すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

子どもが羽ばたく空間

2009年06月30日 | 雑記帳
 勤務している学校の校舎はちょうど10年前に建てられたものであるが、各階の廊下にちょっと引っ込んだ形で談話室のようなスペースがある。といっても広さは一坪にも満たない狭さで、こちらの方言?で言えば「こみっとした」感じである。
 それにしても何もないので、小さな額縁に詩でも入れて飾ろうかなと考えたのだが、すぐ思い直した。

 談話コーナーなので、二、三人でひそひそと話すこともあのだろうけど、もしかしたら一人で物思いにふける時もあるかもしれない(さすがに小学生はいないだろうと思いつつ)…そんな想像も働き、その時に目の前に字句があることは邪魔になるときもあるかな、かえって壁の木目を眺めていたほうがいいのではないかな、などと思ったのである。

 作家の小川洋子がある雑誌のインタビューでこんなことを語っている。

 子どもって肉体的に遠くへ行けないので、知っているんでしょうね、本能的に。どこに行けば遠くに行けるかっていうのを。閉ざされた空間に閉じこもれば閉じこもるほど、実は広い世界に羽ばたけるんだっていうことを子どもなりに知っていて~~

 その狭さから「閉じられた空間」をイメージしてしまったので思い出した一節であるが、考えてみればスペース上のことでなく、子どもたちはそれぞれにそんな空間を持っているのかもしれないと思う。
 それはどこかの一室の片隅であったり、階段の踊り場の手すりであったりしてもおかしくない。

 朝や休み時間に校内を廻ってみたとき、それはほとんど元気のよい風景であり一人でいる子は問題視されがちだが、もしかしたら自分自身で羽ばたいているという見方もあるはずだ。

分別のつく年頃に

2009年06月27日 | 読書
 歯を抜いた。

 初めての経験である。歯茎が弱っていたことは以前通院していた時から承知のことだったが、三年ぶりに訪れた初日に「抜くしかありません」と冷徹なお言葉をいただき、観念してしまった。

 それはともかく、付け加えられた一言にぎくり。

 「親知らずが、出てくるかもしれません」

 えっ、と指されたレントゲン写真をみる。
 あれが、私の親知らずか。
 たしかに、抜いた臼歯のその奥に姿を見せずに静かに?佇んでいる。

 歯のトラブルはあまりない方だと思うので、そうした関心もなかったのだが、親知らずという名前もなかなかだし、それが今になってやや恐怖の対象になるとは…

 てっきり「親には見えない」から、その名前がついたのだと思ったけれども、そうではないんだね。
 英語ではwisdom tooth。
 「物事の分別がつく年頃になってから生えてくる歯」か。

 なるほど。私もようやくこの齢になって分別ざかりか。
(といっても、生えてくるのが待ち遠しいわけではない)

エラーが特定できません

2009年06月25日 | 雑記帳
 ビデオの編集が意外と早く終わったのだが、それをDVDに書き込む段でトラブルが生じた。
 「エンコード」そのものが何のことか理解できないでいるが、とにかく書き込み20パーセント程度で止まってしまう。これはパソコン本体に書き込もうとしてもまったく同じだ。

 再起動をしてみたり、試しに少しファイルの量を半分程度に再編集したもので書き込んだりしても同じだ。
 問題なのは、そのエラーメッセージ。
 「書き込めません」の後にある

 エラーが特定できません

 という重い一言である。
 そうなると、手も足も出ない。ヘルプをいくら調べても「特定できないエラー」への対処など書いていないのだ。

 そうは思っても、このあきらめきれない性格。
 様々な方法を駆使してみること、数時間。
 別のパソコンにデータ移動も試みるが、ファイルの種類があるようでそのままは上手くいかない。
 別のソフトもあるが、機能が違うので活用できない。

