すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ドックで読書,その2

2012年10月31日 | 読書
 『一斉授業 10の原理 100の原則』(堀裕嗣 学事出版)

 読みあぐねていた本なので、こんな時に?と思いながら人間ドックに持ち込んだ。
 ある意味で、授業づくりについて頭のてっぺんから足の指先までチェックするような内容でもあり、最適の本だったかもしれない。

 第1章の冒頭にある「ゴールイメージの原理」が貫かれている著書でもある。
 著者自身が当然ながら、本の構成をそのように展開していて、「年度当初に徹底させる」「授業力を向上させる」原則を結びにおいたことが典型的である。

 堀先生の本の読みやすさと説得力の強さは、そういう点の配慮(いや一貫性というべきだろう)が行き届いていることに、一つの理由があると思う。

 さて、いつもながら多くの思考を促してくれたが、一箇所だけ引用するとすれば、ここだなと思う。

 引きつけて解き放つ、解き放って引きつける、一斉授業でもっとも重要なのはその兼ね合いといえます。

 言うなればこの本には、「引きつける」原理・原則と「解き放つ」原理・原則が過不足なく収められている。

 私のような旧態依然とした授業観を持つ者は、「引きつける」に偏りがちであり、「解き放つ」活動に「学習」を位置づけることが心許ない。また、もはや手遅れでもある。
 その意味で授業者としての現役世代?には、本著で提案されているバランスの絶妙さやポイントを繰り返し強調する徹底さは、授業改善の肝となるだろう。

 小学校現場にも十二分に当てはまることが書かれているが、個人的には、少し窮屈めいた印象が残ったことも確かである。
 もし同じような感覚を持った人がいるならば、それはなぜか、具体的にどう変えたいのかを突き詰めてみたほうがいい。

 それは、教育観、指導観、児童観、授業観…どのレベルだろう。自分はどうしたい、それはなぜと自問できることは素晴らしいように思う。
 そのためのいいサンドバック的重みもある著書だ。

 「机間指導を機能させる10の原則」は、先に読んだ野口芳宏先生の著書と比較できて面白かった。
 「巡視」と「指導」の使い分けはともかく、それが「一斉授業にとって、とても重要なアイテム」に間違いなく、いわば<受け>の上達論につながるという見方も示した。

 「多くが野口芳宏氏の影響下にある」と付記した内容ではあるが、具体的・波及的である点において「机間巡視・指導」の核心がよりすっきりまとめられていると感じた。


 一斉指導を真正面からとらえた本は少ない。多くの人に読んでほしい。校内報でも紹介する予定である。

ドックで読書,その1

2012年10月30日 | 読書
 『ベラボーな生活 ~禅道場の「非常識」な日々』(玄侑宗久 朝日新聞社)

 人間ドックの「患者文庫」の書棚に並べられていたので,先日読んだ『三昧力』つながりで手にとってみた。
 著者が若い頃に京都の禅道場に入門した時の思い出をエッセイとして綴った内容である。

 「はじめに」に記された一文に,ほおぅと惹きこまれる。

 今思い出しても最もベラボーと感じるのは,あそこは「インフォームド・コンセント」なるものが全くないことかもしれない。

 禅道場とはそうした処であろうことは予想できるが,ふと自分たちの暮らす日常も振り返させられる一文だ。
 つまり,別にドックに来たからそう思うわけではないが,なにかインフォームド・コンセントの波があたりかまわずじわじわ寄せて来ている感覚を持つのは私だけではないだろう。

 案の定,私たちの仕事にもその目は向けられていた。

 病院だけでなく,学校教育においてもそうかもしれない。途轍もない目標を掲げるのではなく,控えめで現実的な目標を立て,そこに向かってちょぼちょぼ着実に進もうというのが堅実な教育らしいのである。

 この「はじめに」の文章のキーワードは「奇跡を信じる」だが,その言葉と学校教育の整合性や適合性はともかく,実はどこか自分が真底に持ちたいと願っていることが見透かされたようで,心に残る。
 
 さて,本編は半分以上が食べ物のことで,いかに修業が禁欲的な生活であるかがアピールされ,楽しみとなった「食」の印象深さが強調されている。
 しかし,そういう中で時折語られるエピソードのもつ,その「真理」に妙に納得させられた。
 「患者文庫」に戻さなくてはいけない本なので,三つだけ書き留めておいた。


