すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

揺るぎない履歴

2008年06月28日 | 雑記帳
 木曜日、通勤時のラジオで陸上競技の五輪代表選考会のことが取り上げられていた。
 400m障害、「今期不調の為末は、おそらく勝てない」と、陸上競技専門のライター?はそう言った。
 同時に「そんな目で観戦したとき、為末が勝つかもしれない」というような複雑な言い回しをした。
 五輪の標準記録を突破している第一人者が、「意外性の男」とは言えまい。
 それは長年、陸上を見続けてきたライターの勘?観?のようなものだったのか。

 その日、為末は決勝にかろうじて残った。8番目のタイムだったとある。
 そして、次の日。大方の人が予想しなかった(けれど、期待しただろう)決勝のゴールテープをきる。
 新聞に寄せられたコメントは、「分析できない。リミッターを振り切ったというしかない」「自分を抑えきれず、かっ飛ばした」とある。本人も驚いているような印象だ。

 しかし…
 勝負の世界は何があるかわからない。
 そんな一言も浮かぶのだが、フロックではあるまい。
 勝利には必ず結びつくものがある。

 為末が以前雑誌に寄せた文章を読み直してみる。

 前進するには、人の何倍も考えたという履歴が必要になるでしょう。

 今回勝つための思考をどれほどしたのか定かではないが、それがいくらであっても揺るぎない履歴があることはたしかだ。
 こんなふうに文章は続いている。

 失敗率が30%あっても、私の場合は10のうち3の失敗ではなく、100やって30の失敗。失敗経験も含め、膨大なデータが残るから、失敗にも意味が出てくるし、成功へたどり着く確率も高くなる。

自然に対するために

2008年06月27日 | 読書
 少し長い時間を列車で過ごすことになったので、文庫本を3冊ほどバッグに入れた。
 最近、熊谷達也の著書を続けて読んでいて、今回も代表作の一つらしい『ウェンカムイの爪』(集英社文庫)をその中の一つとした。

 主人公吉本とヒグマの遭遇から始まる冒頭場面が、なんとも迫力がありぐいぐい引き込まれた。
 以前読んだ『邂逅の森』にしても、アウトドアからっきし駄目の自分にとってはかなり遠い世界なのだが、読み進める手がとまらないほど魅力的に思えた。きっと山などの自然に親しみ関心を抱いている人なら、もっと違った深みを持って感じることができるのでは…そんな予想もできる。

 ところでこのところ、自然が重要な対象となっているこうした本を読むと「圧倒的な体験の強さ」について考えを巡らすことが多い。同時に、体験を踏まえていない人間のひ弱さも際立ってくる。この自分も含めて、という話になるが。

 この小説には、若者のグループがヒグマに襲われるシーンがある。
 ありがちな展開といえばそれまでだが、明らかに毒された世代、傍若無人な人間のふるまいへの警告と捉えられる。自然とはいったい何か、自然に向かう我々の構えはどうあるべきか。
 作者はまっこうからこの問いに応えているわけではないが、いくつか印象深いフレーズがある。

 人間が自然の中で生き抜いていくために神々と取り交わした掟を守ろうとする強靭な意志の存在

 逃げることをやめ、大地の上にしっかり踏み留まったその時、初めてラムアンの野生の美しさに魂が動かされた。

 商業ベースで言われるそれとは別次元で、本来の意味として「自然の中に暮らす」ことはもう不可能のように思う。しかし、日常に見える自然やちょっとだけ非日常の自然にふれる機会であっても、我々の身の処し方ひとつで、少し力を得る体験にはなるだろう。
 
 たとえば、人工物で汚さないこと。
 たとえば、じっと佇んでみること。

言葉の敗北を

2008年06月25日 | 読書
 『友だち地獄』をめくり直してみる。

 この本に書かれてある現象や分析を読むにつれ、次の一節の重さがずしんと響く。

 言葉によって作り上げられた思想や信条が、時間をこえて安定的に持続しうるのに対して、自らの生理的な感覚や内発的な衝動は、いまこの一瞬にしか成立しえず、まったく刹那的なものである。

 それゆえ、感覚的なフレーズ、刹那的な言葉ですべてを済まそうという傾向は強まってくる。
 言葉を選ぼうとせず、対象を探ろうとせず、自分の心の状態のみを表現しうるような、手近な言葉が使われる。自分の語彙を広げるのではなく、きわめて単純な言葉、または商業ベースの匂いがぷんぷんする言葉によって語ろうとしている。

