すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

遥かかなたの微かな光

2006年12月31日 | 読書
 今年もどうにか100冊にたどりついた。
 並行して読んでいる本が3冊あったが、その中で読了したのが

『五十歳からの成熟した生き方』(天外伺朗著 海竜社)

 『マネジメント革命』(講談社)の内容に惹かれたので、書店で新刊を見つけ購入しておいたものだ。

 帯や表紙には、例えば「宇宙との一体感」「スピリチュアル」という言葉が並ぶ。
 中身もそういった傾向である。
 こうした内容の本は毛嫌いしたり、警戒したりする人が多いだろう。
 「非科学的」という一言でずばりと斬り捨てる人もいるに違いない。
 しかし、この天外氏がCDや「AIBO」開発の中心者であることを考えると
簡単に割り切っていいものかと、私は考えてしまう。

 科学は人々に幸福をもたらすために推進されてきたが
科学の目覚しい発展が一人一人の幸福感を高めたか、
というごく普通の疑問を持たざるを得ない。
 その意味で「精神性」を突き詰めていく営みには強い興味を覚える。

 天外氏は、「『目標を決めてがんばる方法』の問題点」について鋭く言及する。
 結局、意識レベルのアプローチは表面的なことに過ぎないと論じているのだ。

 「年間最低100冊読了」などという目標を掲げている自分にとって
実はよくわかる、痛いところをつかれたなあ、という思いである。
 実際、読んでいて没頭できないこともままあるし
つまらなくても冊数を意識して読みきったなんてこともある。
 そんな読書より、じっくりと著者との対話を楽しむような姿こそ本物なのだと思う。
 しかし、またこれも自分の現実であり、限界であるような気もしている。
 おそらくはずっと以前から沁みついた感覚は、そんなに簡単に脱げきれないだろう。
 せめて「スピリチュアリティを視野に入れる」といった目標!?を持って
来年も読書に励んでいこうか…

 かなり遠方にある境地が描かれた本ではあったが
それが微かに見える光を感じさせてくれたという意味では
いい本で今年を締めることができた。

不透明な時代には「自信」

2006年12月30日 | 雑記帳
 篠田新潟市長と大森修先生の「往復書簡」は
「学校マネジメント」誌(明治図書)で連載されていたので
ふむふむと思いながら読んでいた。

 その連載をもとに、『新潟の教育』という単行本が発刊された。
 東北大の横山医師も交えた鼎談なども収録されている。
 辛口の論者なので、量的には少し不満だがなかなか面白い内容だ。

 タイトルだけをみても、かなり刺激的ではある。
 例えば教育委員会に関わる表現として…

 首長が、教育委員会に任せておくだけの時代は終わった

 説明責任の能力の低すぎる教育委員会

 現状の教育委員会では新しい教育ビジョンを推進できない
 


 現場の職員として、これらの警句をどう受けとめるか…
現実の立場として難しい問題ではあるが、
そもそも教育委員会そのものについて現場の私たちはどれだけの知識があるのか。

 かつて自分が書いたことがあったと、思い出した。

 あれから、5年。
 やはり、時代は動き出している。
 そして、学校教育とそれを取り巻く環境は変わったか。
子どもの実態、職員の意識、保護者の考え、行政との関係…
 確かに、大きく動いたこともあるし、案外そうでないこともあるなあと思う。
 この先、大きく動きそうな気配もあるし、固執していくこともあるだろう。

 5年前の自分の少し熱のこもった文章を読みながら
この不透明な現実と先行きに向かっていくために必要なものは
やはり「自信」なんだと、肯いてみる。

 であれば、自信をつくりだすことをやってきたか…
と振り返ってみたい年の瀬である。

からだを動かしながら、言葉を探る

2006年12月28日 | 雑記帳
 「今、注目している実践家は?」
と上條晴夫先生に尋ねられたときに、
岩下修先生の名前を出したら、取材時の様子を教えてくださった。

