すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

軽やかにうっとうしくも書き続け

2014年08月31日 | 読書
 「2014読了」89冊目 ★★★

 『みんなのつぶやき・万能川柳』(仲畑貴志・編 情報センター出版局)


 ぼんやりと川柳の本読んでみた

 「生きにくい時代によく効くクスリ」だと

 二十年前も明日も地続きだ

 世の中も自分も笑いにしてしまえ


 しみじみとわが胸に響く句五つ


  眠れないしかし起きてもいられない(山下澄男)
 
  正論は自分に損だ黙っとく(野口幾山河)

  酒飲んで意外と小さい事を言う(三枝二六)
 
  丸い石初めはとがっていたんだよ(西本みちます)

  言いづらいことは相手も聞きづらい(大友忠男)



 漂泊の俳人哭くかこの一句

  訳言っても訳言っても嘘の山(河又則雄)

二学期はこう始まった

2014年08月30日 | 雑記帳
 始業式。夏休み前からトイレ改修工事が続き一部が完成したので、トイレネタで話そうと決めた。古い呼び名「後架」「雪隠」…そして「便」という感じの意味を考え「すらりと通る二学期にしよう」とまとめる。なかなかシンプルなプランでいいと思ったが、タブレットと大型テレビの接続が具合悪く、結局変な提示で欲求不満である。これを「不便」という。


 火曜日。前日の報道にもあったように、全国学力調査の結果が届く。本県はまた「トップ級」という。今のシステムが軌道に乗っていることは確かなようだ。しかしもっと多面的に見る必要はいつも感じる。一部にとらわれて、他の肝心なことを見落とさないように…。つまり目標値はまだまだあるはずだ。翌日の朝刊に苦笑いした。「本県、教員年齢もトップ級」。


 水曜日。ここ数年に比べて、夏休み明けが過ごしやすい。涼しいといえるほどだ。その中でも水泳授業は続いている。休み中頑張った子も、あまりプール通いしなかった子も、「水に鍛える時期」を大事にしてほしい。作品展も始まった。見どころいっぱいで、特に低学年の研究には驚かされる。当然、親の目や手も加わったと思うが、この学びは大きいと思った。


 木曜日。満を持して(笑)勤務校のブログを発信するホームページ本体は、堪能な職員がリニューアルしてくれた。ブログは日常活動などをわずかな時間でアップできるよう、心がけたい。マンネリにならないように今までとは違う工夫をすることも、一つの目標にしているが、とりあえず動かなければ。二学期の第2号発行となる学校報にもその旨を書く。


 金曜日。五年生に頼まれて「俳句づくり」の授業をする。つくる練習として「読んで作る」「思い出して作る」の二つのパターンで進んだ。後半は「夏の朝」を季語に限定して作らせてみたが、もっと例示をするべきだったかと反省する。第一週目の終了。夜は研修に出かける職員の壮行と代替の方の歓迎を兼ねた小宴。楽しく痛飲?した。日曜は住民運動会だ。

伝えにくいから,伝わること

2014年08月29日 | 読書
 2014読了」88冊目 ★★

 『こころに詩をどうぞ』(川崎 洋  ちくまライブラリー)

 久しぶりの詩の本だ。
 といっても詩集ではなく,川崎洋がラジオ番組で取り上げた詩を紹介し,解説を加えるスタイルで編集された内容だ。

 それでも久しぶりにいくつかの詩に触れて想うこともあった。

 方言詩がいくつか取り上げられていて,それらが妙に力を持っているなあと感じた。
 「言葉の根っこ」と見出しがつけられて,まとめられていたが,やはり書き手が立ち上がってくるようなイメージがある。
 自分に近い東北弁だけでなくそう感じてしまうのは何故だろうか。

