネス誌が30ページ強の「ほめる技術」という特集をしていた。

 インタビュー、ケース別、タイプ別、トレーニングなど、様々な視点から経営者や研究者、著名人が語っている。
 記事の全てが興味深かったわけではないが一応目を通してみて、その上達のために必要なことは三つに括れると思った。

 ほめるを習慣化する
 自分自身の視点をもってほめる
 相手に合わせてほめる

 一つ目は何より肝心なことだ。
 小学生相手であるとき「ほめ言葉」の威力を感じない教員はまずいないだろう。
 問題は、どんなふうに習慣化するかである。
 取り上げられている居酒屋チェーン店のように「ほめ訓練」を日常化させるまではいかないにしろ、そうした研修を取り上げてみてもよくないかと思う。

 二つ目の「自分自身の視点」は、言葉に気持ちを込めるためには必須なことだ。
 かつてNHK『仕事の流儀』に登場した編集者石原正康は、こんなことを言っている。

 人を動かす言葉には、常に“鮮度”があります

 自分の感じいった部分を具体的に言うことが大切である。マニュアルも大切だが、心に響く言葉はそれだけでは生まれない。言語的なもの、非言語的なものの双方を受けとめる感覚を磨くことも必要だろう。
 
 三つ目は、正直難しい。
 この場合は「相手の特性を知る」ということから始まる。「結果を誉める」「過程を誉める」「外見を誉める」「内面を誉める」…それぞれのタイプをすぐに把握はできないだろうが、反応を探りながら「相手がうれしい」ことを探り出せるかだ。
 心理学的な学びも必要だし、スキル的なトレーニング抜きでは力は高まらないだろう。

 いずれにしても、ほめることも何か溜めの形にしていかないとそう易々と「ほめる技術」は身につかないだろう。具体的に自分に課すことなしには、高まりを見せる技術などない。それも継続という条件抜きには非常に浅いものとなる。

 「自分で自分をほめる」という印象的なフレーズを口にしたのはあの有森裕子であるが、記事に載っている彼女のインタビューにも納得がいった。
 かのフレーズは、彼女が高校時代に補欠として参加した女子駅伝の開会式で、高石ともやが歌った詩の中にあったという。有森は「歌詞にはひかれたが、未熟な自分が言ってはいけない」と思ったという。

 自分をほめていいのは、もっともっと自分が高いレベルに達したときだと。

 そうしてあの言葉が聞かれたのは、初めての五輪で銀メダルをとった時でなく、ケガを乗り越えたアトランタの銅メダルの時だった。有森が耳にした開会式から十年以上の月日が流れていたのである。

 一時、流行語のように扱われたあのフレーズではあるが、時間の重み、努力の重みこそがその芯にあることを忘れてはいけない。