 授業づくりネットワーク誌の1月号は、その岩下氏へのインタビューを中心に構成された巻頭論文である。

 上條先生が語られた強く印象付けられた場面が、まとめの部分にこう記されてあった。


 子どもたちに表現する際の言葉についてお聞きした時のことである。岩下氏はすっと立ち上がって、教室の前に出た。そして、まるでそこに子どもたちがいるかのように語りかけ始めた。先程までとはまったく違う表情だった。
 からだを動かしながら言葉を探っていた。
 ぞくぞくっとした。

 岩下氏のこの行為をどうとらえるか。
 表面的には、「教授行為の再現」を身体運動を含めて提示していると言えるのだが
「からだを動かしながら言葉を探っていた」という意味は
そこにもっと深い意味を見つけることができる。

 身体の動きによって言葉を呼び起こすという行為は、かなり役者に近いようなイメージである。
 さらには、スポーツの超一流アスリートが、独特の言語でプレーの瞬間を表現することにもつながるような気がする。

 目の前の子どもの反応を自分の全体で受け止めて
身体の動きを作り出し、言葉をのせていくという姿が思い浮かぶ。

 「表現の授業」に没頭していく中で、培われる教師自身の「からだ」なのかもしれない。

 文章だけでは物足りない、実際に目にしたいという思いが一層強くなった。

縷述~つながる授業 その11

2006年12月24日 | 教育ノート
 二学期末という時点で、改めて本校研究主題を見つめてみます。

  かかわり合いながら課題解決していく子どもを育てる学習指導の工夫

 この文言を、チェックポイント風に分けてみると、この二つになるのではないでしょうか。

 ①かかわり合う活動ができていたか
 ②課題解決していく能力、態度が身についたか

 
 もちろん評価をするときは、もう少し細分化する形になるはずです。①に関しては「人とのかかわり」「もの・事象とのかかわり」といった対象に分かれます。②はもちろん教科による違いがありますし、課題設定や計画力、追究力、まとめる力など段階によってもそれぞれ分かれるでしょう。

 テーマを「子どもの具体的な姿」としてイメージしていくつか例示してみます。

 ●積極的に他の子どもと話し合う   ●自然・社会に対しての興味、関心を表現する
 ●調べ学習について意欲的である   ●ねばり強く作業し、最後まで続ける

 もちろん、まだ他にも考えられます。こうしたいくつかの観点で「観察評価」をしたり、「作品・記録物評価」をしたりして、主題の達成度が見えてくるはずです。
 特に、記録物の評価は念入りにしたいものです。ノート、プリントに限らずその記録が「課題」に対してつながっているかどうか、というのは非常に大きいと思います。子どもの思考が連続し、意欲が持続していることは、必ず記録に表れてくるはずです。
 また、これは指導者としてふりかえってみるいい材料にもなります。課題解決のために何を書かせたか、それが有効だったか、が直接見える形になっているわけですから。
 従って、ノート指導の重要性はそのまま本校研究テーマにつながると言ってもよいのではないでしょうか。

プレゼントしたいのは…

2006年12月22日 | 教育ノート
五味太郎さんが、息子さんにクリスマスプレゼントの話をしたら
息子さんにこういわれたそうだ。
「あのさ、クリスマスって、ぼくのなんなの。」
このひどくまともな一言が気にいって、PTAの挨拶でも紹介してみた。
その時のことを取り掛かりにしながら、時節絡みのことを書いてみた。

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 PTAの全体会の時、絵本作家五味太郎さんの著書を引用し「クリスマス」のことをお話しました。自分自身もそうだったなあと反省ながら、いわば商業主義に染められた年中行事のあり方を見つめ直したいと思ったのです。
 ただ振り回されるだけでなく、行事や催しにどんな意味があるのか、折々に話してやることも、子どもたちには「世の中」を知るいい手がかりになっていくのではないでしょうか。

 昨年の映画賞を総なめした『ALWAYS 三丁目の夕日』が、先月テレビで放送されていました。
 あの映画にもクリスマスにまつわるいいシーンがあります。主人公茶川と同居する淳之介という少年に、万年筆がプレゼントされるところです。不幸な生い立ちに育った淳之介の喜ぶ笑顔がなんとも言われません。
 茶川に依頼されサンタの恰好をした医師が、役目を終え居酒屋で「今日は楽しかった」とつぶやく場面にも心打たれます。空襲で妻子を亡くした医師にとって、誰かに夢を与える場こそ喜びだったのでしょう。
 それは茶川にしても同じであり、愛情を注ぐことに目覚めた彼がそこにいました。

