すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

査定シートを、査定する?

2006年09月29日 | 読書
『プレジデントFamily』(プレジデント社)
以前から書店では立ち読みしていたが、今度は特集の名前のインパクトが強い。
よって購入して熟読?してみた。

担任教師の能力判定

 なかでも大きく取り上げられている「私の『教員査定シート』をお見せします」は、
陰山英男氏、藤原和博氏、若月秀夫氏というそうそうたるラインナップである。
 読者層は明らかに「親・保護者」であり、きわめて読みやすくビジュアルな誌面づくりとなっている。
 『査定シート』と名づけていいかは疑問がわくが、いわゆる「観点」が三氏なりに10項目示されている。
 それが、三氏の違いを際立たせている部分もあり、比べてみるとなかなか面白い。
 陰山氏は、やはり「現場」出身という目で見ている。
 藤原氏は、「改革者」ならではの言葉が並んでいる。
 若月氏は、熱を持った「教育行政マン」のとらえ方である。

 陰山氏だけが書くことができた項目は、これである。

できない子の指導にこだわるか

 この感覚は、直接子どもと向き合って根づくものであり、大事にしたい。
もしかすれば、効率性とは遠い観点かもしれないが、そこに教育の本質が見える。

 藤原氏が書いた項目で、実に「らしい」と思ったのはこれである。

大人ならではの『凄み』を、何か一つでも子どもに提示できるか

 「得意分野」という言葉は陰山氏も出してはいるが、「凄み」と書いたところに藤原氏のエネルギーを感じる。改革の先頭をきる人物はこうしたイメージを抱えているということではないか。

 若月氏の項目は、いわば官制研究会でもよくみられる言辞が多いのだが、少し異質かなと感じたのは次の項目である。

生きていくうえでの自分なりの座標軸を持っているか


 どんな意味合いを持たせているのか、想像するのが難しい。
 信条、価値観ということなのだろうか。目標や願いというものだろうか。

 教育長に突然こんなこと聞かれたら、やはり少し怖い。

 「あなたのX軸は何ですか。Y軸は何ですか。」

 「どんな軌跡をたどっていますかね。」

青空が後押ししてくれるもの

2006年09月27日 | 教育ノート
今年の「秋分の日」は本当にいい天気でした。
どこまでも青さが広がっていくその空を見ながら思い浮かんだことをもとにして
いつもながらの駄文を書いてみました。



 今年の「秋分の日」は土曜日と重なって、なんとなくアリガタミ?が薄かったのですが、この祝日の主旨をご存知でしょうか。
 資料によると「自然をたたえ、生物をいつくしむ」「祖先を敬い、亡くなった人をしのぶ」とあります。お彼岸という仏教行事に由来した祭日ということになります。
 「昼と夜の長さが同じ」「太陽が真東から昇り、真西に沈む」という天文・気象のことも秋分の日の特徴です。従って、自然の営みが農耕と関わりを持ち、「収穫に感謝する」という意味も込められているはずです。
 多くの家庭で「餅(おはぎ)」が作られ、お供えされたり、墓参りに出かけられたりしたことと思います。

 こうした体験が子どもたちに与える影響は案外大きいのではないでしょうか。世の中が合理的になればなるほど、ご先祖様や地域の自然を敬い、崇めるという純粋な行為の価値が高まるような気がします。
 「お墓に眠る人がいるから、今自分がここにいる」という、ふだんはあまり意識しないことを、お彼岸やお盆の時ぐらいはしみじみ考えたいものです。
 子どもに対しては、面と向って話さなくても「ひいじいちゃんは、あんこ餅が好きだったなあ」という会話や、墓前に花や好きな物を供えさせたりする行為に触れさせていくことは、心の「豊かさ」をつくり上げていく土台になっていくように思います。

 豊作を願う心は、子どもにとっては勉学や健全な心身づくりが中身です。
 「収穫の秋」は校内外で様々な活動、行事が待っていて一人一人の心身を鍛えてくれることでしょう。
 …素直な気持ちでお墓に手を合わせた子を、後押ししてくれそうな真っ青な色がどこまでも続いた秋分の日の空でした。(9/26)