 言葉の敗北

 気取って名づけてみればそういうことか。
 言葉そのものは道具であり、勝敗の対象とするものではないが、「伝えあうこと、思索すること」という言葉の働きが弱まり、縮んでいくような姿は、まさしく敗れたイメージに見える。

 私たちの重要な仕事は、言葉を教えることだ。
 言葉は、実体の伴うものであり、連続しているものであり、分けたり集めたりして違うことを見つけたりできるものだということを、ことさら強調していく必要を感じる。
 言葉に向き合うことは、対象に向き合うこと、自分に向き合うことだろう。

 自分のなかの「感じ」だけを取り出して表出するような子どもを育ててはならない。

生きづらさと向き合う

2008年06月24日 | 読書
 『友だち地獄』(ちくま新書 土井隆義著)
 なるほど、と納得する文章が非常に多かった新書である。
 若い世代の生態と背景を見事にえぐり出している好著だと思う。
 そして、実は一番深く頷いたのは「おわりに」で著者が記した次の言葉だった。

 私自身にしても、本書で述べてきた若者のメンタリティの半分は、自分にも当てはまることを率直に認めておかなければならない。

 筆者は1960年生まれ。「表だっては気恥ずかしくて言えないが」とも書いているが、さらに年長者であるこの私でさえ、思いあたるふしを感じながら読み進めた部分も多い。

 本全体を貫くキーワードである「優しい関係」の近くにいる存在としての教員は、その実態を見抜けているかどうかは別にして、そうした子どもたちのまなざしや関係に知らず知らずに染まり、浸食されていく危険性がないわけではない…
 気弱な自分を豪快に笑い飛ばすことができないのが残念だ。
 例えば

 本来は無限大の世界に開かれたメディアであるはずのインターネットが、実際には異質な人々へと開かれた空間にはなっておらず、むしろ同質性の高い人々が、時間と空間の制約を超えて集いやすい場となっている。

 そういう現状にどっぷりと浸かっている自分をメタ認知し、有効性を自分なりに活用できているつもりでも、その巨大さと強さはお構いなしに陰の部分も増殖させていく。
 そんな不安を抱えていることも事実だ。

 「生きづらさ」と正面から向き合うことの大切さを著者は述べている。その意味では、こうした自覚こそエネルギーになりえる。
 内省と行動のバランスが崩れないようにしたい。

資源の見きわめ、与え方

2008年06月20日 | 読書
 物品に限らず、情報や人脈など、相手が欲しい「資源」を与えられる態勢を常に取っておくこと。それが影響力を生む。
 日経ビジネスアソシエ(08.06.17)

 学校での授業や生活で教師が子どもに影響力を持つのは、つまりはこういうだなと今更ながらに思う。
 そして資源の与え方こそが教育という見方もできるのだろう。
 つまり、相手の要求の度合いを見きわめ、どんな資源をどの程度与えることが、その子の能力を引き出すことになるのか…。そして「欲しい」という要求が持続し、自力で資源を求めるようになるのか…。

 資源というとらえ方をすると、指導のあり方が一味違うようにも思えてくる。

 そして教師は、資源をどんなふうに自らへ供給していくかという点がとても重要になる。

リポートからラポートへ

2008年06月18日 | 雑記帳
 ラポートトーク リポートトーク

 購読している地元紙の夕刊にあった言葉だ。題材にされているのは米大統領の民主党候補指名争い。
 筆者の東氏(立命館大教授)は、オバマの勝因は言葉の力だ、と結論づけた。

 オバマは聞き手の側に立ったラポート(共感)トークであり、クリントンは話し手である自分中心のリポート(報告)トークだったという。
 典型的な比較として、「We」と「I」がある。クリントンは「I can~~」で自分の能力、実績を前面に出したが、オバマは「変革」をキーワードとしながら、次の言葉で聴衆を勇気付けたという。
 「Yes we can」

 テレビや新聞程度の情報でしか指名争いの詳細は知らないが、WeとIの使用頻度というデータもあり、なかなか興味深かった。

 「そうだよなあ」と思わず頷かせるためには、やはり「共感」できることが条件だ。
 そのためには、どんな言葉を遣い、どんな表情をおくり、どんな手法を用いるか…。そんなことが肝心の内容よりも大切と言えるかもしれない。
 いや内容を伝えるために、そのための原則を知り、技法をつかうということだ。
 
 私は、そのことを伝えたい。

悲しい言葉

2008年06月13日 | 雑記帳
 「止めてほしかった」
 
 昨日の朝のNHKニュースに、あの秋葉原の事件の容疑者加藤が供述した言葉として、大きく映し出された。
 なんと悲しい言葉だろう。
 被害者に関わりある人でなくても、「ふざけるな」と一蹴してしまいたいと思うが、やはり悲しい。
 どんな流れで、どんな調子でその言葉が語られたかは定かではないが、携帯を通してネット上の掲示板に自らの犯行を記したことに関わるのは間違いない。

