すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

具体的な姿としての「学び合い」

2007年05月30日 | 読書
 岩波ブックレットの『教育改革を評価する~犬山市教育委員会の挑戦』を読んだ。わずか70ページあまりの小冊子ながら興味深い点がいくつかあった。

 話題の犬山市の教育を、苅谷剛彦氏を中心とするグループが評価プロジェクトを組んで調査を行い分析をしている。
 質問紙調査のことが前半の中心になっているのだが、犬山の中心テーマともいうべき「学び合い」の部分が実におもしろい。
 
 「学び合い」を言葉にのせることの難しさ

 ふりかえってみると、私たちの研修の場などでも時折感ずることである。
 研究グループは、質問紙の項目を立ち上げるために具体的な姿を知りたくて情報収集するのだが、難航する。その様子に妙に納得してしまった。

 「学び合い」という言葉はたしかに犬山の教師たちに共有されている。だが「学び合い」とは、ときとして同語反復として(「学び合い」は「学び合い」)、ときに抽象的な代替語を用いて(「学び合い」とは教えあうこと)、ときに精神論(「心が育つ」)として語られるにとどまった。

 私とて突然問われればそんな言葉を並べるかもしれない。
 「学び合い」は広さを持つ言葉であり、特定の集団として限定しても構わないが、その限定が活動自体の狭さに結びつく危険性もないとは言えない。現場の感覚と研究場面のすり合わせの難しさはそんなところにあるのだろうか。
 ともあれ、研究グループは多様な教師の言葉を手がかりに、次のように質問項目を例示した。

 <教員調査>
 友だちの意見を聞けるような人間関係づくりを行っている。
 学習内容の進んだ子に対しては、わからない子に進んで教えるように指導している。
 <児童・生徒に対する調査>
 他の子から教えてもらうのは楽しい。
 クラスの子に教えたり教えてもらったりする授業(頻度)


 一般的とも言えるが、やはり核をついている言葉のように思う。
 そして改めて「学び合い」を具体的な授業の姿におとすことの意識化、そのための手立てを考えてみなければと思った。

 この本の最後に、犬山市の市長、教育長、苅谷氏の鼎談がわずかながら載っている。これが実に刺激的である。
 どれほど刺激的かというと、立ち寄った書店でさらに一冊関連書を購入したくなるほどの強さである。

 『全国学力テスト、参加しません。』(明石書店)
 この4月刊である。
 宣戦布告?のようなこの本もじっくり読んでみたい。

楽しみは、音とともにやってくる

2007年05月29日 | 教育ノート
 昔(この場合は1980年頃か)受け持った子どもに「好きな言葉」を聞いたとき、「らく」と答えた子がいて唖然とした記憶がある。
 今ならきちんと切り返してあげれるのになあ、とふと思った。もっとも、そんな言葉さえ出ないかもしれない。
 さて、先週六年生が修学旅行でプロ野球観戦をした。楽天VSヤクルト戦である。その最中に担任の携帯に電話をし、19人一人ひとりに順番に感想などを聞いてみた。なんとも楽しい時代である。
 

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 もともとの「樂」という字はものの形から作られた象形文字ですが、二説があるようです。一つは実のある木にマユがかかっている様子(その木はクヌギだそうです)、もう一つは柄のある手鈴の形、ということです。
 音が出る、音を出すという共通点から「ガク」という読みが出てきました。「おんがく」の意味に使うときは「ガク」、「たのしむ」時は「ラク」と使い分けられています。どちらも出された音によって楽しむという姿が元になっているようです。

 大きな野球場で楽しんだ六年生にとっても、様々な音は忘れられないでしょう。ホームランの球音、歓声、応援団の声援、そして舞い上がる風船の音…それらとともに楽しい思い出が残ります。
(5/25)
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体験を「重く」するのは何なのか

2007年05月28日 | 読書
 金森俊朗氏の本を読むのは初めてだった。
 もちろんその名前は知っていたし、「いのちの授業」などの実践も雑誌等で断片的には目にしていた。
 実は、以前NHKで特集したときに録画しておいたDVDがあるのだが、なぜかまだ視聴していない。
 
 今回読んだ『いのちの教科書』(角川文庫)の冒頭に、金森氏がその特集番組の感想を榎本君という子(主人公的役割の子だったという)に聞いたことが記されている。
 榎本君の言葉が凄い。