 何度もやり直した末に、一つも成果なく、エラーメッセージに文句をつけたくなる一日はとても悲しい。

 「エラーが特定できないのは、おまえだろ」

ほっとけない自分の声

2009年06月24日 | 雑記帳
 今回引率した修学旅行では、写真でなくビデオを中心に撮った。もちろん編集して作品的に仕上げたいと考えたからだ。それで現在その作業が進行中であるが、映像はともかく時折入ってくる自分の声に「なんだか相変わらず冴えないなあ」と思ってしまう。

 録音された声こそが自分の声であることはわかっていて、骨伝導が混じって聞こえる日常の声に慣れているからそう思ってしまうのか…。いや、それにしてももっといい声を…。
 などと思っていて見つけたある雑誌記事。

 いい声ってなんだろう?という問いに対して自分がどんな返答をできるかと考えた場合、それは聞く人様々じゃないかと逃げてしまいそうな気もするが、この「発声表現研究家」なる人物はこんなふうに答えた。

いい声とは、相手が話したくなる声です。 

 実にいいまとめ方と感心、感心。声そのものと表現する内容や方法などと分けて考えねばならないだろうが、後者はかなり意識されていても前者はなかなかというのが世の常だろう。ただ「話す職業」にある人はもっと意識するべきだし、トレーニングも必要ではないだろうか。

 では何を目指すか、といったとき、「よく通る声」「心地よく響く声」ということに集約されてくるだろう。この雑誌記事にもボイストレーニングの内容が書かれてあり、ちょっと新鮮な気持ちで読むことができた。
 またその内容として、声のバリエーションとして「あてる」「越える」という声の方向も取り上げられていた。
 ああそういえば、こうした研修もかつてはしたはず…その意味をもう一度探り、現状にマッチさせられないだろうか、そんな考えも浮かんできた。

 ちなみに件の発声表現研究家の名前は楠瀬誠志郎。
 かつて、あのスーパートーン?でスマッシュヒットを出したシンガーである。
 曲名は「ほっとけないよ」でしたね。

尺度比較は何のためか

2009年06月23日 | 読書
 『日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか』(光文社新書 古荘純一著)を読んだ。

 こうした調査結果についてはある程度の予測がつく。類したデータなどもいくつか目にしたことがあるし、幾度となくマスコミでも取り上げられたと思う。
 しかし、著者の用いたQOL(quality of life)尺度による調査は、多面的に生活や学習に対する意識全般をみるもので、非常に説得力があった。
 こんな表現のところで、どうしても私は考え込んでしまう。

 自尊感情を下げる教育システムと、下げる教育システム

 わが国との比較対象として提示されたのはオランダ。
 この国がとった教育施策にも触れられていて興味深い。そしてそれと似たようにことがはたしてこの国で可能か、と考えると望みは薄い気がする。
 しかしまた、誰しもがこの迷走にも似た教育のあり方をよしとはしていないだろう。
 何が問題で、どう進むべきか、この本の中にいくつかのヒントがあるようにも読み取った。

 その内容はともかく、一つなるほどと思ったことがある。こうした調査ものであるが、子ども対象だとあまり考えもせず簡単に実施している自分たちがいることに気づく。
 著者の投げかけたこの言葉は、案外重い。

 大人の知性や社会性を測って各国で競わせる尺度などはありません。(中略)ところが、子どもたちであれば、同じ尺度で比較することが容認される。


バスガイドの全員参加の技術

2009年06月20日 | 雑記帳
 木曜日、金曜日は修学旅行の引率。
 バスガイド付きの旅行は数年ぶりであったが、なるほどと思うことがあった。

 昔?は、ガイドがそれなりのしゃべりで子どもたちを惹きつけていたように思うが、それがだんだんと難しくなっている。
 そこで様々な工夫が生み出されて、絵やフリップなどが多用されてきた経緯があるのだと思う。

 それでも今どきの子どもを、最前列から最後尾まで巻き込んでいくのはなかなか難しいことである。
 そこでまたガイドは考えたのだろう。
 (これは、おそらく会社ぐるみというか、ガイドの研修というか、そういうレベルだと思うのだが)
 
