すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

会の風景には温かさが漂う

2007年04月30日 | 教育ノート
 私たちが行う「会」の一つ一つにはきちんとした意味があるのだが、同じことを続けているとどうしても心が離れてしまう時が出てくる。
 それでも、丁寧さを忘れずにしっかりこなしていかなくてはならない。
 会の風景には、その字源から温かさが漂ってくるものであるはずだ。


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 4月は「会」の多い月です。様々な会議や会合、子どもたちにも学級会や児童会があり、そして月を越すと大きな行事である運動会があります。
 「会」はそもそも「會」と書き、ふたのある鍋の形からできた漢字です。
 「會」という漢字は「ふた」「なべ」「台座」を上から順番に表しているとのことでした。そして料理そのものの材料をたくさん揃えて煮焚きすることから、「あつまる」「あつめる」という意味になったようです。
 またそれだけでなく、鍋のようなものを囲み、たくさんの人が集まり、交流することで喜びが生まれるという風景も想像させてくれる語源です。
  5月の運動会でもそんな楽しみを心待ちにしている子もいることでしょうね。
(4/25)
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編集の失敗を重ねていくしか

2007年04月28日 | 読書
 藤原和博氏の『人間関係』(ちくま文庫)を読んだ。

 いつもながら読みやすく、それでいて独自の視点が明確に出されており一気に読みぬける内容だ。
 氏ならではの表現が、随所にちりばめられている。
 今回のテーマに関わることでは、次のような句が印象に残った。

 プラス・モードの話よりも、マイナス・モードの話のほうが人間関係を深めることができる

 あなたと相手との「エネルギー回路」がいちどつながってしまえば、人間関係は容易に崩れない

 だいじなのは、相手と共通の土俵で「たとえ話」をすること


 一般社会、企業社会を例にとった話なのだが、これらは全て教室の関係、つまり「子どもと教師」にも適応できることがわかる。
 こうした関係のつなぎ方をしていることは、子どもたちが自らそうした力を高めていくための大切な支えになるはずである。
 教師の人間関係力こそ鍵になる…やはり、そう言えそうだ。

 ところで、藤原氏が以前から主張している「情報処理力」と「情報編集力」のことがこの本にも出てくる。
 下記の文もどこかで読んだ気がする。

 私の感覚では、「情報処理力」対「情報編集力」の学習比は、小学校で9対1、中学校で7~8対2~3、高校で5対5くらいが適切だと考えます

 現実はどうなんだろうなと改めて思う。
 私の知る狭い範囲内では、藤原氏の考えとはずいぶんかけ離れた現実があるように思う。
 手前味噌的に言えば、小学校はまだいい。問題はそれ以降だろう。情報編集力に力を入れた授業…たしかに近いものを見たこともあるのだが、その頻度は多くない。
 それはなぜか。社会の現実と学校の現実のずれを、また考えさせてくれることになる。

 情報編集力の必要性について教師がどれほど考えているか…自分も含めて、自信のないところだ。そういったレベルでは相手と共通の土俵で「たとえ話」もできない。
 とすると、そういった点の情報処理についても劣っているのではないか。
 突き詰めていけば、もっと研修を、という話になるのだろう。
 しかし、それは免許制がどうのこうのという問題ではない。
 全国の学力検査の話題も、大枠の中で考えていかないと、振り回されるばかりである。
 その影響で不幸になっていくのは、子どもたちなのである。

 と、何だかずいぶん膨らみすぎてしまった。編集の失敗です。

希望をつなぐのは、手である

2007年04月25日 | 雑記帳
 休日にレコーダーやDVDの整理をしていて、見逃していたNHK『プロフェショナル 仕事の流儀』があることに気づいた。

 2月に放映された専門看護師北村愛子の回である。

 命の危機に瀕している患者を診る「クリティカル看護」のスペシャリストだという。
 まさしく言葉通りのハードな働きであることが画面からもひしひしと伝わってきた。
 北村は、自分の仕事の意味を「希望をつなぐ」という言葉で表していた。
 
 印象的なシーンがいくつかある。
 一つは、北村が5年間毎日続けているというノートの場面である。
 一日に、何人もの患者を診る北村は、思い浮かんだ感情、悩んだこと困ったことも含めて書き留めておくのだという。
 わずかな行しか画面には写らなかったが、そこに表されていたのはけして強い言葉だけではなかった。
 北村は言った。

「自分をよくわかっていないと、切り替えることはできない、です。」
 
 書きつけることの意味を今さらながらに思う。
 文字にして「落としておく」ことは、自分を保って他へ働きかけていこうとする者にとって、強い武器になる。

 全体を通して映像で強調されていた場面は、北村が患者の手を握るシーンである。
 ベッドサイドはもちろん、廊下で、ホールで、いくつか取り上げられている。
 その意味は単純なように見えて、実は深い。北村はこう表現していた。