 考えてみればクリスマスであれ正月であれ、「プレゼント」はもらえる方の喜びだけでなく、与える方の喜びがあって成り立つものだなあと改めて感じます。
 人はそうした場を常に求めており、それが様々な活動を生み出し、経済にも大きく影響しているのかもしれません。そして現在はあまりに拡大化し、形式化してしまいがちで、心の部分が見えにくくなっていると言えるでしょう。

 英語のpresentには「贈り物」の他に、「心に残る」という意味もあるようです。
 モノやお金ではなく、本当にこの子らにとって心に残ることを、今年一年、この二学期、プレゼントできただろうか…
 そんなふうにふりかえりながら、そしてまた来る年の希望を暖めながら、残った数日間を過ごしていきたいものです。
(12/22)

フィニッシュの蓄積こそ

2006年12月19日 | 読書
 日垣隆氏の書いた『世間のウソ』という新書は結構おもしろかったという記憶がある。
 情報のあふれる社会を生き抜く視野が広がったような気がした。

 その日垣氏の『知的ストレッチ入門』という著書を読んでみた。
 収納ボックスの写真を使い、白を基調とした表紙はすっきりしていて知的な感じがする。

 私は懲りもせず1カ月に100冊以上の本を読んでいます。

 さらっと書いてある一言に、そうだろうなあと感じてしまう。
 年に100冊ペースでふうふういっている自分とは、三つぐらいの壁がそこにあるようだ。

 読書術、仕事術…決断術まで、なるほどと思う記述にあふれている。
 特に印象に残ったのは、「フィ二ッシュの回数」という箇所。

 もともとエネルギーのある人間はともかくとして、自分はそうでないと思っている人は、
「確実にできる仕事」ばかりしていても、成長する力にはならないでしょう。
これこそ「知的ストレッチ」における最も大切な内実です。

 腕や背や足を伸ばしてみるという意味でのストレッチを仕事に置き換えれば
ほんの少し遠い目標を掲げ進めていくということになろう。
 そんな設定をし、達成したら「完」とし、また次の設定へと向う。

 教育の仕事の目標設定はかなり難しいことではあるが
そして、時に悩み、逡巡することも大事だが
その場に留まっているだけでは許されないし、足腰や腕は縮こまってしまうだけだ。

 知識や経験値をどうやって定着させていくか。ただ漠然と蓄積するのでも、体験としてどれだけのものに関わったかでもなく、どれだけのものをフィニッシュさせたか、これがとにかく一番重要です。

 よく似た言葉として「ゴール」がある。
(最近、こちらはよく指導計画等でも使われることがある)
 ただ、ゴールは初めから決まっている地点であったり
完成物や完成発表といった型優先のイメージがある。

 それに対して、フィニッシュは「最後のキメ」的なイメージであり、そこに「力がこもる」。
 漫然とゴールをするのでなく、
力のこもったフィニッシュこそが
その蓄積こそがストレッチと言えるのだろう。

伴走者としての意識の結晶

2006年12月17日 | 読書
『子どもの能力を引き出す 親と教師のための やさしいコーチング』
(大石良子著 草思社)

 ずいぶんと長いタイトルだが、明るい装丁と適度な薄さに惹かれてひょいと手にとった。

 コーチングとは何か。
 この本では、こう定義づけている。

 コーチングとは、相手の目標達成をサポートする会話術です。

 筆者は小学校教師を長年勤め、新人教師の指導としてコーチングに出合ってその研究会に属し、今年退職したばかりの方である。
 豊富なキャリアから紡ぎ出されることばは難しくなく、エピソードも現場感覚にあふれているものだ。
 何気なく書かれている文章だが、しっかりと仕事を見つめてきた誠実さを感じさせてくれる。

