すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

その話、複雑にしませんか

2020年10月31日 | 読書
 前政権における様々な施策やスキャンダル的な出来事もそうだったが、今回の学術会議の任命に関することほど、分かりやすいものはない。報道で知る限りにおいても、論点は明確であり弁明のあり方の流れも、表面上の言葉とは裏腹に意図が完全に透けて見える。決着のつけ方には明らかにこの国の構図が反映する。


 『日本習合論』(内田樹 ミシマ社)


 この本の表現を借りれば、その決着は『話を簡単にしよう』になるか、『話を複雑にしよう』になるかだ。そして、次の考えがその意味を象徴していくことになるのではないか。

「『話を簡単にしよう』と言い出す人間がだいたい何かを排除したり、何かを破壊するのに対して、『話を複雑にしよう』と言い出す人間は何も排除しない、何も破壊しない。」


 「習合」とは「両立し難いものを無理やり両立させること」と著者は書く。その観点で記された各所での講演などの発言記録は興味深い。曰く「農業は本来市場とは相性が悪い」「相互扶助的な共同体は資本主義市場経済と相性が悪い」…今、まさに地方に暮らす者にとっては、目の前の、そして将来の課題そのものだ。



 今年は何度か「わかりやすさ」に関する危惧を書いた。自分自身そんな空気に染まってきた引け目の様な感情があるからか。この著でも「職場は明るいほうがいい」という一見わかりやすい提言があるが、語られるのは、その意味をどのレベルでとらえるか、どんな条件があるかという点だ。対峙する壁を直視したい。


 最終の第八章「習合と鈍化」に、「『習合』の精華」として挙げられた例に得心し、なぜか気持ちが高ぶった。それはポップス、「日本語によるロック」つまり「はっぴいえんど」である。むろん、その出現は才能のなせる業だったろうが、習合を可能にしたのは、対象へ向かう弛まない本質の希求だと、今さら理解する。

習合に込められた意味を知る

2020年10月29日 | 読書
 「習合」の意味を知らなかったし、当然使ったこともなかった。広辞苑には「相異なる教理など折衷・調和すること」とあり、「神仏――」と例が挙げられていた。この著の核として、明治初頭に出された政令による「神仏分離」が取り上げられ、その極めて特殊な状況、成り行きを考察しながら、現状と結びつけている。


『日本習合論』(内田樹 ミシマ社)


 この本は、著者のブログに載せられた文章に誘われて手に取った。その時にも書いたように、共感や和の盛り上がり、そしてその裏にある差別や排除に対する警告的な書といっていいだろう。むろん、共感や調和が否定されているわけではない、そこに至る過程の問題視、吟味だ。「習合」に込められる複雑さの許容だ。


 宗教や学問に対する知識が浅いので、よく呑みこめなかった部分もある。ただ、この国は歴史上の様々な事態に対して、なんとか「折り合い」をつける国だったことを改めて感じる内容でもあった。ただ、私たちは今、そうした歴史を捨てにかかっている。政治的な流れやグローバル化により、その考えが浸食している。



 印象深い一節を、少し長いが引用する。

「今や人々はこんなふうに考えるようになった。(1)人間の行うすべての認識には階級や性差や人種や宗教のバイアスがかかっている。(2)すべての認識が自民族中心主義的臆断である以上『私は客観的事実を見ている』と称する資格は誰にもない。(3)ゆえに、万人は客観的事実のことなど気にかけずに、自分の気に入った自民族中心主義的妄想のうちに安らいでいればよろしい。」


 姦しく報道されるアメリカ大統領選挙などは最たるものだ。翻って我が国の政策にもずいぶん当てはまる。それを受けとめる側がどうあるべきか。「安らいで」いたい心は、知らず知らずのうちに首を絞めていくことだと気づく。では、どうするべきか。やはり、そうか…この本の提言はこの頃の読書と軌を一にしていた。
 つづく

予言の書などに頼らない

2020年10月27日 | 雑記帳
 「予言」が、広辞苑(第五版)の書く「未来の物事を推測して言うこと。また、その言葉」の通りだとすれば、それは自分が「推測して言」えば、誰しも予言者にはなれるわけである。そこで問われるのは推測力にほかならない。しかし一般的に「予言」というと私の世代では「ノストラダムス」か。オカルトっぽい。


 雑誌『ちくま』の冒頭エッセイで、作家金井美恵子が「予言について」と題して書き始めたのは先月(10月)号からである。今夏に『ノストラダムスの大予言』の著者五島勉氏の死去記事を発端に、昭和期から現在までの様々な騒動と終末論的なことの関わりについて述べている。11月号ではアートなども登場する。