 禅門では「親切」でなく,「深切」と言う。二度と忘れないように,しかも説明すぎずに教え込むのが大事なのだ。

 エピソードの詳しくは引用しないが,事前にあれこれ予告したり注意したりせずに,その事実を見て,体感して印象づける大切さが説かれている。

 道場では「好きなことをする」のではなく,「することを好きになる」能力を養うのである。

 自分とは何かを考えさせられる。

 そして,座禅中に耳に入る音について書かれた項目では,結局人間は,あるがままというけれど,様々な感覚器官は選択的に情報を感受しているのだという仏教の教えが記されている。こんなふうに語られている。

 人間は客観性など望むべくもなく,すでに観察自体が恣意的であり,それによって保たれているのが,この自分なのである。

 仏教徒ではないが,思わず合掌したくなる一節である。

まだ続いてほしい秋

2012年10月29日 | 雑記帳
 今朝のテレビで「この頃,秋が短いのではないか」という話題があった。
 気象的なデータとしてもその傾向があるようだとグラフなどが示されていた。

 今年は特に9月下旬まで真夏のような暑さが続いた。雨も異常に少なかった。
 以前だったらその時期から始めるレクリエーションとしてのキノコ採りも,この天候ではと思っていたし,10月上旬には学校に訪れた地域の方から「全然だめ」という話も聴いた。

 ところが,あるところでキノコは豊作だと言っている人もいるとの話。
 はたしてそれが全体的傾向かそれぞれの範囲でのことなのか,定かではなかったが,やはり10月中旬の休日になると,足は山へ向いた。

 2004年の一件があり,もはやあまり人に見向きもされなくなったスギカノカだが,我が家にとっては貴重な秋の味覚である。
 これは,初回,2回目とも量は少ないがまずまず採れた。
 そして,思いのほか採れたのがラクヨウだった。

 以前から通っていた?場所,昨年初めてねらいをつけ入った場所,どちらも去年とは比べものにならないほどの収穫だった。

 ラクヨウは初心者にとって見つけやすいキノコである。ある程度採れると,その佇まいに関心が出てきて,写真に収めてみた。

 大きな葉の陰に隠れていたり,樹木の根元に守られるように潜んでいたりする姿は,生物としての証しを感じさせてくれる。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-5cfa.html

 栗,キノコと,今年も秋の恵みに出会えて嬉しかった。
 まだ続いてほしい秋である。

大きな壁に気づく本

2012年10月27日 | 読書
 『国語科 授業の教科書』(野口芳宏 さくら社)

 小さい付箋を手元に置いて読み始めた。
 P110まで読み一時中断、貼り付けた付箋は4枚だった。

 三日ほど間を空けて、再び読み始める。
 第三章「4 机間巡視」からである。

 野口先生が「机間指導」という言い方でなく「机間巡視」という呼び方にこだわっていることは何度か伺っている。またときには「机間支援」という言い方(キカンシエン)で笑ったりしたこともあった。

 この項目を読んでいると、野口先生の一斉指導についての考えの揺るぎなさがひしひしと伝わってくる。改めて目を見開かせられる思いである。
 付箋を貼る箇所という読み方ができなくなって、筋の明快さに引き込まれていく。

 かつて「巡視ではなく指導だ」と、誰かの話を聞いたとき、なんとなくそうだよなあと納得していた自分がいた。
 それはやはり「指導観」というものが確立していなかっただけの話なのである。

 むろん「机間指導」という言い方にこだわって、個別やグループ指導を徹底させていくという考えもあるだろう。ただそれを決断するには大胆な指導法の転換が求められる。
 ありきたりの一斉授業をしてきた自分が、「巡視」という言葉のイメージだけに左右されて、その言葉を納得したような気になっていたことは恥ずかしい。

 「巡視」によって「点検・診断・視察」し、授業を組み立てていくのである。そこで個別的指導が行われても、それはかなり限定的なものでしかない。
 作業内容に偏った傾向や顕著な例が出た場合、全員のものにして一斉指導していくことこそ、集団で学ぶ大きな意義だろう。
 そんなふうに目的をしっかり見据えた運転、操縦をしていく「腕」の確かさが求められるのである。

 もしかすれば、机間巡視がない授業も考えられる。
 その意味では一方法にしか過ぎない働きかけである。しかし、いわば「全体視」のみの授業と比較した場合,「聴衆分析」「聴衆反応」を探るより有効な手段であることは確かであろう。
 もっと言えば、授業中における展開継続、展開修正において決定的な位置にある。
 「巡視」に込められた意味を突き詰めると、そうなるはずである。

