すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

旧暦元旦にさえずる

2014年01月31日 | 雑記帳
 今日は一月最終日。しかも?旧暦では一月一日である。ひと月を振り返る日にふさわしい。今年の滑り出しは、曜日の関係もあって年末から結構のんびりムードだったなと思う。雪もあんまり多くない印象だったが、二週目で急変!四年続けての豪雪をひしひしと実感できる中旬以降だ。とにかく気候は不安定だった。


 積雪の多い中での三学期スタート。ここ数年続いているインフルエンザはまだ出ていないようで、結構順調な学期初めだった。多く行事が詰まっているなかだったが、佐藤正寿先生を招いての実践研修会を開催できた。年度締めくくりに向けて実にいい研修となった。スキー教室の前半は、大方天候に恵まれ無事実施。


 読書はそれなりに楽しくかつ実りある本を読めたなあと思う。文庫『隠蔽捜査』の今野敏は書評誌で同年代と知り、機会があればと考えていた作家だった。休日に読みはじめたら結構面白くちょっとはまってしまった。今日からはシリーズ3作目。あとで感想を記したい。併行して教育書関係もまずまず読んでいる。


 原点回帰で「ことば」を拾い上げてみようと、当ブログで少し続けた。毎日の生活や読書から、全く知らなかったり、使いこなせなかったり、改めて見つめ直したりする言葉を取り上げ、書き散らした。「ことば」について考えることが、自分の行動を振り返ることにもなる、そうありたいと念じてはいるのだが…。


 ここにきて勤務校ではインフルエンザが流行の兆し。早めにと考え来週早々の学級閉鎖を決めた。市内では初という。あの新型以前の6年前にはこれほど早い対応は考えられなかったし、世間の目ももうそれにすっかり慣れてしまった現実がある。もはや言われて久しいが、やはり人類にとって最後の敵はウィルスか。


 時は流れた…今朝久しぶりにある物を見かけ、それを懐かしく感じたことに驚きを覚えた。通勤途中のガソリンスタンドに停まっていた軽自動車。その車に載せられていたスキーキャリア。この冬初めて見た。いやもしかしたら目に入らなかったのか。そう思ってすれ違う車を全て見通したが、やはり一台もなかった。

猛吹雪に思い浮かんでくる顔

2014年01月30日 | 雑記帳
 あれは確か1月30日。山間部の小中併設の学校勤務で、冬期間は教員住宅に住んでいた頃だ。その日、朝はさほどではなかったが、昼過ぎから暴風雪が強まり、車通勤の方々は揃って退勤した方がいいのか、それとも学校に泊まるべきか、悩んでいた。私はわずか百Mほどの坂道を歩いて下るのに、15分かかった。


 結局その日他の職員がどうしたのか、もはや記憶にない。しかし、入口が山向きにある住宅の中へ、さんざん難儀して入ったことは覚えている。たぶん屋根の縁につかまりながら滑り込むようにしただろう。その時ばかりの印象ではないが、部屋の強い冷気と雪に覆われた薄暗さの感覚は、目の奥にしっかり蘇る。



 三十年前当時であっても、地域の除雪体制は結構よかったのだと思う。出勤時の雪による遅れなどはあまり記憶がない。それでも夏場の車通勤を止め、三年間住宅に入ったことは、今となっては得難い経験だ。住宅で一緒に暮らした教頭先生、朝夕の食事を世話していただいた隣家のご主人…今はもう鬼籍に入られた。


 本当に多くのことを教えられた。数え上げられないのは承知の上で、それでも今少し振り返ってみたい気がするのは、当時のそのお二人の年齢を越えたからかもしれない。ちょっと格好つけた言い方をすれば、自分も背中で語れるかといったニュアンスである。歩んだ道に差がありすぎるから、無理な話だけれど。



 自分が影響を受けた人を思い浮かべるとき、イメージできるのはやはり眼差し、声色や語気…そんな気がする。もちろん個々の特徴は歩き方や服装などにも表れるが、共通できるのはやはり顔から発するものが中心か。外敵に揺るがない表情だ。きっとあの1月30日の猛吹雪の中でも、二人は微笑んでいた気がする。

果断

2014年01月29日 | 雑記帳
 【果断】(かだん)

  思い切って物事を行う様子(類語大辞典)