 朴訥で,ありのままに投げ出されたような表現(もちろん実は計算されているのだろうが)が,叫びとしての詩には相応しいのかもしれない。

 島田陽子という詩人はあの大阪弁で書きまくっている人だが,「東京生まれ」というのが意外だった。こんなふうに語っているという。

 「大阪にどっぷり浸かっておられる方よりも新鮮だった」

 それは言葉の扱い手としては有利に働くのであろう。
 今,どんな地方でも方言にどっぷり浸かることがないから,余計に胸をつかれるのかもしれない。

 また逆に,人が心に持っている本音は生まれ育った土地,時期の言葉によってしか表現できないのではないか,という思いも残る。
 だから,知らない土地の方言に込められる熱のようなものを感じているのかもしれない。

 そんなことを考えていると,ふだん「みんなに伝わるような言葉」で,のうのうと記していることなど,非常に薄っぺらに思えてくる。

 伝えようとして,伝えやすい言葉だけを使ったのでは,本当に伝えたいことは伝わらない…そんなおかしな考えにとらわれる。

 方言詩を書く人たちに,ちょっと耳元でささやかれた気がする。

 「お前,言葉の根っこを忘れていないか」と。

発展のための礎に学ぶ

2014年08月28日 | 雑記帳
 地域にある企業を見学する機会があった。この企業は町に誘致されてから50年近い歴史があり,着実に大きくなっていった。身内も勤めているからではないが,この地で生き残っているというのは大したものではないかと思う。部長さんのお話を聴き,根本はこの社是,協働指針によるところが大きいと感じ入った。



 「環境にやさしい」は今ならどこの企業でも言いそうなことだ。しかしここの創業者は70年前にそのことに言及したという。これは凄いことだ。コンデンサという工業発展を支えてきたモノづくりは,いわば工夫の塊のようなものだが,「環境」という一つの芯を忘れずに継続してきたことが発展の礎なのだろうか。



 「人にやさしい」点も見るべきものがある。この会社はリーマンショックのときも解雇をしなかった。単なるアピールとは違うのではなかろうか。数年前に地元紙で話題になった出産祝い金制度も徹底している。第一子に10万円,そして第二子は20万円…と増えていく。喜びあう精神が具体化されているということだ。



 技術開発競争がシビアのようだ。中国に名前をパクられ,粗悪品が出回りクレームがきたという笑えない話もあった。教育現場ではいい技術はどんどんパクるのが普通であり,その面ではずいぶんと違う。ただ我々も技術を真似るだけでなく,一歩高めようという気概こそが対象に届くということを忘れてはいけない。



 企業と学校はもちろん違う。モノづくりと人づくりも単純に同一化はできない。ただ「質の向上」を目指す点において,労働者として多くの共通項があるだろう。「協働指針」の最後にある「知恵を使え,気を使え,手を使え」に尽きるか。技術と気遣いと直接動くことは,どの現場にも必須であり推進力となっている。

発言に頭をひねってみて

2014年08月27日 | 雑記帳
 ある会に参加して気になった言葉がいくつかあったので、書きとめておく。一つめは「学び直し」である。この文言は小学校ではあまり使われないと思う。意味としてはとらえられるが、対象者をどう設定しているのだろうか。仮に病気や不登校によって通学できなかった者を指しているのなら、直せる範囲の学びということであり、どうも表現が狭い気がした。



 「適正規模」。このことについて質問があり、答えた方が「経験則的なことから」という返答をされた。根本的な問題をはらんでいる。「変化に対応するため」と言っておきながら、自分たちのしたことに疑問を挟まない。そういう発想を払拭していくための改革なのではないかと思う。結局、前例主義と効率主義に陥るパターンか。これでは数字合わせと言われる。



 本県教育のキーワード「問いを発する子どもの育成」。こうした会での大人の発言を聞き改めてわかることがある。「質問ありませんか?」と訊かれ、「問い」を発する人の多くは、意見や考えを持っている。それと刷りあわない時、またその範囲からはみ出ている時に、「問い」という形で口が開かれる。問いとは、他者でなく自分を理解しようとしている面が大きい。