 先週のラジオ番組でかのリリー・フランキーは、こんな言葉を喋っていた。

 「誰もが、簡単につながることのできる時代」

 物理的表面的にそのことが可能な時代の危うさは、精神的内面的なつながりの希薄さと直結する。

 加藤の悲しみの深さを表わしている言葉ではない。
 おそらく数多くの若者(だけではないだろうが)が抱える悲しさの叫びだ。

 つながっているけど、つながっていない。

 「止めてほしかった」
 そんな言葉を吐いて、他者を死なせたり傷つけたりする者がいるし、その刃を自分に向けた子もいる。

 甘えと一蹴する前に、しなければならないことはあるのではないか。

話をモマス場所

2008年06月12日 | 読書
 学校というところは、意見を言うことが本質的に持っている危険性を子どもたちが経験を通して学んでいく場所です。
 北川達夫 『ニッポンには対話がない』(三省堂)

 「危険性を学ぶ」と考えた場合、そもそも意見とは危険性を孕むという認識を私たちが持っているかどうかである。
 漢語で書くと何か仰々しい気がするが、要は「話をモマス」ことができるかどうか、ではないか。

 そのためには多様な考えが提示される必要があるし、一定の時間が確保されなければならない。
 確かに「活用」テスト対策も大事なことであろうが、実はそうした「話をモマス」場こそが、活用のためのかなり有益な場ではないか。
 そうした取り組みをするための精神的な余裕、時間的な余裕が減ってきているようにも思う。

占有離脱な話

2008年06月11日 | 雑記帳
 占有離脱物横領

 会議資料にあった言葉だ。
 警察の方が出した資料なので、おそらくは法律用語なのだろうが見当がつかない。
 いつもはバッグに入れてある電子辞書もなく、悩みモードに入ってしまった。
 たまには時間つぶしに、意味の予想でもしてみるか…。追究モードに変換してみた。
 窃盗と区分されているので、単なる盗みではないことがわかる。
 「横領」だから横取りすることだ。加害者と被害者には何らかの接触があるという可能性が強いのか。だまして物をとったというイメージがあるのだが。

 問題はやはり「占有」と「離脱」だ。
 何かを占めていた物が離れた、誰かが占めていた物が離れた…ふと、落し物かと思う。落ちていた物をそのまま拾っていったとか…しかし、そうなると紛失物とか遺失物とかになるのではないか。
 やはり、占有と離脱の関係を考えるべきか。
 占有していたものが離脱した、と考えるのが普通だろうがわかりづらい表現だ。
 占有しながら離脱した、そんな無茶なつながり方はないだろう
 占有しているか離脱しているか、という対比的な言葉?それは無理があるだろう。

 会の話は進んでいるのだが、この言葉に頭は占有されていて、会から離脱している状態…

 会終了。さっそく車にもどり、電子辞書で検索。

「占有」…自分の所有とすること
「離脱」…所属から抜け出ること
とあるが、やはり「占有離脱」という見出しはない。

 そして、たどりつくのはグーグル検索。
 
 なるほどね。まあ、ある程度単純なこと、という落とし所だった。
 でも、同じように探ったような人もいて、思わずニンマリ。

 こんなことばかり考えていては、大事なことを占有離脱しそう。

決定が道を作っていく

2008年06月09日 | 雑記帳
 「自分で決めてこそ、人生は切り開ける」
 高嶋由美子 (NHK プロフェッショナル仕事の流儀)

 録画しておいた番組を視聴した。
 厳しい現場にあっても笑みを絶やさない高嶋のタフさが伝わってくる内容だった。

 難民の移る先について話し合う集会における高嶋のスタンスは、まさに教師の仕事そのものだと感じた。
 まずは相手の声をよく聴くこと、必要な情報をできる限り正確に提供すること、そして自分でできることは人に頼らず行うべきであることを説くこと。
 決断は自分でしていくから道が開ける…そういう信念に支えられた仕事だ。
 生死がかかっている現場であるからこそ、徹底して貫くべきことが見えてくるのか。

 それにしてもハードな働きだ。
 「どんなhusbandを望んでいるか?」という司会者の問いに対して、「毎日、外で判断をしていくことの連続だから、家では私が判断しなくてもみんな決めて引っぱってくれる人」と応えた顔が眩しかった。