すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

心情グラグラで右左

2022年05月29日 | 読書
 対談した二人の名前を見れば、ほぼ内容は予想される。興味深く読めたし考えに共感できたこともある。ただ、こう書いてしまうと「ああ、お前は…」という見方が固定される。それがこの国の大きな不幸である気がするし、自分自身もなかなか脱け出せない感覚がある。ジャーナリズムに対する向き合い方も同様だ。


『なぜ日本のジャーナリズムは崩壊したのか』
 (望月衣塑子×佐高 信  講談社+α新書)


 この対談でもやや思想的な区分が示されているが、メジャーな新聞など私たちが目にする報道のほとんどには、何かしらの先入観が入り込んでいる。だから「〇〇新聞は読まない」といった判断をする人も少なくない。一個の人間が受け入れられる情報には限りがあるから、現実問題として、それは仕方ないだろう。



 官房長官時代の菅前首相と望月記者とのやりとりはずいぶんマスコミを騒がせた。時代の流れと言えばそれまでだが、年配者であれば右であれ左であれ、余裕のない政権に見えたのは確かなのではないか。いや「何を守るべきか」で明確にわかる。どちらが保身的だったか。そう問えば、自分自身が透けて見えてくる


 その関連で言えば、森友問題に関わった赤木さんの苦闘は想像できる。紹介されていた赤木さんの口癖「僕の契約相手は国民です」は、まさに官僚としての矜持そのものではないか。右であっても左であっても、堕落していく者は堕落する。結局、進むべき方向の先に誰を見ているかに尽きる、それが自分ではねえ…


 ずっとノンポリ風に過ごしてきたが、あえて言えば「心情左派」的(笑)な我か。選挙行動を基準にすれば地方ではしがらみが多い。ただ、その実態も含めての位置づけになる。ところで「心情右派」とはあまり言わない。調べてみると「潜在右翼」と同義らしい。なんと警察用語とある。怖ろしいのには近づかない。

待合室のソファで味わう

2022年05月27日 | 読書
 指定された待合室のソファに腰を下ろし、借りてきたばかりの本を開いた。
 『メロンと寸劇』(向田邦子 河出書房新社)である。「食いしん坊エッセイ傑作選」と添えられているので、まあ気楽に読み流すにはいいだろう、そんな気分でページをめくる。

 上手いねえ、この人…と昭和の大脚本家に何を今さらというような感覚が湧いた。
 冒頭のエッセイは「昔カレー」と題された、カレーにまつわる思い出のあれこれを綴った文章だが、三、四行読んだだけでその流れに魅せられた。

 もちろん、以前にも小説など読んだ記憶がある。飛行機事故で急逝した女性作家、恋多きだったかどうかのイメージは定かでないが、死後も多くの出版物があるこの作家に改めて「見つめられた」気がした。



 貴方は「記憶」をどんなふうに調理しますか。
 エッセイの上手い書き手を料理人に喩えるのは珍しいことではない。それも題材が「食」に関した事柄になると、一層重なって見える。向田の腕前は、令和の現代にあっても十分通用しそうだし、真っ当な「味」として舌に、いや心に残る。

 どこがどうのと具体的分析は無理だが、メニュー名は「思い出」がつきそうなものばかりなので、仕上げるために覚えておくのは、基本姿勢だけで十分だろう。

P21「思い出はあまりムキになって確かめないほうがいい。何十年もかかって、懐かしさと期待で大きくふくらませた風船を、自分の手でパチンと割ってしまうのは勿体無いではないか

P54「思い出にも鮮度がある。一瞬にして何十年もさかのぼり、パッと閃く、版画で言えば一刷が一番正しく美しい

 どちらも「」に向かうときの心構えが匂ってくる。


 さて、腹の据わった人間論と思った一節がある。これも残しておきたい。
 向田は「自分にもそういう癖がある」と前置きしつつ、こう書く。

P90「隅っこが気になる人間は、知らず知らずに隅っこの方へ寄っていく。ちょっと見には無頓着に見えるようだが、小さいものを見ずに大きいものを見ている人は気がつくと真中にいることは多いのではないか

