すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

言葉は、戦いの結果

2009年09月30日 | 雑記帳
 録っておいたNHKドラマスペシャル『白州次郎』を観た。

 どこまでがフィクションなんだろうという思いがあって、ちょっとすっきりしない後味が残る。市川亀治郎扮する青山二郎がなかなか迫力あったなあ、などと細かい感想しか残らない。

 憲法草案をめぐるGHQとのやりとりで、面白いと思ったのが、松本某担当大臣がこだわった「ほひつ(輔弼)」という言葉。
 場面を見ていて「補筆」とは違うし、天皇の国事行為に関することだなあと分かったが、それにしても耳馴染みがない。

 広辞苑で調べると、次のような意味である。
 ①天子の政治をたすけること。また、その役。
 ②明治憲法の観念で、天皇の行為としてなされ或いはなされざるべきことについて進言し、採納を奏請し、その全責任を負うこと。

 んっ。採納とは何だ。奏請とは何だ(しかも正確に読めない)。
 採納は「とり入れること。とりあげること」つまり採用か。
 奏請とは「ソウセイ」で、「天子に奏上して裁可を請うこと」とある。

 ウィキペディアで調べてみよう。

 そうすると、これは結局権力として働いていた言葉だということがわかる。
 天皇を失敗、敗北できない存在としておくことを利用して、権力の構造がはびこったということか。

 さて、「日本語まで変えろというのか」と席を立ったのが松本某担当大臣。

 その通り…戦いとは、場を変え、価値を変え、言葉を変えるもの。つまり人を変えるもの。

 これは、政権交代でも似たことがあるのではないか。
 もっと言えば、産業の振興と衰退や企業同士の競争でも近いことが起きるのではないか、とふと思う。

 ある言葉が使われなくなったということは、戦いの結果と捉えてもいい。

書きとめておきたい言葉たち

2009年09月28日 | 雑記帳
 今月もあと数日。書きとめておきたいいくつかのことばに出合った。

 初旬だったろうか、朝のトーク番組でリリーフランキーはこう言った。

 人間って、こわいものに名前をつけて、こわさを和らげてきたでしょ。

 名づけの意味の深さを考える。生きていくうえの大きな知恵のように思う。


 日本一の金持ちの言葉として聞けば鼻持ちならない気もするが…。
 あのユニクロの社長屋柳井正は、ビジネス誌インタビューに答えて、こう言った。

 ある種の楽観性を持って、能動的に動いた人だけが、次の時代の勝者になれる。
 
 「勝者」の意味をどこに見出すかではあるが、楽観性、能動的という言葉はこの流動的で不透明な時代にとって、一つ大きな方向だと思う。明快な指針だ。


 プロ野球楽天イーグルスの草野大輔が、スポーツライター二宮清純のインタビューに答えて、次のように言う。

 最近のピッチャーは(略)いろいろな球種を投げてくるので、タイミングを崩されても対応しなければならない。『遊び』がないと対応しきれないですね。
 
 バットの握りの変化による力の伝え方を語っているのだが、『遊び』という言葉の意味に深さを感ずる。
 おそらくは、対人間という場においても通用できることではないか。

この齢で人生初の…

2009年09月26日 | 雑記帳
 午後6時ちょうどに学校の玄関を出ると、夕闇の中に月がぽっかり。
 雲はかなたに少しある程度で、いい星空になるだろうと思った。
 ふと、昨日聞いたラジオで、「人工衛星が肉眼で見える」という話題を思い出した。

 時間帯はちょうど6時過ぎの数分間と言っていたなあ…もしかしたら、あそこなら見えるかもしれないと、ふだんは通らない農道を選んで車を走らせた。

 直線道路の端に6時5分前ぐらいに車を停めた。
 方角は失念してしまったが、ほぼ360度見渡せる地点なので何とか見えないだろうかと目を凝らしてみる。

 月の他には、輝く星が2つか…えっ、あれは動いているのか、と思ったがそれは自分の錯覚らしい。

 もう一つの方だ!
 北から東へ確かに動いている。真下の建物を基準にするとはっきりわかる。飛行機のような点滅ではないし…。

 ああ、これが…と一分ほど眺めていると、雲に遮られたように消えてしまった。

 この齢になっても、人生初体験のことはあるものだなあ、とふと思う。それがどうした、という気持ちもあるし、もっと天文の知識があったら興味深く心にとめるのだろうか、などとも考えた。