縷述「つながる授業」その6

2006年09月25日 | 教育ノート
 授業の中での言葉の使い方の意識は、ある意味子どもに力をつける教師のレベルと同等のように思う。
 ねらいを定める、こだわりを持つ…そのために少しずつ書いている。 



 この前の校内研修で、いわゆる「話型指導」のことが話題になりましたが、モデルを掲示するしないということは、どんなふうに意識させるかと大きく関わる問題だと改めて気づきました。「掲示」全般の問題とも言えるので、これは後日検討してみたいと思います。

 さて、「つなぎことば」のことですが、これは接続語そのものを指しているわけでなく、文字通り「ことばや文章をつなぐ」という意味です。だから、話す方法はもちろんですが、思考法という面と大きく重なっていることはおわかりと思います。

 「もし~~(ならば)~~」と「例えば~~」という言葉は、自分自身が最も重視してきたことばのように思います。理由づけや具体化を意識していたからでしょう。他にも「なぜなら」「したがって」「さらに」…といった言葉も取り上げて使うことができるようにしたいものです。

 最近読んだ雑誌に、それらの発展形として参考になるものを見つけました。

佐藤先生はその指導技術の一つとして、授業中の子どもたちの発言例を時をおかずに教材化することに求めておられた。例えば「○○さんにつけ足して」「私もそう思う」「ちょっと見方を変えて」
「みんなと少し違う」といった発言を取り上げてスキル教材としての「学習の手引き」とされている。            
~大内善一(茨城大教授)『国語教育誌2006.7』(明治図書)~
 

 前回最後に書いた指導例と似通っていることがわかります。そういう地道な積み重ねが、話し方も考え方も伸ばしていくのだと思います。「○年生でこの言葉を…」といった段階を細かくする必要はあまりないと思いますが、取り上げる言葉は絞って徹底的に続けた方が効果が上がるはずです。
 そして「書き言葉」にも使っていくことで、相乗効果がでてくるのではないでしょうか。

もっと悩ませもっと逡巡させ

2006年09月24日 | 雑記帳
 ある会で、指導的な役割についている方がこんなことを話した。

「今の子供たちは、自分で選んだり決めたりする力が足りない」

 なるほどと思いがちな言葉だが、考えるとかなり雑な表現であり、間違った方向にいきそうに思う。

 まず、これは「昔の子ども」と比較しているのだろうか。
 仮にそうだとしたら、それは見当ちがいだろう。
 昔の子どもには、選択する場が圧倒的に少なかったし、選択しなくても決められていた道を歩めばよかった。
 もちろん、それに反旗を翻した勇敢な子どもたちはいるにはいたが、数多くはない。
 「選ぶ力・決める力」の平均値?が高かったとは到底言い切れまい。

 次に、何を根拠とした「選ぶ・決める」なのか。自分の意思を伝える術は持っている子が多いし、何かで悩み苦しむという姿が日常的であるとは言いがたい。

 今の子たちに選ぶ力、決める力が足りないように見えるとすれば、以前と比べてそういう場面が圧倒的に増えていて、子どもたちの現状がそれに追いついていかないというだけではないのか。

 将来そうした選択の場に立たされることが多いという予測のもとに、いや過剰な消費社会という現実のもとに生きている子どもたちには、選ぶ、決める機会が圧倒的に多い。
 そしてその選択、決定が正しかったかどうかは、なかなか見えない。表面的には正解のようにみえても、どこで足元をすくわれるか不透明な時代において、不安な気持ちを抱えながら、選択・決定を繰り返している姿が見えるだけである。

 そして、それは子どもだけでなく、私たち大人の姿でもある。

 真の意味での「選ぶ力・決める力」(それは何だ!幸せに結びつくということだ)を養うためには、自分で選んだり決めたりする機会を増やすことよりも、「考える力」「耐える力」を鍛え、もっと悩ませもっと逡巡させてもいいのではないか、などと時代遅れのようなことを考えている。