 そして「鮪に生まれた人は、ぼんやりしていいても鮪なのだ」と語り、それに比した「刺身のツマや、パセリ」の行く末に思いを重ねて文を結ぶのである。

器からの妄想は…

2022年05月21日 | 雑記帳
 先日『人間の器』を読みながら、つらつらと思い浮かべた。いわゆる「器の大きい」人には、なりたくてなれるものでもないし、ほぼ青年期から壮年期で見通しがつくのではないかと予想する。自分がそう称されることはなかったし、これからも有り得ない。それにしても、人間の精神を入れ物に喩えるのは面白い。


 ただ、器とは容量の大小が決定的だったのは昔の話ではないか、と少しイチャモンをつけてみよう。まずは「」。丸や四角といった単純なものから様々に派生する。入れ口があり、溜まっていくという要素を満たせばいいわけだ。そして「」も無限に考えられる。いや、その前に器を作る「材質」が問題ではないか。


 金属製のがっちりしたもの、樹木で出来た素朴なもの、ガラスということもある。ゴム、シリコンなど最近の素材も考えられるか。もちろん、ここでイメージしているのは現実にある容器としての「器」だが、人間の精神の喩えとして、そろそろ大小だけでなく、多様な器を当てはめてもいい時代ではないかと妄想する。



 歴史上の著名な人物を勝手に当てはめれば、土を素材にした巨大な焼き物は西郷隆盛だ。ギラギラと光るスチール製の棘棘しい斬新な容器は織田信長、しっかり編み込まれたわら細工で柔軟な丸い形をした入れ物は小林一茶…受け入れる量よりも、どんなふうに入れてもらえるのか、最終的にどんな生き方に通ずるか。


 じゃあオマエは…と妄想を内に向けると、カバン好きで安物を結構持っているから、複数の袋を心に下げているイメージか(なんだそりゃ?)。あっ、もっと好きなのは焼き物だ。備前がいい。素焼き系が好みだ。飾らず人に接していくか…格好つけすぎだな、ぐい呑み程度のコレクターが。小っちゃいことだけは確かだ。

残念諦念皐月中旬日記

2022年05月19日 | 雑記帳
5月13日(金)
 昨夜メールがあって来週の某小での読み聞かせが中止になったと聞く。残念。また拡大の兆しか。休校情報も入る。今日は「愛犬の日」ということで犬関連の紹介をブログで行う。明日以降の沖縄についても検索。午後から今年のワークショップ構想を練る。アイデアは沢山あるが課題も多く、まだ形になっていない。


5月14日(土)
 朝のうちに図書館ブログアップ。「ぶどうパン」が食べたくなり開店に合わせて某スーパーへ行ったが陳列されていない。情報の幅を考える。午後から知り合いの火葬へ。あれほどの参列者の数は初めてだった。だからこそやるせない。迷ったがブログへ吐き出した。FBで翻訳機能を使ったらトラブル。少し慌てた。


5月15日(日)
 沖縄本紹介を昨日に続けて図書館ブログへ。今日は久々に少し高い買い物をネットでするのであれこれ検索し、夕方までに決めた。牝馬マイル王は白毛馬のソダシに。アイドルホースのカムバックだ。大相撲は混戦が続いて予想が難しい。ドラマ「17歳の帝国」が思いのほか面白い。画面構成や音楽もセンスを感じる。


5月16日(月)
 朝6時過ぎから山菜採り。今日から根曲がりダケがねらい。ところがその場所にいくと太いワラビが数多くあり10分ほどで大量収穫。続いて向かった場所でタケノコ収穫、初回としてはまずまず。熊避けの鈴を無くしたので、スマホで「あいみょん」を鳴らしている。年々荒れる土地だが、できるだけ長く採りたい。