 学習のつまずきを感じる子どもをサポートするときには、私は必ずノートの確認作業をします。

 個性尊重の名のもとで「できない」「怖い」というたんなる物怖じを認めてしまっていたら、本人が能力を勝ちとったり、はじめの一歩を踏みだすチャンスを奪ってしまうのではないか。

 私は、何か新しい課題に入るときはいつも、千春さんのほうに目をやりました。目と目を合わせ「大丈夫、あなたならできます」というサインを出しつづけました。


 こうした誠実さは、筆者自身の資質といってしまえばそれまでだが、めぐり合った考え方や指導法によってより強化されていくように思う。

 コーチングは「会話術」なのだろうが、柱となるスキルにいくつか興味深いものがある。

 例えば「選択肢を用意する」では、二者択一でなく三つ以上の選択肢を示す、とある。
これは幅を持たせることによる安心感の付与という面があるだろう。
「沈黙する」…相手に時間の保証をすること、これも安心感だ。
「アンカリング」…現在地を示してやること、
そして「ビジュアライズ」…ゴールや過程を視覚イメージさせること、
こうしたサポート意識が強く出ているものもある。

 これらはいわば「伴走者」としての意識を持ち続けなければ、その「術」は非常に薄っぺらであり効果を持たないものだ。

 「術」として項目化、文章化させる営みのなかに、そうした意識の結晶をあることを汲み取れれば、目の前の子どもにも有効に働く手立ては必ず見つかるだろう。

「知を育てる」ことへの挑戦

2006年12月16日 | 読書
 作家藤原智美氏のノンフィクションが結構好きである。
 『プレジデント』誌などで氏の書く記事が取り上げられるときは、目を通すようにしていた。
 その藤原氏の『「知を育てる」ということ』と題された本がプレジデント社から発刊された。
 雑誌に書かれたものを中心にまとめたようである。

 メソッドを選ぶ
 学校を選ぶ
 言葉を選ぶ

という三部構成となっていて、それぞれが四章に分かれている。
 訪問した学校のルポを中心としながら、現代の教育を巡る世相に切り込んでいる。

 都会在住のある程度の富裕層が手にできる学校選択のための参考書という見方もできるかもしれない。
 なにしろ、本の帯には発刊社が同時刊行する家庭向け教育雑誌の名も書かれているほどだ。

 東北の山深い田舎に勤める者としては、その現実にやや唖然とした心持ちでいるのだが
 取り上げられた学校で育つ子も、私たちの学校で育つ子も同時代を生きることにはかわりなく
 肝心の大人が現実に目を背けてはいけないだろう、と考えている。
 同時に置かれている立場での、将来的な展望も必要なはずだ。

 そうした思いを抱きながら、それ以上に目先のこと?として書かれてある実践への興味がふつふつと湧いてくる。

 特に、国語辞典を一年生から活用させた愛知の深谷実践
 それから、京都・御所南小学校の総合での「書く」という活動の濃さ

 これらはある程度自分も手を染めたことがある内容なので
藤原氏が描写する文章によって姿が想像され、その凄さが伝わってくるようだった。
 先日読了した『脳と音読』に書かれていた内容ともリンクするのだが
藤原氏はこんなことを書いている。

 いまの教育は、子供に無理なく段階的に教えていくという考え方に執着している

 もしかすると、いまの教育は詰め込むべきその時期を逃しているのかもしれない。

 この考えにそって広範囲にわたる内容や活動の全てを吟味することはできないかもしれない。。
 議論しても正解はでないだろう。

 だから現状維持なのか、だから挑戦してみるのか

 どちらがよりエネルギーが強いか、それは自明のことであり
子どもに対する影響力に差がでてくることは間違いない。

基準感覚という財産を育てる

2006年12月15日 | 教育ノート
 学習も生活習慣もうまく回転していくことが肝心だとつくづく思う。
 学校、家庭それぞれの役目を果たすことはもちろん肝心だが
どこが起点になって方向性を持つかは多様である。
 双方の情報交換は、「正」の回転にプラスになるようものでありたい。そんなふうに心がけて発信したい。


