すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

スナップ日記~冬待つ日

2020年11月30日 | 雑記帳
 ミラーレス一眼をあまり手にしなくなって、もっぱらスマホでパチリの日常である。整理もできずに、たまにはこんな形で振り返るのもいいかとアップしてみる。




 11月15日。日曜朝にコンビニへ行った帰りに、こみんな風景に出会う。ススキに霜がつき、それに朝日が射して白さを際立たせている。端っこに鳥海山も美しい。





 11月19日。私用で秋田市に行った帰り、まだ3時台だというのに…雲と夕陽のマッチングがいい味を出している。1:1にふさわしいショットだ。





 11月24日。孫と朝の散歩。紅葉はもう終わりだが、道端に小さく存在するものもある。こうした小さな命に目が留まるようになったのは、明らかに…





 11月28日。午後から町内の施設を回り、図書館だよりを届けてまわる。最後の小春日和か。雲の形の面白さ、冬を待つ山林とのコントラストがいい。




  
 11月30日。山は少し白くなっている。空もまた今の時季にふさわしい。十分に栄養を摂って翔び立て。
 

「綱」を罠にしてはいけない

2020年11月29日 | 雑記帳
 『ランキングの罠』(田村秀 ちくま文庫)に、ランクや格付けということで、相撲の番付表の記述があった。江戸時代からの歴史があることは知っている。大相撲の場合は、例えば他の多くのプロスポーツなどとは違って、勝敗の積み重ねによって序列が決まり、固定期間が長い特殊性があることを、今さら思った。


 当然、力のある者が上位にいる。文中にも横綱と序二段の力士が戦って通常逆転現象が起こらないとあった。他のスポーツもそうだが、明確に格付けされている典型だ。最高位には揺るがない実力と品位が求められる。何が言いたいか。ぴんとくる人もいるだろう。「横綱」問題である。今の状況は何を意味しているか。



 最高位が最高位であることを示せなかったら、意味ないじゃん!と言いたくなる。もちろん、それは今までの積み重ねゆえに勝ち取った称号ゆえに、ボクシングのタイトルマッチのように一度の勝負で決めることが妥当だとは思わない。しかし、である。「力」を示せる状態にならないから出場しないは、既に黒星と同じだ。


 厳しいが、出場に到らないという努力の欠如には責任がある。当然組織的な思惑もあろう。けれど最大は個人の決断だ。二人の横綱がこの国で活躍するため備えた並外れた力量や努力には敬意を払う。しかし、今後の出処進退を想うならば、そこに必要なのは「潔さ」であると、大多数の?日本人は考えるのではないか。


 NHKの「大相撲どすこい研」という番組があった。決まり手などを特集し興味深く観た。体格に合わせてバラエティに富む技があって当然だし、面白さも増す。しかしやはり力士も観る者も最終的には真っ向勝負が一番と思わせられた。それは技能ではなく精神面もしかり。土俵入りに締める横綱は罠ではないのだ。

ホントとウソは割合で

2020年11月28日 | 読書
 このところあまり雑誌を買っていない。興味が薄れている気がする。取り上げる特集などにピンとこないのか、ネット情報で足りているのか…。雑誌通を自称していた身が懐かしいほどだ。その反動ということはないだろうが、中古本などで、ほんの少し興味を持つとすぐ買い求めたりする。この新書もその流れだ。

『衝撃の真実100』(神岡真司 ワニブックス)


 六章構成で「人間」「世の中」「お金」「行動・心理」「生き物」「近未来日本」の様々な情報を「ウソorホント」の形で見開き2ページで解説するが単なる雑学本だった。例えば「バカは風邪をひかない―はホントだった!」とあるが、この医学的根拠をどこに求めるかというと相当怪しいし、お気楽な読み物に過ぎない。



 それでも「行動・心理」は興味ある分野なので、オッと思った箇所も多い。特に「声を出して行動すると『能力』がアップする-はホントだった!」。シャウト効果と呼ぶそうだ。有りだなと思う。しかし最後に出された事例に笑う。「オノマトペ研究家」なる研究者が「跳び箱が飛(ママ)べない子供10人」を相手にする。


 「助走時に『サー』、踏み切り時に『タン』、手を突く時に『パッ』、着地時に『トン』」の要領で教えたら、「全員が跳び箱を飛(ママ)べるようになった」とある。跳び箱指導世代(笑)としては、こんなかけ声など基礎中の基礎であり、どこまでの「全員」かと難癖をつけたくなる。ホントとウソは割合で示される要素かもしれない。