「患者から元気をもらう」
 
 きれい事としてではなく、響きのある言葉だった。
 病室は弱い場所ではなく、患者とそれを取り巻く者たちのパワーが集まっている強い場所なのだ、という信念の感じられる言葉だ。

 「感情を素直に書きとめる」「患者と手を握る」

 北村の二つの行為は、まったく正反対のようにも見えるが、「希望をつなぐ」という一点にまさしく向かっていることがわかる。
 そして、希望をつないでいるのは、どちらも手なのである。

絞り込んで、接点を見い出す

2007年04月24日 | 雑記帳
 書き散らした文章の続きである。
 25以降は、仲間に対しての具体的な方法を例示していた。まあ、ありふれた内容ではある。
 そして、再び概括的なところを書き出しているではないか。解説好き?な自分を改めて発見。

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41  さて、再びいわゆる「対管理職問題」にもどる
42  この頃、特に思うことは「全員にいい管理職なんていない」ということだ
43  自分にとっていい管理職の条件とは何か考えてみれば
44  それは、大方次のようなことだろう(だったという自分の経験だ)
45   自分の仕事や努力を認めてくれる
46  仕事の方向をはっきりと示してくれる
47  雰囲気がやさしい、気配りがある、身の回りを心配してくれる
48  まだ、あるのかもしれない。人それぞれに違うのだとも思う
49  そして、「すべていい」と括れる人はそういないものだということだ
50  そうした現実では、やはり「管理職のいいところを見つけてあげる」のが、賢い、そしてストレスのたまらない過ごし方のように思う
51  もう一点は、自分の考え方との接点を見つけることのように思う。
52  いや、自分に引き込むといったほうがいいかもしれない
53  かくありたいと務めてきた自分にとって嬉しいことばに、今年出会った。
54  「管理職の仕事は、担任が授業に専念できる体制を作ってあげることだ」
55  大森修先生が、2月の学校づくりの講座でおっしゃったことだ
56  担任を離れてから、そのような思いで仕事をしてきたつもりだ
57  「授業を大事に」という言葉に異論をはさむ人はいない
58  問題は、それを実行するために、どう日常の行動を組み立てていくかだ
59  たとえば私なら、校長室に呼ばれ様々な点について相談されても、意識的に「授業改善」の話題に持っていくように日々努めている
60  そういう視点で管理職の話を聞いていると、どこでつなげるか考えも出てきたりして結構おもしろいのではないだろうか
61  自分の考えを絞り込んで、その実現のために、管理職との接点を見いだすといった工夫を私たちはもっと意識的にする必要があるのではないか
62  そのためには、現在の任用のシステムなども見直す必要があるのだが、それは言及するには、現在の自分ではまだ力量不足である
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 今、自分に(57)以降の意識があるかと問われれば、やや薄いかもしれない。絞り込むという集中的な見方は確かに有効なことではあるが、俯瞰の目を常に持ち合わせる必要に迫られる仕事という意識のほうが強い。
 そのあたりの変化を見とれたことが、収穫というべきか。

 それにしても(62)について言及する力がついたかと問われれば、まだ心許ないのだが、いつまでもそんなことは言ってられない気もしている。

軋轢との付き合い方を考える

2007年04月23日 | 雑記帳
 二年前大きな話題となった当時32歳の民間人校長が退職したことを、野中信行先生のブログで知った。該当する記事も読んだ。しかし詳細はわからないままであり、この後の成り行き(経緯などの発表はあるのだろうか?)に注目したい。

 さて、ちょうどその日にパソコン上の昔のデータを確認する作業をしていたら、たまたまかなり以前に書き散らした文書が目についた。
 「ああ、これは」と思い出した。当時慎ましくサークルを続けていた自分たちであったが、ある日職場内部の軋轢についての相談をうけ、「自分だったら」と書き留めたものだった。
 いかにも覚書風に番号つきで文章を進めているし、おそらくサークルにも他のどこかにも提示していない文だろう。