 今回のコロナ禍に関しても、小説「ペスト」に始まりいくつか類した書物が「予言的」のような形容で紹介された。しかしそれは予言の意味からすると当然のことなのだと、改めて思う。つまり「推測」できたこと。それは禍の発生から広がり、そして対策の甘さや不備に至るまで、一定の見通しを持った人はいたのだ。


 文中に引用された、かしこまった文章でいえば「注意深く、日常の中で埋もれたものや見過ごされたものを見つめたり、角度を変えて見たり、過去に学んだりする」人となる。金井はそれを単に「歴史感覚と日常感覚をもって思考する常識的な人間の生き方」と括る。この常識と思われることが出来にくい世の中だ。


 コロナの語が囁かれだしてから九か月が経つ。間違いなく歴史的な事象だと思う。それなのに心理的な緩みを認めざるを得ない。世界情勢、国内の感染者数を見ても、慣れっこになっている感覚に気づくこともある。その心身を警戒し、予言はできなくとも、「社会全体で共有すべき経験知」を作りだす一員ではありたい。

これもまた『ものは言いよう』

2020年10月26日 | 読書
 ヨシタケシンスケとの出会いが『りんごかもしれない』だったことは前に書いた。今までの絵本とは一味違う、そのスタイルが好きになって、意識的に取り上げてきた。通常の読み聞かせはしにくいが、やはりその考え方が刺激的なので、つい手を伸ばしてしまう。昨年末に出版されたこの本を読み理解が深まった。

『ものは言いよう』(ヨシタケシンスケ・MOE編集部 白泉社)



 いうなれば「ヨシタケシンスケ読本」である。1章「まるごとヨシタケシンスケ」のQ&Aに始まり、小さい頃から現在に至る細かな点までいわゆるヨシタケワールドで表現されている。2章からは絵本の紹介、製作にかかわる「ひみつ」や、家族、影響を受けた本等々、かなり細密だが読ませるのは編集の上手さだ。


 タイトルは、ヨシタケの座右の銘と答えている慣用句だ。「物事は言いようによってどうにでも聞こえる」という意味だが、これは詳しくいうと二つの要素がある。「見方(視点)の違い」と「言い方(表現)の違い」だ。妄想力(いや想像力か)に長けたヨシタケが、独特の描き方で物事に対するのだから、面白くなる。


 さて、「物は言いよう」と対になった同義の句「事は言いなし」があることを初めて知った。「言いなし」は「言いなす」の名詞形だ。「なかだち・とりなし」もあるが、「もっともらしく言う。言いこしらえる」という意味であり実はあまり印象がよくない。思いつくのは、どこかの国の政権の姿。私だけではないだろう。


 間違っても政治ネタや外交ネタは題材にしそうにないヨシタケだけれど、独特の「言いよう」で、そんな作品も見たい気がする。代表作のタイトルだけ並べても、十分に基本として通用しそうだから。『ふまんがあります』『それしかないわけないでしょう』『みえるとか、みえないとか』それから『ころべばいいのに』(笑)

思い出したように独り視聴者委

2020年10月25日 | 雑記帳
 この頃、このお題で書いていないのはやはり面白いものがないからか…確かに「心を掴む」ほどのドラマはないけれど、見続けている番組もあるし、良品とも出会った。二か月以上空いて再開した朝ドラ『エール』は、重く流れる展開をそつなくこなしたイメージがある。ただ少し焦点を当てる人物が多い感じがする。


 これは大河の『麒麟がくる』も同様で、来年2月までの放送が決まったが、どこかモタモタしているイメージをうける。今まであまり描かない部分だからか。創作上の人物が多く動いているから…という意見がネット上でも見られた。やはり期待しているのは、史実に沿ったうまい脚色だなとファンの1人として感じる。


 NHKでは先週終わった土曜ドラマ『天使にリクエストを~人生最後の願い~』が結構面白かった。江口洋介の泣きのシーンを見ていたら、かの『ひとつ屋根の下』を思い出した。複数のパターンで演じる役者だが、今回は年輪を感じさせる演技だった。そう言えば最近のフジのドラマはつまらない。全然観ていない。


 刑事ドラマ全盛、フジ『DIVER』も初回観たが何か入ってこない。案の定?5話で終了らしい。ふた月遅れで放送された『MIU 404』は良かった。星野・綾野コンビがウリということだろう。しかし名作『コウノドリ』とは違った組み合わせの妙があって、よろしい。名脇役たちがちょっこり出演するのも楽しい。



 『相棒19』スタート。1,2話連続で観た。今回も安定感抜群のつくりだな。さて、ドラマ以外で見続けているのはBSフジの『日本一ふつうで美味しい 植野食堂』。dancyu編集長の視点で名物料理紹介をする。しかし少し食傷気味。やはり食べ物番組が溢れていて、どうしてもパターン化する。TVの将来は険しい。