 「軽い。俺たちの一年は、あんな軽いものではなかった。もっと重たかった」

 マスコミとしてのテレビ番組の限界を見事に指摘した言葉だ。金森氏のあとがきの後に、NHKの担当プロデューサーの解説が記されているが、その文章と重なり合うことがわかる。「映像にはなかなかできない部分」「映像だけでは伝わりにくい部分」が「金森学級を根本から支える」ということである。

 この本にはおそらくその全体像が示されているのであろう。
 学級のスピーチ、手紙ノート等々日常的な姿やら、妊婦、ガン患者を招いた授業、漢字の起源、チョウの一生、そしてニワトリの命を絶って食べることまで、バラエティに富んだ実践が盛り込まれている。
 ともすれば「体験」の強烈さが目立ってしまうが、その重みを感じながらもなぜ体験なのか、氏の意図がよく見えると思う。その点を明確にし、学習のつながりに結び付けていかない限り、榎本君のような発言をする子は育たないと言い切れる。

 金森氏の次の言葉は平凡だけれど、いつもかみ締めておくべきだと感じた。

 体験が貴重であることは事実です。しかし、体験こそ、きちんと意味をとらえ直し続けなければ、かえって頑迷になったり偏狭になったりするのではないか

 「体験と読書を結びつける」という1項もあり、その学級文庫の規模にも圧倒される。いわゆる「総合」が意図した本質は、実はそういうことだったはずなのである。

 子どもに「軽い」と評価された録画した番組を見て、何が汲み取れるか楽しみでもある。

教室における「見える化」

2007年05月25日 | 教育ノート
 ビジネス誌に昨年あたりから「見える化」という言葉が目立つようになった。
 「可視化」といってもいいのだろうが、「見える」と置き換えたことによってねらいが焦点化されたように思う。私たちの仕事にとっても、様々な意味で使えると思って下のようなことを書いてみた。

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縷述~つながる授業15 【教室における「見える化」】

※見える化(みえるか)とは、現場における企業活動の様子を目に見える形にしようとする取り組みを象徴する言葉である。ただしその本質は、単に、計画や実績を図やグラフにして可視化する事ではなく、組織化された人間たちの活動の中で、個々人が作業の実態についての情報を共有し、一人の人間の認識力の限界を補完して、現場における企業の能力を向上させる事にある。~『ウィキペディア』より~
 
 そっくり学校や教室に当てはまると言い難い言葉ですが、「能力向上」を目指すために有効なキーワードになりえるのではないか、日常をふりかえるいい視点になるのではないかと感じました。
 つまり、「子ども」に対して「学習の様子(目的、足跡など)」が「見える形」で提示されているかは、大きなポイントになるということです。

 1時間の授業における「めあて」「課題」「流れ」「対立点」「要点」「結論」などがはっきりと見えていることは、子どもの学びを進めるうえでかなり大きな役割をはたします。例えば著名な社会科の有田先生、算数科の坪田先生の板書は、その典型と言えるのではないでしょうか。

 子どもたちの学習の足跡、作品などを見えるようにしておくことも有効です。しかし「見える化」を意識してとなると、それはただ掲示すればいいのではなく、「学び」や「ポイント」が示されていること、さらに付加、修正といった連続性を持っていること、見た者が参加できる要素を持つこと、など「情報の共有を能力向上に役立てる」いくつかのポイントが浮かび上がってきます。

 とすれば、係活動などのお知らせや学級目標もそうではないでしょうか。やや固定型の傾向があるそれらの掲示が活きるためには、他の活動とつながることが必要ですし、それを何らかの形で見えるようにすることも当然配慮されるべきことでしょう。

 さて、私たちの研究実践面ではどうでしょうか。今年の「声」を前面に出したテーマ設定と活動継続…「見える化」という視点から考えてみると、さらに必要なことも出てくるかもしれません。なにしろ「声」はすぐ消えますから。
(5/25)
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棚からおろさなければ、アイデアはでない

2007年05月23日 | 読書
 『NEW教育とコンピュータ』(学研)6月号に、五反野小学校の三原校長が話す事例が載っていた。
 三原先生の話は数年前に聴いたことがあったが、正直なところ印象が強いものではなかった。民間企業から着任したての時期だったと思うが、自分の傾聴する気持ちが弱かったのだろうか。
 しかし、今回の記事は惹きつけられた。
 PC活用による校務の効率化がテーマなのだが、その前提として三原校長は職員に「仕事の棚卸し」を指示したという。
 その中身は、仕事を次の4つに分類することだった。

●やらなければいけないから、やっていること
●やらなくてもいいと思いながら、やっていること
●やらなければいけないと思いながら、できていないこと
●やらなくていいと思うので、やっていないこと

