すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

晩夏の一人視聴者委員会

2019年08月31日 | 雑記帳
 夏に放送されたドラマの中で『マンゴーの樹の下で~ルソン島・戦火の約束~』は印象深かった。岸恵子主演、その若い頃を演じた清原果耶はさすがだった。私たち世代の想像もつかない事実をどう伝えるか、分岐点に差し掛かっている。「人は国や土地で生きるのでなく、人で生きる」という終盤の台詞も心に響いた。


 『ENGEI』で多くの漫才やコントを見た。大笑いできなくとも、しっくりと見入ってしまう芸人が数組ある。きっと発想のユニークさに感心しているのだ。例えば、フットボールアワー。俯瞰したしゃべくりネタが秀逸。ジャルジャルは抜群のリズムとテンポ。そしてナイツ。素材の一般化をぎりぎりの線でねらう。


 連続ドラマは今季あまり観ていない。が『監察医 朝顔』は雰囲気がいいなあと見続けている。上野樹里の淡々とした演技がぴったりだ。原作はコミックらしい。そういえば『昨日、何食べた?』も原作イメージをうまく配役したのではないか。役者とはつくづく凄いものだと、表情や仕草に改めて目がいくようになった。


 朝ドラ100作目の『なつぞら』もあとひと月。やや展開にもたついた感が見えるのは自分だけか。月日がどんどん進むわりに事件性のある出来事が少ない気がする。これは主演者に重きを置きすぎてないか。けして大人しい時代背景ではないはずなのに、その空気が漂っていないことも原因か。来週は少し変わるかな。

吉田修一と11年か

2019年08月30日 | 読書
 新潮社『波』9月号の表紙に「特集 吉田修一の20年」とあった。作家としてのキャリアということだろう。私が知ったのは、そしてのめり込むように読み始めたのは2008年の正月からである。前年に発刊され、絶賛されたあの『悪人』を読んだときからだ。一気に読み、眠りつけなかったことを記してあった


 最近少し控えているが、文庫になったものはほとんど読んでいるはずである。特集ではインタビューや親しい方々のエッセイなどで構成されているが、PR誌らしく新潮社出版の書籍が主となる。『悪人』も『横道世之介』も出てこない。それ抜きに吉田修一を語れない気もするが、改めて新潮社のカラーも感じたりする。


 「新潮文庫の自作を語る」というインタビューの前編に、目に留まった箇所がある。「小説を書く時、土地がいちばん味方になってくれるんですよ。土地は裏切らない、みたいな」。確かにそう語られると、吉田作品は土地の描写が印象的なものが多い。地形や建物まで含めた、その場所の空気をうまく可視化できる人だ。


 ああと思わせられた一節は「物語」と「小説」の違いである。「構成というか仕掛けというか、そこは作家がやらなきゃいけないことだと思うんです。それが込みで小説は小説というものになると僕は考えています」。自分も含め物語なら話し書けるという人は多いかもしれない。しかし小説は高い壁を越えて出来上がる。

教育現場とはどこか

2019年08月28日 | 教育ノート
 館内に展示していた地域文集はもうそろそろ撤去の時期に入る。段取りを考えていた矢先に「この文集の発刊元の、羽後町教育振興協議会とはどういう組織ですか」と訊ねられる来館者がいらした。聞けば、隣県岩手の方で遺跡調査関連のことで来県し立ち寄ったとのこと。名刺裏には「児童文学者」の文字もあった。


 かの協議会については私も関わりが深いのでいくらでも喋ることはできるが、質問の本筋はその中身というより、最近の教育のあり方や動向を指しているようだった。一つ胸を衝かれたことがある。その県の教育長も出席する会議に参加された時に、教育長が「教育現場」という語を使ったことに対する疑問であった。


 「その現場とはどこか」と訊ねられたそうだ。教育長は「学校」と答えたが、その返答を「現場とはそこだけではない」とたしなめたと語られた。確かにその通りと思った。教員や学校関係者は、どうしても「教育現場」を、学校教育の場そのものや周辺を指して使うことが多い。慣習的な言い回しに潜む問題がある。


 もちろん私もそう言ってきた。それは間違いではないけれど、現場は家庭教育にも社会教育にもある。その対象者のなかには間違いなく、学校教育に籍を置く児童生徒が入る。誰しもが思うことだが、子どもがそれぞれの場で見せる姿は一様ではない。それは何に起因するか。大人の存在であることは否定できない。