 全員を惹きつけて行くにはどうすればいいか。

 結論はこうだ。

 作業させる  書かせる

 今回、バスガイドがしたこと。旅行のアウトラインにそって若干しゃべった後に
行きでは
①「てるてる坊主」を全員に作らせた →窓に貼らせる
②自己紹介カードを書かせた →クイズ仕立てにして、全員にしゃべらせた
帰りでは
③心理テストのような形式で友達の名前を書かせた 
④リレー形式で、担任の似顔絵を描かせた

となっている。まさに

 全員参加の技術

 この原則は、まったく教室と同じなんだと改めて思う。

 ただ心配なのは、バス酔いする子。
 幸い今回はいなかった。これは高速道路の広がり、座席の改善など乗車環境の進歩とも関係あるなあ、とも感じた。

 どの職業でも、口先一つでは難しくなったか。
 かと言って、肝心のことを磨かなくてもすむ問題ではない。

朝のひと睨み

2009年06月17日 | 雑記帳
 朝、学校に着き車を降りると、校庭から小走りでやってきた二人の男の子に呼び止められた。

 一人は泣いている。憤然とした面持ちのもう一人の子が、おはようの挨拶もなしにいきなり話しかけてくる。
「○○くんはずるい。いつも強いチームと弱いチームに分けて、ぼくたちはいつも弱いチームで…」
 涙をためた子も重ねて言う。
「いつもいつもそうだ。弱い組にしか入れてもらえない。」

 ほおっと校庭に目をやると、サッカーボールを手にこちらの様子をうかがっているらしい男子三名。

「先生にも言ったんだけど、その時はよかったけど、またすぐ同じ。ぼくらがボールを早くとっても、いつも取り上げて…」

『そうかあ、なるほど』
『君はどう思う?』
『何か方法はないのか?』
『一つの方法だけじゃないと思うよ』
 こんな慰めや問いかけが今の私には関の山だが、男の子にとっていわばこの手のトラブルは永遠の課題でもあるので、自分で切り拓くしか手がないこともわかってほしい。

 そういえば…と思いだす。

 二十数年前も同じこの学校で、同じように、強いチームと弱いチームに分けて楽しむ一握りの軍団がいて、その理不尽さを訴えかけてくる数人がいて…(もっとも当時は野球であって、サッカーとの違いはあるのだが)。
 
 二十代であった自分はそれを真っ向から学級会で取り上げたり、学級生活の不満を書かせてあからさまに教室内に掲示したりして、年配の先生方に驚かれ、あきれられたものだった。

 技術はなかった。見通しは持っていたのか。ただ「許せん」「解決したい」という思いで突き進んだのだろう。

 今、その当時を振り返ってみて考えると反省することは多い。しかしなお、青っぽくてもやはり肝心なのはそういう思いであり、それをどこかではっきり明確に表しておくことは必要だと感じている自分がいる。

 それをどう表すか。
 とりあえず、校庭の三名をじっと鋭く見つめてみる。

二種類の世界と言葉を

2009年06月16日 | 読書
 個人としての我々は二種類の世界と言葉の間で、いわば両義的に生きている 

 穂村弘の言葉である。
 長く会社に勤めながら短歌を作り続けた穂村は、その時の短歌づくりについて尋ねられて、「二種類のまったく違う言葉を使って」いたと説明する。
 
 会社では効率を重視する言葉、つまり取り替えのきくことが重要になるが、短歌が志向する言葉は、まったくその逆であると語る。

 教育の場に重ね合わせたとき、興味深い問題にもなる。
 私たちが子どもに身につけさせるべきは、まずは共通性のある言語ということになる。それが使命であることは間違いない。
 しかし、それと背中合わせに、人は個別的な言語も持ちえなければ、生きていけない存在であることを、誰もが知っている。

 そのバランスを、などとぼやけた括り方はしたくないが、個別的な言語にどの場でどれだけ寄り添っていけるかが、大きな仕事であることは言うまでもない。

 もちろんそれは、国語教育とか言語教育とかいう範疇ではなく、校門を通る瞬間から(またそれ以前から)始まっていることと言わねばならない。

メダルから更年期へ

2009年06月13日 | 雑記帳
 5月の運動会が雨天で室内になったので、徒競走だけの校内大会を行った。
 そこで学年最高記録の子に贈られたメダル…ああ、自分はメダルなんて取ったことがないなあ、と思いながら…

