すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

こざかしい日常が多すぎる

2013年04月30日 | 読書
 前半の連休に読了した本はこれ。

 『「弱くても勝てます」 開成高校野球部のセオリー』(橋秀実 新潮社)

 去年の秋に新潮社の『波』を読んでいたとき、この本の刊行記念ということで、インタビューや書評が載っていた。
 興味深く思えたが、文庫化されるまで待つかなあという思いで注文は見送った。

 そしたらこの前、日参している池田先生のブログで紹介があり、やはり読んでみるかと思い直した。

 
 いやいや面白かった。

 何より著者からの質問に答える部員たちのユニークな返答。
 さすが開成に入る子たちだなあと思わされる。まっすぐに筋道立てて考えている子もいれば、ごちゃごちゃしているけど、そのこんがり具合が面白い(それを言語化できること)子、一つのことに固執して自分を見立ててしまう子…ぜひ自分も足を運んで、その練習風景や高校生たちとの会話を楽しみたいものだという気にさせられる。

 青木監督の考えには共鳴できる点が多い。いや、一種の憧れなのだと思う。

 「野球には教育的意義はない」「偉大なるムダ」ときっぱり言い切った姿勢こそ、すべてを物語っている。
 この開き直りこそが、本質とは何かを常に提示するとでも言ったらいいだろうか。

 「役立つ」ことに支配されている多くの「教育」は、その意味をどうメタ認知できるか、そんなことも考えさせられる。
 つまりセオリーはいつの場合も勝者、強者のものであり、敗者、弱者にとってそれが役立つかどうかは、相対的である限り不確かであること極まりない。勝負事であれば限りなく意味がないように見える。

 野球選手にとって何が一番大事か。
 プレーヤー、単なるファンいずれにしても、それにどう答えるかは自分の一つの生き方の指標とも言えるのか、などというところまで思いが広がる。

 その意味で、『波』誌にあった著者から監督へのインタビューのタイトルは刺激的だ。

 打率2割でいい、強く振るなら

 強く振る、空気を振り続ける…所詮確率の世の中ならば、無謀に見えても強く振り続けられた者に、いつか絶好の手応えはやってくるに違いない。

 凡人はせめて野球観戦でそんな夢を見たい。
 こざかしい試合、日常が多すぎる。

驚くことを忘れなければ

2013年04月29日 | 雑記帳
 「小学生の65%が今はない職業につく」…アメリカの学者が一昨年ニューヨークタイムスのインタビューで語ったという。日本ではどうだろうか。その半分程度はあり得る話かもしれない。しかし自分も含め,親や教師はそのことを意識しているか。どんな仕事をイメージできるか,大事な資質のような気がする。


 ウクレレ漫談の牧紳二。「あーあ、やんなっちゃった、あーああ、驚いた」のフレーズを知らない大人はない。自殺という報を聞いてやっぱり「やんなちゃった」のかなと思うが,考えてみるとこのフレーズは嘆息から説明へ移っていくもので,ある意味の強さだ。最後まで驚くことを忘れなければ良かったのだ。


 NHK「Songs」にサカナクションが取り上げられていた。ボーカル山口の生い立ちが興味深かった。影響をうけたアーチストとして友部正人の名が出てきたのには驚く。5名のメンバーが全員アップルPCを開きながら演奏する姿は全く現代そのものを印象づけるが,シャウトする山口の精神は友部のそれなのか。


 寒さで桜前線が進まない。隣県の観光地に行く計画を立てていたが,満開になっておらず,急遽県内の某公園等に変更した。先週は花粉症の後遺症?で潰れていたが,今週はカメラを片手に順調に動き回れた。一本桜も確かに魅力ある。しかし桜はやはり集団や整列が美しさを増す。これは日本人の美意識だろうか。

 今週の写真はここ
  ↓
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/2-1727.html

日常の楽しさの延長に授業がある

2013年04月26日 | 読書
 『たのしく教師』(板倉聖宣、他 キリン館)