 立場、思想、利害などによって物事の見方が大きく変わるように、ホントとウソは絶えずせめぎ合っている。再燃した「桜を見る会」もしかり。もう一冊の『ランキングの罠』(田村秀 ちくま文庫)もそれで括れる。この本も読み流せる程度の内容だったが、日本人のランク好きを改めて感じ、考えたこともあった。
 明日へ。

中学生へメッセージ②

2020年11月26日 | 教育ノート
11./24図書館出前講座より

 中学校への資料提供(というか激励文だな)の二つ目は、「総合的な学習の時間」のことだ。中学生相手にこんなことを記すのは、立場上「読書」へ結びつけることが使命と言えるからだ。書きながら、改めて自分の教職歴の中で、いわゆる「総合」創設の意義は考えさせられた出来事だったことを思い出す。

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◆今、君たちが活動しているのは、「総合的な学習の時間」という枠。この時間は、今から約二十年前に始められた。国語や数学などの教科、また道徳・特別活動とは違い、学校ごとにその内容が定められる。
 小学校では例えば「〇〇タイム」などと名づけられ、様々な活動をしたはずだ。福祉や情報、国際理解を学んだこともあったろう。郷土芸能に取り組んだ人もいるかもしれない。多くの中学校では、今取り上げている職業や将来の生き方なども、この時間で扱われる。
 
 さて、ここで改めて考えてほしいのは「総合」とは、いったい何を学ぶのかということだ。「横断的・総合的な学習」そして「探究的な見方や考え方」というキーワードがあり「学び方」を身に付ける機会という点は多くの人の共通の考えであった。では、どう具体化するか。
 この時間のあり方をめぐって、教育関係者たちが盛んに議論をしていた頃、宇佐美寛(千葉大学名誉教授)という研究者は、「総合」を学ぶ姿として、つまりこれだけが実現すればよいのだと言い切った。

 「 体験 ⇔  読書 」

体験と読書の往復運動」があることこそ、総合の学びの姿である。
 
 直接見聞きし、感じたことを受けとめて、テキストに向かう。そこで得たこと、考えたことをもとに動く、試す、そしてまた本へ…。学びとは足を止めないことだ。

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 あれから20年以上が過ぎている。
 学校における読書活動はどう推移したのだろう。
 自省の念を込めて語れば、「総合」の理念とは別の思惑ともとれる学力検査の悉皆実施が大きく足を引っ張った印象が残る。

 踏ん張りどころは今もあるか。

中学生へメッセージ①

2020年11月25日 | 教育ノート
 昨日、近くの中学校でキャリア学習の活動が行われ、「図書館出前講座」という形で協力させていただいた。今日の図書館ブログに、そのことをアップした

 後半部に書いた資料提供だが、能書きタレの性格が出てしまい余計なことかと若干思いつつ、二つのことを書いた。
 一つは「仕事」のことである。再記してみる。

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「そもそも、仕事の意味って なんだろう?」

◆仕事という語を、大型の辞書で引いてみる。ふつう私たちが思う「生計を立てる手段として従事する事柄。職業」という意味の前に、次の説明が書かれてあった。

何かを作り出す、または成し遂げるための行動
           『大辞泉』(小学館)
 
 世の中にいる全ての人が、職業としての仕事についているわけではない。しかし、多くの人は額に汗をし、頭を悩ませ、手足を駆使しながら、目の前の「何か」と向き合っている。そして、そこでつくり上げられたモノや成し遂げられたコトによって、世界はまわっていると言っていい。
 
 まど・みちおの『朝がくると』という詩を知っている人はいるだろうか。「ぼくが作ったのでもない」水道、洋服、本、道路等に囲まれ、学校へ向かう「ぼく」は「いまに おとなになったら」と、こう決意する。

ぼくだって/なにかを 作ることが/できるようになるために

 今活躍している若いアーチストたちに、少なくない影響を与えた小沢健二というミュージシャンがいる。
 彼は、数年前のライブで、こんなふうに詩の朗読を始めたという。

仕事をせんとや、生まれけむ

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 明日は、もう一つのことを…。

逃げる力を身につける

2020年11月24日 | 読書
 背表紙を見て、「逃げる」ことと「百田尚樹」は一瞬結びつかなかった。でも目次をぱらぱらと見て、最終章の項目の一つに「『永遠の0』宮部久蔵の生き方」があったので、ああそうかと想像できた。あの物語で宮部が臆病者呼ばわりされていたことには明確な訳があった。特攻拒否は、まさに「逃げる力」そのものだ。


『逃げる力』(百田尚樹  PHP新書)


 だいたいの結論は予想できたが、買い求めてみた。出だしの第一章は「積極的逃走のすすめ」。そして人気になったドラマのタイトルである「逃げるは恥だが役に立つ」から始める。これは実はハンガリーのことわざらしく、その原文の直訳が紹介される。「恥ずかしい逃げ方だったとしても生き抜くことが大切」だ。