 「頭のいい子を地元に残す教育を」といった発言があった。なるほどと思った反面、「頭のいい」という価値観、社会構造、序列主義…といった様々なことが頭に湧きあがった。「幸せの形」を政治がどう誘導したのか、古くて新しい問題である。経済にばかり目を奪われている現状では、都市への集中化は止まらないし、震災復興においても一石すら投じられない。

カリスマが語る「一歩先」

2014年08月26日 | 読書
 「2014読了」87冊目 ★★★

 『直感力 カリスマの条件』(津本 陽  幻冬舎)


 著者が歴史小説家であることはなんとなく知っていた。
 しかし、その分野にはまったく疎いので、序を読み初めて「信長」に強い興味を抱いて書き続けていることがわかった。

 「カリスマ」といえば、信長は確かに当てはまるのだろうな。
 「直感力」といえば、桶狭間の戦いがイメージできるが、歴史的な考証を知れば、そんな単純ではないことがわかる。
 かなり綿密に、戦略的に言動を組み立てていることが、そのエピソードから伝わってきた。

 ただし、結論は次のようになる。

 非日常的状況がカリスマを際立たせる
 

 それを利用できる好奇心、胆力…もっと言えば勝負勘のようなものを身につけているのがカリスマなんだと思う。
 信長に似たタイプとしては坂本龍馬が取り上げられていた。納得できる。

 また別の例として、北条早雲や毛利元就、そして徳川家康などが挙げられる。
 これらは決して派手ではないが、芯を曲げない、見方によってはかなり固執した信念をもっている人物だ。こういうタイプは長生きできそうである。

 最近の方?で取り上げられているのは田中角栄と松下幸之助、まさしくカリスマだろう。


 とてつもないこれらの大器の生き方に何を学ぶかと言えば、ある意味自分が試されることにもなるが、この本で一番心に残った言葉は、松下幸之助があるインタビューで語ったことだ。

 「一歩先だけを見たらいいんやないかということですね。それを三歩も四歩も先を見ようとすると、失敗しまんな。
 つまりね、十年先にこうなるという見方も必要ですが、それより来年はこうなるということのほうが大事ですよ。」


 「近視眼的」と批判される方もいるのかもしれない。
 しかし、このカリスマがいう「一歩先」の重みをどれほど感じられるかが大事なのではないか。
 いわば「着実」ということの典型。

 今朝見た「ほぼ日」で糸井重里が,こんなことを書いていた。同じだと思った。

 「いつできる」は約束できないけれど、
 「いまはじめる」は、「いまできる」ことだし、
 「夢」とやらを、「できること」に千切って、
 「できる順番」にやっていくことならできそうです。


慌ただしいなかに三葉が残る

2014年08月25日 | 雑記帳
 夏休み終了。ここ数年のなかでは最も慌ただしかったかもしれない。地元の学校勤務になり,さらに校内外の改修工事が始まった。そのため人の出入りが激しく,騒音も結構あり,その面が暑苦しかった。夏休みのプールの声は好ましく聞こえるが,静寂が多くあるからこそ,気持ちのめりはりがつけられるのだと思う。


 研修面は忙しいほど充実していたと言うべきだろう。町の研究団体,地区の国語研究会,いずれも主催の立場だった。実務は多くの人がしてくれたとはいえ,自身も動くことが多かったので,少しハードだった。「鍛える国語」の千葉大会行きもとんぼ返りで落ち着かなかったが,得たこと,考えたことは十分にあった。


 読書は15冊ほど。冊数としてはちょっと物足りない。実際にまだ読んでいない新刊本,再読を宣言しながら開かない本などある。雑誌を読んでえらく気にいってしまったのは「武雄市図書館」のことだ。もちろん以前から注目はしていたが,市長の記事を読み,納得の連続だった。要は快適さなのだ。訪問してみたい。