 2006年に発刊されているが、収められている文章は1960年代から90年代後半のものだ。
 「キリン館25周年記念」と銘打たれているこの本は、仮説実験授業提唱者である板倉氏の論考や講演記録などを中心に構成され、西川、犬塚という会の主要な方々の文章も収められている。

 キリン館という小さな本屋を営む岡田さんという方は元実践者であり、身体を悪くしてからは編集という形でその会をバックアップし続けた。25年を迎えた記念に井上さんという実践者が編集をかってでて発刊されたものである。

 若い頃、少し関わりをもった仮説実験授業。板倉聖宣の名前は結構色濃く記憶されている。何か間違って理科の道に入っていたとすれば、ここだったかもしれない。「授業書」という形は魅力を持っていたし,数は少ないが充実感を覚えた実践であった。

 それはさておき、板倉氏の文章は50年近く前のものであっても色あせず、ぐっと心に迫ってくる。
 きっと「楽しさ」という本質がぶれないからなのだと思う。
 この言葉はある意味で新鮮だ。

 個別的な事物の知識よりも、より一般的なもの、事柄を通じて予言性のある知識の方がずっと楽しい。

 今風の言葉に言い換えることも可能だが、「予言性のある知識」という響きもまた捨て難い。

 「教育目標と教育方法」という章では、子どもたちを公園から動物園まで連れていく三つの方法~①教師中心の方法②仮説実験授業③問題解決学習を示し、その具体例と育つ能力について考察(予想)している。
 どんな目標を立てるかによって方法が決まってくるのは当然である。氏は②の有効性について期待しながら、結局は社会が子どもにどんな力をつけようとしているのかを言及しているように見える。

 目標論はともかく、教師主導と問題解決に挟まれた?仮説実験授業の考え方は案外守備範囲が広く、それゆえ時代の潮流に簡単に流されずにすむのかな、などということも考えられる。


 授業書、作業書作成に絡む「自由に発想する法」という章も興味深い。
 教材作成といったレベルではなく、私達の生活の質を考えていくうえでも貴重に思える提言がある。

 どんなときにどんな束縛・原則が有効か、普段からさぐっておくことが「一つのことだけにとらわれない豊かな生き方・考え方」をするコツといってよいだろう。

 「新しい束縛条件を自分に課してみるとよい」と80年代に書いた希代の研究者の日常は、きっと「楽しさ」にあふれていただろうなと思う。 その延長に授業があったのだ。

今日も彼是囀る

2013年04月24日 | 雑記帳
 朝の玄関先である男の子に話しかけられた。「先生、ツチノコっているんですか」。「いる」「いない」と私見を言っても始まらない。「いるって信じたいなあ」と声をかけると「そうですよねえ」と明るく返してくれた。教室へ向う軽そうな足取りを見て、ああっと少し反省。この場合は訊きかえすべきだったね。


 ある会に素案として提示した計画に難色を示された。「こういう考えをする人もいるから…」と助言をされ、納得はできなかったが大人なので(笑)了解した。ここで納得できないのは、内容でなく形式や手続きが問題にされること。むろんそれらは大切だが、研修という場はフラットこそ生命線であると信じている。


 昨秋、特別支援学級の教室へ行ったときに、おっと思った掲示があった。「表情ポスター」…40種類の表情がイラストだけで示されている。「今日の気分は?」という問いかけがあり「感情を表す言葉」に結びつけるものらしい。今日、何気なく教材室に行ったらそれを再発見。使えそうだとネタ開発の心が疼く。


 ああ、エアグルーブ。牝馬では一番好きだった。記憶に残るのはなんといってもバブルガムフェローとの叩き合いになった天皇賞。単勝馬券を買ったのはあれが最後だと思う。馬って凄いと思わされたレースの一つに2歳時のいちょうステークスがある。ビデオで何度も見た。大きな不利を受けての疾走に正直痺れた。

「じぇじぇじぇ」に対抗?