「面倒なこと」は、かなり教育的である。

2006年09月21日 | 雑記帳
 研究会のシーズンになって、国語科に限らず「話し方」が話題になることが多い。
 頻繁に出されることとして、「話型の掲示」の問題がある。
 教室の前面によく貼ってあることも見かける。

 「あれは、どうなんだろう?」
という、きわめてぼんやりした疑問が話になったことがある。
 きわめて、原則的にこう言った。
 「どんなふうに使うか、という問題じゃないの。」
返答したものの、自分自身も少し物足りないし、頭の中で整理してみることにした。

 「常時掲示」のねらいは、それは目標や指導事項を意識させたいということにつきるだろう。
 それが効果的かどうかを、どのようにしてはかるか。
 なかなか難しい問題だ。
 それでは「常時掲示」の活用のメリットはどうだろう。
 貼っておけば、いつでも使えるし、すぐ指して意識させられるだろう。
しかし、同時にそれが危険性でもある、ということだ。

 つまり、いつでも見られるということは、見ないということに通ずる。
あれども見えずというと状態に陥りやすい。
 もっと言えば、指導者はそれで安心してしまい
「私は、指導しているのですよ」といった錯覚を起しがちではないか。
 指導しているけれど、身につかないのは子どものせいですよ…
というアピールも込められたりしていて…(これは言いすぎですね)

 では「常時掲示」の正反対、「その都度書く」という手法はどうだろう。

 面倒である。
 その度に、話型のことを取り上げて、肝心のねらいから逸れる場合もあろう。

 しかしそれは、その面倒なこと、少し心配なことを機会を見て行うという行為を子どもに見せることでもある。
 今日もまた書きながら、指導者自身が意識していくことでもある。

 どちらが教育的かは、はっきりしている。

 私たちは効率性を求めて教育研究をしているが、同時に自らの行為の意味づけをしっかりしておかないと足元をすくわれてしまう。

 「常時掲示」するならば、かなり意図的な利用を仕組むことである。
 

学びの習慣づけをする「とき」

2006年09月19日 | 教育ノート
「学力向上」が薄っぺらにならないようにしなければいけない。
「学力」とは何か、という意識を棚上げにしておくことは危険だなあと思う。課題とされていることはたくさんあるのだが、
子どもたちが学習に向かっていく姿勢を育てることこそ、核になるはずだ。
家庭学習は、やはり見逃せない要素だと思っている。
この後も、幾度となくこうしたことを書いていくだろう。



 六年生の教室で、漢字の学習をした時に「秋」という字の成り立ちについて考えました。「禾」は稲穂が垂れている様子からできたこと、そして「火」はそれを乾かすという意味で、まさに収穫を表す季節であることがわかります。文字通りの「あき」という意味と、もう一つの意味があることについて触れました。これは大きな漢和辞典に載っているのですが、「とき」という意味です。しかも、それは「大切なとき」を表わします。

 昨日、由利本荘市で行われた文科省委嘱の「学力拠点形成事業」の中間公開研究会に参加しました。東由利地区三校が指定されているのですが、もちろん授業改善などを内容としている外に、共通の柱立てとして「家庭学習の重視」もあって保護者の皆さんに対しての働きかけも強めているとのことでした。家庭向けのリーフレットなども配布され、内容や親の関わり方の例などが示されていました。そこで強調されていることは次のような言葉に表れています。
子どもたち家で落ち着いて勉強できるような環境をつくり、学びの習慣づけをしてあげてください


 本校の家庭学習の実態(4年以上)は、7月の県の調査の中から「時間」だけをみると、全県平均と比べてはなかなか良い結果がでています。もちろんこれは「質」も問わなければならないことで、「何を、どのくらい、どんな方法で…」とトータルに見て学校での学習と結び付けていくことが大切です。それにしても小学校では「家庭学習の習慣づけ」が第一で、その意味で本校の多数の子がある程度継続できていることについて、各家庭のご理解、ご支援は本当にありがたいことです。