「教頭と学級担任の対立をどう考えるか」を、当時教頭だった自分が、仲間である教諭に向けて書いたという形になっている。全部で60を超えているので、前半部のみである。

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 1  本当の状況は当事者たちにしかわからないだろうけれど
 2  自分が教頭として一緒にいたら、おそらくそうはしないだろうと思う。
 3  それはなぜか
 4  指導の中心になる学級担任が、やる気になることが一番だと考えるから
 5  そのためのサポート、サジェスチョンなどが自分の務めだと思うから
 6  おそらく(4)はA教頭も同じ考えではないかと思う。
 7  そのための(5)の段階が違うのかもしれない
 8  いや、方法が異なるだけで、実際はしているのかもしれない
 9  また、校長の意向が大きく、したくてもできないのかもしれない
10  それでも私なら、自分がするべきと思ったことはやるだろう
11  例えば、今年の○○の△△もそうだったから。
12  しかし、それは校長の意を呈するという教頭の姿にはふさわしくないことだ
13  従って教頭職としては、(10)の姿は失格ということになる
14  「費用対効果」に固執している自分に少し反省
15  だから?(9)だと実際どうしようもないのが、通常の教頭の姿だ
16  もし、(7)(8)だったら、と仮定すると
17  「現状を鋭く指摘することが、それに該当する」という考えかもしれない
18  そうしたことで、指導の主になる学級担任がやる気になるし、
19  対応できる力量も持ち合わせていると判断しているのではないか
20  しかし、担任の受け止め方はそうではないようだ
21  (20)のことが今回のやりとりでわかったとしたら、
22  異なる方法がとられることと思う
23  もしとられなければ、(5)に関する引き出しが狭いといわざるを得ないだろう
24  ただ、それはそれとしてここは自分から動くのが「たしなみ」ではないか。
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 思考法としてはほとんど変わっていない自分を感じる。
 今、立場が変わり、その目で(10)(11)(12)を読んでも、それはそれで良くないかという気がしている。

 結局(10)の本気さをどれほど見抜けるか、ということか。

「最後は」までの道のりで見つける

2007年04月21日 | 読書
 『だから、僕は学校へ行く!』(乙武洋匡著・講談社)を読み終えた。

 乙武さんが教員免許をとるために、教育実習をしている教室へ、乙武さんの小学校時代の担任である高木先生が訪ねてこられた場面がある。

 授業参観をしたあと何も言わずに帰ろうとなさる高木先生は、実習校の副校長に請われて、乙武さんに一言こう話したという。

「教育はね…最後は人柄、人間性だから」
 
 この重い言葉をどう受け止めたらいいのだろうか。

 不肖この私にも、若い頃に受け持った子で教壇に立っている者もいる。
 もし請われて同じ立場にたったら、なんと言えるだろう。
 同じ言葉を自戒をこめてなら述べることはできるかもしれない。そうした恥ずかしい思いが湧きあがってくる。

 しかしそこを棚上げして、あえて共通項を探すならば、高木先生の「最後は」という言葉にこだわりを見つける。
 「人柄・人間性」と言えるまでの過程で、身につけなければならないことがとてつもなく多いのが教職の世界である。

 それは、乙武さんが配属された二年生の学級担任S先生の持つ「指導の引き出し」であったり、ナポリの熱血先生たちが、数々の裏切りという経験から得た「信頼を伝えることの大切さ」であったりするだろう。

 どういう仕事の仕方をするかによっても、人間性は育てられるものである。

個性は、その時生まれる

2007年04月20日 | 雑記帳
 キャスターの茂木氏がいつもよりトーンを上げながら、思わず納得の一言をもらした。

「制約を発見するということが、創造性なんですね」
 
 NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」の建築家隈研吾氏の回である。
「負ける建築」として著名な建築家だという。

 茂木氏がもらしたその一言は、文芸の世界で言えば俳句や短歌にもっとも強く表われるし、教育の場でも様々な指導の局面においてそういった手法?がしばしば使われていると言ってもよい。

 制約のない自由な場でこそ斬新な発想が生まれるように思うが、実はそうではなく、制約と向き合うことによって独創的なものが生まれるという考えは、ある意味普遍的な気がする。

 そんなことが頭をよぎった後、ふと、この「創造性」という言葉は「個性」と置き換えても成り立つのではないか、と思った。
 今読んでいる『だから、僕は学校へ行く!』(乙武洋匡著・講談社)にある、次のような一節と重なったからだ。

 そのこと(人それぞれ特徴が違うこと)を十分に理解した上で、「そんな自分に何ができるだろうか」と考えたとき、僕ははじめて「個性」が生まれるのだと思っている。

 『五体不満足』の世界からスポーツライターへ、そして今教育現場へ果敢に挑み始めた彼の熱のこもった言葉である。

 個性はもともとあるものでなく、生まれるものだ。
 それは、対象に対して働きかけようとするときに生まれる。
 自分の限界や、与えられた条件の制約を知り、そのうえで働きかけていこうという強い意欲に支えられて、姿を現してくるものだ。

 建築の世界と教育の世界は大きく違うだろうが、隈氏も乙武氏も、その抱えている課題の重さを楽しむかのような向き合い方は一致している。個性的、創造的という言葉は、そんな人を形容するためのものだ。

声は働きかけの力

2007年04月19日 | 教育ノート
 春の運動会準備に忙しい毎日だが、学習もいよいよ軌道にのった感じがする。
 最初の集会で、子どもたちの声が前に出ていることが素直にうれしかった。


