すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

豊かさが、時間や資源を浪費している

2005年08月28日 | 読書
何になるのか、なれるのか決めるまでの時間を、できるだけ長く、多くの若者に与えることは、一見、豊かさの証に見える。だが、そのことでかえって、何になるのか決められない若者を増やしていないか。学ぶ意味を見えにくくさせてないか。日本型の豊かさは、時間や資源を浪費しているだけではないのか。
苅谷剛彦「総合教育技術2003.5」(小学館)


「役に立つ」だけが全てではないが
それにしても硬直した学歴主義がまだ大きな顔をしている。
実際は多様な選択が準備されているにもかかわらず
それが進まないのは、教育する側の発想が
まだ旧態依然のままだからかもしれない。


つまらない自我は学びを阻害する

2005年08月27日 | 読書
何かを学ぼうとする時もそうです。つまらない自我などを持っていたら、新しいことは自分の中に入ってきません。自分なんかどこにいっちゃったの、もう自我なんかないというくらいまで、自分の芯をくるっと抜かないと、物事の吸収は結局できません。
三枝誠『整体的生活術』(ちくま文庫)


「個性」という美しい言葉で育てられているのは
結局、「つまらない自我」ばかりだったりして…
自我をすっぱり抜けない人は
物事をうまく吸収することはできないのです。

「伝えたい」という思い

2005年08月25日 | 読書
「伝えたい」という切実な思いがあれば、正しい日本語や美しい日本語でなくても、そこには言葉の美しさや豊かさがあります。やはり、表現というのは「伝えたい」という気持ちから出発するべきだと思うんです。
平田オリザ「総合教育技術2003.4」(小学館)

伝えたいという思いは、どこから生まれるか
それは「他者の出会い」や「伝わらない経験」が大切と言う。
しかし肝心なのは、「伝える」という言動への反応がどうだったかで
その反応の積み重ねによって、表現の芽は育つのではないか。
非日常だけでなく、日常をもっとよく見渡してみること。

ビジョンとバランスを備える

2005年08月24日 | 読書
実証データは大切だが、データだけではすすめられないところに、教育研究、教育政策の難しさがある。学力低下論争を一つの刺激としつつも、ビジョンとバランスを備えた学力論議が展開されていくことを切に望みたい。
市川伸一「現代教育科学 2005.9」(明治図書)

何のためのデータか、ということが肝心である。
教育に対するビジョンを示している人は少なくないが
そのことと関わりなく、いやそれがどうしたと言わんばかりに
データだけが強い力を持っているのが現状ではないか。
データに振り回されてないと言い切れるか。

自分のキャラクターに意識的になる

2005年08月21日 | 読書
教師もある種の人気商売と考えれば、価値観の多様化した子どもたちとの関係を促すための仕掛けの1つとして、自分自身の「キャラクター」に意識的になることは必要なことだろう。ちなみに、キャラクター化の技術のコツは、「自分情報の単純化であり、テーマトーク以外の「雑談のネタ化」である。
上條晴夫『お笑いの世界に学ぶ教師の話術』(たんぽぽ出版)


教師の「自己開示」の重要性は以前から指摘されていたが
もう一歩突っ込んで、「自己演出」が求められている。
キャラクターが安定していることは
安心して接することができる大きな条件だ。

子供たちを大事にする国

2005年08月20日 | 読書
子供たちは等しく社会の財産であり、すべての子供たちを大事に守る義務が社会にはある、というのはわかりきった話では決してない。この社会は現実にそんなふうにはできていないし、大人たちの誰もそんなことは考えていない。もしも考えていたら、夜の繁華街に子供たちがいるはずがないし、夕食も食べずに塾に通う子供も、駐車場に放置された車の中で死ぬ幼児もいないだろうし、人知れず親に虐待される子供の数も減るはずだ。端的に、この国では今、子供たちは大事にされていないし、彼ら自身がそう感じているのである。
高村薫『半眼訥訥』(文春文庫)


県都の駅前広場、午前9時50分。
磨かれた石で設えられたベンチがあり
そこに膝を抱えたように眠っている娘たちがいた。
こんな風景は日常なのだと思う。
ひんやりした石の感触が、夜遊びの娘たちには心地よい。
そんな国を作り上げてきた私たち。