5月17日(火)
 午前中は町の監査。無事終了。「図書館川柳」の展示をもとにブログアップ。今週、こども園の方々との打ち合わせや図書館だよりの準備など進める。16時に退勤して孫を迎えに園に行く。いつもよりずっと声が少なく、やや寂しい。閉鎖している組があるからだろう。帰宅して孫の相手をしつつ大相撲観戦。大混戦だ。


5月18日(水)
 今週は勤務シフトの都合で水曜休み。早朝から山菜取りへ。1時間半ぐらいで結構多く採れた。ふと思いついて数年ぶり(おそらく学校退職後初めて)にある事をしてみようと決断し、午後から隣市のある場所へ。約1時間半後の気分がやけに爽快だ。こんな心持ちになるのか…。衰えは感じるが楽しさは変わらない。



家路をたどる午後5時前の太陽…田んぼの水鏡によって夜のような写真となった。


今週の手習いから

2022年05月18日 | 雑記帳
 『人間の器』(丹羽宇一郎 幻冬舎新書)を読んだ。俗にいう「器の大きさ」という点では甚だ自信がない。だから、大小でなく形や色はどうだろうと逃げ口上を浮かべながら、読みきった。




 『ちくま』誌のコラム「見えるものについて」と題された文章の一節。これも視点かとは思うが、見えるという語の深さも示している。




 こちらは新潮社の『波』のコラム。自著のPRのための文章のようだが、共感できる。自分にとっては「さらしていこう」という主張をアピールすることが欲求か。


森節を味わう…その2

2022年05月16日 | 雑記帳
61「ここへ来て良かった、という肯定こそ、幸せの手法である」

 常に現状を称賛する「奥様」を語りながら自分は違うと、このようにうたう。




98「気持ちは伝わらないが、気持ちがあることだけは知ってほしい」

 一見、身も蓋もない言い方に見えて、森節は聴いていると心が落ち着く。




 99「楽しさを育てよう。」

 この章は実に読みごたえがある。「楽しさの種」を探して見つけることから始まるそれは、まさしく人生謳歌の気がする。



 「楽しさの素晴らしさを信じること」…これは歌に通ずるなあ。


森節を味わう…その1

2022年05月15日 | 読書
 「森節(もりぶし)」と言えば♪おふくろさんよぉ、おふくろさん♪をイメージしてしまうが、ここでは作家森博嗣の書く文章、言い回しを指している。この著のまえがきに、著者自身がそう「言われたりする」と記してある。そこを読み、ああなんとなくわかるがその正体は…と感じてしまい、読書の目的となった。



『つぶさにミルフィーユ』(森 博嗣  講談社文庫)


 具体例は、まえがきにすでにある。「本を読む価値」について述べている一節だ。「読んで忘れてしまっても良い。忘れるには、一度覚えなければならない。覚えて忘れることは、なにも覚えないことよりもずっと価値がある。それは、生まれて死ぬという生命の価値と等価だろう」・・・ここにある一種の小気味よさだ。


 また独特のユーモアセンス。「挫折」という語をよく使う者に対して「これだけすぐに挫折できる人間は、本当の挫折が味わえるほど頑張れないから、ある意味挫折しらずの人生になる可能性が高い。」皮肉めいた言い方と受け取られそうだが、文章全体から嘲笑めいた雰囲気は受けない。どちらかと言えば突き放しか。


 エッセイ等を読んだ人はわかるが、日常の割り切り方が凄い。言葉の意味についても辞書とは一線を画した現実を照応させる。言語表現そのものの役割や価値に関しても同様だ。「たかが文章、しょせん言葉だけのこと、と受け流すことで、一回り広いエリアが見えてくるだろう」…それを言葉で伝える俯瞰性の強さだ。


 読了して「森節とは何か」という問いに端的に答えるとすれば、「未練がない」に尽きるのではないかと思った。終盤に自分が体調を崩し、入院、休養したことなど入れつつ、最終章で「遺書は書きたくないが、もし書くなら毎日書くのが良いかもしれない」と時々転調めいたフレーズを入れながら、うたい切っている。