  厳密に区分することは難しいかもしれないが、自分でもだいたいのイメージはわく。
 二つ目のポイントから三つ目のポイントへ、力点を置けるようにするのが業務改善というものだろう。
 その役割をPCに担わせたという事例である。

 そこまでのPC環境になくまた望みが遠い現状ではあるなあとつい現実にもどりがちだが、業務改善という視点で区分し、方針を打ち出すことはやはりリーダーの責任だなと、改めて思わされる。それほどシンプルで力強い内容だ。

 確かに「現状には何か利点がある」という見方もある。
 続けてきたことへの慣れは、安心感にも通ずるからである。
 しかし、そこに留まっていては、やはり流れは滞るし、濁る危険性を常にはらんでいると言っていいだろう。

 五反野小の「会議を減らし掲示板を活用する」「通知表の所見をなくしソフトを使って児童の『いいとこ見つけ』を書き込んでいく」…などの斬新な手法に刺激を受けた。

 先週、何年ぶりかで教材室の整理をしてもらい、実践に生かせそうなものをたくさん発見したり、日常の使いやすさをアップしたりできたが、私たちの頭の中の整理もしておかないといけない。
 アイデアを生むために、日常の仕事の埃をはらって棚からおろしてみることが必要だ。

すらりと形のいい人柄

2007年05月22日 | 教育ノート
 「修」という字は名前によく使われている。結構いい響きを持っているなあと以前から思っていた。
 今回、修学旅行に絡めて改めて調べてみると、また意味も深い。
 毛筆で書くときのイメージもわいてくる。背中に水をかけて清める…すらりとした字がかけそうな気がする。

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 「攸(ユウ)」は人の背中に水をかけて洗う形です。
 「彡(サン)」には清められたことを表す意味があるようです。
 この二つを組み合わせてできた「修」。
 「おさめる」つまり学問や技芸を身につけるという意味が一般的ですが、字源を探ると実は「きよめる」「すらりと形よくととのえる」という内容が浮かびあがってきます。
 学問を学んで性質のかどばった点を取り去りすらりとした人柄にする、ということが到達点のようです。

 明後日に迫った修学旅行。二日間の集団行動で学ぶことは多いでしょう。
 見学箇所や宿泊地で、全員が楽しい思い出をたくさん作るためにお互いに気づかいあい、すらりとした人柄に近づく時間であってほしいものです。
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博士の愛した教授法

2007年05月21日 | 雑記帳
 映画化された『博士の愛した数式』を視聴した。
 話題となった原作を2004年に読んだが、とても印象に残っている。
 別ブログにもメモをしていた

 原作とは違った味わいをみせながら、映画もなかなかよかった。
博士がルートに算数を教えるシーンが、職業柄印象に残る。これは原作と同じだった。

 文章題であれ単純な計算であれ、博士はまず問題を 音読させることからはじめた。
「問題にはリズムがあるからね。音楽と同じだよ。口に出してそのリズムに乗っかれば、問題全体を眺めることができるし、落し穴が隠れていそうな怪しい場所の見当も、つくようになる」

 実に的確な言葉だと思う。
 読むことの重要性、パターンを見抜くポイントの提示とでも言えばいいだろうか。

 原作を見直したら、こんなことも書いている。

 「筆算の跡も、消さずにきちんと残しておく方がいい」
 
 おいおい、音読のことといい筆算のことといい、これはいわゆる「向山型算数」で強調されてきたことそっくりそのままでなかったか。
 著者である小川洋子氏がそれを知っているわけはないだろうから、参考文献として挙げられている数学関係の書籍にもそうした手法のヒントがあると予想してみた。教授法の基本の一つといっていいのだろう。

 それにしても、静謐な文章の中に本質を散りばめる巧みさのある作家だなあと改めて感心した。
 教えるということで言えば、この文章も鮮やかだ。

 博士はルートをほめるのに、労力を惜しまなかった。(中略)ルートがどんなに愚かな袋小路に入り込んだ時でも、川底の泥から一粒の砂金をすくい上げるように、小さな美点を見出だした。


病んでいる部分から直撃を受ける

2007年05月20日 | 読書
『風穴をあける』(角川文庫)という谷川俊太郎のエッセイ集を読んでいたら、実に強烈な文章に出会った。
 十数年前に書かれた「教室を批評すること」と題された中の一節である。