 他の項目と違う重要性があることを証明するページがある。

 ◆チェック【陥りがちな机間巡視・教師の七癖】

 この本の中でチェック表がつけられているのは、唯一机間巡視だけである。

 一斉指導、全体指導の中で全員参加、全員保障をするための確固たるピースであり、その大きさはかなりの割合を占めていることを読み取れなければならない。
 と同時に、授業力向上の大きな壁とも言えるだろう。

三昧力に揺さぶられる

2012年10月26日 | 読書
 また「○○力」かよお…という気持ちも少しあったが、これは新鮮な受け止め方ができた。

 「三昧力」(玄侑宗久 PHP文芸文庫)

 まず「ざんまいりょく」ではなくて、「ざんまいりき」である。
 それから、「三昧」は、あの「○○三昧」だが、その三昧には深い意味があるのである。
 「文庫版のための前書き」に、こう記されている。

 日本人は本来「さんまい」と読んだ言葉を、上に何かがくることを想定して「ざんまい」と濁らせた。それによって、没頭する事柄はなんでもよくなり、とにかく普段の「私」がいなくなることを「三昧」という言葉で讃えたのである。

 これは、2000年前後からはやり始めた「○○力(りょく)」という考えとは一線を画すのかもしれない。
 例えば授業力、質問力、コメント力…
 「○○力」の多くは、どこか一点突破的に、その力を見直し、強め、目的達成を図ることが主眼となっている。

 「三昧」はそういう視点ではなく、広がりの要素を持つ言葉だ。
 禅の言葉として「無心」「無我」に近い要素があるのかもしれない。
 多くの三昧できることを持ち、幼児のごとく柔軟な心を持とう、というのが主眼である。かくありたいと思わせられた。


 内容としては、様々な媒体で書いたエッセイ集であり、話題も豊富だ。

 教育を語った箇所も興味深い。
 「ネコとヒトの教育」と題されたページでは、その比較から教育内容について語っている。
 ヒトという動物の、そして日本という民族の、必須な教育項目が何なのか揺れ動いている現状を憂い、こう結んでいる。

 学校での教育内容にしても家庭での躾にしても、自信をもってその項目を特定することこそ急務ではないだろうか。

 幾度も他から揺さぶられてきた身としては、もはや「ここだけは」と自分で確信の持てる部分を絞り込んでいくしかないと考える。

 少年犯罪について語った頁も必読だと思う。
 教育現場にいる私たちに背筋をぴんと伸ばして対峙できるか、を問いかけているように読み取った。

「考えない」流儀

2012年10月23日 | 読書
 きっと「考えない」流儀というものがある。
 そんなことを、ふと思った。

 『考えない人』(宮沢章夫 新潮文庫)

 新潮社の季刊誌『考える人』の連載を中心に構成された、ミニエッセイ集である。
 たまにその季刊誌を買うので、既に読んだ文章もあった。他の雑誌やウェブマガジンなどの文章も同じような文体で書かれてあり、こりゃあ受けつけないなと感じる人も多いことだろうと思う。

 見方によっては「無内容」である。
 なにしろ「考えない」ということについて、延々と書き連ねているわけで、その無理やり感は半端なものではないだろう。
 「考えない」ことについて「考えて」書くわけだから、本当に「考えない」ことを突きつめようとしたら、それは矛盾しているわけで、結果的にはその矛盾さえ、考えない。
 だから、いいのだ。ということになるのか。

 結局、俯瞰ということだろうか。
 どこまでも事実とそれに伴う反応を書き記し、その「考えなさ」について解説していくということは、上へ上へと視点の位置は上がっていく。このまま上がったらどこまでいくのか、というくらいに上がる。(いや,もしかしたら横へ横へか?)

 ところがその文章の多くの場合、始まりは反対で虫瞰的といっていい。
 じっくり見てあれこれ考えることから、考えないが始まる。

 目を付けやすいのは、もちろん言語。

 例えば、今私が手にしたティシュボックスだ。
 側面に書かれてある次の文字。

 プレミアムに
 しっとり


 ブルー系の箱に白文字が浮き立つ。
 ティシュである。手に入りにくい意味でのプレミアムではないだろう。
 何かおまけつきでもないようだ。
 ホントにおまけがついていれば、人は買うのではないか。
 やはり、考えていない。

 この言葉のかかり方からすると、「しっとり」がプレミアムなのか。
 つまり、しっとりとしたおまけがついているティシュだ。
 しかし、しっとりとは湿っている、濡れていることだから、しっとりが良ければ拭く必要がない。ティシュは用無しだ。
 考えていない宣伝文句だ。