授業づくりネットワーク集会に学ぶ…その3

2005年08月16日 | 雑記帳
今回の集会のメイン講師は、先述の野口芳宏先生と
西川純先生(上越教育大学)であった。

西川先生の主張は、私にとって大きな刺激となった。

まとまらないことを覚悟して、新しいページを起してみた

授業づくりネットワーク集会に学ぶ…その2

2005年08月14日 | 雑記帳
「今度のネットワークの集会の模擬授業では
 『うとてとこ』を頼まれてねえ。」
と野口芳宏先生ご本人からお聞きしたのは、7月下旬だった。

「授業成立の基礎技術」を大きなテーマとした今回の大会に
ふさわしいと実行委員会の方々に頼まれたのだという。
それにしてもあまりにも著名な実践であり…あの展開ができるのだろうか…
そんな心配は杞憂に終わり、詩そのものを知らない参加者を生徒に見立て
模擬授業は多くの目に見つめられながら始まった。

何度も文献を読み、ビデオも視たことがあるこの詩の指導だが
参観者の私たちにとっては、やはり新たな発見があり、納得に満ちたものだった。
思いつくままに挙げてみよう。

まずは圧倒的に上手な解説。特に学習活動を印象的な言葉で命名して
意義付けていくことは、野口先生ならではのことだろう。
今回、思わず声を出して笑ってしまった(驚きの意味である)のは
文脈アタックという言葉。
前の席に位置どっていた上條晴夫先生も思わず振り向いたほどだった。

緊張と期待を持たせながら授業に参加させていく手法は
定番の「○か×か方式」だけではなく、
この教材で扱われた「巻紙法」という教材提示法や
個々の発言を受け止めて切り返すという「受け」の巧みさに
支えられていることを改めて強く思った。

教材や主な展開を知っているからこそ見えたことも多い。
授業後の討論はやや時間足らずで不満は残ったが
この『うとてとこ』をリクエストした関係者の慧眼に敬意を表したい。

「人間にとって一番大事なのは変わることだ」
幾度となく聞いているはずの野口先生のこの言葉は
今回の模擬授業の中でも、また新鮮な響きを持って
自分の心に飛び込んできた。

授業づくりネットワーク集会に学ぶ…その1

2005年08月13日 | 雑記帳
福島で行われた授業づくりネットワーク集会へ参加した。

三つのワークショップに参加したが、堀裕嗣さんの講座が深く印象に残った。
堀先生の本を持っているし、教育雑誌での論文も目にしているので
ある程度の予備知識はあったが、その内容の明晰さ、そして講座の進め方の上手さに本当に感心した。

「教室プレゼンテーション」をテーマにしたものだが
中学生への指導に生かすというより、教員としての自分にとって参考になったと言ってよい。
まずは聴衆分析
ビジネス書もある程度は読んでいるので知らない言葉ではなかったが
その手法をじっくりと学ぶことができ、考えることが多かった。
「伝え合う」とか「相手意識」とか簡単に言うけれど
聞く人の身になるといった
やや精神論的な意味合いが強くなっているのが現状ではないか。
聞き手の「知識」と「意欲」という二軸で考えてみることは
プレゼンテーションスキルをどう選び、どう使うかという根本に関わる問題だと思った。
初めにスキルありきという傾向に陥っていたような自分を振り返ることもできた。

5系列20項目のスキルが紹介された。
そしてそのスキルをまさしく使いこなしている堀先生の姿がそこにあった。
特にアイコンタクトの素晴らしさ、そして巧みな例示とその表現力。
それらは、姿勢や発声等、そして抑揚系列などの鍛えと
豊富な実践の積み重ねによって可能になったものに違いない。

子どもを信じる姿

2005年08月09日 | 読書
一番重要なのは、子どもを信じることである。具体的には、教えたがりの自分を抑える。教えるというのは親切心もあるが、子どもの能力を信じられないことに原因がある。信じてもらえなければ、子どもはその能力を発揮せずに依存的になる。
西川純『「座りなさい!」を言わない授業』(東洋館出版社)


ある時、気づいた。
今まで参観したことのあるすぐれた授業者の何人かに共通していること。
それは、「禁欲的」と思えるほど子どもの発言を待つ姿…

その姿は、子どもを信じるという姿勢そのものである。