 家に帰ってネットで調べたら、こんなサイトがあることも知った。
 確かにその時間帯に通ったことも確認できた。

 別の何かでなかったことにほっとしながら、自分の知らないことのあまりの多さに今さらながらに愕然とするわけですよ。

人物を掘り続ける男

2009年09月25日 | 雑記帳
 この連休は初めに野球大会相撲大会の応援があるだけで、あとはフリー。読書以上に進んだのが、録画していた番組の処理である。

 映画や流行りのお笑いや落語なども含めて、まあまあ飽きるほどに視た。

 その中で印象深い番組がいくつかあったが、NHKプロフェッショナル仕事の流儀・漫画家井上雄彦の回はなかなかであった。

 スラム・ダンクもバガボンドもちらっと読んだことがある程度で、けしてファンとは言えないので、強い興味があったわけではないが、漫画というかキャラクターに対する入れ込みが尋常でないことが、映像の端々から感じられた。

 スタジオのキャスター茂木がいつにもなく沈黙が多いような気がした。それ自体編集ということなのだろうが、今まで視聴した回とは違って見えて、茂木が必死にその表情から内面を探ろうとしているようにも思え、興味深かった。
 茂木のブログを見てみると、こんなことが書いてあった

 掘り続ける、というイメージが湧いた。

 人物を掘り続けるということは、結局自分自身にぶつかること。自分の強さ、弱さ、美しさ、醜さ…そのわずかな存在も見逃さずに筆入れをしていく作業。その苦しみの連続に耐えられるというのは尋常ではないのだなあ、と思う。

 人物の表情にこだわる井上をかなり追いかけて制作したディレクターの意図も伝わってくる。

 「たかが漫画」というべきものも多いが、対極にある姿だと思う。

連休充電日記②

2009年09月24日 | 読書
 『図解 よくわかる 授業づくり発想法』(上條晴夫著 学陽書房)
 いかにも上條氏らしい本。
 気になった言葉は

 子どもの指導を意識して行う職業的所作のトレーニング

 そんな観点での研修ができないかと思う。 

 それにしても「授業づくりの教材学」の章で取り上げられた14項目の実践を、たったひとつを除いた他は全て自分もやってきたことに少し驚いた。
 まだまだ著名な実践はあるのだろうが、これらに限定された意味づけは果たしてなんだったろうか。
 自分の中の教師像が明かされるような気がする。


 『鍛え・育てる 教師よ!哲学を持て』(深澤久著 日本標準)

 一本の筋がピシッと通っている書である。
 深澤氏が信念をもって(それを哲学と呼ぶかどうか、ちょっとそこは分からない)歩んできた実践の集約ともいえる。

 指導言に対するこだわりにその核をみる。もちろんそれは表面上のことではなく、何のためにという教師の内なる願いがエネルギーとなっている。

 教師の目指す行為像に、指導言は従属するのである。
 
 そしてそこが明確だからこそ、次のような優れた原理を導き出した。

 指導言は、行為発達レベルの「易」からではなく、「難」から入る
 
 自分ではそのことを意識的に行ったことはない。わずかに思い起こせることもあるが無自覚だったと思う。

 とことん自分の頭で考える、子どもの力を信じて対する、なぜかと突き詰める…まさしく自立する教師の典型を見る思いである。

連休充電日記①

2009年09月23日 | 読書
 連休前から読み始めていたのが

 『間違いだらけの教育論』(諏訪哲二著 光文社新書)

 キーワードは

 「啓蒙」としての教育
 
 諏訪氏の一貫した主張によって、影響力の強い「教育家」たちの論が斬られていく。肯ける点は多いが、取り上げられている本は読んでいないものもあり、もう少し自分の読み込みが必要と思う。