 学校や職場でいじめに遭い自死したり、過労死に追いこまれたりする例が繰り返されている。メディアでも取り上げられるが、その何倍も似た事例があることだろう。おそらく今そんな状態に陥っている人には、この新書は目に入らない。だから、それ以外の人がまず「逃げる」を理解し、意味づけておく必要がある。


 その芯として、著者が記している「逃げる」局面を把握する必要がある。当然だが、何もかも逃げてしまって生活が成立するわけがない。方法としての逃げる場合の選択に留意すること。つまり、繰り返し書かれている「『戦う』か『逃げる』かを判断することの重要性」の認識。これはある面で「損得勘定」なのだ。


 むろん経済的側面を含みつつ、「守るもの」は何かを明確にした強固な勘定である。例えば実際の場面に合わせて、判断のための選択基準を三つに絞れば「戦う必要があるのか」「我慢の仕方に問題はないか」「もし逃げたら何を失うか」となる。このレベルの思考を習慣づければ、「逃げる力」に結びつくのではないか。

久しぶりのホール席で笑ふ

2020年11月23日 | 雑記帳
 仕事以外でホールに入り何か鑑賞するのは春以来だなあと思って、日記を見返したら3月12日にシネコンへ行って封切直後の「Fukushima50」を観ていたのだった。もちろんあの時も館内は限定された座席指定だった。今回は県都の文化会館。前後左右に間隔をとった指定席配置である。3列目中央の好位置が取れた。


 某放送局が主催する恒例の「立川志の輔独演会」。毎年当然満席だが、今回は昼と夕方の2回公演という形での開催となる。おそらく、全国どこでもマクラの話はコロナネタになっていることだろう。志の輔も「こんな状況のなか、家族から引き止められませんでしたか」から始まり、自虐的・風刺的ネタで存分に笑いをとる。



 そして「格子模様の客席」へ向かって、「人がいないだけ、その分をお客さんがよく笑ってくれて埋めてくれるような気がする」と、実に上手な煽りを見せる。「1部で力を尽くすから、2部は疲れて出来が落ちる」というくすぐりも面白い。きっと2部では逆の言葉で客を笑わすのだろうから、まさに口八丁健在である。


 演目は前半が志の輔の作った『親の顔』。遠い昔に聴いた記憶がある。東京の正月だったか。調べてみたらなんと初めての創作落語がこれだった。貴重な一席だった。可笑しかったのは、前半終了後、後ろの席で噺に出た分数の問題の意味についての会話。もしかして通分を忘れた!顔が見たかったが振り向けなかった。


 後半は古典『妾馬(八五郎出世)』。これは複数の噺家で聴いた記憶がある。今回の聴かせどころは、お屋敷で酔っ払った八五郎が親を思う気持ちを語る箇所だった。ずいぶんアレンジの効く噺だなと思う。笑いと人情のバランスがいい。マスク越しながら存分に笑って息を吐きだした気分になった。いい時間を過ごせた。

誰に騙されるというのだ

2020年11月21日 | 読書
 もはや身体や脳みそは「だましだまし」維持していこうと思っているが、世間や社会の「騙し」には要注意だ。「フェイク」という語や現象を、なんだかみんな認めてしまっているような印象がある。「嘘をつくな」が親の教えの一番であった時代は、はるかに遠い。「騙すより騙されたほうが…」そこまでの度量があるか。


『騙されてませんか』(荻原博子  新潮新書)


 副題が「人生を壊すお金の『落とし穴』42」である。来年には高齢者デビュー(笑)する年齢となり、本格的に考えねばならない(もう既に遅しという内なる声もあり)。金に関してはある程度割り切っているし、この新書の一つの結論「慣れないことには手を出すな」は守っているほうだ。波に流されない意志が大切だ。



 「節約編」「投資編」「保険編」「老後編」と構成され、細々した留意事項が記されている。あまり興味なく読み進めたが「貯金好き気質の末路」という章だけは読み入ってしまった。○○投資にも株にも関心がなく、利率が無いに等しい「貯金」をしている自分、そしておそらく多くの庶民の心性がどうして作られたか。


 「貯蓄教育」である。戦後、日本銀行や当時の大蔵省が展開したその教育によって、小学校に設けられた「こども銀行」。現在、五十代後半の教員なら記憶があるか。いや、四十代でも小学生の頃に「こども通帳」を持ち学校で月ごとに貯金した経験をしているはずだ。そのような「コツコツ貯金」が国の方針だった。