2013年04月23日 | 雑記帳
 先週は逃がしてしまったが、今回のNHK連ドラ『あまちゃん』は続けて見ようと思っている(録ってまとめてということになるが)。

 前回、遊川和彦でコケテしまった?連ドラが、宮藤官九郎で挽回できるか、ちょっと楽しみである。

 初週を見て、当然話題になるだろうと思ったのが、あの言葉(方言?)だった。
 案の定である。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130408-00000008-ykf-ent

 この「じぇじぇじぇ」のリズムの良さ、その折の表情と相まって発せられる応用範囲の広さは、さすがだなあと思った。

 秋田弁民間研究家を自称する(っていつから?)私としては、隣県言葉?が注目されて少し悔しい気持ちになった。

 そこで、秋田弁でも同様の言い回しがないか、思い起こしてみたが……。

 こんな感じのものは、どうにも浮かんでこない。
 「エッ」や「ゲェッ」「アリャリャ」はどう考えても共通語だろうし、「ナエデガ」は驚き以外でも使うだろうし、とにかく短音的で驚きを表わすものがあるのだろうか。

 頼りの『秋田のことば』にもちょっと見当たらない。
 それで諦めるのも半端なので、一応「驚く」という動詞の秋田バージョンを挙げておく。

 タマシホログ
 テドケス
 トンジンマグル
 ドデンスル


 と代表的な言い方を挙げたが、自分なら「ドデンスル」の区域である。

 さて、驚きとは少しニュアンスが違うが、「ギャ」という言い回しがある。

 「ソレナバ、ギャダベェ」(それはあんまりだ)というような使い方だ。
 当然『秋田のことば』にあるかと思ったら、実はぴったりの見出しはなくて、次のように載っていた。

 ゲダ

 「あんまり」だ、という意味である。
 「ゲ」は「ガイ」から来ているらしいし、「ゲ」も「ギャ」もニュアンスが似ているように感じるのは、自分だけだろうか。
 たぶん、私及び周辺が使っている「ギャ」は「ゲ」と同類だ。

 もう一つ、私は使ったことがないがこういう言い回しが載っている。

 ギョーガダ

 これも「あんまり」と訳されているが、実に面白い解説が記されてるい。

 「ぎょう」はひどい、えらい、大げさなどの意で、中世末から用いられ、「ぎょうさん」などの語のもとになっている。あんまりだの意の「おかだ」を添えて、「チョーあんまりだ」のニュアンスを生もうとしたものと見られる。

 「チョーあんまりだ」とは……。

 言葉というものは、いつの時代にあっても組み合されたり、生みだされたりしていくんだなあと思う。

 さて、めくっていたら、これを見つけた。

 ゲァダ

 「ひどく」「とても」という意。こちらが「ギャ」かな。
 いずれにしても、ここにも「ガイダ」と記されているから先ほどの「ゲダ」もほとんど変わらない。

 「じぇじぇじぇ」でなくとも「ぎゃぎゃぎゃ」でも…と思うが、語感的にはちょっと分が悪い。

休日のさえずり

2013年04月22日 | 雑記帳
 一昨日あたりから雪がちらついていたが,今朝は一層激しい降雪である。日曜とはいえPTAの廃品回収があったので7時過ぎには学校へ向かう。保護者や子供たち,共に濡れながらの作業をしたことはいい経験となる。観察園で芽を出していたクロッカスも少し雪に震えながら光って見えた。

 写真をアップ。
  ↓
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-5b59.html


 隣市にある割烹のご主人が十年ほど前に発刊した随筆集を読んだ。あることを機に「書きとめておく」習慣を自分に課したことが,書籍として結実したとある。自分もかくありたいが,どうしようもなく感じるのが体験の違いであり,頻出する固有名詞の多さである。この差は大きい。


 録りためておいたドラマなどを続けて観た。録画予約する時にはなんとも思わなかったが,いわゆる警察ものが多い。傾向として「特命○○チーム」のような筋立てが目立ち,一種のブームなのだろう。作品としての出来はずいぶんと差がある。脚本とカメラワークに感じることが多い。


 「難治性悪性反復性健忘症」…『通販生活』最新号に連載されている対談記事で,松本市長で医師でもある菅谷昭氏が日本人に下した病名である。チェルノブイリに深く関わった人が,現状を見る目は的確だ。国の舵取りは大きく経済に傾いているが,病気であることを忘れてはいけない。