 まだ不十分な子どもも確かにいるようです。家庭学習の習慣化は「(中身はともかく)、きまった時間に、机に向かう」ことから始まります。これは「時刻」と考えてもいいし、「○○が終わってから」と考えてもいいと思いますので、その子の興味や関心にあわせた形で、今できることから徐々に確実なものにしていきたいものです。身につけるべき時にしっかり行うことが「実り」に通じることでしょう。子どもたちの「大切なとき」を逃してしまわないように声をかけてあげてください。(9/15)

「不愉快競争」に参加している子どもたちよ

2006年09月18日 | 雑記帳
 非行や問題行動は、自分を誰かに認めてほしいことの表現の一つである
といった考えは繰り返し聞いてきたし、なるほどとも思ってきた。
 そう考えると次の言葉も納得ができるのだが、同時に「何故」という疑問も浮かび上がってくる。

 子どもたちが必死になって「うぜえ」とか「むかつく」とか口走るのは
昔の子どもが庭掃除したり、打ち水したりして親から認められようとしたのと
人類学的には同一の目標をめざしたふるまいだろうと思います。


 『児童心理』誌5月号の内田樹氏へのインタビューである。

 内田氏は、その理由をこう語る。

 今や、家庭内で家族のメンバーから社会的承認を受ける
もっとも効率的な方法というのは「不愉快であることを示す」ことなんです。
・・・(略)・・・・
そういう家庭で育った子どもは物心がついてくると
まずその「不愉快競争」に参加するようになる


 「不快に耐える」ことが、家庭内で流通している貨幣となっているという。
それは、家事労働の劇的変化による妻と夫との関係の変化に発端しているという分析である。
 不愉快な顔をしてもどる父、不快に耐えた顔で迎える母…
その中で育つ子どもは、不快な言動こそが表現の手段とるのは当然のことかもしれない。

 ずんとした重く暗いものが残ってしまう文章だった。
 そんな子どもたちが増えている、という認識を、
どう仕事に反映させるかというときに、救いになる言葉は簡単には出てきはしない。

 ただ、そんな心を解きほぐし、暗いものに支配されないような働きかけが
私たちの仕事の一部であることは確かだと思う。

傾聴力を育てるための時間配分

2006年09月16日 | 雑記帳
 昨日と一昨日の二日間で、三つの国語の授業を参観する機会を得た。
 
 このうち二つは、低学年の「話すこと・聞くこと」の単元であり
もう一つは、高学年の「発表会」(おそらくは読解単元?の終末段階)である。
 いずれも子どもが発表し、それに対して質問や意見などを述べ合うという形だった。

 それらの授業の良し悪しはともかく、共通していることがいくつかある。
  
 絵や資料が用いられる
 評価的な聞き方が求められる(実際に評価する場も入る)
 授業の後半になると、集中を欠く子がぐんと増える


 視覚資料や評価は、子どもを飽きさせない工夫であるとともに、授業のねらいとも重なる。
 しかし、それにしてもやはり圧倒的に多い「聞く側」を45分をモタセルのはなかなか難しい。

 音声言語を主体とした授業は、やはりもっと短時間で行うべきではないか。
 でなければメニューをもっと豊富にして、目先を変えた内容で構成するべきではないかと思う。
 もちろん、一定時間じっと耳を傾けることは必要であるが、
その「傾聴力」を育てるための時間配分が、いかにも検討されていない気がする。
 
 めあてを確かめ、それにそって発表を聞きあい、評価をする…
どの学年も似たようなパターンでの授業づくりであり、
そこで力をつけているのは果たして何人の子たちなのか見極めが必要だ。

 そうすれば、必ず時間配分がポイントとして浮かび上がってくる。

顔を上げられなかった教師の心

2006年09月14日 | 雑記帳
 NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」は楽しみにしている番組である。