 何かで「金メダル」をとりたいと思ったら、次の三つを肝に銘ずるとよい。

 一つめは、対象となる夢・目標を断言し、宣言することである。いつでも、どこでもやれるという強い意志によって気持ちを奮いたたせていくことで、実現は確かに近づいてくるだろう。

 二つめは、いつもの手順どおりを守ることである。様々な場面、状況に応じて実行が困難になっても、それをやり通すこと。また例えば試合前の生活、準備…そうした細かい点までいつものリズムを守ることで、自分の力が最大限引き出せるはずである。

 そして、三つめは、徹底的に「筋肉」を鍛える場を持つことである。筋肉とは単なるスポーツ系だけを指すのではなく、「考える」や「読む」「書く」または「演ずる」「集める」…といった多種多様な身体の働きをつくることである。徹底して続け運動記憶を強化することが何より必要になる。

 つまり毎日の積み重ねこそが、金メダルをとる条件なのである。

 と、地域にあるモラロジーの団体の方が届けてくださった『ニューモラル』誌の特集を要約すると、まあこのようになるだろうか。

 書いてみると非常にまともでありきたりの内容である。しかし、またそのありきたりのことが出来ない人間もまた多い。自分も例外ではない。
 では、どこができないのか。

 家人にたまに誉められるのは「決めたことは守る」ということである。他で十分にだらしないので、それだけ人並みということかもしれないが、取り合えず二つめ三つめは可能性があると判断すると、一番弱いのは一番め…おそらく一番肝心なこと。
 そして冷静に振り返ると、年齢とともにトーンダウンしている現実。

 よく昔は「宣言してしまって自分を追い込む」ことなど得意としていたが、この頃めったにそういう気分にならない。
 このまま老荘の域へとも思うが、世俗的な煩悩はまだまだ消すことはできないだろうなあ。
 男性にも更年期はあると言われているが、なるほどと思う。障害とはまだ言えないが、一歩手前の状態か。

 それにしても「更(あらたまる・入れかわる)」とはよく考えられた言葉である。
 何があらたまるのか、何が入れかわるのか…心身をよく見定めることは自分にとって今大切な時期なんだろうと思う。

 メダルのことから徒然に心を巡らせて、何かいい結論を導き出した気分になっている、久々に何もない休日。

何が言いたくて子どもの前に

2009年06月12日 | 雑記帳
 ボランティアの方々が来校し、下学年の子どもたちに絵本を読み聞かせていただいた。本町にある「絵本とあそぼの会」の方々である。

 さすがに手慣れた読みとページめくりで、気温もずいぶんと上がった午後にもかかわらず、子どもたちも集中して聴き入っていたようだ。

 今、多くの地域で、こうした活動を続けておられる方々がいらっしゃるのだと思う。
 ふとこの方々の原動力はなんだろうか、と考えてみた。
 学校の教師のように「読書力の育成」ということが中心になるわけではあるまい。

 それは一言…本を読むのが好きだから
 まず自分が好きで、それを分かち合いたいという気持ちが、表現に結びつくのだと思う。だから、伝えたいことがはっきりしているし、その方が気に入っている絵本であれば、おそらくその思いは相手に強く伝わるに違いない。

 それは、読み方に表れるし、何より表情や動きにあらわれる。そうしたエモーショルな空間、時間に子どもは敏感なはずだ。 プロでなくても、人に対して何かを表現し伝えるという本質のような気がしている。

 唐突に自分の中で結びついたある一言。昨日読んだ志の輔の雑誌記事。若い時に、かの談志からこんな言葉を投げつけられたという。

 「作品を語っても、何も言いたくないやつの噺なんか聴きにくるやつがいるわけがねぇじゃんか」
  
 何が言いたくて、子どもの前に立つのか。