 教師たちは現代日本の病んでいる部分の、もっとも見えやすいひとつの症候として存在しているように私には感じられる

 この感覚を額面通りに受け取りたくはないし、また「もっとも」という使い方に疑問を抱くのではあるが、そうした傾向にないかとチェックしてみることはまんざら無意味ではないだろう。

 「病んでいる部分」として、真っ先に思い浮かぶのは「金権体質」か。
 もちろん、教室で「世の中、金が全てだ」と叫ぶ教師はいないと思うが、そういう方向で教育全体が動いていないとは言い切れまい。
 お金が必要なものであることを教えるのは大切であるが、同時に「金で何でも買える」と言った人格を生み出した教育のあり方(実は社会のあり方)とは何だったかを、自分と実践と照らし合わせて考えてみることは大きな意味を持つように思う。

 もう一つ病んでいるといえば「人間関係」か。
 これはつまり目の前の子どもと人間関係を築けているのか、ということにつきる。
 子どもとどんな人間関係を築けばいいのか悩む教師も増えているように思う。逆に言えば、悩むことはごく当然で、対象そのものが難しくなってきている。複雑な背景を抱えてきている。
 
 そう考えてくると、日本の病んでいる部分の直撃をうけるのが教師、という言い方もできるのではないか。
 別に被害者意識をさらけ出すわけではないが、そういう自覚に立てば防御と作戦は必須である。国の上部であれこれ言っていることが、それに対して有効に働くかどうか…。
 少なくても現場の士気が下がるようなことでは困る、という見方は必要でないのか。

 とまた何だか広がってしまった。
 谷川氏が実は言いたいことは「教師の話し方」であったり、「学ぶための文体」であったりしたので、そちらの方を検討するべきであったか。
 これも病んでいる証拠といえるかもしれない。

教師も調教師も一生を見る

2007年05月18日 | 雑記帳
 『プロフェッショナル 仕事の流儀』は楽しみにしていた藤澤和雄調教師の回である。
 内容そのものは、正直いつもよりぼんやりしている印象を受けた。藤澤の語り口がそんな感じがするからだろうか…
 しかし、私にとってはとても印象深いナレーションがあった。
 藤澤は学生時代に教師を目指していたという。
 そして、教育実習に行き「性に合わない」と止めたという。

 もし、藤澤が教師になっていたらどんな指導をしたのだろうか。
 現在の仕事ぶりから想像してみることは楽しい。

 「馬なり調教」ということを当てはめれば、子どもの気持ちに即した指導ということになろうか。それはあまり負荷をかけない印象がある。
 ただ藤澤の特徴はそれだけではない。
 「歩き運動」の徹底によって心肺機能を高めていくというやり方はどうだろう。これは基礎的なことの継続というイメージである。人の何倍も行うという。
 そこには興味・関心に応ずるというより、有無を言わせず必要なことは徹底して続けていく姿があるように思う。

 藤澤の笑顔は印象的だ。
 そして番組の中で頻繁に登場する、馬にかける声も明るいトーンがある。
 その二つも、教師の資質としてはとても大きいと感じた。

 何より、この主張が素晴らしい。

 一勝より一生

 番組後半に登場したある馬への調教では、勝つ方法を探るより、将来を見通したよりやっかいな方法が選択された。
 勝ちを期待され、勝ちたいと願うのは当然のことではあるが、それより大事なことがある。
 私たちの仕事もかくありたい。

 ところで、ふと思い出し、考えた。
 私にも一度、教育実習に行って「性に合わない」と一日で実習を止めた経験があった。その学校の雰囲気に耐えられなかった。
 藤澤の「性に合わない」はどこからきたのだったろうか。

旅には旗が必要である

2007年05月17日 | 教育ノート
 学校は遠足、旅行のシーズンである。
 いくら家族旅行などが一般的になったとしても、学校での遠足は子どもたちにとってもまた違う楽しみがあるはずと思う。もしかすれば、その楽しみの大小は学級経営にかかってくるのかなと、ふと考えた。
 旗を掲げて集団で歩むことは、悪いことばかりとは言えない。

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 「旅」は、「方」と「人」の組み合わさった形からできました。
 もともと旗を掲げて進む氏族の軍団の意味があるようです。商人の隊列の移動という説もありますし、もっと古くは山や川の神を祭る一族の移動を指したようです。

 いずれにしても「旗」を掲げて進むのが「旅」。
 遠足や修学旅行にはどんな旗が必要でしょうか。
 単なる目印としてではなく、出かけるねらいを心に刻む意味で受けとめたいものです。
 「課題解決」や「好奇心」さらに「協調」という字が刻まれることでしょう。
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