 田尻悟郎氏の回を見て、もちろんエンターテイメント性や学習の個別化の方法など
興味深く思ったが、それ以上に考えさせられたことがあった。

 田尻氏が、地元に帰り「やり直す」きっかけとなった事件?である。

 おそらくは鉄拳も辞さぬ熱血指導で、中学野球部を指導していた時
逆転不可能と思われた場面を、ひっくり返した野球部員たちが後日語ったこと。

「監督を見返してやりたくて、こんな所で負けてたまるかと頑張った」

 この言葉に、田尻氏は顔を上げられなかったという。
実際の雰囲気がどれほどのものだったか想像しにくいところもあるが
この言葉を、「もう、こんなことしちゃいかん」と受けとめた心に
田尻氏の目指すものがあるのだろう。

 大きな枠で見れば(傍観者的見方とも言えなくもないが)
ぎりぎりの場面を逆転するほどの気力や技術を植えつけたのは、厳しい指導であり
有無を言わせぬ練習は「世の中には理不尽なことがある」と言ったことを教えたかもしれない。

 しかし、そこにやはり心が通っていなければ…と田尻氏は考えたか。

 やり直しのために工夫した様々なことは、心を通わせるための方法だった。
 「エンターテイメント」「個別指導」「機を待つ」…

 つまりは、「相手を見る」ということにつきる。

 野球部員の述懐に顔を上げられなかったのは、
今まで見ていなかった相手を、今さら見ることができなかった、ということである。

アニマドールの言葉は…

2006年09月13日 | 雑記帳
 「読書へのアニマシオン」が日本に入ってきた頃からの推進者の一人である黒木秀子氏の、実演と講話を拝見する機会があった。

 「アニマシオン」という言葉はある程度普及したが、実際にアニマドールとして多くのキャリアがある方は近隣にいないので、屈指の存在といってもいいだろう黒木氏の実演は大変興味深かった。手馴れた進め方であったし、細かい部分にもアニマシオンに賭ける熱がよく伝わってきた。

 気にかかる言葉があった。

 読書へのアニマシオンは、読書ゲームとは違う

 
 講話の冒頭に、かなり強い口調で言い切った。
 質問しようと思ったが、聴衆に少し混乱を招くかもしれないと思い、控えた。
 「読書(へ)のアニマシオン」自体が学習ゲームの一類という見方もあり、黒木氏本人も「学習ゲーム最前線」というテーマで、アニマシオンを紹介した連載を書いていたこともあった。モンセラット氏の著書の中にも「作戦」と同義としてゲームという言葉が使われている。
 従って、黒木氏の言う「(読書)ゲーム」の定義がはっきりしないままであるが、今日の実演や講話から感じ取ったことを踏まえて、黒木氏の言葉の自分なりの解釈を書いてみたい。

 「ゲーム」の要素を、競争であり、勝敗であり、正解があり、偶発性が高いととらえてみる。
 そう考えると、「読書へのアニマシオン」とは大きな違いが出てくる。少なくても、今日の実演はそれを物語っている。
 競争させないし、勝敗をつけたりしない。クイズ的な問いであるが、誤っていてもそれを認めていく。他の子からの正答を出させるにしても、了解を求め、それを絶対視しない。教師が、正しい読み取りを強調していない。つまりはひたすらに「引き出す」ことに終始する。
 「読む力」を求めてはいるが、興味付けを重視し、長いスタンスで考えていることがわかる。しかし、それはかなり計画的な「作戦」と、目標に照らし合わせた言葉かけによって進められる。
 特に、収束的思考を求める第一段階の「注意」ということをかなり意図的に進めていることが見てとれた。
 絵だけでなく、登場人物の表記にこだわったりするのは最たるものだろう。

 「読書へのアニマシオン」は魅力ある読書推進運動だと思う。
 しかし学校教育への導入には、課題が多数ある。「金」「人」「位置づけ」、そして「参加の自由」という原則をどう学校の中に滑り込ませるかというすり合わせも難しい。
 「アニマシオン的手法」なら十分に可能だろうが、本当に取り組むとすれば覚悟がいるなあ、と改めて思わされた研修会だった。