 「現場」である認識をみんなが持っていれば、協議会的な組織は弱体化しないはずなのに…話し込むうちにそんな考えが過る。忙しい、無駄を省く、効率よく…そう理由づけられ無くなったり形骸化したりした組織が目立つ。そして徐々にそれぞれの現場が果たす教育性が弱くなっている。そんなスパイラルが浮かぶ。

境界線なき言葉たち

2019年08月27日 | 読書
 画面で語られたキニナルキ。
 すべて、境界線がない普遍的な言だ。
 時々思い出したい。


Volume.174
 「失ったものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ」

 日本に障害者スポーツを広め、1964年東京パラリンピックの開催に尽力した中村裕医師が、研修先のイギリスで心打たれた言葉として取り上げられ、ドラマのキーワードとして使われた。
 障害のあるなしに関わらない、人の生き方に通ずる。


Volume.175
 「どんな時代でも、やるやつはやるし、やらないやつはやらないのよ」

 矢沢永吉がNHKのドキュメント番組で語った言葉として、『ほぼ日』で取り上げられていた。
 普遍の真実。
 時代だけでなく、どんな場所でも、どんな条件でも…同じだ。


Volume.176
 「我々 警察官は法の正義を守るためにいるんです。組織を守るために いるわけではありませんよ!」

 相棒16の再放送を見ていたら、右京さんが時々最後に感情を顕わにしながら諭す場面でこんなことを言った。
 官僚や企業人に巣食うこの発想は、時々誰かが叱らねばならぬ。

失くしたもの、それだけですか?

2019年08月25日 | 雑記帳
 昔、所属していた研究団体の代表でもあったF岡先生が「私は『ダ・カーポ』から毎回10個ぐらいのネタを見つけている」と話されていたことを記憶している。私自身、雑誌好きは広言していて、廃刊になったものも含め現役時代はずいぶん購読していた。教育雑誌以外に月に10冊ぐらい読んでいた時期もある。


 今は数えるばかり。それでも出版社PR誌等は、結構読書欲を刺激される。『ちくま』9月号は連載が充実していた。「世の中ラボ」(斎藤美奈子)は、選挙絡みで「れいわ新選組」躍進を取り上げていた。戦略、運営スタイルが多くの共感を呼んだとみられるが、もう一つは政策への期待だ。反緊縮に興味が惹かれる。


 「ワイルドサイドをほっつき歩け」(ブレイディみかこ)は、イギリスの中間層から底辺層を描く。今回初めて知る語があった。「Fatism」(ファティズム)という考え方だ。体型による人種差別主義を表わす。肥満者の飛行機料金アップや肥満させる食品への課税などが動きとしてある。合理性も感じつつ、少し哀しい。


 岸本佐和子の連載「ネにもつタイプ」は妄想エッセイ。今回は特に展開が素晴らしい。映画館での落とし物をなかなか取りにいけずにいたら、ある保安室に移されて、ようやく行ったらまた別の場所に移されていて、やっと返された時こう言われる。「失くしたもの、それだけですか?」そして、階下へ降りていくと…。


 「ここには今までのすべての失くしたものが集まっているんですよ」と言われ、昔を思い出しながら用紙に記入すると、昔失くしたイヤリングの片方やナップザックなどが次々に戻ってくる。階段はさらに下層へ続き、自分の背丈もだんだんと縮んでいく…と、このファンタジーには誰の人生にも重なるような気がした。

縮小、撤退の工夫こそ

2019年08月24日 | 読書
 エスカレートする韓国絡みの報道をどう受けとめるか。双方ともにわかり合いたい文化が根強いからかもしれない。特に日本人はそんな道徳の中で育ち、解決を見出したくなる。しかし、そうでなくとも「共生」はできる。自論に固執し優先順位から目を逸らすリーダーは困る。政治家の私物化に振りまわされるな。


2019読了81
 『世界「最終」戦争論  近代の終焉を超えて』
  (内田樹・姜尚中 集英社新書)



 物騒なタイトルについての結論はこうだ。「『戦争を根絶するための最終戦争』などというものは、この世に人間が生きている限りあり得ない」。従って、戦争を抑止する議論を進めるための認識として、内田は、戦争廃絶論ではなく「『いかに死者の数を減らすか工夫することはできる』という『程度の問題』にシフトすべきではないか」と語る。