 実は、70年代末に教員になった自分が初めて外部からの要請で、研究らしきものを手掛けたのが「金銭教育」という分野だった。一番若いのに代表として県外での会議に参加したこともあった。実践発表の内容は思い出せないが、ただ日銀・大蔵省のお偉いさんの話を聞き、豪華な弁当を出された記憶は残っている。


 教育界ではいつのまにかそんな名称が消えていた。おそらく貯蓄教育から消費者教育、そして投資教育へとシフトしていったはずだ。2000年前後に「投資」という語が様々な場面で使われ出したと思う。結局「金」には絶対的価値はあるが、生かせるかどうかはそれ以外の価値の在り処だ。そこが不確かだと騙される。

ワルツを聴くように読もう

2020年11月20日 | 読書
 手元に買った本や借りてきた本がなくなり、何かないかと書棚から抜き取った一冊。来月の広報に著者を少し紹介したので改めて短編集を、と思った。読み直すと、収められている三篇の主人公、主要人物がいずれも十代であり、男子、男女、女子の順に並べられていることに気づく。その目線を満遍なく拾う作家だ。


『アーモンド入りのチョコレートのワルツ』(森絵都 角川文庫)


 子どもから少年、少女そして大人へ向かう時期の、心の襞を上手に表現しているなあと改めて感じる。ここで、ふと思い出したのが昨年のある研修会のことだ。会の後半で、グループに分かれそれぞれ持ち寄った絵本を紹介するのだったが、私は、森絵都作の言葉遊び絵本『あいうえおちゃん』について話をした。



 小説家森絵都を知っている人は少なかった。しかしたった一人、その名前を出した瞬間に少し驚きの表情を見せ、語りだした方がいた。「私は中学生のときに森絵都と出会って…もし、出会っていなければ…」といった思いを口にした。絵本の研修とは直接関わらないが、そんなふうに語れることは素晴らしいと感じた。


 一人の作家と出逢い、深くのめり込んでその世界に浸れるような経験は、若い時期ゆえだろう。自分にあるだろうか。高校時代に筒井康隆などを読みこんだが、やはりエンタメ系は消費的だ。学生時代に専攻したなかでは中原中也がある。しかし中途半端だなと思う。かろうじて語れるのは初期のフォークソングか(笑)。


 さて、この文庫解説は角田光代で、冒頭「どうして私が中学生のときに、この作家に会えなかったのか!」と物理的に無理な表現でその素晴らしさを讃えている。ただ、その「不変さ」「やさしさ」に共感できるなら悔やまなくともよいとも記す。題名に喩えてワルツのように軽やかに本に接するだけで、よしとしよう(諦)。

エンドを過ごす心がけ

2020年11月19日 | 読書
 昨日、感想を記した『老いと記憶』(増本康平 中公新書)を読んでいて、思わずえっ本当かよっと言いたくなるような記述に出会った。著者は65歳以上の高齢者を対象に「これまでに経験した人生の重要な出来事10」を書き出してもらい、一年後にもう一度同じ対象者へ同じことを問い、答えてもらう実験を行った。


 その結果がにわかに信じられなかった。「人生の重要な出来事の63%が、一年経過しただけで、他の出来事と入れ替わっていた」というのである。実験に参加した高齢者の記憶機能は正常であるのに、そして一年間で大きな変化は考えにくい年齢なのに…。ただ、これは若者でも2,3割起こるというデータもある。



 「記憶は書き替えられる」という点についてはよく知られている。自分に都合のよいように編集されたりすることは、当然だろう。同級生と久しぶりに雑談して、同じ出来事に対して全く違う捉え方をしていることは珍しくない。しかし、自分に起こった出来事の重要度は、そんなに安易に入れ替わるものだろうか。


 上位の記憶はあまり替わらないが、下位だと数が多くなりあやふやになるという推論もつく。ただ肝心なのは、「高齢になるにつれ書き替えが顕著だ」ということだ。それは、その時点の環境や思考などに影響されるからではないか。著者は記憶の変容に関わって、ある検査の痛みの評価(記憶)の研究を紹介している。


 内科検査中の時間経過と痛みの程度をデータ化し、患者の評価をもとに「実際の経験」と「経験の記憶」の乖離を明らかにしている。評価は痛みのピークがどうかだけでなく、最後の時間に経験した痛みに強く関連していた。ここから導き出される結びが、なかなか滋味あふれる(笑)一節となっている。噛み締めたい。

「この結果を踏まえると、私たちの人生の評価は、人生全体の良い経験や悪い経験の総量で決まるのではなく、人生の最も良い時期あるいは悪い時期(ピーク)に加えて、特に高齢期の経験(エンド)の影響を強く受けることを示唆しています。」