 家庭人としてはそこそこ役割を果たした。久しぶりに観光目的で東京にもいったし,親類に関わる諸事も一定の責任を果たした。義理を欠いていた恩人とも懇談できた。まあ,そう考えると結構充実していたか。手をかけなかった写真整理をしたら「クリーンアップ」「浅草」「大曲の花火」3枚ピックアップできた。

「識らず」に込められた警告

2014年08月24日 | 読書
 「2014読了」86冊目 ★★

 『揺れる大地に立って』(曽野綾子 扶桑社)


 「東日本大震災の個人的記録」と副題が添えられているこの本を手にとってみたとき,この著者ならこんなことを書くという予想めいたことは浮かんだ。

 そういう心理で読み進めることの意味とは,予想を確かめながら浮かんだ認識を強化したいという表れなのだろうか。
 とすれば,もともと自分の中にある(それまでの経験や読書などで培われた)ことしか読み取れないのだろうか。

 いや,読書するということはきっとそれ以外の何かしらを求めている。それがどんなに小さくとも価値の粒として,自分の中に溜められていく…漠然とした想念ではあるが大切にしたい。


 さて本の内容は,結果的に予想を大方外れなかったと思う。

 もちろん多くの被災者に対して心を寄せながら,いわゆる硬派としての発言は揺るぎはしない。
 曰く

 運命は途方もなく人を裏切る

 「安心して暮らせる生活」などない

 人間は常にどこかで最悪のことが起こるかもしれないという覚悟を常にしておくべきだ。



 今や「安全・安心」は唯一無二のキーワードのように私たちの前にある。
 しかし,誰しもが「絶対」がないことは知っている。
 「だからどうする」という問いの前に分かれ道があるのだが,判断を下すのは結局のところ,経験でもなく,データでもなく,結局は覚悟なのだと思う。

 もちろん,仕事上の諸々のことは,目的そして現実をしっかり把握したうえでの覚悟である。
 先日の会議で少し話題になった安全上の件でも,いったいそれは何のためにあり,どんな状況が付随してくるのか,多面的に見渡さないと,どうしても形式に走っていく傾向がある。

 著者はいみじくもこう記す。

 国民全体が知らず識らずに感染している「安心病」


 「識らず」に込められているのは,判断力の欠如への警告であろう。

 この著で新たに拾った価値の粒は,著者の覚悟が実に具体的であったこと(災害に対する個人的な備え)と,最終章「十人の美女の寝顔」という見出しに込められた思いである。

 多くの死者の顔と対面した被災者が語った,苦悩からの脱出を図る一つの暗示のような表現。
 そこには,人生を生き抜く逞しさへの深い共感が裏打ちされている。

潜在と顕在をつなぐもの

2014年08月23日 | 読書
 「2014読了」85冊目 ★★

 『ヒドゥンカリキュラム入門』(多賀一郎  明治図書)

 この著では,ヒドゥンカリキュラムを「潜在的教育効果」と定義づけている。「かくれたカリキュラム」と微妙な差異も感じる。語義的な点はさておき,中心は「プラスのヒドゥンカリキュラム」だった。「かくれた」「ヒドゥン」というより「教師のもつ,備えている」面が強いように感じた。「セルフ」では変か。


 少し分析的な見方をすると,教師自身に備わっている性向に強く関わることと,技術として身につけるべきことに分けられる。前者は,学級づくりだけでなく,個別対応や保護者対応にも大きく影響すると思う。だからこそ,その点をプラスに転じさせようとする発想と実行力が一番のポイントと言えるかもしれない。


 構成の面白い点の一つに,小見出しとまとめ?の連動がある。いくつかのまとめのパターンがあるようだ。「趣旨説明」「趣旨強調」「具体策」「代替策」…特に最後が実践的である。「教室に音楽や歌がある→音楽や歌が苦手ならCDがある」「笑いをとる→笑いが苦手ならユーモアたっぷりの絵本を使えばよい」