 二人の対談では、現在の状況は、直接戦闘状態にはないとしても、「疑似戦時体制」「準戦時体制」であると共通認識が示される。読者はそれを全否定できないだろう。誰しも平和に見える我が国にあってもテロや殺戮に遭遇するかもしれないという不安の芽はあるはずだから。それがまだ大きくならない訳も知っている。


 「金より命が大事」という常識が希薄に感じるのは、あの大国を牛耳る軍需産業が根元にあるからだ。その理由の連鎖について考えさせられる。「兵器は市場が絶対に飽和しない夢の商品」という製造業者の経済合理性から導き出される怖い結論は、神話が終わってもなお「経済成長」を連呼する者の顔とも重なる。


 姜は「このグローバル化の中で、どう縮小、撤退できるか、それが本来の人間の生活を取り戻すカギ」という。この主張も多様に展開され、動きの一部になっているはずだ。相変わらず、○○の誘致や○○の整備に頼っている地方の現状を苦々しく感じるが、そこに創生的な要素を組み入れる発想が必要かもしれない。

「ぎゃふん」はツッパリワードか

2019年08月23日 | 雑記帳
 いつぞや家人がTVで政治ニュースを観ながら「ぎゃふんだな」と口にした。みんな知っているけれど、なかなか直接耳にはしない。先日、「ほぼ日」で糸井重里もこう書いていた。「口に出して『ぎゃふん』と言ったことありますか? ぼくも言ったことないです。」大方の人はそうだろう。しかし、気持ちは伝わる語だ。


 広辞苑には「負かされて抗弁や太刀打ちできないさま」とある。他の辞典も同様で、「劣る」「言い負ける」「負ける」といった分類になるようだ。しかし、個人的な感覚だろうか「ぎゃふん」には少し怒りめいたニュアンスを覚える。「ギャ」と「フン」の音の組み合わせに強さを感じるし、「ぎゃ」が一つのポイントだ。


 「あんまりだ」「ひどい」という意味を持つ方言として「ぎゃ」を使ってきた。「あれなば、ぎゃだな」(あれでは、あんまりだ)というように。ただ『秋田のことば』(無明舎)には見出しとしてなかった。『湯沢・雄勝弁あれこれ』(イズミヤ出版)には、「ぎゃぎゃだ」として取り上げられている。生き残っていたようだ。


 似たような意味合いで使われるのは「おが」である。「ぎゃ」と同様に、これらを使う時は、対象を少し責める印象がある。「そえたごとしたら、おがだべ」(そういうことをするのは、あんまりだ)。そのニュアンスを引き摺った形で「ぎゃふん」を捉えていたのかと思う。「ふん」も不満の意味で使う場合もあることだし…。


 「ぎゃふんと言わせてやる」となれば明らかに攻撃言葉であり、そこでは「負け」を意味するのは確かだ。しかし「ぎゃふんだ」と言った側は、常に完全敗北とは言い難い気がする。「やられた」「負けた」という結果だけれど「呆れた」「つきあっていられない」という気持ちを込める場合もある。ツッパリワードか。

卒後教育で自戒する

2019年08月22日 | 教育ノート
 月曜の夜に初任で受け持った子たちと楽しい宴を持った。今までも何度か同期会に招かれ時間を共にしてきたが、「あの頃と変わってないなあ」と自分が感じることの意味について、少し頭をよぎった。それはおそらく、内田樹キョウジュが言うところの「卒後教育」という言葉が頭に残っていたからではないかと思う。


 「卒後教育」とは辞書にはない。氏の書かれている文章を読むと「卒業後に進められる自己教育」と解釈してもいい。つまり、学校教育とはそれを意識して行われるべきだし、その基礎作りを担っているということだ。その意味では、自己教育が適切に為されていると感じられれば、教育の成果があったことになる。


 もちろん、一口に学校教育と言っても自分が受け持ったのはわずかな年数だし、そもそも目の前の姿をどんなふうに判断するか難しい。従って思い込みたっぷりと言っていい考えだと承知している。そのうえであえて口にすれば、適切さの評価は「好奇心が消えていない」「表情に柔らかさがある」あたりが観点となるか。


 集った一人一人の顔と声を思い出し、その観点に照らし合わせれば、うんそうかと納得する。何に気づくかと言えば、「変わっていない」と感じようとするのは、やはり自分が懐古に浸りたいからという現実だ。皆それぞれに変容は明らかであり、その中になにを読みとろうとするか、結局はこちらの意識にたどり着く。