 さらに、である。
 その宣伝コピーの上には、ちょっと小さくデザイン枠に入った次の文字が。

 さらに

 えっ、と思う。

 さらに プレミアムに しっとり

 何をそれ以上求めているのか。考えていない。
 どこまで、しっとりを追求するというのか。
 単に「じっとり」の言い換えではないか。

 そうでないわけを想像する。初めて使うときに、上蓋を切り取り、最初の一枚をめくり出そうと指を差し入れる。その瞬間から、しっとりである。
 さらにしっとりするというからには、指が吸い込まれそうな感覚である。

 指から手、手から腕、腕から胸へ、そして上半身全体が、ティシュボックスの中にするすると吸い込まれていく。えも言われぬ快感である。だから、「プレミアムに しっとり」なのである。

 ああ、そんな恐ろしい想像が、一つの言葉によって始まってしまう。

 「考えない」流儀とは、結局のところ、虫の眼に始まり、少し羽ばたいて上空へ向かおうとするときに、誤解と妄想をいかに広げ、自分を楽しくする究極の遊びである。

 そうでしょ、考えない人、章夫さん。

ボランティア,三つのこと

2012年10月22日 | 読書
 『あなたの夢はなんですか?』 (池間哲郎 致知出版社)

 表紙に書かれてある,正式な?題名は,こうである。


 あなたの夢はなんですか?

 そのとき少女はこう答えた。

 私の夢は
 大人になるまで
 生きることです。



 あるブログで紹介されていて反射的に購入したので,内容に関しては少しも予備知識がなかったのだが,この全部の題名を見ると,察しのつく部分はある。

 世界中に多くの恵まれない子がいて,今こうしている間にも病死,餓死している子がいることを知らないわけではない。
 それでも詳しい実態について,まだまだ知識としても行きわたっていない気がする。
 現に私自身はモンゴルの「マンホール・チルドレン」のことは,この本で初めて知った。

 そこに書かれてある現実は,言葉で「過酷」と書いただけでは何も表現していないような気がさせられる,それほどの「生」である。

 著者は,一泊であってもそうした子たちと同じ生活をすることを自分に課しているそうだが,マンホールだけは二時間でギブアップをしなければいけない現実(これは病気とのかかわりである)に直面していた。

 そういう行動力を持つ方だからこそ,書けた著のように思う。
 自分や周囲のことを省みると,恥ずかしい限りだから,だからといって悲観したり,落ち込んだり,または居直ったり,突き放したりしてはいけないと思う。


 筆者のまとめとしてのエピローグは,「ボランティアとは何か」ということについて,語られている。
 実に坦々としていて,しかも読む人にエネルギーを与えてくれる。


 理解すること,少しだけ分けていただくこと,そして自分自身が一生懸命生きること。
 この三つのことを心からお願いしたいと思います。


 
 みんなできるはずのこと,である。

わかっとる,政治家

2012年10月20日 | 雑記帳
 今週は通勤時のFMで、自民党の石破茂幹事長へのインタビューを聞いた。
 コワオモテで軍事オタクと評判のある石破幹事長。我が家の女性たちには印象が悪いようだが、あのブレのなさは迫力があるなと感じている。

 ラジオの語りは、テレビの討論番組などとは異なって、ややリラックスムードなのか、微妙に語り口が違うなあと感じた。

 典型的なのが、「とる」という語尾。
 「わかっとる」「やっとる」…どこの出身かと調べたら、鳥取県ということだった。
 だが、「とる」自体は、西日本全体にある方言だそうだ。そういえば九州、四国などはそういう印象が強い。

 私の周りでは使う人はいないが、「とる」という使い方はなんとなく偉い人というイメージがついてまわる。
 これはたぶん、明治政府の要人に西日本出身者が多く、その影響が全国に伝わっているのかな、などと勝手な想像をする。

 それにしても、石破幹事長のインタビュー3回中2回までは、当然ながら政治中心で、尖閣諸島や防衛のこと、国の見通しなどが語られたが、その筋の通し方は相変わらず揺るぎないものがある。

 さきほどwikiを見ていたら、目を惹く項目があった。

 「教育基本法の、愛国心の明文化に反対だった」という箇所である。
 防衛に関する第一人者と誰もが認める政治家のイメージとしては率先して推進したかのように想像していたが、違っていたようである。

 「愛国心は国が政策面で強制するものではない」と述べたそうだ。
 自衛隊に関する数々の発言と照らし合わせると、この人の国家観、教育観はまた独特なのかもしれない。

 だからと言って、別に支持者になったわけでも、ファンになったわけでもないが。
 「そんなことはわかっとる」と本人から言われそうだが(そんなことはないが)、注目はしてみたい。