誘導の最後で立ち止まる

2013年04月21日 | 読書
 久々に明治図書の教育雑誌から原稿依頼があり、仕上げて送付したのは冬休みのことだった。
 掲載号は4月号なので、先月半ばには届いていたのだったが、ぺらっと自分の箇所だけみて、後は書棚に立てかけて置いたままだった。

 『授業力&学級統率力』4月号

 定期購読しておらず、やや縁遠くなってしまった感がある。
 自分が書いたのは「朝の会」の持ち方ということで、「ランク別スタートプラン」などと気取ったネーミングをして、格好つけたかなと少し反省している。

 自分の箇所はさておき、書棚からぱっと手に取ってみたとき、裏表紙がぱっと目に入ってきた。
 こんなタイトルが書かれている。

  授業づくりをこうマネジメントする(第1回)
  1「目的」と「目標」が混乱していないか

               
 関西外国語大学の中嶋洋一という方が執筆している。

 ふむふむ。
 カラーの裏表紙に写真付きで始まり、その裏へ続き、そしてさらに「本誌p132へ」と案内されていく、なかなかシャレたページ展開になっているではないか。
 この編集に一票というところである(これは古い表現だなあ)。


 さて、目的と目標の区別については実にわかりやすい例が紹介され、どんな形でイメージ化させるかという点で実に参考になると思った。
道具、色、視覚化…そして、時期を外さないこと。

 授業づくりにおいても、研究主題の到達イメージとそこに向かう筋道をもっと明確な形式にするべきことを学ぶ。早い段階で動かなければならない。


 本誌ページの内容後半は、少し引っかかりを覚えた。

 「戦略(計画)と戦術(方法)の違いを意識する」と題して、次のような問いかけがされている。

 次は「戦略」か「戦術」か。
 ①テスト   ②授業    ③発問


 著者の解答は、①戦略②戦術③戦略&戦術となっている。
 分からないわけではないが、そもそもこういう区分での授業づくりマネジメントは固定的な傾向を生みだしはしないか。

 何が計画であり、方法であるかは、その上位にある目標そして目的によって、ずいぶんと意味づけが違ってくるわけだし、同じ原稿内で答えを規定してしまうことは危険のような気がする。

 言葉の言い換えによる意識化は、効果的のように見えて、実は落とし穴に嵌りやすい。
 自省。

寸鉄に頼りながら書く

2013年04月20日 | 教育ノート
 昨年度、9月から始めた校内報「縷述」…結局、年度末まで17号という、いかにも中途半端な数で終わってしまった。

 最初心密かに30号程度はと思っていた。
 しかし途中トーンダウンし、せめて20号まではと決意したことまでは覚えているが、なんと2月半ばで最終になってしまったという体たらく。

 意志の弱さを感じる。
 確かに学校ホームページリニューアルに精力が傾けられたという理由はある。
 年度末になったので、内容の中心となる研修的なことが少ないという背景もある。
 学校経営が非常にうまく進行していて、まったく問題がないという…(あるわけないだろっ、そんなこと)

 いずれにしろ言い訳だ。
 書くと決めた以上は、ネタや必要性のあるなしではない。
 (まるで、このブログのようだ・笑)

 原因の多くは怠慢だが、それ以外のちっちゃい障害を考えてみると、少し思い当たることがある。
 実は始めるにあたり、三つの縛りを自分で入れてみた。
 昨年9月に書いている。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/75e60f1965b2117b5252924801df09b3

 これが少々きつい。
 特に、この中の「見聞録」が曲者だった。

 研修会や講演などで聴いた言葉をうまく整理しきれていない自分には、やはり無理だった。

 そこで4月からは、そこを書物からの引用ということで乗り切ろうと、ハードルを下げることにした。
 これならば大丈夫だろう。

 ところでそのコーナー名はどうするか。

 「ことば」…「教育のことば」…平凡だな。
 「読書録」…「目にとめる一文」…これもどうかな。

 ふと、浮かんだあることわざ。

 「寸鉄人を刺す」

 そうだ、「寸鉄録」!
 なんか語感はよくないけど、ずきっとくる、インパクトの強い言葉を選んで載せるにはふさわしくないか。

 ということで、少し変更しながらも三つの縛りを継続したまま、今年度は18号からスタートして20号まで発行できた。
 http://homepage3.nifty.com/spring21/CCP149.html