 今、読んでいる文庫本の題名である。

 なかなか使えない言葉であるが、字面も考えさせられるし、響きもいい。


 「果」が気になる。
 ぱっと浮かぶのは「果実」だが、「果て」もあるし、結果、因果というように、果たすとか終わりを意味している。

 そう考えると、果断とはよい結果を求めての決断といったニュアンスがある。

 類語辞典での区分は「奮い立って何かを行う様子」のなかにある。


 年度末が近付いてきて、この一年、果断がいくつできて、締めくくりにどんな果断をするべきか、前向きに考えてみたい。

渾身

2014年01月28日 | 雑記帳
 【渾身】(こんしん)

 からだ全体。全身。満身(明鏡国語辞典)



 「渾身の力をふりしぼる」というような使い方をする。

 もうちょっと思い浮かべても「渾身の力を~」あるいは「渾身の思い」ぐらいしか出てこない。

 動的な場面で使うということだ。


 「渾」そのものに「すべて」という意味があるのだが、さんずいが示すように「水がさかんに流れる」や「入りまじる、とけ合う」がそもそもの語義だからではないか。

 身体の中を血流がめぐるイメージがわいてくる。


 子どもたちに体感させたい感覚である。
 運動面ではもちろんだが、音読や歌、発表や制作に関わるような活動においても、体中に血が駆け回り、エネルギーが発散されていくような…。


 「渾身」の体験をもっと、と思う。




 「2014読了」12冊目 ★★

 『子どもの集中力を育てる』(齋藤 孝  文藝春秋)

国器

2014年01月27日 | 雑記帳
 【国器】(こっき)

 国家を治めるのに足る器量。また、その人(広辞苑)




 国旗制定記念日だということで、ちょっと辞書を出して調べていたら、標記の言葉に出会ってしまった。


 花の都では現在、リーダーを決める選挙戦が喧しい。

 他の都市や地方とは違う重さをもっていると言っていいだろう。

 その影響力は国に匹敵するだろうから、都知事にも「国器」は求められるといってよい。


 課題対応、指導力、経営感覚等々、様々な観点で選択して投票行動は行われる。
 ある意味では器量の見きわめと言えるかもしれない。

 人の器量を量ることなど難しい…そう言いつつも、結局のところ自分の器量の範囲でしか選べないのだから、国器とはある意味で、国民全体の器量なのだと思い知らされる。

蓋然性

2014年01月26日 | 雑記帳
 【蓋然性】(がいぜんせい)

 ある事が実際に起るか否かの確実さの度合。確率。(広辞苑)



 「蓋然」の対語として「必然」が載っていた。

 ただネットで検索してみると,「偶然→蓋然→必然」という順序も挙げられているし,「可能性」との比較であれば,実現がより高いという位置づけにある。

 何かの達成を目指したい仕事においては,何事も蓋然性の高いことを選択していくことになる。

 教育であっても,子どもたちの働きかけとして私達が選択する基準はきっとそこにある。


 しかし,今対象となる子どもたちの心身が変化している。

 従来のやり方だけでは,蓋然性が低くなっているのだという自覚が必要だし,どのように生きていく姿を想定するか,その視点が問われている。




 「2014読了」11冊目 ★★★

 『隠蔽捜査』(今野 敏  新潮文庫)

人を育てる人の息吹

2014年01月25日 | 読書
 「2014読了」10冊目 ★★★

 『究極の説得力』(平 光雄  さくら社)


 なかなかインパクトのある書名である。
 これだけなら、ビジネス書系と考えられるが、出版がさくら社であるし、副題として「人を育てる人の教科書」とある。
 読まねばなるまい。

 「はじめに」の冒頭の一文。

 教師にとって最も大切なものは説得力である。

 ガツンとかます書き出し、ストレートパンチの繰り出しから始まる中味は十分期待の持てるものだ。


 第一章「人を育てる仕事に就いたのだ」は、いわば前提。
 教職の仕事や技能に関する基本的な姿勢、心構えが記されている。
 特に「土台づくりはスキマ時間に」という考え方には強く共感を覚えるし、教師の日常を強く支えてくれるはずだ。