 それは結局、自分の「好奇心」であり、「見つめる表情」なのだ。この関係は出会いから40年経った今も変わらないのだなあ。教員という仕事はそれを持ち続けることが最も大事ではないか。内田キョージュは、こうも語っていた。「軽々に自己評価を下さない」…もう一度あの夜を振り返って思う、皆まだ大丈夫だな。

桃飲み熊喰らう夏

2019年08月21日 | 雑記帳
 以前ほどのんびりTVドラマを観ている余裕はないのだが、それでもいくつかの連ドラは録画したりしている。刑事モノは定番で、あとはNHKが多いかな。この頃ユニークだと思った番組は『きのう何食べた?』。テレビ東京なので、1クール遅れで深夜に放送している。系統?は『おっさんラブ』料理版なのか。


 主演が西島秀俊・内野聖陽で、特に内野は秀逸だ。他のキャストもなかなかの演技でホンワカと笑える。実はコミックでも一冊読んだときがあり、料理漫画と思って買ったら、その筋(笑)の展開で、まあ一般的になったなと思った次第。番組の中で必ず登場する食べ物のシーンに、人物の気持ちがよく象徴されている。


 食べ物は、その時その時の自分の心持ちや置かれた状況、または出来事などを映し出していると改めて思った。
 ということで久々の「たべびと」ネタを写真で攻めてみよう。

 今季初の「桃ビール」。桃を少しずつ砕きながら、ジョッキ3杯は持つ。今季はもう一度ぐらいやってみようか。



 「熊煮込み」。最初は「熊肉汁」を盆に食したのだが、少し味が薄く残ったので、味噌を足して仕上げた逸品。
 熊に襲われないように、熊を喰らう。



 いったん気温は下がったが、まだ残暑は続くらしい。
 乗り切るには、工夫とエネルギーが必要だ。

猛暑日から真夏日終わりまで

2019年08月20日 | 雑記帳
 8月14日(水)数か月ぶりに朝の散歩をする。近くのグラウンドに入ったら、今年初の対面となる長い生き物と遭遇。ほんの少し気温が下がったので出てきたか。しかし結局、日中は昨日と変わらぬ猛暑となった。お盆中だが目いっぱいの一日勤務でアンケートの残務整理やら計画案作成に費やす。台風情報が気になる。


 8月15日(木)今日も散歩を続ける。秋の虫が鳴き始めた。毬栗が落ちている。見上げれば秋の空。しかし…まだ熱い。今日も勤務。文書作成をしつつ、盆踊り期間中は臨時休館になるため、準備も慌ただしい。個人的に注文していた絵本が次々に自宅へ届く。夕方娘夫婦二組と孫二人が揃い、あまりに賑やかな食卓


 8月16日(金)朝から風が吹いている。雨も断続的に降るし、盆踊りは体育館だろう。昨年もそうだった。台風通過によって影響を受けた人は多い。しかし以前よりはるかに天気の行方が周知されるので、動向を決定しやすいことは確かだ。ただそれは人生の偶発的要素も減ったということだ。少し寂しさを感じないか。


 8月17日(土)朝、自転車でコンビニに行きがてら町内を一回りしてみる。まだ雲が厚く、結構気温も高い。数日前から読み始めた高橋源一郎の小説を読み終えた。「くに」って何だろうと今さら思う。午前中はPCに向かい、絵本の取り込み作業を行う。昔からそうだったが五味太郎の本は本当にしっくりくると感じる。


 8月18日(日)盆踊り当日券販売所になっている図書館の様子を見に行く。今日は天気も上々。観光客も多いだろう。18時前から踊りの主会場を歩く。町ふるさとCMの最終撮影日なので位置取りを決める。踊り開始直前をねらって予定シーンを収める。これでクランクアップ(笑)。あとは孤独な編集作業が待っている。


 8月19日(月)通常休館日。自宅で絵本の拡大版を作成する(といっても貼り付け作業)。スティックのりだと温度が高いと軟らかくなり、道具揃えを甘く見たと後悔した。どうにか9割までめどをつけた。夕刻より教え子たちと一献。採用後に初担任した子供たちが今年50歳を迎えた。もはや健康ネタが中心になり笑える。