 それにしても「啓蒙」は強い言葉である。そしてその教育のためには強い指導性が必要であり、取り上げられた著名な人たちはみんなその要素を持っているだろう。
 だからある意味でその方々はかなり有効な論を提示しているとも言えるのだが、同時に経済や政治の流れの中で大きく利用される存在であるゆえの危険性も持つ。
 看視する目が必要なことを教えられる。

 『考えあう技術』(苅谷剛彦・西研著 ちくま新書)

 諏訪氏の新書に引用された箇所が興味深く、読んでみた。
 実に刺激的である。
 苅谷氏の論はいつも目を見開かされるが、西氏の指摘もまた鋭い。
 例えば、「心のノート」はこんなふうに批判される。

 教育というものを「心の問題」と考えているのです。社会や他人と関係していく力とか、集団をつくりあげる力をどう育てるかという観点が全然ない。
 
 そういう意識で見ていなかった自分を振り返るとき、なんとなく社会状況に対して追従的な姿勢が浮かび上がってきた。

 「どういう社会を作ろうとするのか」という議論が干からびてしまっている。

「真逆」の正体

2009年09月19日 | 雑記帳
 ある作家が週刊誌の連載で、「『真逆』なんて日本語はない!」と怒り気味に書いていた。

 「真逆」を聞いたことはあるというのが私。
 食卓で話題にしたら娘はよく聞くといい、そういうのに疎い連れ合いは初耳という。
 ネット検索では、このように。

 私が興味あるのは、なぜこのような言葉が出来てきたか、という点である。
 数年前にある人と頻繁にあう機会があって、その人が何度もする言葉が妙に気になったことがあった。

 「逆に…」「逆に言えば…」という言い回しである。

 私が「ここは、~~したいと思うんですが」と言うと
 「逆に、○○という方法もあるんじゃないですかね。」と彼は言う。

 私が「△△するっていうのはだめかなあ」と聞くと
 「逆に言えば、□□□でも可能ということですよね」と彼は答える。

 会話は成立するし、違和感なく考えはわかるのだが、ある時「それは全然『逆』じゃない」と気がついた。
 例えば「ちょっと違う例ですが」とか「視点を変えれば」とか、そういう趣旨の発言なのである。それを「逆に」という言い回しで言葉をつないでいるのである。

 これは「その意見には反対なのだが、それを少しぼかすために、同じ考えだけども、位置を変えてみたらこうなったよという言い方」のような雰囲気かなと結論づけた。

 「真逆」は、その派生で出来たものではないだろうか。
 「正反対」という強い響きよりも、「まるっきりさかさまになっているじゃん、えへへ」のような軽いニュアンスを漂わせる言葉だ。

 真逆は見た目?は強く感じるが、実は自分の意思の位置取りを微妙にぼかす弱い気持ちから生まれているように思う。

深い息に乗った声

2009年09月17日 | 読書
 子どもたちを包み込むような、深い息に乗った声を求めましょう
 
 単発的に発声法などを学ぶ機会はあったにしろ、十分にそれが身に付いたとは言えない。また意識はしていてもそれを継続しているとも言い難い。
 ただ関心はいつもあって、書店に出向くと自然にそちらに目が向いているようだ。

 小学館の発行している別冊教育技術の2009年版に『日本語を習得する音読指導』というのがありめくってみたら、内容はよくある詩や古典のアンソロジー的なものだった。
 購入するほどでもないと思ったのだが、巻末の「特別寄稿」に目が惹かれた。

 「日本語の発声に息をつかおう」と題して、能楽師の山村庸子氏が書いている文章である。
 演劇や語りの人たちの要望をうけ「声の道場」なるものを開いている方らしい。冒頭に挙げた言葉はその中にあった。

 日本人の声が弱くなっているというようなことは、少なくない人がいろいろ述べているが、ここでは山村氏は「息が弱くなっている→声が危ない」ことを指摘している。
 その理由はいくつか挙げられているが、日本語の「顎の付け根の動きが少ない」という特徴が大きく影響しているという指摘が興味深かった。