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「声」は、「聲」という字がもとになっています。そもそもは「石でつくった楽器の音」を表す漢字で、そこから「おと、ひびき」という意味につながったようです。神を呼ぶための祈り、楽器を示すという意味もあるとのことでした。
声は祈りに通ずるというのは納得できます。

 「声」が一つのキーワードでもある今年度。
 13日の授業参観でも複数の学級で、音読などが取り上げられていました。
 「話す」「読む」「唱える」「諳んじる」そして「歌う」…声が表に出る場やその使い方は様々ですが、どれもが「自分や他への働きかけ」が中心となります。
 声に着目するということは、働きかける力を考え、その力を高めていくことと言えそうです。
(4/17)
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全力を出し切る場としての役割

2007年04月14日 | 教育ノート
 学区内の全戸へ向けての校報。今年度は4ページ仕立てにして、そのお終いに徒然なることを書く計画とした。
 スタートは心に残ったテレビ番組のことから始めて…


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 2月下旬の日曜日にテレビで視たドキュメンタリーが忘れられません。モンゴルの遊牧民の少女を取り上げた番組でした。
 題名は「学校へ行きたい」。
 病気がちな親の手助けをしている8歳の少女ナラは、家の仕事が忙しくて学校へ行くことができません。牛の乳絞り、燃料集め、水汲み…極寒の地でただただ懸命に働いているのです。冬場になって近くにくる「移動教室」の2週間だけが彼女の学校です。
 ナラはその学校を待つ間、厳しい仕事の合間に「宝物」だというぼろぼろの教科書を広げ、懸命に字を覚えようとするのでした。冬の移動教室での彼女の表情は実に生き生きとしていました。
 しかし、8歳の彼女が知っている文字はわずか30字。限られた時間で思うような進歩はありません。それでもナラは「医者になりたい」という夢を語ります…
               
 彼女と同じ年頃の子供たちが、この日本にも、ごく身近な所にもたくさんいます。仮に「夢の実現」へ向けてどちらの可能性が高いか考えてみたとき、単純な比較は難しいと思います。それは「恵まれた環境」が必ずしも「能力の伸長」とイコールになるとは限らないからです。
 衣食住に不便をしない、面白いモノがある、たくさんの情報が流れている…それらを何の疑問も持たずに受け入れていくだけで、はたして真の「力」と呼べるものが育っていくのか、時々不安になることがあります。人は苦しい環境にいる時に案外いろいろな力を身につけたりするものです。
 その意味でモンゴルの少女は今「底力」をため込んでいるような気もして、運良く勉強する機会に恵まれたとき、それが爆発的に発揮されるかもしれない、と密かに思ったりするのです。
             
 先行きが不透明な時代となり、子供にどんな力を身につけさせることが将来有利になるのか単純に言えない気がします。職員の中でも話題になったことがありました。
 小学校の段階では「学力」や「体力」の基礎になる部分を培うのですが、社会全体がどんどん変化している状況を意識しないと、表面的なものに終わってしまう不安も感じています。つまり、かつて日常で養われていた力、物質的に豊かでない時代に知らず知らずに身についた力を下地にしないと、知識や技能も十分に発揮できないままにしぼんでしまうのではないかという思いです。
 では、何が必要なのか…少なくても、「歯をくいしばって全力を出す」という体験は重ねておくべきことと言えるのでないでしょうか。
              
 息は大きく吐ききることで、たくさんの吸い込みができます。それと同じように力やエネルギーも出し切ってしまうことによって、内なる容量が拡がり、新たな力に結びつくはずです。
 仲間とともに全力を出し切る場としての役割を、今改めて「学校」「教室」が担っていかなければならないのではないか…そんなことを考えてみた年度の初めでした。
 学校から見渡せる空の、はるか向こうにいるモンゴルの少女ナラは、今日もまた一人黙々と、燃料になる牛の糞を拾い集めているのですから…。
(4/13)
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力は「目」に宿る

2007年04月11日 | 教育ノート
 新学年、どの学級もどの子も様々な目標を立て始めている。
 そんな意味で「目」に着目したが、どこに目をつけるかと言えば、結局「目」だなあと改めて思ったりした。
 
 
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 たくさんの方が知っているように『目』そのものの形からできた象形文字です。意味もたくさんありますが、大きくいうと「視覚器官としての目」と「見たもの、目印的なもの」と分かれるようです。
 それにしても驚くのは、目を使った慣用句の多さです。広辞苑には、「目が合う」「目にも留まらぬ」など、目から始まる慣用句が全部で122も載っていました。

 目を使って見ることは、相手に対する最初の行為であり、精神的な交渉を意味しています。また、目を見ればその子がどんな気持ちで人に接することができるか、どの程度やる気になっているか測れるような気がします。
 積極的に取り組もうとするとき、目には力が宿るのです。
(4/9)
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