「ノンびり」をのんびり語るな

2012年10月19日 | 雑記帳
 県の観光戦略課イメージアップ推進室というところから、職場へ60ページほどの冊子が送られてきた。

 国内の様々な地域でよく出されている、地域限定情報誌のような、観光パンフレット拡大版のようなものだ。

 ぺらぺらめくってみると、我が町の西馬音内盆踊りの写真など、なかなかよく撮れているなあとか、しかし踊り子として映っているのは地元ではなく見覚えのある隣地区の中学生ではないか、などと苦笑しつつ少し見入った。

 ところでと表紙を見返したら、この冊子の題名が『のんびり』とある。
 なんとまあ、ふつうの言葉だなあ。たしかにのんびりした県であることは確かなんだけどね、もう少し工夫がないものかと思いながら、改めてページをめくってみたら、こんな文字が…。

 ノンびり」となる時代がやってきました。

 表紙にもどってタイトルをみると、「non-biri」と添えられているではありませんか。
 なるほどね。

 経済的な指標や人口減少率、高齢化率などのデータからは、将来的な見通しとして「びり」かもしくはそれに近い県であることは認めざるをえまい。
 学力がトップといったって小中段階のことであり、高校以上の進学率等のデータではびりに近くなっているはずだ。

 そのからの脱却という意味で「ノンびり」とつけたのか…それほど単純ではあるまい。1ページに趣旨は語られている。
 
 ビリだ一番だ、上だ下だ、と
 相対的な価値にまどわされることなく
 自分のまちを誇りに思い、他所のまちも認め合う。

 確かに、確かにと思いはする。
 ことさらに他県と比したデータに一喜一憂することはない。
 ただそういう中で秋田県が置かれている現状を把握できることも確かだ。

 気にしなくていい、むしろ気にしないほうがいいデータ
 気にしてもどうしようもないデータ
 気にして対策を立てたり、改善を呼びかけたりするデータ
 ある程度、そういう区分を明確にして歩みを進めていきたいものだ。
 政治家や県、市町村の役人だけが考えることではない。

 もしかしたら、そこに留まらず新しい指標を提案していく、強調していくということも有効ではないか。いうなれば「生活満足度」を上げていくための○○実行率のような…。

 びり県から発信していくことは大切だ。
 ともすれば「マダ、エラニャゴドシテ」(必要のないことをして迷惑だ、というニュアンス)という言い方が知らぬ間にしみ込んでいる地域だ。心せねばならない。
 http://non-biri.net/index.html

 「ノンびり」をのんびり語っていても、「ノンびり」にはならないだろう。

考えていない読書

2012年10月18日 | 雑記帳
 ホームページにある読書記録を整理したら、今年もどうやら100冊は読破できたようだ。
 http://homepage3.nifty.com/spring21/hondana.html

 再読本が10冊ほどあるが、それも自分なりに意識しながらの記録だったので、順調と言えよう。
 あとふた月あるので、久々に130ぐらいはいけるだろうか、と思う。
 ただし、量は順調でも(読みの)質は、スカスカだ。

 読まねばならないと手にいれてある新刊書は、読みかけのままだったり、手が伸びないままだったりする。
 野口芳宏先生の『国語科 授業の教科書』。
 それから堀裕嗣先生の『一斉授業10の原理・100の原則~授業力向上のための110のメソッド』。
 まとまった時間が取れないなどと言い訳しながら、手元に置いておくだけで、結構元気が出たりするので、机上に平積み(笑)している価値ある本だ。それだけ名前にパワーがあるということか。
 すごい言い訳だ。

 そういえば、雑誌を見ていたら、面白い表現を目にした。

 「受け身の読書」

 能動的に、ぜひその本を読もうとする積極的な読書でなく、自分の(他人の)家の書棚に並べてあるような誰かの本に手を伸ばしてみる読書だそうだ。
 たまたま読んだような本に興味が惹かれていくという体験は、それなりに貴重かもしれない。
 しかし、そんな体験もしているわけではない。

 自分の中にも問題意識はあると思うが、選んでいる(ような)本を改めて眺めてみると、どうも能動的なのか、受動的なのか、よくわからなくなってくる。
 まあそんなことはともかく、「読めばいいのだ」(by宇佐美先生)だろうか。

 それにしても、なんせ今読んでいるのは『考えない人』(by宮沢章夫)であるわけで…。

 読んで読んで、そのはてに「考えない」が表れたら、それはそれなりに面白い。