 これもロケットダッシュの目論見よりは一週間遅れだが、まあまあだろう。
 今年度こそは年間30号以上ということで、通算50号を目指す。

 広言してしまった。

まるでカタログ本のようだったが

2013年04月19日 | 読書
 『伊集院静の流儀』(伊集院静 文春文庫)

 講談社の売れ筋を文春で真似するか、と思いながらも手に取った。
 帯には「新社会人必読!すぐに役立つ人になるな。」という文字が…。購読層のねらいはそこのあたりか。

 雑誌に掲載された短いエッセーと人生相談、広告の文章、そして対談、短編と、確かにこれは今風のつくりだなと感じる。

 たしかに「格好いい大人」の代名詞的存在である伊集院静が書き、語るフレーズは味わいがあるけれど、あまり細切れだと何かのカタログを見ているような気分になる。

 ああこんな雰囲気いいなあとか、この道具があれば楽しいだろうなあ…などと感じる時間と共通性があるようなないような…。

 ただ対談はバラエティに富んでいて、結構伊集院という人間の姿をいろいろな方向から見られて興味深い。対話する人によって柔軟に語り口を変える、しなやかさも魅力の一つに加わった。

 「親方と神様」という短編は読んだことがあった。
 いかにも新社会人向けの設定ではあるが、それを意図して書かれたものではないだろう。
 仕事と人生の結びつきの強さを感じさせてくれるいい物語だ。

 この掌篇に魅力を感ずるとすれば伊集院文学の読者になれるだろう。
 などと、書いてみれば「文春文庫」の宣伝のようになってしまう。

 こんなふうに思考させることが編集部のねらいだったか。

 文春文庫で出ている12冊のうち、10冊は読んでいるので、自分もずいぶんと貢献している。

日本語は美しいと言い募ろう

2013年04月17日 | 読書
 『日本語はなぜ美しいのか』(黒川伊保子 集英社新書)

 この著者の『怪獣の名はなぜかぎグゲゴなのか』という新書は面白かった。「語感」からの言葉へのアプローチはあまり類書がないような気もするし、語源や意味にのみ目がいきがちな自分にはいい刺激になる。


 今回の内容も実に興味深い。
 きっかけは、英語教育の低年齢化、小学校での必修化に対する警鐘と言えるが、内容は語感つまり「発音体感」をもとにした、堂々とした日本語論である。

 題名の問いかけに対する結論は、本書において順に語られている。
 しかし「美しさ」というものは個の背景や価値観において決定づけられるものだから、かなり困難な課題でもあると思う。現に著者自身もこんなふうに記している。

 ある言語を美しいと言い募ることは、ふつうの場合、あまり意味はないのである。その言語の織り成す文化が、自分の脳の感性構造に適合するという、非常に個人的な見解にすぎないのだから。

 それを承知のうえで、「しかし。」とつなげ、こんなふうに意義づけた。

 日本語の場合は、日本人があえて「日本語は美しい」と言い募ることに、存外の意味がある。

 そこから日本語の世界における特異性が語られ、専門である脳と言語、そして言語と身体、言語と方位といったなるほどの知見が示されている。
 新書ならではの読みやすさもあって、時々「発音体感」を試しながら、楽しく読めた。

 題名に対する結論の一つとして、格好いいフレーズを引用すれば、ここかと思う。

 ソクラテスは、その存在を知らずに日本語に憧れた。


 そこに至る筋はさておいて、「結び」に書かれてある逸話をもとにした例が興味深かった。

 キーワードは「技術力と事業力」「美学と生きる力」。
 対照的な考え方、生き方として提示されていて、そのバランスを保つことによって生き延びてきたこの国のことが語られている。

 そういえば…と自分の身の回りの事象やら人やらを見るいい切り口になることに気づいた。