ぼんやりした憧れが浮遊する

2020年10月24日 | 雑記帳
 先週秋田市に出張したときに、指定された駐車場から会場へと向かう途中、外車販売の有名某ディーラーの前を通りかかった。ふと、立ち止まって「ああ、俺の人生であとはあんな車に乗ることはないし、この店にも入らないだろうな」などという思いが浮かぶ。そうしたらすぐ「なぜそう思ったのか」とハテナも浮かぶ。


 外車に乗りたいのか…いや、一度くらいは乗って高速でも飛ばしてみたいが、所有したい気持ちがあるわけではない。とすると、単にリッチな気分を身に付けたいという欲だなとわかる。車に強いこだわりがあるわけでもない、高級ブランド志向も遠い世界だ。結局、ぼんやりした「あこがれ」が浮遊しているだけだ。


 それを思い出したのは、一昨日書いた『欲が出ました』(ヨシタケシンスケ)を読み直していて、「北欧の人たちは何にあこがれているのかな」という箇所があったからだ。なんとなくだが北欧への憧れは番組になったり記事になったりしやすい。結構多くの人が「いいよね」感覚なのだが、実際はぼんやりしていないか。



 マイカーは来年4回目の車検、そろそろ替え時か。2500ccの排気量は必要ないし、サイズダウンは間違いない。来年誕生日が来たらサポカー補助金だって使えるのだから(笑)。そもそもあと何年運転できるのか、ということだって頭に入れる現状の方が重要だ。ここに、「ぼんやりしたあこがれ」など入る余地などない。


 車という道具がその役割を効率よく安全に果たせるかを吟味することだ。生活にマッチする性能か、そして経済的かが大事だ。と、ここまで書いて「ツマラナイ」と思う。先日TVで見た県北のある人は、楽しそうに箱型のスカGTに乗っていた。羨ましい。車に限らないが、そうした熱はどこかに残っていないのか。

もう一度「欲が出ました」

2020年10月22日 | 読書
 7月発刊されたヨシタケシンスケのエッセイ集『欲が出ました』(新潮社)は、翌月にさっそくペラッと読み、こんなメモを残していた。三つばかり印象的なフレーズを引用していた。この本を少々事情があり図書館に寄贈することになって、惜別記念にもう一度ベッドに寝転んでめくってみた。まだまだ出てくる名言。


「サァ!今日も元気に顔色をうかがっていこっ!」

みんなで、朝一発目に気合いを入れるためのかけ声」だという。こんな職場があったら痛快だ。しかし、現実はみんなこうだから、何よりこの元気さだけが必要なんだね。



「志は高く、落としドコロは低く、よくかもう」

 これは実に具体的。目標へのスモールステップ論を泥臭く表現している。目標と自分をきちんと分析できるかということ。そして、要は「よくかもう」を心がけることだ。




「まちがいには2種類ある。直した方がいいまちがいと直さなくていいまちがいだ。」

 つまり、世間一般の基準に照らしあわせて、正しくない、よくない、誤っている…と思われること全てを、自分にそのまま当てはめていいのかってことだ。
 仮に「まちがいだ」と口では認めざるを得なくとも、どうしても直せない、譲れないことがある。それを持てるのは一つの幸せだ。
 もう一つとして、事故や過失的な観点もあるだろう。これは諦観を鍛えることかな。

 あっ、もう一ついい句が…。でもこれは…そのうちに。

歳時記に季節があるわけではない

2020年10月21日 | 雑記帳
 作句はほとんどしないが、歳時記は結構揃っている。その割に身についていないのが正直なところ、しかし読んでいて何かしら心に響くものがあるから手にするのだろう。今回は『「歳時記」の真実』(石寒太 文春新書)を買い求めた。最初からではなく「秋」から読み始めたが、初めて知ったことのあまりの多さよ。


 「秋」の冒頭句は「雲の峰いくつ並びて海の盆」(森澄雄)である。ここからして躓く。「雲の峰」は夏の季語じゃないか。「盆」は…夏か、いや盆→盂蘭盆会→ウッランバナ(サンスクリット語)→「旧盆に行われる秋の魂祭り」と説明があって、秋に入る。季語が重なっているようだけれど、盆の「強さ」で秋なのか?