世の中で一番悪いバカヤロー

2022年05月14日 | 雑記帳
  ほんの少し思いを書いてみたけれど、書くほどにもやもやがつのる。だから、書きかけて止めたのだ。
 
 しかし、このことだけは叫ばねば、収まりがつかない。
 亡くなった者に対して、こんなふうに言いたくなるのは、おそらく初めてのこと。

 「バカヤローだ。大バカヤローだ」

 その訳は、ずっと前にこのブログに残していた。

  世の中で一番悪いこと




運命を決めるのは歴史だ

2022年05月12日 | 読書
 この文庫は4年ほど前の発刊だが、今この書名をみると少し複雑な心持ちになる。自分が高齢者の括りに入るまで生きてきて、今ほど将来に不安を抱いた時は正直なかった。震災のときは確かに動揺したけれど、暗鬱さは現在の方が強い。言うまでもなく、感染症と世界情勢がその理由となる。照らし合わせて読んだ。


『日本の「運命」について語ろう』(浅田次郎  幻冬舎文庫)


 歴史物、中国物を多く書いている著者なので、付随して調べたことを講演会で話すことが頻繁にあるらしい。その記録をもとに編集された一冊だ。第一章が「なぜ歴史を学ぶのか」と題され、プロローグ的に自身の生い立ち等が記されている。個人に引き寄せて考えてみても「運命」を決めるのはやはり「歴史」だ。



 それはさておき、国史として興味深くなるほどと頷くことがいくつかあった。一つは江戸末期のペリー来航の意味。常識的かもしれないが、アメリカに対する「最恵国待遇」はそこから始まっている。もし一週間ロシアの船が早く来ていたら、この国は全然違っていた形になっていた。今想像すると、怖ささえ感じる。


 江戸時代の参勤交代に関わる話。大名に力を持たせない幕府の巧妙な体制づくりというイメージが強い。しかしその長い継続によって、中央集権的な見方以上に、国全体の経済効果や花開いた様々な文化など、改めて感心することが多かった。幕末に参勤交代がなくなり経済が立ち行かなくなったという視点は新鮮だ。


 さて、「日本の運命」…冷静に見つめているつもりでも、何かに縋りたいのが今の気分だ。私淑する思想家は、軍事進攻をしている国と日本は「衰運のパターン」が共通していて、「この両国には残念ながら『未来』がないと思う」とも記している。せめて、身のまわりの手当てを続けながら、新しい芽を待ちたい。

100年後にあってほしい遠足

2022年05月10日 | 絵本
 表紙絵の宇宙飛行船と書名だけで、うきうきするような一冊だ。帯に「2019年は、月面着陸成功50周年記念イヤー」とあり、あのアポロ11号がすぐ瞼に浮かぶ。もう100年経たないうちに実現するだろうか。いやい、や感染症で現実の遠足もままならないし、世界情勢も不安だらけ…そんな気分を吹き飛ばしたい。


『みらいのえんそく』
 (ジョン・ヘア作 椎名かおる・文) あすなろ書房 2019.6




 「つきに ちゃくりく!」から始まるこの物語は、最終の宇宙船シーンを除き、全て月面上で展開される。どこの学級にもいそうな、一人後からとぼとぼついていくタイプの子。お絵描きをしている間に寝てしまい、その間に宇宙船は飛び立ってしまう。「しようがない」と、またお絵描きを始めるその子の周りには…。


 全体的には言葉(文字)が少ない。しかし、絵で十分にストーリーがつかめる。月に住む生物?は登場しても、怖さよりユーモラスさが強いし、ちょっとした心の絆が生まれたりする。これは見入ってくれる一冊だと思う。語る立場として悩むのは、宇宙人の声の調子だ。実際に聞いたことがないので、真似しようがない(笑)。


 作者にとって初めての絵本ということだ。アメリカにも「遠足」という概念があるのかとふと思った。和英辞典をみると、trip、outing、excursionがありどれでもいいようだが、最後のexcursionがふさわしい気がする。意味の中に「脱線」「逸脱」が入っている。遠足はやはり非日常の象徴である。そのことが恋しい。