 確かに書かれてあるとおりに、様々な音を発音してみたときに顎の動きが少なく「口をあまり開けない日本語の発音」という点が納得できる。小学校初期、または演劇の基本レッスンで行うような「アエイウエオアオ」のような口形指導とは少し違った視点が感じられた。

 山村氏は小さい時に大きな口を開けて大きな声で歌うことは呼吸のためにとてもいいと言いながらも、こんなふうに考えている。

 私はこれは日本語のための発声練習には向いていないと思うのです。
 
 日本の言葉をはっきりと美しく発音するために、口を大きく開けることが障害になると言っているわけである。

 口を開けずに息をつかう…これはまた新鮮なイメージである。少し意識して考えてみたい。

心のスイッチを形づくるもの

2009年09月16日 | 読書
 『自分を育てるのは自分』(東井義雄著 致知出版社)

 「10代の君たちへ」という副題がついている。昭和50年代に中学生を対象とした講話の記録が出版されたものである。
 しかしそこで語られていることは決して古くはなく、平易な言葉ではあるが幼稚な内容ではない。

 どんな境遇にあっても自らの価値を見つけることをあきらめない、という信念が様々な例話をもとに語りかけられる。
 そのどれもが印象的であるが、例えば著者が師範学校で運動が何一つできず最後に入ったマラソン部で、びりになりながらこう思い至る件は、魂を磨いてきた者だけしか実感できないように読んだ。

 僕がびりっ子をとらなんでみい、誰がこのみじめな思いをせねばならぬ。それを僕が引き受けているのだと気が付くと、世の中がパッと明るくなりました。
 
 様々な事件、問題行動があったことが話の内容に盛り込まれている。その一つ一つを詳しく見ているわけではないが、人間としての生き方を違えた有様という括り方をしている。
 それは結局のところ「心のスイッチ」が入るか入らないかが境目であるという見方になる。進路について考え始め、社会が少し見え始める中学生の時期がその好適期であることは当然だし、その揺れ動く心に寄り添うように話が進められていて、惹きつけられた子も多かっただろうと思う。

 心のスイッチが 人間を
 つまらなくもし すばらしくも していく
 
 心のスイッチを自分自身で入れられるために、そういうきっかけを逃さないためには何が備わっているべきか、どんな下地が必要か…そのことは具体的な取り上げられていないが、教職としては一番考えてみなければいけないことだ。

 冒頭に出てくる死刑囚島秋人の話はあまりに有名であり、象徴的である。
 子どもにとっての教師の一言の重み、信頼できる人間がどこかにいることの強さ…それらこそスイッチを形づくっているのだという真実が改めて見えてくる。

足元の見つめ方

2009年09月15日 | 読書
 仙台の大型書店を2店まわって十分に立ち読みをしながら、10冊ほど買い込んできた。読書の秋全開、私的「秋の教育書まつり」状態か。苦笑。

 その中の一冊『校長の品格』(豊田ひさき著 黎明書房)に、かの宮崎駿監督が最近書いた文章の紹介があった。

 五百万人の子供に映画を送るよりも、三人の子供を喜ばせた方がいい。経済的活動は伴わないけれど、それが本当は真実だと思います。
 
 日本が世界に誇る才能であってもこんなことを思うのか、と考えてしまう。
 自分の創作や活動がどんなに評価、賞賛されようと、それは自ら直接的に関わる人を幸せにすることには及ばない…いや「自分の半径五メートル以内のこと」をきちんとしていることが出発点であり、創造の源なのだという意識だと思う。

 「足元を見よ」はよくある警句ではあるが、その瞬間だけは目がいってもまた周囲の甘言や雑音に振り回されるのが、私の常だった。
 自然体で教育の仕事を全うしていきたいと思っていても、どこか不自然な姿勢でなかったろうかと反省させられる。それを閉塞的な状況、混迷する政治的介入などのせいにしてはいけない。
 
 著者が大正時代の自由教育の好例として挙げた三国小学校の文章が実に心強い。
 
 制度の中にありて制度を離れ制度を離れんとして制度に入っている
 
 公教育の仕事における足元を見つめるとは、そういうことではないか。