 きっと専門的な分析はあるのだろう。そこまで立ち入らなくてもと思い読み進める。すると存外に面白い。ネタばれしない程度に書くと「朝顔が秋の季語である訳」「バナナが好きで、その名を俳号にした人」「『柿くえば』の鐘は、法隆寺ではない」…といった、いわばトリビア満載だった。改めて歴史を背負う文学だ。



 「雪月花」…日本の美がその三つに象徴され、冬・秋・春にそれぞれ位置づけられている。それを伝統と見るか、単に古いだけとするか。秋から冬、新年と読み進め「はじめに」に戻ると、歳時記そのものの歴史などについて書かれてあり、興味深かった。「通季」という区分も出てきているらしい。季語の弱体化か。


 月曜日の夕刻、小さいほうの孫を乳母車に乗せ、散歩した。少し暮れかかった空から、聞き覚えのある鳴き声がするではないか。「渡り鳥」だ。今年初めて耳にした。数は十羽に満たないが、揃って南を目指して飛んでいく。これは紛れもない秋。揺るがない季節があるなあと、ぽかんとしている幼子に語りかけてみた。

 ※勤務している図書館のブログも書き始めました。
  よろしかったら、左のブックマークからどうぞ。

絵本を奏でる声を…

2020年10月20日 | 雑記帳
 日曜日、郡市の読み聞かせボランティアグループの合同研修会に参加した。5つの団体から三十名近い出席者がいる。予想したとおりというか、昨年もそうだったので驚きはしないが、男性は私一人である。その現状について今さらあれこれ考えはしない。けれどこういう固定的な流れはやはり寂しいものだと思う。


 それはともかく、今回は他の方々の読みを聴くいい機会となった。まったく絵本の紹介に特化した研修なので、2時間あまりの会でグループ別、全体報告を通して延べ9名の方の読みを聴くことができた。ベテランも多いが新人?もいてそれぞれに特徴がある。技術の巧拙というより「声」による違いが印象に残った。



 劇作家の三好十郎が、「人間の本質は声に最も表れる」といった言葉を残している。これは教育実践においても非常に重く捉えてきた考えだ。今また自分が声を発する活動をしていると、無関心でいられなくなる。スマホを使い絵本の初読みを録音する時がある。そして、もう少しなんとかならないかと思うのが常だ。


 自分の声が好きという人はどの程度いるのだろうか…。まあそれはともかく今回、女性だけだが他の方々の声を聴き、ああ魅力的と感じたり、この詩にあう硬質な声だなと思ったり、いろいろ浮かぶことがあった。先日読んだ本で強調された「合う声」は確かにあるようだ。ふと、声を楽器に見立ててみればと考えた。


 この絵本を奏でるために、自分の声という楽器は適しているのか。どんな音色、どのくらいのオクターブを表現できるか、それを見極めなくてはいけない。しかしなあ、あっいい本だと思うとどうしても読みたくなる。プロではないから割り切って楽しめばいいのだけれど、迷惑になってはいけない。うん、楽器を磨くか。

時々無性に欲しくなって…

2020年10月18日 | 読書
 一定の周期があるわけではないが、時々無性に食べたくなるモノがある。
 食べ物ほどではないが、「読み物」においても、そんなジャンル?があることに気がつく。
 ここ一週間ほどは、そんなサイクルが巡ってきたようだ。



 一つ目は「呼吸」に関すること。「呼吸法」は実践しているかどうかはともかく、結構読んでいるが、なんとなく繰り返し手にしている。
 今回は『からだが整う呼吸法』(帯津良一 大和書房)。この著者も数冊持っている。特定の呼吸法に固執せず、多様な視点で続けられるような紹介が多い。それから「笑い」や「明るさ」も大事にしているが、本質的な達観はこのような文章に表れている。

「人はもともと明るく前向きにはできていないのです。では、人間の本性はどこにあるかというと、私のたどりついた結論は『哀しみ』です」



 二つ目は、湊かなえの小説。読み始めてから10年以上経つ。読破率は9割に近い。一年ぶりぐらいに読んだ。
 昨年発刊された単行本『未来』(双葉社)

 結末に希望は見えるが、全体的なトーンはやはり「イヤミス」になるだろうな。主人公は確かにするが、人物のエピソード仕立てはお得意のパターン。
 仕事上、どうしても「教師」の視線が気にかかる。
 この作家の上手い箇所は、平易な言葉で価値観の葛藤や対立を比喩的に表すことだといつも感心する。
 「短いままのものさしをふりまわし続けていた」などという表現に、思わず読み込まされていく展開だった。


 三つ目。読んだことのないコミックを数冊続けて読むこと。
 ずっと続けているのは『酒の細道』ぐらいで(笑)、冬に『深夜食堂』にはまってから、ご無沙汰だった。

 雑誌で、ある舞台演出家が推していた『波よ聞いてくれ』(沙村広明 講談社)を1~3冊読み切った。
 札幌のラジオ局を舞台にした内容。正直、3冊目でついていけなくなった。
 詳しい人なら●●風と言えるのだろうが、そんな知識もない。形容しがたい画と筋だが、時折無性に笑える場面もある。

 一番笑ったのは、第一巻の巻末「次巻予告」で主人公が放った毒舌の台詞。2015年刊と頭に入れても入れなくても面白い。

「リセット リセットじゃねーよ。
 人の気持ちがなんでもそんな一から仕切り直しみたいにいくか!
 恋愛界の小沢一郎か、お前は!」