 そして、第二章「つまるところ説得力勝負だ」の冒頭は、ストレートがまた繰り返される。

 教師に一番大切な力は、説得力である。

 ここからじわじわ効いてくる。
 対象を説得するために身につけるべき具体なことが語られていく。

 しかし内容は単なる技術論ではない。
 技術論で説得力は向上しないということが、この本の結論の一つではないかとも思える。

 この思いが典型的に表れているのは、著者が話力総合研究所における実習後、師より指摘され、決意した次の文章である。

 「実感のこもらない言葉はひと言も話さないことにする」というルールを自分に課した。「ひと言も」である。


 現実的でない、理想論だろうと退けていいものだろうか。

 自分もどちらかと言えば実感を口にするタイプだったし(深い考えなしにだ)、その意味では変わり者と見られてきたかもしれない。
 しかしこの頃はずいぶん平均的な言い方に落ち着いてきた(と思っているだけか)。
 では今、そんな自分をどう評価しているのか、と問われるような気がした。


 説得力を、仮に「言語表現によって相手の意識や問題を変容させる力」と定義したときに、その言語表現に自己の「生」がどれだけ反映されているか、それが究極を目指すためには不可欠なのだ。

 本文から「ことば」として取り出せば、著者の師が語る「息吹」である。

 「何の息吹も感じやしねえ、あんな話は二度と許さん」…他に絶賛された著者のスピーチをこう評価したエピソードである。

 これは、つまり「生きているか」ということである。
 人を育てる語りかけ、そこに込められる自分がどれほどあるか。
 野口芳宏先生がよく口にされる「本音・実感・我がハート」という句が思い浮かぶ。

 究極の説得力は、生の証しを求め、それを言語化するなかで産まれてくる。
 人を育てる人は、絶えず息吹を持っていなければならない。

吝嗇

2014年01月24日 | 雑記帳
 「吝嗇」(りんしょく)
 
 過度にものおしみをすること。けち。(広辞苑)



 「吝」は「おしむ・ものおしみをする」という意味である。

 「嗇」は「取り込む・取り込んだ収穫物」という意味である。


 自分の収穫、財産を出し惜しむ…まあまあ、私のような凡人にはよくあることだなあ。

 農村社会に育った者にはその傾向が根強くあることを認めざるを得ない。


 せめて、仕事の面ではそうならずに在りたいものだ。


 それにしても「吝」とは皮肉な会意文字である。

 「文」は「口」を修飾するのだと漢字辞典が教えてくれる。

 口先を飾って言い訳しているのである。

僥倖

2014年01月23日 | 雑記帳
 【僥倖】(ぎょうこう)

 思いがけないしあわせ。偶然の幸運。(広辞苑)




 昨日、校内研に講師としてお招きした佐藤正寿先生の著書の中に、何度かこの言葉が使われていた。


 意味は知っていたが、自分は使ったことがない。


 幸運であった出来事を、僥倖と表現するだけの語彙や精神がなかったのだと思う。


 正寿先生が書かれている「僥倖」は、私からみればそれは偶然ではなく、必然もしくは結実としての事象である。


 僥倖という感覚を真に持ち得るためには、きっと謙虚や精進、献身といった多くの要素が必要になる。

 自省させられる言葉だ。




 【2014読了】7冊目 ★★★
 『教師の力はトータルバランスで考える』(佐藤正寿 さくら社)

 【2014読了】8冊目 ★★★
 『価値ある出会いが教師を変える』(佐藤正寿 学事出版)

 【2014読了】9冊目 ★★★★
 『「力をつける授業」成功の原則』(佐藤正寿 ひまわり社)


倦ねる

2014年01月22日 | 雑記帳
 【倦ねる】(あぐねる)

 物事が思い通りに進まなくて、手段に困る。もてあます。あぐむ(明鏡国語辞典)




 「思い倦ねる」「考え倦む」「攻め倦ねる」…きっと毎日のように何か倦んでいることがある。

 それでも、結局はどうにか解決したり、知らぬ間に散乱したりして、目の前に問題がちらつかなくなるのがふつうだ。


 しかし、一生涯、倦ねるようなことを持ち続けているのは、ある面では幸せなことかもしれない。


 それを煩悩と呼ぶか、執着と呼ぶか、はたまた生甲斐と呼ぶか、求道と呼ぶか、全て自分の心の持ちよう一つだ。

 他者がその様相をどう呼ぶかは様々だけれど,そこに囚われず、精一杯倦むこともまたいいのではないか。