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 保護者アンケートで、本校児童の問題点とされた「挨拶」。PTA全体会でもお話したように、学校としても現状をよく見つめ、様々な面で指導を強めたいと考えています。
 ただ、地域や家庭の中で交わされる挨拶を積極的にすることは、保護者の皆さんのしつけや地域全体での働きかけなしには絶対に実現はしません。
 どうかお子さん一人一人の実態に合わせて「教え・励まし・やらせて・誉めて」やっていただいたり、地域の集まり等で話題にしていただいたりして、挨拶の輪を広げたいものです。

 先月本校においでになった千葉の野口芳宏先生が、著書にこんなことを書かれています。

お礼をいうべき時にはすぐに「ありがとうございます」と言い、失敗や失礼があったらその場ですぐに「すみません」と謝らずにはいられない。これらが「基準感覚」です。感覚はセンスです。幼い時のしつけがこの感覚を育てます。時機を逸すると、この感覚形成やその修正はなかなか困難です。

 歯磨きが習慣化されていれば、食後は磨かないと気持ちが悪くなるものです。それと同じように挨拶を交わさないとすっきりしない、という感覚になれば身についたことと言えるのでしょう。
 小さいうちに一生の財産ともいうべき感覚を養い、育ててやりたいものだなと改めて思います。

 地区によっては徹底されていないという声があった挨拶ですが、先週来校なさった市のスクールガードリーダーのSさんには、他地域と比べて「この地域の子たちは、明るく元気に言葉を返してくれるよ」と誉めていただきました。
 本当にうれしい一言でした。
 人数は少なくてもその分をカバーできる元気さを育てていきましょう。
 声を出して働きかけられることこそ出発点です。
(12/13)

「脳にいい」ことはまだまだわかっていない

2006年12月14日 | 読書
 『脳と音読』(講談社現代新書)という本を見つけ、ためらいなく購入した。

 著者は、「川島隆太+安達忠夫」とある。
 川島氏は周知の売れっ子研究者であり、もちろん以前にも読んでいるし、
素晴らしい講演を聴く機会もあった。
 安達氏については知らなかったが、表紙裏にあった略歴から「素読」に造詣の深い方と承知した。

 この二人で、「脳と音読」ときたら、
これはもう「音読や素読は、脳みそを活性化しますよ」という結論に違いない。
 予定調和的ななかみだろうと思いつつ…知識的な確認もしたかったので、読み進めることとした。

 メールによる往復書簡などを挟む構成のよさもあり、あっという間に読了。
 結論としては、確かに音読が脳にいいことは明らかのようだが
朗読や素読になるとどうも様子がちがうし脳が活性化する部分も違うらしい
という著者たちにとっても意外な実験結果となっている。

 脳科学と教育の関係が取り上げられてから、
「○○は脳にいい」という言い方もされがちだが、大雑把な見方はいけないし
一方的な情報だけをうのみにすることは戒めなければ、と思ったしだい…。

 それはともかく、いくつかの部分で改めて確認したこと、「そうだったな」と思ったことがある。

 乳児期に「聞く」ことからはじまり、聞いたことばを「模倣」し、そして「話す」ことを覚える。やがて幼児期になり、ことばを「見る(=読む)」ことを行い、そして「書く」ことができるようになる。これが健常な乳幼児のことばの獲得であることには疑う余地がありません。

 つまり前頭前野の発達は、三歳そして十歳前後に大きなターニングポイントがあるようなのです。

 音読は、音のことば、文字のことばの双方を用いる、きわめて高度な活動なのです。脳への入力も文字、音、双方ありますし、音の出力もあります。黙読よりも、脳をたくさん使うのは当たり前のことなのです。

 教育課程や活動内容を考えるうえでの、大きなヒントになっていくように思われる。
 ただ「読む」ことの活動と脳の発達や活性化は、まだ解明されていないことがあるという点は忘れられない。
 川島氏は、まとめの章で「私自身の考えも変わってきたこと」として

 前頭前野が活性化されないことが、イコール脳に良くないことではない

という言い方で、リラックスの必要性、メリハリの重要性という考えにたどりついている。

 現場にいる私たちは、肌で感じることや記録をおろそかにせず、先端の研究と付き合わせてみることも大切にしていきたいものだ。