 この本では「優れた実践家に共通するヒドゥンカリキュラム」として三つの点を挙げている。「笑顔がすてき」「素直である」「話題が豊富」…校内研にお招きした佐藤正寿先生の模擬授業や講話をお聞きしながら,深く納得できた。そしてたぶん,この三つは総合的に表れて強い効用を示すという点も強く感じた。


 佐藤正寿先生が,講話の最後に有田和正先生の模擬授業を映された。6分間視聴し,学びや気づきを3つ以上書き出すという課題である。素直な自分(笑)が取り組んだら6つは書けた。短いグループ協議をして,これは使えるとすぐ感じた。まさに「ヒドゥンカリキュラム入門」の有効な手法と言えるのではないか。

かくれたカリキュラムならそこにもある

2014年08月22日 | 読書
 「2014読了」84冊目 ★★★★

 『「かくれたカリキュラム」発見・改善ガイド』(横藤雅人・武藤久慶  明治図書)

 校内研修にお招きする佐藤正寿先生が,講話の流れを事前に知らせてくださった時,「ヒドゥン・カリキュラム」を最初に取り上げる予定を示されていた。
 以前から興味は持っていたが,未読だったので急いで注文し,研修会前に読了することができた。
 
 引用されている宇佐美寛先生の言によれば,「かくれたカリキュラム」とは「教師が意図も意識もせずに教えつづけている教育内容」ということができる。
 この点に関わって,自分が発信したり課題として持ち続けてきたりしたことがある。

 一つは,自覚的な授業行為である。
 授業における教師の言動は,どの程度意図的意識的であったか,を問われるべきだという考えである。
 これはおそらくその昔,ビデオを使った一人分析やストップモーションなどを経験したことが大きいだろう。

 もう一つは,学級担任を外れてから様々な学級に出向きその違いを見るにつけ,感じてきたことである。
 担任の性向や言動は子どもたちにどのような影響を及ぼしているのか,という点である。


 この著書は「学級経営」「授業場面」という二つの面から,「かくれたカリキュラム」を焙りだしている。
 自分が考え続けてきたことも重なり,まさに納得できる数々のことであった。

 都市部での新採用者の増加があり,こうした面のニーズが高まってきているのかもしれない。
 また同時に,通常の「かくれない」「明らかになっている」カリキュラムだけでは,教育はうまく機能しない現場の切実さが高まってきているのかもしれない。

 この本には焙りだされた「カリキュラム」への改善・強化策が明示してあり,これらを具体的に実施していくならば,かなりの効用が期待できるように思う。
 ただし,「かくれたもの」は大抵根深いように,継続的にほり続けるようなイメージで進むものである。いわば長いスパンをかける覚悟が必要なのだと思う。

 「シャーペン禁止の指導」に見る多面性,拡張性に裏打ちされた計画的な指導。
 「教育の目的から考える『かくれたカリキュラム』」の項にある筋を通す骨太な実践。
 これらが一朝一夕で可能なものでないことは,現場を知っている者なら誰しもわかることだろう。


 行政官である武藤氏が最終章をうけ持つ構成も大きな特徴である。
 学校教育を束ねていく立場の方からの発言は,また違う重みがある。
 「教員という教育環境」に対する鋭い指摘であると感じた。
 その意味では研修面での目配せがより広く,深くなることは当然だろう。

 しかし同時にそれは,行政官自身,またはそれにつながる大きな組織や社会の「かくれたカリキュラム」の存在も意識化されなければいけない。

 教員の資質向上策なら数々ある。今目の前で出来ることをしつつ,おそらく子どもたちの教育環境整備ならもっと優先順位の高いことがあり,それをしっかりと頑張ってほしいのですよ,「激しい自己嫌悪」はその後で…と皮肉な口調になってしまいました(これはマイナスのヒドゥン・カリキュラムに近づきますね)。